私たちの50年!!

1962年5月11日サントス着のあるぜんちな丸第12次航で着伯。681名の同船者の移住先国への定着の過程を戦後移住の歴史の一部として残して置く事を目的とした私たちの40年!!と云うホームページを開設してい居りその関連BLOGとして位置付けている。

2008年04月

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富田 さん 皆さん
ご心配掛けましたが、無事富田さんとお会いできました。普通なら地元の方の出迎えが見つかるまで何時間でも降りた場所で待っているべきだと富田先輩にしかられました。タクシーで勝手にホテルにCHK INは、地元で出迎える人に対して失礼とのご指摘をうけました。都合が悪く帰国日をまた延ばしたのではないかと心配しておられたとのことでした。
機嫌を直して頂き夕食を富田さんの息子さんが経営されている日本食レストランのホテルから一番近いダウンタウン店に連れって行って頂き特徴あるアメリカ式日本食を御馳走になりました。
日本食店をサンアントニ市で初めてまだ8年程度とのことですが、市内に四店、ダラスにも支店を開き現在は、五店の日本食のチェインー店を展開しているとのことです。富田さんが選ばれた献立は、SUSHI ZUSHIのオリジナル品でアメリカ全土に模倣されるヒット食でした。
新鮮な牡蠣料理では、味付けが独特でした。太巻きも味付けがマヨネーズ、その他のソースを使ったオリジナル品で如何にもアメリカ人が好みそうなごってりした味付けでしたがこれが地元で食べると美味しく感じます。サーモンタワーという一品は、ご飯にサーモンが一杯かかり4方に味付けの薬味が乗っておりそれらをすべてかき混ぜるとサーモンかけご飯が出来上がる。巻き寿司の上に蛸が乗ったお皿、出てきたお造りも切り方が小さく分厚い。多胡は大振りな切り方、少し日本と違う感じですがそれがアメリカに定着し模倣されるているそうです。
明日は、アラモの砦にデビークロケットを探しに行きます。
写真は、富田さんが取ってくれていたWESTIN RIVERWALK HOTELの玄関口での記念写真、最上階の1501号室の入口の表札、SUSHI SUSHIのオリジナル・プラットの写真です。

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4月24日の東京に置ける10周年祭の式場で帰りに頂いたのがこの写真集『目で見る ブラジル日本移民の百年』でした。百周年のシンボルとしてのTIKARA君とKEIKAちゃんをあしらったストラップも頂きました。写真を掲載して置きます。

☆☆☆百年史別巻『目で見るブラジル日本移民の百年』が出版されました!☆☆☆

 ブラジル日本移民百年史の別巻となる写真集『目で見る ブラジル日本移民の百
年』(ブラジル日本移民百周年記念協会百年史編纂委員会)が4月22日、風響社
(東京)から出版されました。
 1908年の第1回日本移民船「笠戸丸」以前の渡航者の写真からはじまり、コ
ーヒー耕地での辛い仕事、日本人植民地の生活の様子、勝ち負け事件などの戦後の
特殊な社会事情、70年代の勢いのある日系社会、一世の高齢化と二世の台頭、デ
カセギ・ブームなどの百年の歴史を、約250枚の貴重な写真によってたどる内容。
移民史について初心者はもちろん、すでに関心がある方でも初めて見るであろう写
真が多数網羅されており、幅広い人に手にとって頂けるような内容を心がけていま
す。
 写真集は1万部印刷されます。日本語とポ語の写真説明、概説、年表などの解説
文章が付いており、2色刷り、サイズはB5、200頁余り、定価は2000円。
気軽に日本移民の歴史の全体像を知ることができます。日本全国の主な書店に並び
ます。
 百周年の機会に、在日ブラジル人やその子弟が自らのルーツを見直す材料にして
もらうことを期待しており、同時に、日本人の地域住民側からの理解を深めてもら
えるような1冊になることを目指しています。特に日本側において、日系ブラジル
人が多く住む地域の公立図書館や公立校の図書室、多文化共生や国際交流に関係す
るNGOや大学、自治体の機関などに積極的に購入してもらい、少しでも多くの方
に理解を深めてもらえれば、日伯交流に少しでも貢献できるのではと考えています。
 なお、百年史プロジェクトでは、今後、資料編、分野別編、地域編、総論などを
毎年1冊ずつ約5年間かけて出版していく予定です。
■風響社(〒114-0014 東京都北区田端4-14-9 TEL: 03-3828-9249  FAX:
03-3828-9250 E-MAIL: fukyo@super.email.ne.jp)

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神戸の百周年記念式典の会場に元三菱重工のブラジル現地工場の土屋社長夫人が来て下さりもう17年も前に亡くなられた初代南伯日本商工会議所会頭の土屋省一さんを偲び昔話に耽りました。
神戸で一番古いコーヒー店での日本最後のミニオフ会となりました。ブラジルのコーヒーをベースとしたブレンドコーヒーと美味しいアップルパイを楽しみました。

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日伯交流年兵庫県実行委員会主催の日伯交流年・ブラジル移住100周年記念レセプシオンに参加しました。これで今回の訪日時のすべての行事を終えて明日早朝新神戸から成田に直行し午後のフライトでヒューストンに向かいます。明日は、長い長い1日になりそうです。
神戸における交流年行事は、東京と違い女性の参加者も多く若い人達で華やいだ雰囲気の催しでした。原則写真は撮ってはいけない事になっていましたが、カメラの持ち込みそのものの禁止(取り上げ)は無く日本人は(私も含め)自粛していましたがブラジル人は、平気でパチパチ遣っていました。皇太子殿下が退席されてからは、場が緩み記念撮影等が幾つも見られ私たちも神戸新聞の中西カメラマン(日本ブラジル交流協会第13期研修生に玉井義臣会長と一緒に記念写真を撮ってもらいました。送ってくれるとのことでしたので楽しみにしていますが、私も数枚撮らせてもらいましたので貼り付けて置きます。
日本ブラジル交流協会の玉井会長と舞台上で撮った一枚、恵子と玉井さん、谷、徳力、和田の3メンバー、6月ブラジル公演が決まっている(ポルトアレグレは6月27日井上 祐見さんの新曲「笠戸丸」の初公開で熱唱していました。

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ニッケイ新聞 2008年4月25日付け

天皇陛下が労苦ねぎらう=百周年・交流年東京式典=祖国救援、デカセギにも触れ=首相、伯関係者ら4百人出席

 【藤崎康夫=東京支社長】四月二十四日午後四時半から百周年記念式典がホテル・オークラ東京で行われ、天皇皇后両陛下、皇太子殿下、三権の長、ブラジル政府、在伯日系人代表、日伯国会議員連盟メンバー、日伯交流年実行委員会メンバー、在日ブラジル関係者など約四百名が出席した。
 開会後には、日伯両国歌吹奏、高村正彦外務大臣の式辞に続き、天皇陛下がお言葉を述べられた。陛下のブラジル日系人、在日日系人への温かい思いが、参列者の胸を強く打った。
 日伯交流年実行委員会名誉会長、麻生太郎、内閣総理大臣福田康夫、日系人代表上原幸啓、伯国政府代表の官房長官ジルマ・ロウゼフ各氏の挨拶が続いた。
 共同通信によれば、福田首相は「両国の百年を貫くものは日系人たちが積み重ねた努力の営みだ」と強調。百周年記念協会会長の上原幸啓さんは「多大な犠牲を伴う生活に直面したが、われわれは祖国への愛情と尊敬を忘れなかった」と移住者の思いを訴えた。
 記念行事として愛知県東浦町立石浜西小学校の児童による、ブラジルと日本の子供たちが、共に生きる喜びを発表し、参列者たちの大きな拍手がわいた。



天皇陛下のおことば

 本日、ここに、日本ブラジル交流年・日本人ブラジル移住百周年記念式典が、ブラジル政府代表、ブラジルの各界で活躍している日系人の代表を始め、多数の両国関係者の出席を得て開催されることを誠にうれしく思います。
 今から百年前、日本からの最初の移住者が、笠戸丸でサントス港に上陸して以来、数多くの日本人がブラジルに移り住み、今では、日系人の総数は、百五十万人を超え、ブラジルは、海外における日系人の最も多い国となっております。
 初期の移住者は、移住環境が十分に把握されない状況の中で入植しました。移住者を取り巻く自然環境や病気も、また移住者が接する人たちの言語も、未知の世界であり、そうした中で農業に取り組んだ人々の心身の苦労はいかばかりであったかと察せられます。移住者は、そのような厳しい環境の中でまじめに努力を重ね、地域の人々から信頼されるようになりました。
 今日、日系の人々が様々な分野で活躍し、ブラジル社会に貢献していることを頼もしく感ずるとともに、これまでに努力を重ねてきた日系の人々の労苦に深く思いを致すのであります。その陰には永年にわたって日本人移住者を温かく受け入れてきたブラジル政府並びに国民の厚意があったことを忘れることはできません。
 私どもが、笠戸丸でブラジルに渡った第一回移住者にお会いしたのは、今から四十一年前、一九六七年のことでありました。五十九年振りに日本の土を踏まれた七十代前後の九人の元気な移住者にお会いしたことが今も懐かしく思い起こされます。
 私どもは皇太子の時に二回、即位後に一回ブラジルを訪問し、大統領閣下を始め、ブラジルの人々から温かいおもてなしを受けるとともに、各地で日本人移住者とその子孫にお会いしてきました。
 最初の訪問は一九六七年、二回目は一九七八年日本人ブラジル移住七十周年記念式典出席の機会であり、三回目は一九九七年でした。三回目の時には笠戸丸の移住者の中でただ一人の生存者であった中川トミさんにもお会いしました。中川さんが本年の百周年を待たず、一昨年亡くなられたことは誠に残念なことでした。
 近年、ブラジルから数多くの日系人が日本に来て生活するようになりました。私は、今月初めに、皇后と共に、多くの日系人が工場などで働いている群馬県の太田市及び大泉町を訪れましたが、日系人が地域社会に適応することを助けるために、職場や、地元の小学校などで、いろいろな施策が進められていることは心強いことです。
 ブラジルにおいて日本からの移住者が温かく受け入れられたのと同様に、今後とも、日本の地域社会において、日々努力を重ねている日系の人々が温かく迎えられることが大切であると思います。
 なお、この機会に、先の大戦によって大きな痛手を受けた日本に対し、戦後サンパウロ市の日本人有志が「日本戦災同胞救援会」を結成し、三年間にわたって救援物資を送られてきたことを思い起こし、血を分けた同胞の厚情に改めて感謝の意を表したく思います。
 今日、日本とブラジルの関係は、ますます緊密になり、両国国民の間の交流も活発になってきております。今や両国に住むこととなった日系人の存在は、両国間の絆を更に強めることになることと思います。ここに日本ブラジル交流年・日本人ブラジル移住百周年に行われる様々な行事が、両国国民の相互理解と友好関係の増進に資することとなることを期待し、式典に寄せる言葉といたします。

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