私たちの50年!!

1962年5月11日サントス着のあるぜんちな丸第12次航で着伯。681名の同船者の移住先国への定着の過程を戦後移住の歴史の一部として残して置く事を目的とした私たちの40年!!と云うホームページを開設してい居りその関連BLOGとして位置付けている。

2016年01月

黄色いオオゴチョウ(大胡蝶)の種を採集できました。
 
昨夜のテンペスターデの被害をチェックして周る積りで朝からアトリエ和みにも立ち寄りましたが幸いこれと云った被害もなく雨漏れも起こしておらず水遣りも必要無いとの判断から少し遠回りの道をポルトアレグレで初めて見つけた黄色いオオゴチョウの花を見に行きました。まだ咲いている花、緑色の新しいサネと共に待望の黒く(こげ茶色)熟したサネがぶら下がって居り一つは既に口を開けて種が散乱しそうなものもありましたが、22個のサネを収穫、弾けると100個以上の種が採れそうです。
今日撮った写真を貼り付けて置きます。赤いオオゴチョウの種がもう少し採れそうなので集まった時点で風車小屋のイペーロッショ《多数》、イペ―アマレーロ四季咲きその3の種、世界3大花木の一つ火炎木(スパトデア)の種と5種類を前田さんの送ることにします。

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「ナガサキ誓いの火」終 名門剣道部の稽古を見学  サンパウロ新聞WEB版より

2016年1月28日
    
http://saopauloshimbun.com/wp-content/uploads/2016/01/160128-Ramos-Nagasaki-01.jpg <img width="700" height="450" src="http://saopauloshimbun.com/wp-content/uploads/2016/01/160128-Ramos-Nagasaki-01.jpg" class="attachment-post-thumbnail wp-post-image" alt="「ナガサキ誓いの火」終 名門剣道部の稽古を見学" /> 思いもよらぬテレビカメラを相手に剣道稽古
 翌日は午前10時から剣道の練習を見学に行く。会館敷地内にある剣道場には子ども8人、大人9人が集まっていた。ラーモスの剣道部は1971年に尾中弘孝氏が始め、多くの大会で数々の入賞を果たしている名門だ。娘でもある尾中美和さん(5段)は世界選手権で入賞を果たしている。現在はその美和さんが指導者となり、週に2回、剣道を教えている。美和さんは2005年に筑波大学に留学し、コーチトレーニングの修士課程を修めてきた。毎年ヨーロッパや中南米の剣士がラーモスへ習いに来たり、また、行ったりと尾中家では剣道を通じた国際交流も盛んだそうだ。

  実は井上祐見さんの息子さんである笠戸丸ともやす君も日本で3カ月前から剣道を始めたそうで、この日は日本から持参した道着を着て、練習に加えてもらうことになった。
 NHK長崎も取材に来ていて、ビデオカメラに面をかぶせて、その面を打たせて面沿いに剣士の表情を撮るというカメラワークをサンパウロのカメラマンが行った。これには日本から来ていたディレクターが「カメラが壊れないかなぁ」と心配顔。「大丈夫なんですか?」と声を掛けると、「ブラジルはテンポが速いですね」などと日本とのカットの撮り方の違いに言及した。確かにブラジルは新聞に載せる写真ですら思いもよらない角度から撮った写真が多い。日本の写真は正面からとりあえず、押さえておこうといった、可もなく不可もない写真が大体使われるが、ブラジルは下からのアングルや斜めからの写真など1枚の写真にも意図が現れる。日本の大手広告代理店に勤める人が言っていたが、テレビのコマーシャル(CM)も日本よりずっとブラジルの方が上手で、何度も世界CM大会で賞を取っているらしい。
 思いもよらないカメラを相手の練習も含め、美和さんの分かりやすくテンポのある指導の中、始めて間もないともやす君もすっかり打ち解け、皆が笑顔で爽やかな汗をかいていく。美和さんは「引き技は初めてだったのかな。あと2、3回一緒に出来たらもっと慣れるね。才能あるよ」と、ともやす君を褒め称えた。美和さんの兄の栄作さん(5段、37)や杉山竜夫さん(38、2世)も「運動した後は気持ちがいい」と共に練習に参加。最後にはNHKの依頼で本多文男氏が刀を使った居合を披露し、それらを収録。NHKの松田ディレクターは「移住地」というものに興味を持ったらしく、記者に「何か目玉のある面白い移住地というのはありませんか?」と聞いてきた。まず、ブラジルにこんなに移住地があるというのを知らなかったらしい。そんなに手軽に短期間に何かをコンパクトにはとても取材できないでしょう、と心の中で思いつつも、やはり、少しでも多くの人にブラジルや移民、移住地が知れ渡る一策になればと思い、無い知恵を一所懸命絞る。だが、やはりどこかで「お手軽さ」を追求する姿勢に違和感を覚える。今回録られた多くの画像がどのように編集され、番組になるのか、その視点が見えないと、やはり協力には二の足を踏んでしまう。個人的には松田ディレクターやサンパウロの現地スタッフはとても良い人たちだったのだが……。
 午後にはもう、夜のバスで帰らなければならない井上さんたちの送別会が始まった。同移住地の八角堂に有志が集まってくる。ここで中嶋年張代表が寄贈した今回の「ナガサキ誓いの火」の搬送に使われた温度差発電器の蓄電や発火方法が説明された。これから同地で火が灯され続けるには、現地の人たちが使えなければならない。中嶋代表から教わり、山本織絵さんがポルトガル語で説明した。
 さらに、この日も一人一品の美味しいお食事を持って来て下さる。山本和憲さんがリクエストして、小川満里子さんが皿うどんを作って来てくれた。この皿うどんは満里子さんが昔、どうしても皿うどんが恋しくて工夫して作った一品。マンジョッカ芋を大根のツマを切る道具で細く切り、それを揚げたものを麺にすることで長崎皿うどんの味に近づけたという。今は「齢を取ったのでマンジョッカはちょっと固いので、ジャガイモを使うのよ」と教えてくれた。
 さらに送別会では、昨晩の井上さんの歌のお礼にと本多文男さんが詩吟をプレゼント。「才能多き人の住む移住地だなぁ」とつくづく感心しながら、美味しい食事と歌に酔いしれる。楽しい時間はあっという間に過ぎ、気づくともう帰りの時間。小雨降る中、行きに連れて来てくれたスクールバスのミニバンが我々を迎えに来てくれた。
 中嶋代表、井上さん、ともやす君、山本和憲さん家族と共にバスに乗り込む。遠距離バス停留所に着くと、日本語教師短期ボランティアの岩永麻里さんも見送りの人と共にやってきた。同じバスでサンパウロへ行き、そのまま日本に帰国するという。たくさんの見送りの人とあちこちでハグ(抱擁)が交わされ、皆が大きく手を振る中、バスはゆっくりとサンパウロへ向けて発車した。(おわり、大久保純子記者)
2016年1月28日付

でっかい尻   井川 實


井川 實さんは、物書き志望でこれまでにいくつもの作品を書き残しておられますが、拓殖大学在学中にリオに研修に来て居られた時の実体験をそれは見事にショートショートに纏め上げられた作品がを最近【私たちの50年!!】メーリングリストを通じて送って呉れましたのでホームページにも残して置きたいとおもいます。井川さんは、直接のブラジル移住は、諸事情があり実現できませんでしたが海外に飛び出した拓殖大学の仲間達の集まり≪桂会≫の会長、事務局長として日本サイドで長年皆さんの面倒を見て来られました。最近は、ブラジル国花イペーの花を日本に咲かせたいと云う≪花咲爺の会≫会長に就任し日本各地、特に耐寒性の問題から育たないと云われて来た関東以北にも植樹しており2018年の日本移民110周年までに横浜の山下公園にもイペーを植えたいと努力しておられます。
写真は、でっかい尻のペレの後姿を探したのですが見つからずサントス時代の写真を使用しました。

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アメリカ便り「零戦、テキサスの空を飛ぶ」 富田さんからのお便りです。

和田さん&私たちの50年の皆さん、お元気ですか?さて、127日、旧日本海軍の零戦(零式艦上戦闘機)の復元機が海上自衛隊鹿屋基地でテスト飛行を行いました。零戦が日本の空を飛んだのは、70年ぶりでした。このニュースは大きく報じられたので、ご存知の方が多いと思います。ニュースに敏感に反応したのは、ご存知中国中央TVでした。「日本の軍国主義復活の野心を暴露した」と批判しました。
 では、真珠湾で零戦に散々な目に会った、アメリカは零戦をどう見ているのでしょうか。アメリカは35年前から、零戦の飛行デモと真珠湾攻撃・再現ショウを実演しているのです。
この件は、昨年11月にアメリカ便り「零戦、テキサスの空を飛ぶ」でリポートしましたが、ご覧にならなかった方々のために、便りのURLをお知らせします。「アメリカ人はなぜ真珠湾攻撃の再現ショウを行うのか?」 と言うちょっと良い話をぜひご覧になってください。http://blogs.yahoo.co.jp/stomita2000/26975009.html
 
Shinzo Tomita

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            零戦、テキサスの空を飛ぶ
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  先週の土曜、日曜日にサン・アントニオ郊外のランドルフ空軍基地で、基地一般公開と航空ショーが開催された。三年ぶりの開催だったので人気を呼び、我が家も息子と孫のKenzoと私の三人で航空ショーの見物に行ってきた。
 我々が基地周辺に着いたのは、12時ごろだったが、高速を降りてゲートに着くまでの3キロと基地内の2キロを通過するのに2時間近くかかる大渋滞だった。空軍は地上作戦が苦手なのだろう、などと勝手に想像したのだった。すると頭上に日の丸をつけた三機の戦闘機が飛んでいるではないか!旧式飛行機だったので、ひょっとしたら、零戦か?とあわててカメラを用意して、待ち構えた。渋滞で停車中だったのと、数回基地上空を旋回してくれたのが幸いして、かろうじて一機だけ撮影に成功した。


 広大なパーキングに駐車した後、大型バスで会場まで運ばれたが、入場無料のせいもあって、とにかく大変な人出だった。武器類、バックパック、カメラ・バッグ、クーラー・ボックス、自転車等は持ち込み禁止だったが、カメラと📱OKだった。会場には38種のビンテージものの軍用機が展示されていたので、零戦が見られると期待したが、なかった。

 
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 航空ショーの目玉は、空軍のサンダーバーズ(アクロバット飛行が名物)と陸軍の落下傘部隊・金の騎士部隊(GoldenKnights)だった。サンダーバーズのアクロバッド飛行は「取り」をつとめたので見ることが出来たが、なぜ零戦がテキサスの空を飛んでいるのか、という疑問が残った。
 大取りのサンダーバーズのショーですべてのプログラムが終わって帰途につくと、会場出口で航空ショーのパンフレットを配っていた。パーキングまでの送迎バスの中でプログラムを見ると、Tora,Tora,Toraと出ている。 トラ、トラ、トラは日本海軍の真珠湾攻撃の際、発信された電文で、「ワレ奇襲開始ニ成功セリ」を意味したことは有名である。が、これだけでは何のことか分からない。

 帰宅後、テキーラ・ドン・フリオをグイグイ飲みながら、インターネットで調べたところ、零戦に関する、想像もしなかった興味深い事実が判明したので、皆さんにもおすそ分けしたい。

                                     Tora, Tora, Tora
  航空ショーのプログラムにあった「Tora,Tora,Tora」はCAFCommemorative Air Force空軍記念会・本部と博物館、テキサス・ダラス市)という、NPOのパイロットたちによる零戦の飛行と真珠湾攻撃の再現ショーのことだった。即ち零戦A6M99式艦上爆撃機を飛ばすDemoと「真珠湾攻撃の再現」を行う、Showの二つの催物が行われたことが分かった。我々はショーを見ることは出来なかったが、渋滞の途中で「立ち上る真っ黒な煙が遠くに見えたこと」を思い出した。
  あの黒煙が被弾したと想定する米海軍艦船と海軍機からのものだったのだ。息子と私は米国空軍基地内でこんなことをする、アメリカ人の大らかさにいたく感心したのである。

 
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 CAF(空軍記念会)は1957年、ロイド・ノーレンと4人の友人たちが資金を出し合って1,500ドルでP-51ムスタングを購入したのがその始まりである。翌1958年、彼らは二機のグラマンF8Fベアキャッツを一機805ドルで購入している。60年代に入ると、第二次大戦時代の軍用機は、時代遅れとして解体、廃棄処分されていることに危機感を持った、CAFのメンバーは民間有志の協力を得て、軍用機の購入を加速化した。こうして2015年現在、CAFB29、カーチスP-40等を含む162機を所有、うち144機が実際に空を飛んでいる。

                    なぜ零戦がテキサスの空を飛んでいるのか?
 さて、「なぜ零戦がテキサスの空を飛んでいるのか?」という疑問である。調べた結果、以下のことが判明した。
テキサスの空を飛んでいた零戦闘機A6M99式艦爆は、1970年製作の日米合作映画「Tora,Tora,Tora」―山村聡、三橋達也主演―の撮影の際、製造されたレプリカだったことが判明した。これら6機は1972年に20世紀Fox社から、第二次大戦時代の軍用機の保存に努めているCAF(空軍記念会)に寄贈されたのである。

 すると、同年CAFTora,Tora,Toraのデモとショーを開始し、現在にいたる35年間、彼らはこのデモとショーを年間1216回のペースでアメリカ、カナダで開催している。多くの場合、Tora,Tora,Toraは米空軍のサンダーバーズと共演し、彼らを上回る人気を得ている。あれから約30年後の2000年、零戦はディズニー製作映画「パール・ハーバー」にも貸し出されている。

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                               (toratoratora.com/home.html)
 Tora, Tora, ToraDemoShowは、空軍記念会が第二次世界大戦への米国の参戦の端緒となった、日本海軍の真珠湾攻撃を再現するものであり、CAFは「Tora, Tora, Tora」を真珠湾攻撃の同意語として使っている。
  そしてCAF(空軍記念会)のTora(真珠湾攻撃)再現グループのスローガンは「我々が忘れないように- Lest We Forget-」であり、これは「リメンバー・パール・ハーバー」より穏やかな表現になっていることに私は注目した。Tora,Tora,Toraは他のCAFの空軍の歴史再現と同様に、ナショナリズムや戦争賛美を奨励する意図はない、と彼らは強調している。

 CAF(空軍記念会)は真珠湾攻撃再現(Tora)を担当する部門を「Toraグループ」と呼び、Tora,Tora,Toraの再現に使用する、61のロケット点火装置をセットするのは、25人編成の爆弾班である。なお、CAFが所有する、日本海軍機のレプリカは12機に増えている。
  そして、CAF(空軍記念会)はTora,Tora,Toraの飛行デモンストレーションやショーを企画する意図を次のように説明している。

「第二次大戦後に生まれた全世界の戦後派世代に、戦争の苦痛には敵味方の区別はないこと、敵味方双方で勇敢な兵士たちが戦死したことを理解させることにある。
そのために我々Toraグループは、日本の映画製作者や歴史家による、数多くのドキュメンタリー映画の製作に参加、協力して来た。Toraグループのパイロット、整備士、スタッフ一同は仕事上知り合った、尊敬すべき日本空軍のベテラン諸氏と仲間として認め合ったことを誇りに思っている」。
  このようなアメリカ人たちの献身、努力によって零戦や99式艦上爆撃機がテキサス、いやアメリカの空を飛んでいるのだ、日の丸を翼につけて。

 Toraパイロットが零戦、艦爆機を操縦して離陸するとき、Toraグループの整備士、地上スタッフたちは、かつて日本陸海軍が行っていたように、全員整列してパイロットたちを「日本式おじぎ」で見送るのである。もうそれが伝統になっているのだ。
  ちょっと良い話とお思いになりませんか、皆さん?

(終わり)

 (注)本稿はCommemorativeAir Force-Wikipedia,www.toratoratora.com
 を参考にしました。


「ナガサキ誓いの火」④ 自給自足のラーモス移住地  サンパウロ新聞WEB版より

2016年1月26日

http://saopauloshimbun.com/wp-content/uploads/2016/01/160123-Ramos-Nagasaki.jpg; 梨畑で織絵さんからパラベンスの歌を習う笠戸丸ともやす君(手前)
 
 五右衛門風呂に入った後、山本家の梨園と野菜畑を娘の織絵さんの案内で、笠戸丸ともやす君と共に見に行く。無農薬で育てられているキャベツやトマト、いちごなどハウスの中で生き生きと育っている。梨はまだ小さいが、収穫用に選ばれたものには袋が掛けられている。この梨畑で織絵さんがともやす君にブラジルの誕生日の歌「♪パラベンス」を猛特訓し始めた。さすがに7歳だけあって、覚えがいい。さらに歌手の井上祐見さんの息子さんだけあって、音感もいい。農園から戻ると、昼食の準備が整っていた。そこで急きょ「♪パラベンス」の歌が披露されることになる。なんと、この日は井上さんの誕生日だったのだ。記者は知らずにプレゼントを持って行かなかったことが悔やまれた。その分、ともやす君には負けてしまうが、心を込めて歌わせてもらった。奇遇にも織絵さんの誕生日はその翌々日。ようやく覚えたパラベンスを再度披露できるかと思いきや、山本家の慣習で誕生会は行われなかった。
 朝、昼と美味しい食事で腹を満たし、五右衛門風呂で身をみそいだ後は、やはり気になる平和資料館へ明日の準備が整っているかどうかを見に行く。同乗者が5人となるため、尾中会長夫人の可志子さんが車を届けに来てくれた。資料館に到着すると、案の定、準備はまだまだだ。日本から来た中嶋代表は一瞬、びっくりしたような表情を浮かべる。だが、ブラジルに慣れた記者には、このぐらいの遅れは気にならない。設置はされていないが、ガスもプレートも灯維持ケースも、物はあるので大丈夫だろうと心の内で高を括った。
 この日の夜は尾中会長宅で、中嶋代表と井上さん、ともやす君、モニュメント設計者でブルメナウ在住のジェアン夫妻、NHK長崎の松田大樹ディレクターと現地スタッフのヴァネッサさん、山本さんらと共に尾中会長の手打ちそばで舌鼓を打った。ジェアン夫人の中口千里さん(38、兵庫)は、ブラジルに来てまだ3カ月という日本人女性。住んでいるブルメナウには日本人も日本食も少ないようで、尾中家の会食が楽しかったようだ。ビールに梨のお酒、ビーニョ(ワイン)も出て来て、記者もすっかり楽しんでしまった。
 翌12日はいよいよ本番の分灯セレモニーだ。朝食後、山本和憲氏と織絵さんと3人で資料館へ見に行く。案の定、スタッフの市役員が誰も来ていない。昨日あった灯維持ケースの木製の土台もない。聞くと、直しがあったため持ち帰ったという。直し終わらないのか、いずれにせよ、市から派遣されるはずの設置スタッフが午前10時を過ぎても現れないのだ。山本さんやジェアンさんはさすがにイライラした面持ちである。夫人の千里さんが「ジェアンがナーバスになっている」と耳打ちしてくる。だが、記者がどうにかできるわけもなく、ただ見守るしかない。ジェアンさんがデザインした分灯台が設置されるべき場所を見に行く。資料館をそのまま通り過ぎて、わずか数メートル。舗装道路の終着地点に設置される予定だという。
 一つひとつ着実に作っているラーモスの人々の力に頭が下がる。同移住地の日本人家族数はわずか20家族、周辺で日本人会に入っている人を含めても40家族前後。人数で言えばわずか130~140人だという。その人数でさまざまな催しをし、維持をするのだから大変なことだろうと推察する。
 スタッフは来なくてもお腹は空く。山本さんは「お昼を食べに戻りましょう」と我々を促す。確かに6年前に小川和己さんのお宅でインタビューした時も、出てきたお茶菓子すべてが、満里子夫人の手作りであることに、美味しさもさることながら、驚いた。考えてみれば、サンパウロの都会ではないのだから、買いに行きたくても、食べに行きたくても、近くに店もレストランも無い。無ければ自分たちで作らなければならない。そんな移住地の原点をまた、改めて確認させられる。「あんぱんが食べたかったら、小豆から植えるのよ」との山本家での会話が頭をよぎった。
 山本さんは、ブルメナウから来ているジェアンさん夫妻にも声を掛ける。だが、設計者のジェアンさんは遅れを気にして、食事は喉を通らないようだ。仕方なく夫人の千里さんを誘い、我々だけで山本家へ昼食に戻った。急な人数増加にも慌てることなく、純子夫人は新鮮なサラダとエビフライを上手に分け、手作りの漬物、小川渡さん手製の梅干しなどでお腹を満たしてくれた。さらにジェアンさんにサンドイッチを作り、食事後、私たちは再び式典会場へと舞い戻った。(つづく、大久保純子記者)
2016年1月23日付

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