私たちの50年!!

1962年5月11日サントス着のあるぜんちな丸第12次航で着伯。681名の同船者の移住先国への定着の過程を戦後移住の歴史の一部として残して置く事を目的とした私たちの40年!!と云うホームページを開設してい居りその関連BLOGとして位置付けている。

長崎県人会=原爆犠牲者慰霊ミサしめやかに=「彼らの魂に永遠の安息を与え給え」 ブラジル日報WEB版より

 「広島、長崎の原子爆弾による犠牲者、第2次世界大戦の犠牲者、今も打ち続く戦争の犠牲者の苦しみをかえりみて、彼らの魂に永遠の安息を与え、絶えざる光を彼らの上に照らしたまわんことを」。サンパウロ市サンゴンサロ教会の14日午前8時からの日本語ミサで、ブラジル長崎県人会(森繁親会長)の申し出により、被爆者への慰霊の祈りが行われ、共同祈願で冒頭の文言が唱えられた。ミサの様子はオンライン生中継された。
 ミサは山本伊三男神父が司祭を務め、約30人が参加した。山本司祭はルカによる福音書12章49―53節《あなたがたは、私が地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ》を朗読し、現在世論がボルソナロ派とルーラ派に両極化していると例証した。
 さらに「インフレが高まると金持ちはより豊かになり、貧困者はより貧乏になる。最低賃金で暮らしている者にとってインフレは10%余りではなく、80%を超えている。そう批判するものは権力者から憎まれる。だが言わなければならない使命がある」と語った。
 「広島長崎35万人の被爆者のために祈りましょう。どうしてこんなことが起こるかといえば、人間の欲です。それは神の国ではない」と続けた。
 最後に、県人会の森会長の代理として大河正夫さんが演壇に立ち、「今ウクライナにおいて悲惨な戦争が行われており、戦況によっては核兵器を使うことが示唆されています。被爆者はそのようなことが再び起きないように日々呼びかけ、お祈りしています」と述べ、核兵器の廃絶を呼び掛けた。
 ミサのあと、和田佐代子県人会副会長に話を聞くと「長崎からたくさんの被爆者がブラジルに来られたが、県人会員だった方の大半は亡くなった」と振り返り、「今年は県人会創立60周年だがパンデミックのために延期し、来年式年を行う予定です」と述べた。
 1959年渡伯の大河さんによれば「私が来た頃には、この教会でミサをやっていた。広島は仏式、長崎はカトリック式と分担していたようだ」という。62年の長崎県人会創立時にはすでに慰霊ミサは行われていたようだ。

《ブラジル》パンデミックで子供のネット利用率高まる=93%、3分の1が心拠り所に  ブラジル日報WEB版より

 パンデミック期間中に子供のネット利用者が93%に増えたことや、3分の1の子供はネットに心の拠り所を求めていることが最新の調査で明らかになった。16日付現地紙、サイトが報じている。
 これはTICキッズ・オンライン・ブラジルという調査団体が毎年行っているもので、今回は全国の9〜17歳児2600人あまりが対象となっている。
 新型コロナのパンデミックが始まった2020年をはさんで見ると、「SNSを使ったことがある」という子供が2019年の68%から78%に増えた他、「他の子供とオンラインでゲームをやったことがある」が57%から66%に、「オンライン購入を行ったことがある」が9%から19%に増えていた。
 さらに、9〜17歳児の88%が「SNSで自分のアカウントを持っている」と答えている。SNSのアカウントは「13歳以上」を基準としているところが多いが、9〜10歳の68%、10〜11歳では86%がアカウントを持っている。
 最も利用者が多かったSNSサービスはTik Tokだが、アカウントを持っているプラットフォームはワッツアップやインスタグラムの方が多かった。
 また、パンデミック下のオンライン授業でネット利用が広まったように見えていたが、利用者は93%止まりで、7%はネットに接続していなかった。
 所得層で見ると、A、Bクラスの子供は100%がネットを使っていたが、Cクラスだと96%、C、Dクラスだと86%に落ちる。また、C、Dクラスの78%は「携帯電話でしかネットに接続したことがない」と答えており、18%だったA、Bクラスとの違いが明らかになった。
 他方、11~17歳児では、「悲しいことがあった時や孤独を感じた時にネットに心の拠り所を求めたことがある」という子供が32%いたこともわかった。その傾向は女子の方が強く、男子の29%に対し、36%だった。精神状態に関する質問は初めてだという。

《特別寄稿》誰も書かなかった日伯音楽交流史=坂尾英矩=15=リオの観衆を驚かせた大島守のハプニング ブラジル日報WEB版より

日本初のブラジル音楽専門評論家の凝った自宅

 ボサノーヴァによってブラジル音楽が知られるようになった日本の1960年代から80年代にかけて、音楽誌上やレコードジャケットなどへの執筆によって有名になった大島守氏は、自他共に許す日本で初めてのブラジル音楽専門評論家である。
 何しろ本人の言葉を借りれば「防空壕で手巻き竹針の蓄音機をかけてカルメン・ミランダを聴いていたんだ」なのだから誰でも圧倒される。突拍子もない発言で舌を巻かせる事がしばしばあった。
 現在日本の主立ったブラジル音楽関係者で横浜西戸部の丘にある大島宅参りをした人は少なくないだろう。先ず邸宅の門に「エスタソン・プリメイラ」という大きな札がかかっているのには驚かされる。これはリオの一流エスコーラ・デ・サンバ「マンゲイラ」の名前で、マンゲイラ丘のふもとの駅が始発駅の次なのでこの名前をつけたのである。
 また、この鉄製の札は19世紀のブラジルで使用されていた道標をサンパウロに一軒しか残っていない鍛冶屋へ注文作製した代物なのだ。
 私が大島邸を訪問した時にトイレを借りてドアを閉めた途端に、天井からサンバのリズムが流れ出したのには笑い出してしまった。その上アフリカ密教ウンバンダで使用する香料の香りが立ちこもっているのだから、ブラキチもここまで凝れば立派なもんだと感心したのである。

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大島邸でショーロを合奏する筆者と大島氏

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エリゼッチのアパート(1987年)、筆者と大島守(右)

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大島守発行の日本最初もサンバ冊子

家系は越前松平藩の能楽師範、稀代の社交家

 この邸宅で大島氏はブラジル音楽を教えていたから防音設備も整っていた。1977年にブラジルの代表的女性歌手エリゼッチ・カルドーゾが本邦公演した際にはバンド全員が大島宅を訪問して、サシペレレの小野敏郎オーナーが腕を振るったモラエス・ビーフに舌づつみを打ちながらサンバ・セッション(ローダ・デ・サンバ)が始まったのである。
 この時部屋の隅でじっと聞き入っていたのが中学生の小野リサちゃんだった。それから45年経ってリサちゃんは日本のボサノーヴァ女王となり、小野、大島両氏は亡くなり、エリゼッチ、マエストロ・セルジオ、ドラムの大家ウイルソン・ダス・ネーヴェスも他界してしまった。
 ブラジル音楽評論で活躍した大島守氏の風変わりな一面については音楽業界でもあまり知られていない。音楽大学を中退して進駐軍回りのジャズコンボでギターを弾いていたことぐらいしか伝えられていないが、本業は日本橋「岡地」に勤めていた株屋さんで、心霊学に造詣が深く、家系は越前松平藩の能楽師範をつとめた上村太兵衛師匠の六代目なのである。
 私が驚いたのは彼の尋常ではない社交術だった。ポルトガル語がまだブロークン会話だったのに彼はエリゼッチ・カルドーゾが一番敬愛していた日本人であり、また酒をたしなまないのに酒豪バーデン・パウエルの親友だったなんて傑作な話である。
 訪日して大島氏と知り合ったブラジル人ミュージシャンはオーシマ・ファンになり文通を交わす仲となっているのだ。まだコンピューター時代前だから航空郵便である。大島氏が日伯音楽交流に残した偉大な足跡をたどると分厚い本になってしまうので、今回はひとつの逸話を紹介しよう。

突然マイク向けられ「カリニョーゾ」歌いきる

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代表的ショーロ作曲家でバンドリン奏者、ジャコー・ド・バンドリン(Unknown authorUnknown author, CC0, via Wikimedia Commons)

 ブラジルの代表的ショーロ作曲家でバンドリン奏者、ジャコー・ド・バンドリンの未亡人アディリアさんをエリゼッチから紹介されて以来、大島さんはジャコーの家族と親交が始まり、リオを訪れる度に家族と会食したり歯科医の娘さんが運転する車で市内を案内してもらったりしていた。
 彼はジャコーが愛用していたライカ・カメラや万年筆、バンドリンのピックなどを贈られて「家宝だよ」と言っていた。ある時、アディリア夫人はジャコーのバンドが死後に再編成されたのでコンサートへ大島さんをさそった。会場のFUNARTE(文化省芸術基金)ホールで、アディリアさんは多くの知人と挨拶しなければならなかったが、その人達はジャコー未亡人と同伴の日本人は一体何者?と怪訝な目で大島氏を見たそうである。
 そもそもリオ州の住人は1950年代前半まで日本人とはあまりコンタクトが無かったので、日本人を見てもシネース(中国人)と呼んでいた。リオ・デ・ジャネイロは1763年から首都となって近代都市としての形成が始まり、サンバもショーロも当地から発展したので文化の中心地という誇りを持っていた。
 だから自分たちの芸術と日本人を結びつける発想が浮かばなかったのは無理もない。その日の客演歌手はブラジルのショーロ女王とされていたアデミルデ・フォンセッカだった。
 歌う曲目がピシンギーニャの名曲「カリニョーゾ」になった時、ステージ真ん前の招待席へ歌いながら下りてきたアデミルデが、マイクをいきなり大島さんに向けたのである。すると彼は顔色ひとつ変えずにボソボソっとしたしゃがれ声で最後まで歌ったのである。
 司会者が「彼は日本からの訪問客です」というようなアナウンスをしたら大きな拍手が沸いたそうである。カリオカ文化圏の人々にとって、地球の反対側の日本人がブラジルの名曲をポ語で歌いこなすなんて信じられない現象だった。アデミルデも感嘆して「パラベンス(おめでとう)」と言った。

ブラジル人有名アーティストに惜しまれながら永眠

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片山叔美のCDに参加したアデミルデの賛辞(2009年)

 舞台は一転して大島氏死後の話になる。群馬県玉村の片山叔美ふるさと大使は、日本のショーロ女王的存在であるが、2000年頃ショーロを初めて聴いて惚れ込み、ブラジルへ勉強しに行く決心をした。
 唯一の手がかりとなったショーロ女王アデミルデ・フォンセッカの自宅へ電話して研修方法を問い合わせたところ、思いがけなく「家へ来なさい」という答えが即座に返ってきたのである。
 突然電話した遠い国の見知らぬ娘を好意的に自宅へ同居させてショーロを教えるなんて、有名人アデミルデの善意に誰でも感心するが、私にはアデミルデの心情が理解できるような気がするのである。
 それは第一にショーロ・コンサートで大島氏との出会いによって、日本人の性格やブラジル音楽に対する熱情に感銘を受けた経験があること。第二はブラジルの若い世代の好みがボーダーレスとなり自国の芸術に対する無関心さに憂えていたこと、などが影響していると思う。
 それからもう一つ。心霊学者の大島氏が片山叔美ふるさと大使の背後霊となって導いたと言ったら笑われるだろうか?
 1997年7月12日、横浜の郊外で大島守氏は永眠した。享年68歳、ブラジルの音楽界で非常に惜しまれ多くの追悼文が寄せられた。
 大島氏が芸名の名付け親だったポップスター、パトリシア・マルクスは部屋にこもってオイオイと泣いた。
 ブラジル文化史の大家、ジョゼ・ラモス・チニョロン先生は「マモル・オーシマの死はブラジル音楽にとって大きな損失だ。良い話し相手を失くしてしまった」と電話をかけてきた。
 ジンボ・トリオは下記の弔文を送っている。
 《ブラジル音楽は、ほんの少数の人に大変な世話になっている。その一人は日本で30年間もブラジル音楽のために貢献したわれらの友人、大島守である。彼がいてくれたことは幸いであった。 サウダーデス》
       ジンボ・トリオ(アミルトン・ゴドイ)サンパウロ、1997年7月25日

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