私たちの50年!!

1962年5月11日サントス着のあるぜんちな丸第12次航で着伯。681名の同船者の移住先国への定着の過程を戦後移住の歴史の一部として残して置く事を目的とした私たちの40年!!と云うホームページを開設してい居りその関連BLOGとして位置付けている。

2016年03月

杉浦和子さんが仙台の洞林寺にお越しになりました。 吉田住職からのお便りです。

和田好司 様
  恵子 様
              仙台市 吉田俊英
 
 御無沙汰しております。楽しいニュージーランドの旅をお過ごしの事と
存じます。
 昨日、328日、杉浦和子様が仙台のお知合いの所に来られた帰りに洞林寺にお立ち寄りくださいました。私は用事があって出かけていて、母がお相手させていただいておりました。
 2月に私が和田さんに「さわやか商会でコーヒーを取り扱っておられます
か?」とお問合せさせていただいたことを気にかけて下さり、群馬県大泉町
のお店で数種類のコーヒーを購入し御持参下さいました。
 当寺の前住職の33回忌法要の引物(法要参列者への返礼品)として用意
する分はローランジャ市の仏心寺の関係者の方が地元の業者にコーヒーを
ご手配くださり、仏心寺住職が日本に郵送して下さり、ちょうど第一陣が
届いたところでした。
 和田さん御夫妻との御縁での初対面同士でしたが、宮城県の鉱山での杉浦
御夫妻の生活、ブラジルの鉱山での生活、杉浦様の長唄三味線の活動等、お話を聞かせていただきました。
 和田さん御夫妻が洞林寺にお越しいただいた際にも、洞林寺の位牌堂に有る「海外移住物故者諸精霊」の位牌にもお参りしていただきました。それから、仙台駅近くで夕食を御一緒し、仙台駅でお別れしました。

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≪今年の枝垂れ桜満開の寫眞を入手しました≫ 砂古さんからのお便りです。

皆さん、Sunagoです
今年の枝垂れ桜満開の寫眞を入手したので、お届けします。場所は府中の多磨霊園(京王線)に住む弟の家の近くの東郷寺です。検索すると東郷元帥の別荘跡に建てられたお寺とあります。
何年か前の訪日の折、幸運にもこの満開に遭遇し、目を瞠ったものです。
戦前・戦中・戦後の大半を九州の佐賀で過した僕にはこの優雅な枝ぶりが大変印象的でした。
その後の旅で、東尋坊・能登半島・金沢・高山を廻った鉄道沿線でも可成り見かけました。気候の違う九州辺りでは枝垂れは存在しないものでしようか?

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アメリカ便り「クロケット最後の住まい」   富田さんからのお便りです。

和田さん&私たちの50年の皆さん、桜を愛でる季節になりましたが、いかがお過ごしですか?さて、我々の親子旅第3日目は「クロケット最後の住まい」をレポートします。クロケット最後の住まいの写真は多分本邦初公開だと思います。ご用とお急ぎでないお方は、下記のブログでアメリカ便り「クロケット最後の住まい」をぜひご覧ください。


Shinzo Tomita

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アラモ・シティ(サン・アントニオ)からビッグ・アップル(ニューヨーク)4
            
              クロケット最後の住まい

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 3日目・1221日(月)天気:雨のち曇り 14/10
 ジャックソン・シティのホテル・フェアフィールド・マリオット106号室で目覚める。雨が降っていた。8時、一階でビュッフェの朝食。フルーツ、ヨーグルトとオートミールを食べる。9時、ホテルから37キロの地点にある、テネシー州・クロケット郡のアラモ・シティに向かう。高速412号線を30分走って、郷土の英雄・デイヴィッド・クロケット終焉の地・アラモの名を冠した、人口2.108人の市に着く。市役所は郡裁判所の建物内に入っている。トイレに入ると、たまたま隣の紳士が市長さんで、「東京から来た」と言ったところ、「遠いところから、よく来てくれた」と大変喜んでくれ、記念写真に応じてくれた。アラモ・シティを一歩外に出ると、冬にも関わらず青々とした田園地帯が広がっていた。

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 アラモ・シティから州際道路45Wを走ること30分、ラザフォード市(人口1,151人)内のアメリカにおける、クロケットの最後の住まいに向かった。すると、町の入り口付近に制限速度31の標識があった。何故30ではなく31㍄なのか、不思議也。

中学校校庭の端に移築されている、クロケット・キャビンとは、彼と彼の家族が182235年まで13年間暮らした住まいである。190年前とは言え、とても合衆国連邦議員の自宅とは思えない質素な家である。いかにも清貧に甘んじたクロケットらしい佇まいの住まいは、現在クロケット・キャビン博物館として一般に公開されている。

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  ところが、ドアに「急用で外出中。ご用のかたは電話してください」との張り紙があった。さっそく息子の剛が電話したところ、ただ一人の博物館係員は「体調が悪いので自宅で休んでいる」とのことだった。

そこで、小さな市庁舎を訪ねると、女性職員が二人と2メーターくらいの大男の赤毛の警官が一人いた。事情を話すと、「わざわざTokyoからいらしたのですから」と言って、すぐ代わりの職員を派遣する手配をしてくれたのは有難かった。待つこと15分、係がゴルフ・カートで到着した。

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 早速キャビンに入ると、一階には二部屋ある。手前の部屋は居間、兼寝室、兼書斎で、右壁の大きな暖炉前にソファ、事務机と椅子がある。左手にはキング・サイズのベッドがあった。ベッドの上には商品である、書物、Tシャツ、洗い熊の毛皮のクロケットの帽子等が並べてあった。正面の壁にはクロケットの狩りの獲物である、巨大な熊の毛皮が飾ってある。隣の部屋は左手に大きな流しがあり、正面にはかまどが二つあった。かまどの上にガラス窓がある。ここは日本で言うところの、ダイニング・キッチンで小さいテーブルに椅子が4脚あった。キッチンには当時の食器、道具類、クロケットのライフル銃、ピストル、その他用途不明のガラクタと何故か手錠が二組ガラスケースに収まって展示されていた。

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  外からは見えないが、この家には二階(屋根裏)がある。階段を上ると、部屋にベッドが三つと椅子二つと機織り機がある。クロケット夫妻がこの家に引越して来た1822年当時、彼らには6人の子供たちがいた。上の三人は亡くなった先妻ポリーとの子たちで151310才。後妻のエリザベスとの子は641才の3人で、合計男女3人ずつの計6人だった。階下の寝室にはクロケット夫妻と小さい二人の娘たちが寝たのだろう。とにかく、1822年当時、この小さい家に親子8人が住んでいたことになる。

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  博物館を開けてくれた、男性は隣接する中学校の用務員らしい人だったので、内部の説明は受けられなかった。しかし、やっと念願が叶ってクロケットの住まいを隅からすみまで見ることが出来たのは望外の幸せだった。
息子と私はクロケット関係の書籍と洗い熊の帽子、Tシャツ等を購入して、次の目的地、ナッシュビルに向かった。なお、我々の見学中、他の訪問者はなかった。

 ラザフォード近辺はなだらかな丘に畑が広がり、所々に林がり、道路沿いには湿地帯が見える。クロケットはこの湿地帯に、村人と共に長い丸太を縦に並べ、その上に板を敷いて木道を作った話を、ワシントンの同僚議員に語ったことがある。そのとき、クロケットはこの木道をRailroad(鉄道)と呼んだものだから、同僚たちは、クロケットは鉄道を作った、と大評判になったのである。ところが、クロケットたちはrailを棒とか横木の意味で使って、「木の道=Railroad」と称していたのだ。やがて、物知りの議員が鉄道はまだテネシーには届いていないぞ、と言ったものだから、クロケットの「はったり」がばれてしまったのである。

 ナッシュビルまでの3時間の道中、クロケット・キャビンで買った、郷土史家Ernest Thompson [The Fabulous David Crockett]を読んでみた。すると、興味深いエピソードが二つ見つかった。
1.1934年、ラザフォードの東方8㌔に住む農民がラザフォード銀行にやってきて、頭取のMr. Elrodに彼の隣人がデイビッド・クロケットの旧家を取り壊そうとしている。ぜひその旧家を銀行で買ってくれないか、と頼んだのである。すると、頭取は35ドルで旧家を購入し、家を解体してラザーフォードに持ち帰った。その後、不景気だったことや第二次世界大戦の勃発により、旧家の再建は延び延びになり、現在の場所に再建されたのは、1955年のことだった。
2. 1834年の下院選挙に落選してラザーフォードの自宅に戻ったクロケットが、テキサス出発前に書いたと言う文書が紹介されている。但し出典は明示されていない。
「私の政治生活は終わった。選挙は230票の差で敗北した。ジャクソン市のユニオン銀行の幹部(複数)によると、ミスター・ハンツマン陣営は選挙民を一票25ドルで買収した、と言う。これは実に良い金高で通常なら一票2ドルで買収できる」
と彼は書いているが、それは一般的な話で、貧乏だったクロケットに選挙民を買収する金はなかった。が、彼らにラム酒を振る舞った話はクロケットが好んで語ったので、いつしか伝説となった。

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  11時半にラザーフォードを出て、2時半過ぎにテネシー州都ナッシュヴィルに着く。 腹が減っては戦ができぬと、レストランを探したが、どこも3時には閉店してしまう。やっと、見つけた店は、415 Union St. にあった。住所が店名になっている[415 Union]はアメリカ料理の店だった。南部スタイルのポーク・チョップがおすすめだというので、食べてみた。「空腹は最高のソース」だから食べられたがひどいものだった。店を出るとき気付いたのは、レジの壁に「Japs降伏!」という1945816日付号外が張ってあったことだ。後で調べると、Union 415 は米国陸海軍のベテランが集う店だった。こういうアメリカ人たちもいるのだ、と認識を新たにしたのだった。

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  ナッシュヴィルの宿はダブル・ツリー・ホテルにとった。車を駐車場に入れ、プリンターズ通りの、バーボン・ストリート・ブルース&ブーギー・バーと言う、長い名前のミュージック・バーまで歩く。店に入ると、60代の味のある男性がエレキを弾きながら、チューバの伴奏でブルースを歌っていた。実に良い雰囲気のバーである。タンク・トップに黒の肩掛けを羽織った、バーテン兼ウエイトレスのすごい美女が踊るように注文を取り、飲み物を準備し、配っていた。アメリカ人はビールしか注文しないので、我々はカクテルを注文して彼らと差をつける。カクテルを飲みながら、本場もののブルースを堪能する。

 8時、近くのイタリアン・レストラン・Il Mulinoにて軽い夕食。クラン・チャウダーとラヴィオリを食べる。絶品。キアンティ赤のサンタ・クリスティーナも良かった。歩いてホテルに帰り、10時半就寝。明日はクロケット生誕地と子供時代を過ごした家を見る予定。
(この項終わり)




 ≪オキナさん≫ しゅくこさんからのお便りです。

前田さ~ん & 花咲爺様へ
                  しゅくこで~す
 
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写真は、昨年、前田さんからいただいたオキナ草です。
昨年の5/20に播いた種は冬の間、雪の下で耐寒しました。
今日庭仕事をしていたら蕾を発見。
ご覧ください。
 
ところでイペやオテモヤン(アテモア)もなんとか冬をすごせたようです。
そろそろ液体肥料をやってもいいでしょうか。
お暇なときにご教示いただけますか?
よろしくおねがいいたします
 
 ps みんなのジャカランダは5月くらいまで様子をみます。

四日目の午後は、プナカイキのDOLOMITE POINTのパンケイキの岩と岩窟を見て回りました。

昼食は、フィッシュ&チップスで済ませ近くのDOLOMITE POINTのパンケイキの岩群と水に抉られた岩窟を見て回りました。普通なら20分で見て回れる場所ですが小一時間掛けて景色を楽しみながら見て回りました。復活祭の日曜日で観光客で賑わい場所(スポット)によると待たないと前に出られないところもあり2歳にならないマルコ君迄岩登りを初め親の真似をしているのを見て笑ってしまいました。子供は環境に寄り育つのだと思いました。
世界遺産に申請すれば直ぐに認められるだけのものを持っているようですが、地元の人は関心がないようです。色々な岩場を見て来ましたが、これまで見た中では随一のもので忘れがたい景観でした。来てよかったと思いました。
写真を貼り付けて置きます。
最初の1枚は、昼食のフィシュ&チップスです。

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