私たちの50年!!

1962年5月11日サントス着のあるぜんちな丸第12次航で着伯。681名の同船者の移住先国への定着の過程を戦後移住の歴史の一部として残して置く事を目的とした私たちの40年!!と云うホームページを開設してい居りその関連BLOGとして位置付けている。

2007年06月

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リオにお住みの山下さんからのお便りです。

パン・オリンピックのENGENHAO競技場、今夕 イナグレーションです。
http://www.engenhao.com/
バレーのMARACANAZINHO競技場の改装も終了したようです。

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今朝PCを付けメールCHK、インタネットにアクセスしてみたところ掲示の通り午前8時現在599168回となっていました。
NHKの新連載番組、3人の熟年弁護士のドラマを見終わり10時アクセスして見たら599243回となっており残り757回です。30日は、日本では後2時間、ブラジルでは残り14時間、矢張り7月1日(日)にクリアすると見て間違いないようです。従い新しいTOP PAGEは、7月1日付けでUPする事にします。
日本の皆さんには、お休みになる前か明朝、起きたら直ぐにアクセスして見て下さい。
ブラジルの皆さんにも寝る前に是非もう一度CHKして見て下さい。
宜しくお願いします。

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7月にリオで開催されるパンアメリカ大会の聖火は、6月4日にメキシコのTEOTIHUACANのピラミッドで点火されブラジルの29番目の街として昨日ポルトアレグレ市内の35kmを走り抜け次の街、パラナ州のフォズデイグアスに移されました。
当地ZERO HORAの大1面にヴェネズエラで開催中のコッパ・アメリカのヅンガ選抜軍から離脱して郷里のポルトアレグレで休養?中のRONALDINHOが最終ランナーとしてポルトアレグレの市役所前の広場に点火した写真が掲載されています。

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今晩は?お早う御座います。

今ブラジルでは29日金曜日の夜9時です。ストーブが欲しいような冷えようでキーボードを叩く手が悴む程です。

日本では蒸し暑い梅雨が続いているとのこともう30日の午前9時ですよね。『私たちの40年!!』HPの現在のアクセス回数は、598565回、残りが1435回です。多分明日のこの時間には60万回をクリアしているのではないかと思います。遅くともブラジル時間30日(土)の夜中の12時(日本時間日曜日の正午)には間違いなくクリアしているでしょう。何方が60万回をGETしてくれるでしょうか?長田のみっちゃんの神業を期待しています。

今回は、記念品を何にすれば良いかと心配しておりますが、何時も同じ物では能がないし。。。

ではGOOD LUCK!! BOA SORTE!!ご幸運を!!

お便りお待ちしています。

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相川さんが書いておられうる中国新聞の「世界の街角」を見ていたらメキシコの欄にこれまでも取り上げて来た世界の移民史の中で一番古いメキシコの【榎本殖民】に付いて元JICAの日系社会青年ボランティアの田頭信行さんが「榎本殖民 苦難超え定住」という文を書いておらるのを見つけました。田頭さんとは連絡を取って見たいと思いますが、中国新聞WEB版に公開されている記事でもありお借りして皆さんにもご紹介させて頂きます。

「榎本殖民」 苦難越え定住 メキシコ 田頭信行
中南米の日系人と言えば、すぐにブラジル人やペルー人が頭に浮かぶだろう。しかし、ラテンアメリカ諸国で最初の移民は、メキシコから始まったといわれる。それも単なる出稼ぎ移民としてではなく、定住型移民として、国家政策の一環として開始されたのである。

最初の移民は「榎本殖民(しょくみん)」と言われている。この「榎本」という名は、時の外務大臣「榎本武揚」の名からきている。榎本武揚といえば、函館(箱館、北海道函館市)の五稜郭で江戸幕府の海軍司令官として政府軍と戦い、結果、敗れながらも、能力を認められ、明治政府の閣僚を務めた人物だ。
 当時の日本は、人口が増大し、貧困にあえぐ人が大勢いた。日本人が今後発展していくには、狭い日本では限りがある。別の所に「殖民」しなければならないと、榎本は考えた。

 一方、メキシコもスペインから独立を果たしたものの、労働力が不足していた。そこで、榎本は国策としてチアパス州の広大な土地を購入し、日本人の小さな国のようなものをつくろうとしたのだった。まずは三十六人の日本人を選抜して現地へ送った。これが一般に「榎本殖民」と言われる人たちである。

 この三十六人が一八九七年、グアテマラ国境付近のプエルト・マデロという港に上陸し、徒歩でエスクイントラという所まで行った。ちなみに、その距離は、百キロを超えている。そこでコーヒー農園を開く予定だったが、あいにく誰もコーヒー栽培についての知識がなかった。しかも、到着した五月は既に雨期に入っており、苗を植えても、すぐ流されてしまう始末だった。

 入植地は熱帯雨林だったので、病気にもかなり悩まされたようだ。結局、この第一陣はわずか三カ月で失敗に終わった。しかしその後、共同会社を設立するなどして、第二陣、第三陣の移民がチアパス州にやってきた。

 エスクイントラから三キロ離れた所にアカコヤグア村という村がある。そこに「榎本殖民記念碑」が建っている。記念碑の表には日本語で「榎本殖民記念」、裏には「夏草や つわ者共の 夢の跡」と日本語で書かれている。メキシコの日系人が資金を集めて設立したものだ。

 現在、この地域の日系人は三世が五十歳代で、四世、五世の時代になってきているが、今も日本人の血を誇りに思って暮らしている。

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