私たちの50年!!

1962年5月11日サントス着のあるぜんちな丸第12次航で着伯。681名の同船者の移住先国への定着の過程を戦後移住の歴史の一部として残して置く事を目的とした私たちの40年!!と云うホームページを開設してい居りその関連BLOGとして位置付けている。

2016年02月

おもやん事重安さんと川上先生、森本さんが無事ポルトアレグレに着きました。

ポルトアレグレ6時28分着のTAM便で到着との事でしたので6時前に家を出て夕刻のラッシュに巻き込まれもたもたしている内に飛行機が到着してしまい森本さんからもう着いたよ!との電話が入り慌てましたが何とか飛行場で会えました。ホテルにCHK IN後、直ぐ向かえの居酒屋檀上に繰り出しキリンビールを飲みながら色々な料理をたらふく食べて楽しいひと時を過ごしました。明日は、8時半ホテル出発でイボチ移住地のブドウ栽培の折田さん、花造りの伴さんの2家族を訪問する予定でしたが森本さんが野菜の苗を作っているとの事で大手野菜の苗造りをしている鈴木さんの所にも立ち寄るよていです。昼食を街道沿いで摂り夕刻早めにヴァカリアまで行く予定で恵子に頑張って貰うことになりそうです。
居酒屋檀上で摂ったおもやん一行の写真を貼り付けておきます。最初の1枚が一行の集合写真です。次が紀元2600年生まれの川上先生、おもやん、森本さんです。

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「キューバの旅」 勢古口さんのJ REPORTより(その4)

「チェ・ゲバラ」

第4日目、2月7日(日曜日)
最初に訪れたのは、17世紀18世紀に砂糖産業で栄えた「トリニダード」の郊外だ。盆地全体が昔は砂糖キビ畑だったそうだが、20世紀に入って「ビート」の生産が世界的に盛んになり、キューバの砂糖キビはその座を奪われたという。(写真36:ロス・インヘニオス渓谷)

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キューバの国の木は「バオバオ」の一種で「ダイオー椰子」だ。沢山生えていた。(写真37:ダイオー椰子)

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「マナス・イスナガ」という村に立ち寄る。ここは「イスナガ」という人が中心で造られた村で、イスナガ兄弟が美人の女性を巡り、兄は塔を、弟は井戸を掘り、どちらが高いか深いかを競ったという。結果兄の塔が45m、弟の井戸が43mで兄が女性を妻とした逸話があるらしい。(写真38:兄の塔)

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村には今も使用している「砂糖キビ絞り機」があり、奴隷や馬、牛の労力により絞っていたという。同じものは沖縄でも見た。(写真39:砂糖キビ搾り機のある小屋)

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村の人たちは観光客相手に手作りの品を売っていた。木彫りものや、綿布などだった。(写真40:木彫りのお土産品)

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それにしても貧しい農村だった。働く老人の姿が痛ましい。砂糖キビの皮を剥いていた。(写真41:老人)

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子供たちはどこでも一緒。集団で鶏を追いかけて石を投げていた。(写真42:子供たち)

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駅もあったから鉄道は通っているのだろう。(写真43:鉄道の駅)

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村人たちがトラックの荷台に乗って移動していた。(写真44:トラックに乗る村人)

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さて、いよいよ「チェ・ゲバラ」の霊廟に来た。「サンタクララ」という街で革命軍にとっては歴史的な街なのだ。(写真45:霊廟全体)

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ここで歴史的な戦いを行ったことを示す浮き出した絵があった。馬上はゲバラだ。(写真46:ゲバラの絵)

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ここで何が起きたか?1959年10月、革命軍はメキシコから船でキューバの南東部に上陸し、ハバナに向けて二つに分かれて西進していった。ゲバラ率いる400名の革命軍はキューバの南の海岸に沿って進み、やがて北進して、ここサンタクララに到達した。ここの中心部に「カピーロの丘」があり、政府軍4000人が立てこもっていた。更にハバナから増援軍400人が列車でやってきた。丘まで来た列車は結局そのままハバナに引き返すことになったという。なぜなのかは分からない。それを察知したゲバラ率いる革命軍は18名を先回りさせ、線路の犬釘を抜き、ブルドーザーで線路を持ちあげてしまった。そこへ列車がやってきて機関車が脱線転覆し、革命軍が火炎瓶を投げつけ攻撃したので、政府軍は壊滅した。その翌日アメリカの傀儡政権バティスタ大統領はベネゼイラに逃げ出し、連れて富裕層もフロリダ半島に逃げて行ったという。革命が成功した記念すべき場所なのだ。(写真47:列車転覆現場)

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「チェ・ゲバラ」とは何者なのか?元々はアルゼンチン人でブエノスアイレス大学の医学部卒業の医師である。それが革命思想に触れて、メキシコからキューバに上陸したのだった。「チェ」とは所謂愛称で「君」とか「同士」とかいう意味らしい。仲間内で使う言葉だという。ゲバラの銅像の後ろに彼のサインが観える。「CHE」と書かれている。本名「アルフォンソ・ゲバラ+母親の姓」(写真48:ゲバラ像とサイン)

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革命広場にあったゲバラの顔の下に書かれていた最後の手紙の末尾には「平和よ、永遠なれ」と記されていた。天候が回復したので霊廟の中に入れたが、写真撮影禁止だった。遺品と写真が沢山残されていたし、お墓もあった。黒人の警備員のおばちゃんにブローチを褒められた。本日の宿泊地「バルデロ」はキューバの北、大西洋に面した街でキューバ一の保養地だという。


80種5千本がお出迎え=3月、スザノ・ダリア祭り ニッケイ新聞WEB版より

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来場を呼びかける援協の坂和三郎副会長、中田和夫運営委員長、広報部の森本満理奈さん、上野ジョルジ評議員会副会長

 スザノ・イペランジアホーム(三島勝彦施設長)主催の『第22回ダリア祭り』が3月6、13日の午前10時から、同ホーム(Estrada Tani, 751, Vila Ipelandia)で行なわれる。入場料、駐車場ともに無料。両日午後4時まで。
 ブラジル唯一のダリア園ということもあり、数年前にテレビに取り上げられ、入場者数が増加。去年は合計1万2千人以上が訪れた。今年は80種、5000本のダリアがお目見えする。雨が多かったため発育も順調で、祭りの日に満開を迎える見込みだ。
 歌手のリカルド・ナカセさんや和太鼓、日本舞踊などのショーの他、名物焼きそば、焼き魚定食など日本食販売も行われる。
 地域の婦人部を中心として約230人のボランティアが協力。収益は同ホームの運営に役立てられる。普段は外部の人々と接触の少ないホームの入居者も、この祭りを楽しみにしているという。
 案内のため来社した皆さんは、「車椅子の人もダリアが楽しめるよう、通路をアスファルトで舗装しました。サンパウロ一おいしい焼きそばを食べて、ご家族で楽しい休日を!」と呼びかけた。
 両日午前9時に援協本部前(Rua Fagundes, 121, Liberdade)から送迎バスが出る。復路は午後4時に会場発、往復25レアル。予約は援協広報室(11・3274・6590)まで。

リオ五輪=地下鉄延伸工事に黄信号?=市長が「間に合わないかも」と弱気のメール ニッケイ新聞WEB版より

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エドゥアルド・パエス リオ市長(Paula Johas/Prefeitura do RJ)

リオ五輪=地下鉄延伸工事に黄信号?=市長が「間に合わないかも」と弱気のメール

 リオ・デ・ジャネイロ市長のエドゥアルド・パエス氏(PMDB・民主運動党)が19日、国際オリンピック委員会(IOC)に、地下鉄4号線の建設が8月のオリンピック開催時までに完了しない可能性があることを警告した。
 建設中の4号線は、同市南部、イパネマ地区のゼネラル・オゾーリオから、オリンピック公園が開設される同市西部バーラ・ダ・チジュッカ地区のジャルジン・オセアニコを結ぶものだ。
 同市長は19日にIOCに送ったメールに「地下鉄建設計画が危機に瀕していると何人かから聞いた」と記し、さらに、ラファエル・ピッシアーニ同市交通局長は間に合わなかった場合の代替案を持っているとも書いている。
 その代替案とは、BRTと呼ばれる高速バス路線を一時的に拡大する事だ。
 リオ州の財政は石油会社からのロイヤリティー徴収額が大幅に下がっていることなどで危機に瀕しており、州政府が担当する工事完工のための社会経済開発銀行(BNDES)からの追加財政融資が滞っている事を同市長は懸念している。
 地下鉄工事は7月までに完成させなければならないが、そのために必要な資金は13億レアルとされている。
 メールの中でパエス市長は、22日からリオに滞在する、IOC輸送交通部門チーフコンサルタント、フィリップ・ボビー氏との会談を希望していた。
 「我々は五輪開催に際して、あらゆる状況のための緊急時対応策を考えている。地下鉄工事の遅延対応策は1年前から検討済みで、我々はIOCに現状で取りうる策を説明するつもりだ。地下鉄工事は常に多くのリスクを伴うプロジェクトだ」とパエス市長は言った。
 市長はまた、「IOCはかなり前から、地下鉄工事が間に合わない場合の代替案の内容を知りたがっていた」とし、「フェルナンド・ペゾン州知事は工事完成に自信を持っているが、注意を払うに越した事はない」と語った。
 リオ州政府は、地下鉄工事はスケジュール通り進んでおり、7月までに引き渡せると述べた。リオ五輪組織委員会は、パエス市長の心配を知っていたが、工事期限は守られると見ている。4号線はリオ五輪輸送部門の生命線と考えられている。(20日付オ・グローボ紙より)

『日本文化』を読んで=サンパウロ 村崎道徳(ブラジル日本会議 顧問) ニッケイ新聞WEB版より

 私は戦後70年来、この本のように教育勅語を肯定して書き進めた本を見たことがない。人の生きるべき道。人類の規範を分かり易く、多くの人の体験と意見を織り混ぜた教育勅語の真髄を見事に表現した本だ。何回も読みかえした。

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本紙土曜日に掲載している『国際派日本人養成講座』を、日本語とポルトガル語の両語で出版(サンパウロ青年図書館とニッケイ新聞の共同出版)。
紙面には掲載されていない話も収録。
 
 そもそもこの本が外国のブラジルから出版された意義は誠に大きいと思う。何故なら、日本人は外圧に弱い。良いものは良いと外に向かって堂々胸を張って主張すべきだが、日本人は国旗、国歌をも否定しようとしている有様だ。
 戦後の日本人は、世界のどの宗教の経典にも勝るとも劣らない人間道徳の真髄を説く教育勅語を、何を間違えたか否定して次世代を担う子供らに教えず、現在に至っている。私は世紀の大失敗だと思う。
 一日も早く日本の子供らに教育勅語の真髄と意義を教え、本来の日本人の誉れを取り戻して欲しい。そして混迷する世界人類を導き救って頂きたい。それが日本民族に課せられた大きな使命だと思う。
 私の体験を書き添えます。私の父は、この本にあるカフェランジャの平野植民地より更に120キロ奥、ミランドポリス郡のブラ拓移住地に親族一党で土地を購入して入植した。しかし、やはり父母たちはマラリヤ(マレイタ)に犯され、バルダンという注射薬の多用で、母は私が17の年に亡くなった。
 物心が付いた7つから僅か10年の間の思い出を、鮮明に覚えている。教育勅語の一句一句を、丁寧に、また人の行うべき人間道徳の修身書の教えを諭してくれたこと。
 お蔭さまで新聞も読め、ニッケイ新聞(日本文化誌)の評価を皆様と共に出来ることを父母に深く感謝している。
 ニッケイ新聞の益々の発展を祈念致します。

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