私たちの50年!!

1962年5月11日サントス着のあるぜんちな丸第12次航で着伯。681名の同船者の移住先国への定着の過程を戦後移住の歴史の一部として残して置く事を目的とした私たちの40年!!と云うホームページを開設してい居りその関連BLOGとして位置付けている。

2009年07月

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三日目、朝起きたら雨が降っていた。霧よりはいいかと思って出発、モーニングコールは4時45分、ホテル出発は5時半。ところが7時発の飛行機は目的地の「九寨溝」上空でトンボ帰り、またまた天候悪化だという。結局成都に戻り、一時間待機してその後再出発し、3時間遅れで漸く「九寨溝空港」に到着。この空港は海抜3500m、九寨溝の入り口は海抜2000m、その落差1500m。途中、バスは水を補給、理由は過熱したブレーキを冷やすための水だという。おいおい本当かよ?驚く話しだ。ブレーキ大丈夫なのかなあ?
話しは変わるが、中国の「一人っ子」政策は少数民族には適用されていないという。基本的には「漢民族」は一人っ子政策で違反すると年収の3倍の罰金が科せられるという。だが富裕層は罰金を払ってでも子供を増やしているという。
さて、目的の九寨溝は、「九つの村がある谷」という意味で、「チベット族」が暮らしている場所だという。1982年に政府によって観光地として認められて整備されたという。生憎の空模様で霧雨が降っていたが、その湖の美しさは筆舌に尽くしがたい。エメラルドグリーンの「五花海」などは幻想的な雰囲気だった。スタートが遅かったので殆どの観光客は帰ってしまっていて、我々のツアーだけで廻れたのは救いだった。深い森の中に佇む湖と滝、周囲の緑が映えて実に美しい色合いを放っていた。
四川大地震の影響で車で来られないので、現状では飛行機のみで、今日は7,000人の観光客だったという。入り口で全てのバスから乗客は降ろされて、九寨溝内専用のバスで移動する。ピーク時には一日で3万人が訪れたという。さて、その美しさはぜひ皆さんにも観てもらいたいものだ。絶対にお薦めのポイントだった。
宿は「シェラトン」、漸く中華料理から開放された。日に3食、中華は流石に堪える。中華は油が多くて、胃腸が持たない。たまにはさっぱりしたものを食べたくなるというのは私が年齢を重ねたからなのか?ここのワインはボトルで160元とリーズナブルな料金でした。毎日、飲み過ぎですね。中国人のウェイトレスがいて、名前を聞いたら「キャンディー」だという。英語も下手だったがワインを注文したが彼女がオーダーを理解しても次が繋がらない。まあ15分してから漸くワイン到着。しかたないなあ。本当の僕なら怒って怒鳴っていたけれど、キャンディにあわせて許してあげよう。

「黄龍」
黄色い龍が住んでいるという「黄龍」。湖の中に色が変わった部分があり、それが龍の形に見えるという。
九寨溝から120km、標高2000mから4000m以上の峠道に向かう。今日はほぼ快晴。峠では5000m級の山々が望める。峠に立つと標高5500mの「雪宝頂」が見え、北側の斜面には万年雪がつもり、三角に尖った頂上が印象的だが、これが見える確立は10%とか。まあ良かった。
黄龍ではまずロープウェイで3000mから一気に3500mまで、そこから約3km歩いて「五彩池」に到着、山歩きの基本はゆっくり確実に自分のペースで登ることと「野口健」氏に教わっていたので、兎に角「高山病」にかからないようにひたすらゆっくりと歩いた。そして目的地の「五彩池」に到着、こちらは所謂「棚田」状になっていて、水が棚田をゆったりと零れ落ちる。水の色が太陽や緑の木々の色を反射させ微妙な雰囲気を醸し出す。途中、滝になり、池になり、そして水の滴はやがて大河となって長江となる。水の長い永い旅の始まりの水滴だ。水の美しさに驚かされる。この光景はよくテレビなどで観ることがある。
さて、このツアーが本当に体力を使う登りは最後の300mらしいが、まずは高所に対する順応性に欠けている我々にはかなりに辛い。更に帰りは絶対に自らの足で下りるしかない。下り4.3km、これが意外にきつい。
階段と下り坂通路の連続、膝の悪い私など下りは最悪だ。本当に膝には迷惑をかけたと思う。でもツアー最年長のお婆さまは82歳の健脚、まあ参りました。脱帽。手渡されていた「酸素ボンベ」は使わずにすんだが、ロープウェイを使わずに徒歩で登って来る人もいるし、みなさんがんばっていますね。更に驚いたことに所謂「強力」さんたちが重たい材木を担いで登っていた。チベット族の人なのか、高地に順応した体でないと絶対に不可狽セと思った。
九寨溝から黄龍へ向かう最後の20km程度の山道はこれまでの2車線を4車線に拡幅工事中だった。中国は今年は公共事業を大規模に行い経済快復をリードしたい意向だ。そこで四川大地震の近くも公共事業漬けしたいのだろう。しかし、やっていることは全く問題外の作業工程だった。
そうそう、その前にペットボトルを頂上付近で開けて、ホテルまで持ち帰ったら、なんと気圧の変化で細身の身体に変身していた。本当に驚く

「パンダ」
「熊猫」と中国語では書く。実に愛らしい動物だ。「成都」にある「パンダ繁殖センター」に行った。ここには結拷「米人の姿もあった。しかし、九寨溝や黄龍では殆ど見かけなかった。理由は彼らは文化を見たがっており、「チベット」へ行ってしまうという。成都からチベット行きの飛行機も出ている。日本人は「景色」を欧米人は「文化」をそれぞれに見ている訳だ。
さて、まずは中国の田舎の「トイレ事情」から、これは最悪だった。それは和式(中式と呼ぶべきか?)のトイレが大半でそれもドアに鍵が掛からないのが当たり前。私もトイレを開けたら中のしゃがんでいた人が見上げてきて驚いて閉めた。不思議と九寨溝内にある簡易トイレは逆に綺麗で衛生的だったから面白いものだ。北京などはオリンピックを契機として改善されたようだが、地方はまだまだだ。成都空港ですら、鍵になし、中式トイレばかりだった。たった一つだけあった洋式トイレは便座がなかった。
それと「公共事業」の道路造り、これは文字通り「酷い」の一語に尽きた。2車線の道路を4車線に拡幅工事中だったが、山側の斜面を機械で削り、その跡に、幅50cm、深さ30cmほどの溝を掘り、底に砂利を敷いて、直接生コンを打せつ、途中で人間の頭位の大きさの石を投げ込み、更に生コンを打つ。こんな調子で1m位の高さの「よう壁」が出来上がる。鉄筋の姿が全く見られないし、基礎の杭も打たれていない。これは酷い工事でした。地震が来たら間違いなく壊れるはずだ。四川大地震の際、学校が潰れて幼い子供たちが多数死んだ原因が手抜き工事だと親たちが抗議していたが、その通りだったのだろう。道路建設を見ているとそれらが如実に分かるというものだ。何諸Nに一度起きるか起きないかの事態に対処するより現実的な面を取るという訳か?
話しをパンダに移そう。午前中の涼しい時間帯は屋外で遊ばせるらしい。屋外で動いていた3歳未満のパンダたちは気温の上昇に伴い、係員に連れ出されて冷房の効いた場所に運ばれていった。現在ここでは80頭のパンダが飼われているという。今年も9頭が春に生まれたらしい。赤ちゃんパンダが飼育機の中でうごめいていた。観ていると係りの人がやって来てお腹を何度も何度も押していたら、漸く排便が始まった。定期的に手助けしてやっているらしい。こんな動物だが、繁殖力が極端に落ちてしまっているらしい。発情するのが年に3日、そこでオスとメスが出会わなければその年の赤ん坊は生まれない訳だから低い確率だ。そこで人間の手助けが必要となる。人工授精等で今年は4組8頭の双子が生まれたという。双子は親が片方を殺してしまうので、直ぐに1頭は別ける必要があるとか。パンダと一緒に写真を撮るのに料金が1000元、約1万5千円だという。希望者殺到で年々料金を上げていると言う。愛くるしいパンダだが、絶滅種にならないように人間に支えられて生きていた。

「手前勝手食物語、第120号、四川料理編」
最後の夕食は有名な「陳麻婆豆腐店本店」だった。昔、陳さんのお婆さんが作ったのが有名になり、現在は国有企業化されているという。なるほどなるほど?だが、どうも観光客用の味付けで決して辛さがにじみ出ているわけでもない。まあ合格品とはいえ、私にはもう一味物足りなさを感じた。今から10年ほど前だったが、目黒の有名な中華料理店で食べた「麻婆豆腐」は本当に美味しかった。だが辛過ぎて普通の人は食べることが出来なかった。それほど「刺激的」な味だった。麻婆豆腐発祥の店で感じたこと。すみません。これまたトイレが汚いこと、国有化の最悪の事態でした。先月、杭州や上海を廻った時には感じなかった落差を感じました。
楽山大仏を観光中に突然若い女の子二人にツアー客が話しかけられた。勿論彼女たちは中国人だが、「日本の方ですか?一緒に見学しましょう」と言い出した。これが本当に上手い日本語なのだ。「どこで覚えたのか?」と聞くと、「暇なときに勉強した」という。中国の若い人たちの日本語熱も凄いものだと実感した。ネイティブの発音というのは本当に外国人にとっては難しい。だが、彼女たちの日本語は独学にしては本当に上手かった。私も中国にいる間は中国語を少しでもしゃべりたいと思っている。ドライバーさんに朝会うたびに「早上好」(おはよう)と声をかけると彼はにっこり笑う。こういう関係が一番必要だと思う。添乗員さんから「私も永くOLやってましたから、役員さんだったんですか?」と聞かれた。まあ、宮勤めを終えると人生感は変わる。おっと、食の話をするのを忘れてしまった。油、香辛料、薬味、こういったものが沢山入った四川料理は刺激的ではあったが、今回の旅では本当に美味しいなあと思うものに出会わなかった。それと6月中旬の「杭州、上海、蘇州」と廻った旅では料理は問題なく、お腹の調子も良かったのに、今回は初日からお腹がおかしくなってしまった。やはりスタートが徹夜同然だったので疲労から来たのだろうか?結果、東京へ帰って漸く普通の調子に戻った。
以上、四川省の旅から戻った勢古口が東京からお送りしました。

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「リタイアメント・ノート 13ヶ月目」 「VOL.583 SINCE AUG. 12th、1983」
「旅暦11」
「中国四川省の旅」
最初から大変な目にあった。成田出発も機材到着遅れで1時間遅れ、更に北京空港天候不良で一時空港閉鎖の影響で上空で待機させられ、国内線乗り継ぎではまだ前の便が出ておらず、2時間半以上待っているがいつ出るかも分からない内に新らしい日付を迎えてしまった。それでもまだ北京空港にいる状態である。たまにはこういうハプニングもあるのだろうが、空港で徹夜ということもありうるか。参ったなあ。仕方ないから本でも読んでうとうとしているところだ。全ての飛行機が遅れていて、今更どうしようもない。といっていると、搭乗案内があり漸く3時間遅れで乗れることが出来た。だが、「成都」のホテルに入ったのは、午前3時でした。もう疲れまくりました。ということは日本時間の午前4時です。ホテルでちょっと持参したウィスキーを飲み、ベッドに入ったのはもう午前4時でした。
さて、モーニングコールの音で目を覚ますと既に現地時間の午前8時、なんとかぼけた頭を振りながら起きだしてシャワーを浴びて食事へ。第二日目の目的地は「峨眉山」、がびざん、成都から250km、3時間かけて標高1000m辺りの駐車場で小型のバスに乗り換えて、そこから更に海抜2500m付近にあるロープウェイ乗り場まで1時間半,細い道を猛烈な勢いで走る。追いつ追われつの如く、追い越し禁止など全く無視の走行には驚く。従って必ず事故が起こる。行きに1件、帰りに2件事故が起きていた。当たり前といえば当たり前のことだが。
頂上の「金頂」には仏教寺院が建てられていて、見事な金色をした仏像があった。だがこの時点で若干「高山病」気味か?空気が薄い性で頭が痛く、少し身体を動かしても動悸が酷い状態だ。

頂上の展望台から見下ろすと、そこは切り立った崖、峨眉山が周囲から如何に孤立して高いかが分かる。私自身3000mクラスの山に登ったのは今回が初めてだ。そしてそこはまた「自殺の名所」でもあるとのこと。まあ、あんな風光明媚なところから飛び降りたいという気持ちも分からないではないが。
ここはユネスコの「世界自然遺産」且つ「世界文化遺産」でもあるという。黄金色に輝く仏像、寺院、それが3000mもの高さにある。頂上は3079mだという。
話しは変わるが、「骨」という字を思い出してもらいたい。この字の首のところにある小さな「口」みたいな部分が本当の漢字では左あるということを聞いたことがあったので、今回確かめてみたら、間違いない。中国では「骨」の字の口の部分は左側にある。誰か日本のお坊さんが間違えて覚えてきてしまい、日本では誤って右側につけてしまったのだった。千数百年前の漢字の誤りでした。麻生さん、間違えた先人もいましたよ。それにしても現在の中国の略した漢字は分かりにくい。それと中国各地で数諸N前の「文化大革命」の爪痕を見る。というか爪痕で観るものがなくなってしまっていることを知る。あれはなんだったんだろう?「紅衛兵」らによる文化大革命が中国文化に与えた影響は計り知れない。歴史的なものがことごとく破壊されてしまっていることを知らされた。日本の明治維新の時の出来事にも通ずるのか?兎に角、残念なことだ。この峨眉山にも沢山の仏教寺院があったが、殆ど残されていないという。
帰りに麓の「報国寺」に立ち寄った。ここは勿論建て直したものであるが、古い仏教寺院だという。立派な仏像が沢山安置してあり、僧侶たちが読経をあげていた。木々ではセミが読経に負けずと大合唱をしていた。
「四川省」は面積、人口共に日本の3分の1程度であるという。盆地なので湿度が高く蒸し暑い夏になるという。省都「成都」では地下鉄が3本同時に建設中だった。確かに中国は内需拡大のための公共事業が盛んに行われていた。さて本日のお宿は「楽山」という街だ。こんな田舎?に来ても立派な車が走っている。勿論日本車も沢山走っている。トヨタ、ホンダ等が列を成して走っている。ただ交通マナーの悪さには閉口するが。

楽山市という街に泊まる。朝、起きるとホテルの前の川から靄が立ち上り、水面を覆っている。そして本日の観光は世界文化遺産にもなっている「楽山大仏」だという。現存する石仏では世界最大だという。船に乗り川に乗り入れる。靄のかなたから大きな石仏が見えてきた。身長71m,1200年前のものだという。途中30年の空白期間を超えて都合90年の建造期間があったという。例のバーミアンの石仏がなくなったから結局これが世界最大となったのだろう。まことに見事なものだ。困ったのは中国の田舎?ではメールが繋がらないことだ。やはりまだまだ遅れている。中国の携帯所有人口は3億人だというが、声の携帯より我々はメール世代なのだ。この楽山石仏の足元で二つの大河が合流する。これが更に流れて「長江」、即ち「揚子江」となるのだ。
湿度の高いこの辺り、霧が名物なのだろうか?どこへ行っても霧、霧、霧でした。ということで今回は中国四川省の旅の途中までお送りしました。次回は九さい溝からお送りします。取り急ぎ、中国は「成都」からの報告です。

「リタイアメント・ノート 14ヶ月目」 「VOL.584 SINCE AUG. 12th、1983」
「旅暦11続き」
「中国四川省の旅・後半」
今回は天候に泣かされるみたいだ。初日は北京の天候悪化で一時空港封鎖、その後3時間遅れで成都到着、初日の観光は「峨眉山」山頂観光、続いて「報国寺」。汗をかいて漸く「楽山」市に到着。翌日午前中は「楽山大仏」を見て、それから「劉備元徳」のお墓に行く。知らなかったが、この四川省は昔「蜀」の国で三国志の英雄たちの活躍した場所なのだ。「劉備元徳」「諸葛孔明」「関羽」「張飛」ら英雄たちが闊歩したのがこの成都なのだ。劉備は紀元223年に死んで、この地に葬られたが、中国で盗掘されていない唯一のお墓だという。それが劉備の徳なのだという。劉備の徳、公明の智、関羽の武勇、並び立つものがない歴史の事実だ。この成都が三国志の舞台だったことを知っている日本人は驚くほど少ないと思う。だが、中国4000年の歴史の中の一つとして、中国の西の地「成都」は現存していた。
面白い話しを聞いた。西暦3世紀の頃、中国の人口は約600万人、当時の弥生時代の日本は約60万人、現在も彼我のその比率は変わっていないのだ。
1800年も前のお墓が未だに盗掘されずに残っていることは本当に素晴らしいことだ。中国政府も発掘しようと試みたらしいが、国民感情がそれを許さなかったらしい。もう発掘する計画はなくなったという。因みに三国志とは「魏」「蜀」「呉」の三国が争った時代のことを言う。最近は映画「レッドクリフ」「三顧の礼」など歴史上幾多の物語を語ってきた三国志、その中心人物の人たちが過ごした街、それが「成都」だ。孔明は確か山東省出身ではなかったか?今でも「諸葛」姓を名乗る子孫が存在する村があるはずだ。

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BUZIOSからバスで3時間掛けてリオに戻りリオで客先3社を訪問後夕刻のフライトでサンパウロに戻りました。ニッケイパレスホテルにCHK INしましたが電話で連絡をしていた滝谷さんと麻生さんがロビーで待って呉れており、中平まり子親子も忙しい中ホテルまで来て下さり再会出来ました。
夕食は、近くの居酒屋、『甚六』でビールを飲みながら滝谷さん、麻生さんの3人で楽しみました。明日腎臓のウルトラソニックの検査があり血液検査もあるとのことで酒は控えた方が良いとのことでしたが麻生さんは、久し振りのビールを楽しまれ歓談しました。毎月定期的に送って下さっている原稿の12月までの取り上げる話題とか、9月に久し振りに故郷?アマゾンにご夫妻でアマゾン移民80周年記念式典に参加される話とか話題が弾みましたが、途中で『和田さん写真を撮らないの?』との麻生さんのコメントで急いで撮った写真を貼り付けて置きます。ヒラメの焼き物、烏賊の姿煮、最後の3人で食べたまぼう豆腐丼です。

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BUZIOSの海浜の漁船、観光船等が係留する桟橋の突端で太公望二人が釣りを楽しんでいました。近づいて声を掛けると機嫌良く応対して呉れました。一人はサンパウロに住んでいるが息子さんがBUZIOSに別荘を買ったので留守番役を兼ねてBUZIOSに住みつき毎日釣り三昧を楽しんでいるとのことでした。
何が連れたかとバケツの中をのぞいていたら飛び魚が釣れたとバケツの下の方から取り出して見せて呉れましたので写真で紹介して置きます。凄い羽根が広がって鳥のように飛ぶようですね。飛び魚を釣るのは飛んでいる時に釣るのかと聞いたらそれは無理だ海の中で餌を食べに来て呉れるから釣れるのだとの説明でした。朝の9時ごろから座っているとのことで5時間以上頑張っているようでした。羨ましい限りですが私は30分も持たないと思います。先ず餌の海老を針に付ける作業が苦手です。

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大阪の養護施設『めぐみ』でお世話になっている97歳の父を近くで見守って呉れている妹、多加代から下記近況と共に写真を送って呉れました。

今日父の所に行くと夏祭りの準備が完了して矢倉に提灯が中庭に立っました。本番は8/1です。その前に父を連れ出して写真を撮ったので送りますね。相変わらずですが元気ですので安心して下さいませね~

一階のホールには御神輿しが置いてありました。当日は職員と歩ける人が一緒に担ぐそうですよ。父は担ぐ事が出来無いので御神輿の前で写しました。

御神輿だけも写しました。当日の模様も写したく思ってますので、又送りますね。

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