『50年後の日本でのカルチャーショック』第四弾 広橋勝造

私たちの40年!! あるぜんちな丸同船者寄稿集 (nikkeybrasil.com.br)

広橋さんのカルチャーショック第四弾最終編です。字数を調整したつもりですが1万語を少し超えています。上手くUP出来ると良いのですが。。。第四弾は、32から40までの36を抜いた8編になります。何れも日本での出来事ではなく自由なブラジルでの面白い話、奥さんを連れて行った日本食レストランで奥さんをお母さんに間違えた千代の主人の話と落ちが面白い。ポルトアレグレのレストランで天皇陛下の甥っ子だと名乗って写真を撮って貰った話が本当ならその写真を見付けたい。掲載写真は、【日本祭りの会場で美女に囲まれて悦になってる広橋】と云うのを使わせて貰います。

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日本でのカルチャーショックの話題にブラジルでのカルチャーショックも入れて続けよう。ブラジルのカルチャーショックの話を入れるとアグレッシブになって問題視される言論も出てくると思う、その事を無視して、楽し事に集中して読んでもらいたい。

32.千代食堂―2
   他州から来た医者や顧客を接待するのによく千代食堂を利用した(大将が亡くなられて、10年以上となり、店は5年前に閉じらた)。彼等に珍しい日本食で接待した。確かな日本食の伝統を守る食堂で、日本からの訪問者の接待にも利用し、失敗はなかった。そこでの大事件(?)のエピ騒動を紹介する。
   接待の折に良くブラジル人の秘書がついて来ていた彼女は英語が堪能と社交性があり、支払いの手続きなどもテキパキとやってくれる。それで、アクシデント(事件と云うより事故)が起きた。何かの催しがあり、東洋街リベルダーデに久しぶりに家内を連れて出てきた。あれこれ用事を済ませ、ちょっと休む事も考えて千代で昼食を取る事にした。それに、大きく影響したのは、値段である。和食堂の値段は田舎育ちの家内にとっては凄く高いのである。家内「日本食?もったいない!もっと安い所で食べようよ」となる。しかし、千代の値段は“焼き魚定食”を食べる限り安いのである。絶対に家内の許容範囲と俺は確信した。俺「今日は俺が払うから、いいから、いいから、・・・」と言って千代に誘導した。何時もの通りのれんをくぐると、女将さん「いらっしゃーい、今日はお一人じゃないんで?」、家内が俺の後に隠れるようにおどおどしながら俺に続いて入ってきた。そこで、大将、俺の後ろで見え隠れする家内を見て「いらしゃい!、今日はお母さんをお連れで・・・」、と言ったのだ。そこで、一番怒ったのは女将さんだ「何て事を!!!、ヒロハッさんの奥さんよ!」、いつもの一番奥のテーブルに案内し「すみません!うちの人、おちょこちょいで、何時もこんな間違いをしょっちゅうしでかして、・・・」と平謝りをし、旦那に「あんた、謝りなさい・・・」、と怒鳴ってまではいかないが、怒っていた。俺の家内は何ともない顔で「髪を染めなきゃー、いけないね」と小さな声で言った。それから家内は真っ白い髪をチョッと色が付いた黒で染めたり、隣の町の大学病院に行って無料の医学(美容学科?)のモルモットになって肌の劣化を防いだりして、努力している。千代食堂に対しての評価は「あそこの定食は素晴らしいわ、あの量がジャストでそれに合った値段もジャストで・・・」と半分料理の好評価で残りの半分は値段の好評価で合格であった。後で大将に聞いてみた「如何して、俺の家内が俺の母さんだと思ったんですか?」、大将「いやぁー、あの時はごめん、ごめん。だって、いつも一緒に連れてこられるあの金髪の女性が広橋さんの奥さんだと思ってたもんで・・・」、だった。後で家内に聞いた「あの時、腹立っただろう!」、家内「ヒロちゃんの世話がまぁー、まぁー、いいからって証拠だから、ああなった、と思っただけ」、俺、心の中で、もう浮気はせんぞ、いや、少し減らすぞ・・、と誓った。?

33. リオグランデ・ド・スール州の州都で:
このエピソード集を投稿しているwatashitatino50nen@googlegroups.com サイト・グループの責任者で私を10年前に向かい入れてくれた和田氏が住んでいるポルトアレグレ市で私にとって深刻な事件のエピ騒動を紹介する。
長いこと仕事上でこの州はかかわりがあった。今も続いている。仕事の事で起きた問題ではない、その合間で起きた事である。
十数年前、“大きな商談が進んでいるから、応援に来てくれ”と連絡がポルトアレグレ市の現地代理店から連絡が入った。メンテナンスではない今回は商談である。できる限りの立派な(?)服装で髪を整え靴を磨いて現地に飛んだ(いつもはメンテナンスの為、汚れてもいい服装で、沢山の部品、工具、測定器を車に積んで行く)。2日間の商談に立ち会った。俺は余り口出しはしない。商談相手の病院は俺を日本から飛んできた者と思い、それだけでいいのだ。だが、嘘は絶対にいけない。尋ねられるとちゃんと答える。それでも日本の良い印象が相手に伝わるのだ。だから、現地の代理店の実力で業績が上がる。俺は無責任にただ成り行きを黙って観ているだけだ。サンパウロに戻るのを一日延ばし、ゆっくり代理店の奴等と飲みに出る事にした。代理店の奴が“イパネマ”とか云う食堂兼飲み屋に連れてってくれた。一時間余り夕食(この州は肉食が多くボリュームが凄い)しながら、3人で10本程度ビールを飲んで、世間話をしながら楽しんだ。ふと、壁を観ると、有名人が写った写真が壁いっぱいに貼ってある。、冗談好きな酔った俺「(あれー、俺の写真は?何所に?)」、代理店1「(ヒロさんの写真がないな~)」、代理店2「(ヒロさんは、ヒロヒト・インペラーの何なんだ?)」、冗談に乗った俺「(インペラドール・ヒロヒトの甥だ、問題起こしてインペラドールに死刑にされない様にブラジルに逃げて来たんだ)」、代理店1「(まぁ、どうでもいい。ヒロさんの写真を貼らないと・・・)」、代理店2「(あの上の方がいい、金箔の額縁に入れて・・・)」、代理店1「(いや、この真ん中を開けて・、)」、3人とも酔いに満足して言いたい放題の冗談を言っていた。突然、俺達のテーブルに食堂のオーナーが写真機を持った女性を従え、ニコニコしながら「(是非、写真を撮らしてください)」、酔いがいっぺんで吹っ飛んだ俺「(えぇ~、冗談ですよ)」、代理店1「(冗談ではありませんよ。彼はインペラドール・ジャポネスの甥なんです)」、俺その場から逃げようとして立ち上がろうとすると、酔いから冷めない代理店2が俺の肩を押さえて逃げるのを阻止した。店のオーナーが悪魔の笑い顔でニコニコしながら俺の後ろに立ち、テーブルの向こう側に回った写真機の女性が中腰になって素晴らしい日本のインペラーにつながりがあると名乗る偽者との記念写真を撮った。その時の結末は悪酔いした俺は覚えていない。覚えているのは翌日、サンパウロに向かって空を飛んでる時からだ。サンパウロで、その後の成り行きを想像した。写真の日本人の信憑性を調べるために店のオーナーは日本の宮内庁に写真を送った。その写真は宮内庁の中で問題視され、全国手配じゃなくて全世界手配をして取り押さえようとしている・・・。尊敬する天皇陛下この愚か者をお許しください。

34,日本祭り:
   社会法人“日本ブラジル中央協会”の常務理事の桜井氏から“ブラジル日本祭り”に関しての記載情報が送くられてきた。それがきっかけで、“日本祭り”会場で起こった“カルチャー何とか”を思い出しながら書く事にした。何があったかな? “楽しかった” が一番先に頭に浮かんだ、さて・・。
   金曜日夜の飲み会連中は大分県の郷土食会場の前あたりで一杯始めているとの情報をキャッチ、“日本祭り”に行った。さっそく、JR筑豊線に乗って大分県に向かった。着くと座るところがない、皆が押し寄せ超満員である。時間帯を選んでまた来ようと決めた。皆と一緒に飲まないと意味がない。とにかくこの連中と飲むと酒が三倍位美味しくなるのだ。不思議な現象だ。酒が飲めないとなると、お茶セレモニーのデモンストレーションコーナーで厳かにお茶をいただく事にした。列に並んで順番を待った。直ぐに俺の番が来た。畳(ござ)がはまった長椅子があった。それに座ると、高さも適して座り心地が良い、着物を着た女性が屏風の奥から盆に乗せたコップ(日本語名詞が出てこない)を丁寧にサービス(日本語の動詞が出てこない)してくれた。俺、丁寧にお辞儀をして「グッと」飲んだ。うん、美味しい。もっと飲みたい。空のコップを取りに来た着物の女性に「もう一杯くれないですか?」、女性、躊躇した顔を一瞬してから「ハイ、お待ちください」、屏風の奥に入って一分位してから前と同じ丁寧さでもう一杯サービスしてくれた。女性「二杯もいただいてもらえるのは初めてです」、俺、褒められたのか、怒られたのか、雰囲気からは両方感じられた。この、両方感じられるのが日本伝統の奥深さなんだな、と自分なりに勝手に解釈した。畳で思い出した。15年近く日本で出稼ぎに行っていた二世が「畳の匂いが懐かしい」と渋い事を言っていた。奴は俺よりも日本人で「ヒロさん、日本人だったらね、そんなことしませんよ」とよく俺に上からの目線で注意していた。奴と知り合ってから確かに俺は行儀が良くなった。服装、靴、シャツ、ズボンと身だしなみがだんだん良くなり、床屋に行く回数も増えた。運転マナーも良くなった。奴に日本から持ち帰った新型日本カルチャーをショックなしで学んでいるところだ。そう云えば交通違反の罰金額も少なくなっている。いい面も出てきた。さて、“日本祭り”会場を周ろう。おっ!“可愛いねーちゃん”じゃない“美しいねーちゃん”じゃない適した名称が浮かんでこない、うん、“美人”かな?“美女”だ。この名称がピッタリだ。何と10人の美女がズラッと並んだコーナーがあった。その美女達を引き立たせるために数台の車が置いてあった。逆かな?車を引き立たせる為に美女達がいるのか?まぁ、どっちでもいい。俺は美女達にしか目に入らない。今、考えると車の事は殆ど思い出せない。あの自動車メーカー(トヨタだったと思う)の展示は完全に失敗である。ブラジルであんな美女達を展示場におくとどんなに素晴らしい車でも訪問者の興味を引くのは難しい。俺なんかメーカー名も定かではない。平均的ブラジル人男子(俺も)には10人の美女の展示であった。その美女達に囲まれて写真を撮らせていただいた。丁度偶然に出会った飲み友達の古川ちゃんに数枚撮ってもらった。一生に一度の幸運のチャンスだ。そのコーナーにいた全美女達が俺の周りに集まってくれた。嘘ではない、要望があれば大事にしまっているアルバム集から探し出して公表する。そのコーナーの責任者みたいな男が来ていい気になっている俺を睨んできたのでその場を去った。つかの間の楽園だった。また、ブラッと人混みの流れに入った。弓場農場のコーナーがあった。俺の会社でメンテナンス責任者をやってもらっている高原氏が何度か休暇を利用して訪ねて好評価していた農場である。農場でとれた農産物(果樹物)から作ったジャム類がズラッと並べてあった。みんな美味しそうだ。全部の種類を一ビンづつ買った。半年以上パンに塗って消費した。後で(半年後)サンパウロから500㎞以上の弓場農場を訪ねた。この農場には劇場があって年末にバレーや演劇が公演され、多くの観客が集まる。“日本祭り”と“弓場集団文化農場”は日本で受ける強力なカルチャーショックで傷ついた患者を癒し、治してくれる。あっ、あの美女達もだ。

35,50年後の日本カルチャーショック:
   東洋街リベルダーデの中心街には日本食品店が立ち並ぶ、殆どが台湾系か中国系の人達が経営している。ズラッと陳列される幾種類もの即席ラーメン、お菓子類、冷凍食品、全て輸入品である。気を付けないと高い金を払って日本製を模造した中国製や韓国製を掴まされる。それを判断するのは俺にとって難しい。第一に視力の低下だ。それで、虫メガネを持ち歩く、大きさも厚さもクレジットカードと同じサイズで、面白い加工がしてあって、拡大するのだ。よくそれを使って商品のレッテルを読んで良し悪しを観ていると、店の店員が棚の陰から俺の様子をうかがっている。衛生局の検査員と間違えてるようだ。一度、棚の商品を慌てて降ろしているのに出くわした。多分、検査員らしき俺の謎の行動の所為だろうか。カード式虫メガネでも読めない時は携帯で写真に収め、画像を拡大して読み取る方法も習得した。(この行為が相当日本食品店に恐怖をもたらしているようだ)それでも50年間日本語の変化に追従してこなかった俺には書いてある意味が解らないのだ。特にカタカナで書いてある名詞だ。俺は近頃、商品選びに一度試して、美味しかったら買い続ける事にした。とにかく、日本語の進化の速さには泣かされる。カラオケでの選曲には40年前以前の歌を選ぶしかない。日本で今流行りの歌はメロディーもなじめないし、歌詞の意味が解らない。俺の50年前のカルチャー魂に響かないのだ。最近、カラオケで一人の気になる女性がいる。何時も俺より若い彼氏がピッタリついて俺のアプローチを邪魔しやがる。この状況をなんとか打開しようと作戦を練った。人生最後のチャンスかも、常套手段として“ダイヤモンドの指輪”?、“あっつい口づけ”?、“熱烈な恋文”?、“美しい花束“?、”美しい嘘で口説く“?、色々悩んだ末、最後に行きついたのは“歌の力”で、である。しかし、あのトロントの丸木氏の様にカラオケ・バーで軍歌ばかりを歌い横に座っていた女の子達全部がいなくなり、最後に我慢していたママまでいなくなったあのざまじゃ無理だ、それに、狂気の阪神タイガースフアン(和田、丸木、絶望的な一喜一憂のタイガーニュースを送ってくる杉井の各氏)が歌う“六甲おろし”では疑問だ。俺は歌うのが下手クソで歌唱力も戦力外だ。勝負は切ないメロディーと切実な俺の心を伝える歌詞だ。よし!、それで行こう、ここ2週間、俺の心とピッタリな歌を求めてインターネットで検索した結果、俺の厳正な審査に生き残った曲をここで発表しよう:前川清の“長崎は今日も雨だった”、“男と女の破片”、“花の時・愛の時”、“東京砂漠”、“恋唄”、堀内孝雄の“影法師”、“恋歌綴り”、“冗談じゃねえ”、“恋文”、“憧れ遊び”、“愛が見えますか”、“酔いれんぼ”、の12曲(インターネットで検索してこれ等の歌を聴いてもらいたい)だ。最終予選で“男と女の破片”、“恋唄”、“恋文”、“憧れ遊び”、 “花の時・愛の時”、の5曲にしぼられ、さてここで決勝戦・・・?、結果は、欲張りの俺はこの5曲全部を歌うことにした。俺の思いがあの女性に伝わるか?、来週からのカラオケが心配になってきた。結果はどう出るか?・・・。この選択中にたくさんの失恋の歌に出くわした。失敗したら自殺するかも知れないので、用心のために、慰め用の歌も2,3曲用意しておいた・・・。これ等の歌は1970、80年代の歌で、4、50年前の歌である。文化が50年進んだ(発展した)ではない事が証明される。いや、この作戦が成功すれば、文化は変化しただけだ、と云う俺の主張を証明することになる、責任は重い、頑張ろう。その文化の変化が良い方向か悪い方向かの判断は人それぞれであろう。50年間止まっていた俺の日本人魂時計を始動するとその変化が歴然となった。もう一度言いたい、変化であって、進化ではない。しかし、科学技術分野の日本の進化(発展)は認める。“凄い”の一言だ。だが、ブラジルでも多少の遅れはあるが、その“凄い”の恩恵は海を渡ってくる、それでほぼ同時に発展し、カルチャーショックにはなっていない。
あの気になる女性へのアプローチの成功(最終目標)は食事に誘う事だ。見てろよ!  今から食事代を貯めなくては・・・。
しかし、あの女性に対して余りにも残酷な事をするみたいだ。想像してくれ、ヨロヨロの年老いた爺がアプローチしてきたらゾッとするだろう・・・。おの女性にとって大惨事だ・・・。俺、どうしようか悩み苦しんでいる。

37,大嘘つき:
   俺、日本に行ったら無口になる。それは、ブラジルの事を何言っても嘘になるからだ。【ブラジルの気候は?】と聞かれると、『今年は寒く雪が降った』と伝えると、日本人は内心【何言ってんだこの野郎、アマゾンで雪が降るわけないだろう。この嘘つき野郎が・・・】、逆に『もう二年も雨が降らずに、暑さが続き砂漠化して・・・』、日本人【アマゾンがひやがるなんて有り得ない。又、嘘言いやがってこの野郎】といくら本当の事を言っても、日本人には嘘になるのだ。超大金持ちを言ううと超貧乏人もいる。超悪人の事を言うと超善人(俺)もいる。ブラジルは広くて多種多様で何でもピンからピンまで存在するのだ。初めて日本に帰った時、ブラジルで大嘘つきになって帰ってきたとレッテルをハラれて困った。それ以来、ブラジルの事は余り話さなくなった。本当の事を言っても嘘になる。そうだ!嘘を言っても本当にもなるかも? これいけるぞ!・・・。

38,現代日本人のマナー:
   十数年前、日本から安くて良いサッカー選手を探しに来た。それを引率(随行)し、ある街(バーレド・リオ・ドッセ近辺の小さな村)に行った。予め連絡していたので、村を挙げて歓迎してくれた。選手はこの地方で有名になり始めた村の英雄だ。日本から来たオリェイロ(スカウト人)に彼のプレーを見せたいが為に、隣村からも駆り集めて2チームを造り、その努力と皆の協力でデモンストレーション試合が実現した。皆、仕事を投げ出しての協力だ。この地方のラジオ局から生中継のインタビューも来た。30分に及ぶ真剣な試合が行われ、炎天下の試合で汗を出し切って終わった。日本から来たスカウトにインタビューが始まった。アナ【(どう思うか?〇〇選手?)】、スカウト「そうね、期待していたよりも下手だね」、俺の通訳「(そうね、期待以上だ)」、アナ【(これからどうなりますか?)】、スカウト「多分ダメだ。私には時間のロスだった」、俺の通訳「(日本に帰って、他の国の選手候補を加えて慎重に検討するから・・・。ちょっと時間がかかるだろう)」、アナ【(何か他に言う事はないですか?)】、スカウト「別にないなー」、俺の通訳「(皆さんの協力によって、〇〇選手のプレーを観ることが出来幸運でして。村の皆さん、ありがとう!)」、インタビューは無事終わった。しかし50年後の大国になった今の日本の若者(年老いた俺から見て)人格的に社交的にレベルが落ちたもんだ。このクソ野郎!

39,脳梗塞に襲われた脳:
   俺、五年半前、軽い(?)脳梗塞に襲われた。歩いてて突然、世界が別の次元の別の惑星にいる様なそんなショックを受けた。別の言い方すると、大きなハンマーで頭を殴られ、気絶するような・・・、しかし、痛みは共わないショックだ。周りの景色がグルグル回り、それでも、なんとか立っていられた。初めての脳梗塞で、なんでこうなったのか、分からなかった。横になって、明日には治っているだろうと、フトンに入った。これがいけなかった。今の進んだ医学では薬で治るのだ。しかし、三時間以内に病院に行かなければならない。薬で血管が詰まった箇所を溶かせるのだ。後期症が残らないためには、三時間以内でなくてはならない。昔、仲間達とビールを飲んでいた時、ビール満タンのコップが倒れた。その瞬間、テーブルにいた者は立ち上がって、飛び散るビールの汁から逃れた。俺を除いてである。しかし、俺にはビールがかからなかった。逃げた連中の二人にかなりのビールがかかった。二世の飲んべーが「ヒロさん、動作が鈍ったね」、とこきやがった。女の子の前で若者に負けたくない俺「何言うんだ。コップが倒れる瞬間、ビールが俺にかからない事を一瞬で計算して立ち上がらなかったんだ」、そんなやり取りした記憶がある。でもこの時は幸運であっただけだ。四年前、二度目の脳梗塞に襲われた。俺“これで終わりか”と思った。二度目の脳梗塞で死に至る確率は高いと知らされていた。だから、このまま気を失えば死なんだ、なぁーんだ、そうなのか、別に死に立ち向かうのは難しい事じゃない。変な勇気が俺に付いた。今回は病院に直ぐ連れられて治療してもらって、大事には至らなかった。しかし、俺に異変が起きた。二回目以来、瞬発速度(力ではない)が抜群に良くなったのだ。あのビール満タンのコップが倒れたら、立ち上がって逃げるどころか、コップが倒れない様に掴む事が出来るだろう。あとで、俺が医学的に解析したところ、人間が持っている理性を司るフィードバック機能がなくなりチンパンジーの反射能力を得て脳機能が低下したのだ。それで、、瞬時の動作が出来るようになった。学術医療論文を書こうか今検討中だ・・・。こんな生意気な事をフィードバックなしで平気で言えるようになっちまった。理性のない生意気な奴になりました。
   
40,日本から来たM新聞社の記者:
   十数年前、日本から“ブラジルサッカー特集”の取材に2名のM新聞のジャーナリストが来た。一人は記者、もう一人は写真家(屋)だ。少年達の路上サッカー、パルメイラス・サッカーチーム応援団本部のカミーザ・ベルディ、コリンチャス・サッカーチーム応援団本部のガビヨン、等を案内し順調に取材は進んだ。問題が発生した。アマゾンの密林でのインディオのサッカー取材が出来なくなった。FUNAI(インディオの文化を保護管理する国の機関)からの取材許可がなかなか出ないのだ。正式なプロセスで行うと、許可が出るまで1年以上かかる様だ。そこで、アマゾン地域に属するパラ州の俺の医療機器代理店に事情を説明したところ、「(簡単だ)」との返事、言葉通りそれから数日して、一週間後の取材が可能になった。全国紙のM新聞の部数の世界的な大きさが作用した。指定された日に現地に飛んだ。待ち構えていたのは、州政府が手配した4台の車で、前後にレインジャー部隊の兵隊で固めた護衛のジープ、それに守られた二台の空調付きの豪華なキャビン付きの大型ジープであった。それに、協力してくれた現地の代理店の車が加わり、隊列を組んでアマゾンの密林に分け入った。これも事前に手配してあった様で、密林の中に突然サッカー場が現れ、すでに観衆がいた。しばらくすると、密林の奥から“ホィ、ホィ、ホィ、”一定の短いリズムで、インディオが隊列を組んで出てきた。サッカー場の中央に整列すると、反対側の密林から別のインディオのチームが同じリズムで出てきた。ホイッスルが鳴ると、インディオ同士の試合が始まった。うまい演出によって、取材はスムーズに進み、25分程度で前半戦が終わり、後半戦が始まった。沢山のインディオの観衆が集まり、お祭りの様だった。後半戦も終わり、観衆の子供達がもの珍しく日本人達(俺達三人)を囲んだ。現地の代理店が車からサッカー・ボールや子供達が欲しがる様なお土産を配った。試合観覧中、インディオの半裸の娘さんA子ちゃんに質問した。俺「(あの一番うまい選手の名前は?)」、A子ちゃん「(ゴールの支柱)」、俺「えっ!(その名前本当?)」、A子ちゃん「(本当です)」と真面目な顔、俺達「(じゃー、あの赤いパンツの選手は?)」、A子ちゃん「(水洗便所(器))」、俺達「(えっ、本当?どうしてそんな名前つけたんだ?)」、A子ちゃん「(あのね、水洗便所って素晴らしいのよ。FUNAIが特別にこの部落に設置したんです。綺麗な水がジャンジャン出るんです。この部落の宝物です。だからあの選手の名前にしたのね)」、俺達「(じゃー、あいつは?今ボールを蹴った奴)」、A子ちゃん「(知らない)」、M新聞社の記者「水が飲みたいな、喉が渇いた」、俺の通訳で、気が利くA子ちゃん「(持ってきてあげるわ)」、とサービスしてくれた。新聞記者“ゴクゴク”「あぁー美味しい。のどが渇いていたからなおさらだ。・・・」、俺「(俺も一杯欲しいな)」、気が利くA子ちゃん「(はい、持ってきます)」、しばらくしてA子ちゃんがしょぼんとして帰ってきた。俺「(水どうした?)」、A子ちゃん「(人が座ってて、水が汲めないの。あの酋長が座ると何時も長いのよ)」、俺は我慢して水を飲むのを諦めた。記者にはこの事を伝えなかった。それから、アマパ州に飛んで赤道がサッカー場のセンターラインの球場や、実際にアマゾンの奥に小舟で入って、アサイの実を採る現場を観たり、至れり尽くせりの接待を無料で受けたのだ。日本人達が日本に帰ってしばらくして、サッカー関係シリーズの欄にこの一連の記事が載った新聞が送られてきた。パラ州政府は日本語の新聞をポルトガル語に訳して観てガッカリした。その記事の中にパラ州政府が協力して取材が出来た事に対しての表示が一行も載っていなかったからだ、お礼の言葉もレターも皆無だった。この後、パラ州での俺の商売は完全にストップした。現在もだ。この礼儀に反したクソ行為は現代の日本人の常識なのか、誰か教えて欲しい。