私たちの50年!!

1962年5月11日サントス着のあるぜんちな丸第12次航で着伯。681名の同船者の移住先国への定着の過程を戦後移住の歴史の一部として残して置く事を目的とした私たちの40年!!と云うホームページを開設してい居りその関連BLOGとして位置付けている。

2017年01月

二宮尊徳翁とアマゾン開拓=報徳の森に生かされる=神奈川県在住 松田 パウロ=(上) ニッケイ新聞WEB版より

http://www.nikkeyshimbun.jp/wp-content/uploads/2017/01/0-Ninomiya-Sontoku-200x300.jpg
二宮尊徳画(1807―1862、By 岡本秋暉、報徳博物館蔵、Public domain or Public domain], via Wikimedia Commons)

緒言
 遠く古より、大河は文明の進化を誘うものであった。
 活火山と峻険な山岳を有す海洋国家・日本は、東洋思想の叡智を戴きつつも、天は志高き健全なる農民を育て、無限の可能性を与え続けている。
 成熟した高度情報化社会を迎えるにあたり、報徳という言葉は、すべての命の可能性と解釈し、森林農法と生態系産業の未来を考察する。

報徳思想の揺り籠
 霊峰富士の宝永大爆発(1707年)は、夥しい火砕砂が足柄地域を呑み込み、農林業を壊滅させ、酒匂川を原始河川に激変させてしまった。爾来100年以上も氾濫を繰り返すに至る。堤防決壊は、農村経済に壊滅的打撃を与えつつも、氾濫流域の拡大は魚族の爆発的増殖の好機でもある。
 富士山大噴火と酒匂川氾濫は、ミネラルの爆弾であり、恵みの増水でもある。その濁流に含まれる荒削りな養分は、直接に人間には吸収し難くとも、魚族、鳥類、植物の生命の循環を通して、有り余る富源に変化してゆく。
 コメ本位経済体制に生きた江戸時代の「農民」の生命力は、驚愕に値するが、激甚災害こそが強靭な体躯を創り、明晰な頭脳をも授けていたとも言えよう。
 泥中より湧きあがるドジョウやウナギ、山野の山菜などは少年期の期の金次郎先生の生長を、力強く支えたことであろう。
 そして白米の限定飢餓状況は、「農民」の食文化の強靭化を招いたとも言える。
 富士山と丹沢山系からもたらされる鉄、ケイ酸、カルシウム等は速やかに、着実に、稲、竹類植物、野菜、芋類に吸収され、風水害、病虫害にも負けない剛健な体質を授ける。土壌微生物の活性化も同時に進行する。
 植物の遷移はゆるやかなれど、山野に樹木が再生し、河川支流に清流が蘇り始める頃、自然薯と鮎に象徴される復興の天然林産物が、河川流域の村々に押し寄せる。
 氾濫を生き延びた農民は、優れた発酵保存食および健脳食を確立するに到る。

土間の台所

http://www.nikkeyshimbun.jp/wp-content/uploads/2017/01/IMG_2475-300x200.jpeg
報徳記念館にある二宮金次郎の生家は茅葺きの屋根(松田さん提供)

 金次郎先生の生家の台所の土間は、思索の実習室とも観察される。
 剛健なる体躯は、過酷な肉体労働の結果ではなく、自ら体を労わる智慧の賜物それは金次郎先生が料理上手であろうことの証明にもなる。
 農作業と土木工事に明け暮れる農村では、料理材料の調達、調理の段取りと、真剣勝負の連続となる。すぐれた父母の血を継いだ観察力と決断力は、台所で研ぎ澄まされて、実学の基本形成したと偲ばれる。
 フキ、ワラビ、タケノコなどの山野草は、「アク抜き」作業を必要とすることも、調理を通じて学習させられる。
万人に吸収できる理論を構築する実験実習と言えよう。
当時の農家は、漬物、味噌、醤油も自家製造し、発酵の現場に生活することは清潔、簡素を尊しとし、神棚と仏壇の存在感は極めて大きい。

救荒作物
 二宮金次郎は寺子屋に通わず、父からの教育を根幹とされた。それは当時の農村の荒廃ぶりを表すのかも知れない。大洪水を生き延びても、活動的な男児に水難はつきものである。治水事業は停滞し続け、上下水道の無い時代の衛生環境も劣悪を極め、小児とりわけ男児の死亡率は、非常に高いと想像される。
足柄地方の正月行事のどんど焼きのご神事は、地区の道祖神に無病息災を祈るものである。現世御利益に毒されず、往時の天候異変に翻弄される農民の切実な祈りの世界があったことを、焚き火の祭典は物語っている。
 盛夏、足柄の山野に蔓延るクズ 学名: Pueraria montana は、林業家の悩みの種になってしまったが、かつては有り難き救荒作物の雄、イノシシの突進力と繁殖力の栄養源である。
 米の凶作の時代の少年・二宮金次郎は、この種の救荒作物の恩恵に浴しながら根系の重要性、特に毛細根の働きを農民の存在と解釈していたと推測する。
 それは、農民を誇りとする揺るぎなき「破天荒力」の根源と言えよう。

無血開城の系譜
 土木重機が全く存在しない時代に、幕府直営の治水事業は延々と続く。
 指導者は財政破綻に怯え、民は無気力に陥るは当然のところ、その絶望と怠惰に打ち克てたのは、小田原城下に蓄積された古典書物の力に負うところ大。
 それは戦国の乱世にあって小田原城が無血開城し、城下が焦土となるのを回避した結果の書籍温存である。北条五代の遺徳は無傷で徳川政権に引き継がれ、志あれば農民の子供にまで、古典文献をあまねく行き渡らせる成熟社会を実現させていた。それは、民を護り、慈しむ日本の武人の真の姿である。
 幕末の動乱でも江戸城の無血開城が実現している。勝海舟と西郷隆盛の英断により、明治新政府は欧米列強からの分断統治を回避させている。
 幕臣・勝海舟の二宮尊徳翁を評する言葉に「大体あんな時勢には、あんな人物が沢山できるものだ」と江戸っ子のべらんめえ調で語られる事に批判もあるが文明の生態史観として知的に俯瞰されたと解釈したい。
 新政府の要人となる西郷隆盛も報徳思想を見事に吸収し、後進への遺訓として「租税を薄くして民を裕にするは、即ち国力を養成するなり。…」「会計出納は制度の由て立つ所ろ…」「敬天愛人」に結晶した薩摩の武人の報徳は、今なお色褪せることは無い。
 日本に残存する城廓の天守閣は、歴史的景観を踏まえつつ、都市緑化の最前線として、地域の空気と水質の指標として機能することが求められている。(つづく)

《ブラジル》元世界的大富豪、リオで逮捕=NY帰りのエイケ・バチスタ氏を連警が=〃配慮〃働きバングー行きに ニッケイ新聞WEB版より

http://www.nikkeyshimbun.jp/wp-content/uploads/2017/01/6c893ef18e21d2e18eefe15c2e98468f-300x200.jpg
連警の車で連行されるバチスタ氏(Tânia Rêgo/Agência Brasil)

 かつてブラジルを代表する大富豪として知られた企業家のエイケ・バチスタ氏が、30日午前9時54分、リオ市トム・ジョビン国際空港着の飛行機で帰国し、連邦警察官に逮捕されたと、30日付現地紙サイトが報じた。
 バチスタ氏には、2010年にセルジオ・カブラルリオ州知事(当時)に1650万ドル(5200万レアル相当)の贈賄を行った容疑や資金洗浄の容疑などがかけられている。
 同氏への逮捕状は26日に出されたが、同氏はその2日前にニューヨーク(NY)に向けて出発していた。
 弁護士は、NY行きは元々計画されていた出張だと説明したが、航空券は出発当日に購入され、ドイツ旅券で出国するなど、捜査内容が漏れていた可能性も指摘されている。この時点で同氏は逃亡と見なされ、国際刑事警察機構の国際指名手配リストに掲載された。
 29日午後9時50分頃(ブラジリア時間)、NYのJFK空港に1人で現れた同氏は、出国手続きを終え、搭乗エリアで搭乗を待つ間、報道陣に口を開いた。「ブラジル国民に言いたい事は? 未だ知られていない事実があるのか。それも暴露する気はあるか? 自分を無実だと信じているか?」など矢継ぎ早に問われた同氏は、「ブラジルに戻り、法的義務を果たそうとしているだけ。出頭しようとしている今、話すわけにはいかない」と語るに留めた。市民権を持っているドイツに逃亡する意志があったどうか問われた同氏は、「そのつもりはなかった」とした。
 リオのトム・ジョビン国際空港に到着後、連警によって逮捕された同氏は、法医学研究所で身体検査を受けた後、午前11時15分頃、リオ市北部のアリー・フランコ刑務所に送られた。
 同氏は大学を卒業していないため、カルカッタ作戦やエフィシエンシア作戦で逮捕された容疑者らと同じバングー刑務所第8棟には入れず、アリー・フランコ刑務所に送られた。
 弁護人のフェルナンド・マルチンス弁護士は、「バチスタ氏はまだついたばかり。今は刑務所内での身体的安全が保証されるために力を注いでいる。接見を待って、今後の弁護戦略を練る」と語った。
 だが、アリー・フランコ刑務所に着いてから約2時間後の午後1時半、エイケ氏は頭髪を剃られた状態で、同じリオ市北部のバングー刑務所に送られた。ただし、収監されるのは第9棟となる。
 リオ州当局は、バチスタ氏の身柄は、安全確保のため、特定の犯罪組織の囚人がいないバングー刑務所第9棟に移されたと発表した。

≪ガブリエルさんが金沢に到着≫ 金沢市の弥村さんからのお便りです。

サントスさん
和田さん
 
本日、午前9時51着の北陸新幹線で、ご推薦いただいたカトリック大学のガブリエル・モレイラさんが無事に金沢駅に到着しましたので、ご報告いたします。
 
ガブリエルさんは、まだ17歳(2月1日には18歳)ということで若いせいか、または到着したばかりということもあって緊張していることもあってか、少し控えめな印象はあるものの、素直で優しい性格の良い青年のように見えました。
 
金沢駅に到着した際の写真を参考まで添付しておきます。
 
2週間の研修期間中、様々なプログラムが用意されていますが、さしあたって2月1日には市長への表敬訪問が予定されていますので、本人も日本語で話す必要があるということで緊張しているようでしたが、ぜひ頑張って欲しいと思っています。彼にとって良い思い出になることはもちろんですが、今後も両市の交流に尽力してもらえるよう、精一杯、私もお世話をさせていただくつもりでいます。
 
簡単ですが、ご報告まで。
 
弥村

イメージ 1


≪バカボンド放浪記≫ 丸木さんの放浪記連載 その10

イメージ 1

37
マンパワーで紹介してくれた仕事は洗濯屋でのアイロンかけ。エクゼクテイブの仕事を探すと云って断ると、手当ては出さないと移民官に怒鳴れ「移民から成り立つカナダは、誰もが貧民から身を起すのだよ!」と諭された。
図書館でウオールストリートジャーナルの求人情報で、セントルイスのモーリンクロット・ケミカル・ワークスという名門製薬会社が日本に進出し、第一製薬との合弁企業の責任者募集に応募したら航空券を送ってきた。トロント空港で登乗手続をしたけどアメリカ入国拒否されて米加国境のウインザーまでしか飛べなかった。国境
に架かる橋を渡ろうとしたが渡れば刑務所行きと米国国境警備隊員に告げられ、カナダに引き返すしかなかった。
 
デトロイトの対岸のウインザーのYMCAに親切な日本女性が居て、農場の仕事を世話してくれた。ロナルド・フレンチ農場では豚の世話をさせられたが、重い袋が担げないので首になった。ニューヨークの松屋でも米俵を担げなかったことを思い出し、力仕事は無理とあきらめた。GM(ゼネラルモータース)の工員が自宅を下宿にしており、しばらくは移民局から貰う手当てでデトロイトのスカイスクレーパーやデトロイトリバーを行き来する貨物船を眺めながら暮らしていた。
 
春になりセントルイス行きの未使用航空券の残りでカナダ最大の都市モントリオールに行った。マンパワーではカナダの公用語であるフランス語を習う移民には25ドルの手当を出すとのことで、マクギル大学の傍に部屋を借り地下鉄アトワーテルでスク                            
ールバスに乗り通学した。リッツカールトン・ホテルに滞在中のアルバータ州政府の農務長官が、在日事務所長を募集しているので面接に来いと連絡があったが、学校を欠席すると部屋代が払えなくなるため断念せざるを得なかった。
 
郵便局の窓口で何語を話してるのかと言われるぐらいフランス語が上達せず、鼻をつまんで話したら、ようやくフランス語が通じたの                            
か切手が買えた。それでも、後年フランスに出張したり旅行で行った時には、以外にもフランス語で用を足すことが出来て助かった。

38
講師の女性教師は若い美人ぞろいで、大きなキッスマークの首筋を見せつけるような胸を大きく広げたドレスで教えていた。オーデイオ機器を使う講義は楽しかったが、サンドイッチに挟むハムの買えないワイは、バターも塗ってないパンを2枚だけの昼飯を手で隠しながら食べた。チリーからの難民やポルトガル移民なんかは、学校で禁止されてるビールを持ってきて午後の授業には赤い顔で受講していた。カナダの納税者が、この事実を知れば、難民手当の無駄費いと連邦議会で政府与党を追及するだろうが、税金も払えない身のワイは、唯々羨ましかっただけ。

小柄な日本人の妙子さんは、クラスの人気者でドイツ語を話すイラン人のアリが運転する高級乗用車トリーノで通っていて、どこまで出来てたかは知らんけど夫婦気取り。レスビアンとゆう彼女、夜はヌードダンサーをしており、近くの目抜き通りのデラックス・アパートにドイツ女性のブラウンさんと部屋をシェアーしていた。アリはリッツカールトンでウエイターをしており、二人ともかなりのチップを稼いでいたが、さすがに眠いのか教室では舟を漕いでいた。
 
大平首相が外相時代に秘書をしていたと云う小山さんは、卓球選手で休み時間を利用しての卓球の試合では、そのシュマッシュの強さに誰も太刀打ちできなかったが、レバノン人のヤクーが一度勝った。小山さんによれば、彼の体臭に耐え切れず気分が悪くなって敗れたとか。ヤクーはトリニダードトバゴから来た黒人女性で美人のレジーナと肩を抱き合って意気揚々と出て行った。小山さんの自宅を一度訪ねた。ご主人の洋一郎氏は建築家と云っておられた。                           
 
モントリオールでも就職の見込みは立たず、カナダの首都オタワに移動し都心のホリデーインでアシスタント・スチュワードになった。厨房を取り仕切るチーフ・スチュワードのビンス・ジョドワンは名門ホテル・シャトーロリエールのチーフを長年勤めスカウトされたばかり。
 
39
都心から少し外れたハイウエイ近くにあるタクシー運転手の家で、階段の踊り場に仮設された部屋が朝食付き15ドルで安かったが、                           
3食勤務先で食べるので10ドルにしてくれた。年頃の娘さんも居る陽気で親切なイタリア系のデノフレオ一家には下宿人が6人居た。
夏のオタワは気候がいいので半時間の距離を歩いて通勤した。首都だけに政府機関ばかりの街で、国防省付近に制服の軍人が目についた。
 
ワイの仕事は、コックさん達が直ぐ調理にかかれるように、調理用具や設備の準備とメンテナンスで、巨大な器械を使ってやる皿洗いは流れ作業だが、鍋の洗い場がすぐ汚れるので、それが溜まらないように段取り良くやらせる必要があるのだが、一緒に働く仲間はカナダに来たばかりの移民が多く、ワイも含めて、まともな英語や公用語のフランス語を話せないので、意思の疎通に手間取った。

しかも、この種の労働者は怠け者が多く、今まで誰がやっても続いた者は居なかったと聞かされたワイは尊敬するアドミラル・山本五十六の手法「やってみて、やらせてみせて、誉めてやらねば人は動かぬ」を試みた。シェフ(コック長)のムッシュー・マレーが驚いたのはワイが洗い場の上に登り磨き上げた各種の鍋類をジャスト・イン・タイムで調理人の目の前に届ける陣容を、初日から成功させたワイの手腕。だらだら怠けていた移民のぐうたらが、見違える様に元気に能率よく働き出した。
 
2人のスー・シェフ(コック長補佐)のミシェールとエリオットからワイのことを伝え聞いたインキーパー(総支配人)のニック・トンプソンウッドとアシスタント・インキーパー(支配人)のシュワルツと経理コントローラーのチャールトンが、ワイを最上階のラロンド(回転レストラン)に呼んで、マネジメント・プログラムに加入要請された。そのプログラムは見込みのある人材をホテルの各部所に配置し経験させ将来の幹部を養成する制度のことだ。幹部候補に指名され、ボーナスを貰ったのでクレジットカードを取得し、FTD(電報花屋)の最低料金8ドルで花をブラジルで待つリーナに配達したら、なんと55本の赤いバラが届いたそうで、百万本のバラを貰った気分になり嬉しかったとのこと。

40
その頃の為替レートでは、カナダドルはアメリカドルより高く、ブラジルの貨幣価値が益々低下していたのだった。                            
 

一方、仕事のほうでは先ず最初にフード&ベバレッジ部門のプロデュース在庫管理をやらされた。野菜果物食肉等の食品の入荷必要額算出は、学生アルバイトの経験が役立った。次にルームサービス部門に回されたが、ヘッドウエイターのギリシャ人の横柄な態度に腹が立ち辞めてもたった。ホテル業界のマネジメントなんかはワイの目的の邪魔になるだけで、カナダに進出したシカゴのテルコ(テクニカル・エクィップメント・リーシング・コーポレーション)に応募し採用となったのでマーケテイング・アナリストとして3年ぶりで背広を着るホワイトカラー生活に戻った。                                                                                                               

 
汽車に乗りオタワの厚生省をはじめ、ニューブランズイック、ノバスコシア、ケベック、オンタリオ、マニトバに出張し、各州の州庁衛生部を訪問し市場性分析したが、ウイニペグでは猛吹雪に見舞われ凍死しそうになった。オタワでは電話帳の魅惑的な広告に電話しフレンチカナディアンのエスコート娘をパークレーン・ホテルに呼び、見事な肢体の学生アルバイトとメイク・ラブを楽しんだ。
 
医療電子機器と検査分析機器専門のリース事業は医療公営制の各州規制で認可されておらず、ごまかすより手がないことがわかり、会社がカナダから撤退する前に退職しモントリオールに引越し、妙子さんの居たアパートを訪ねたが帰国された後だったので、その部屋に入居した。ペントハウスの室内プールからは全市内が見渡され快適な失業生活を満喫した。東芝を辞め日本を去って以来、ワイは転職のたびに、なんともいえない開放感に浸れ、自由の身の有り難さが身にしみる様になっていた。セクシーなフレンチカナディアンと付き合ったモントリオールでは、体臭が強くてかなわんかったけど濃厚なフランス系女性の楽しい愛情表現を満喫堪能した。
 
その後しばらくして、ニューヨークタイムスの求人欄に応募し面接のためニューヨークに行った。当時の入国禁止期間の3年は既に経過していたので空港に着いた時は、さすがに感無量だった。

≪日本に向いた有望事業≫ 山下さんの面白い提言が届きました。

イメージ 1

 
例によって、うがった愚見で恐縮だが・・・
 
原子炉事業で東芝が苦戦しているが、廃炉事業は、日本に向いた有望事業と思う。
 
ロボット・カメラによる、福島2号機、原子炉格納容器内部調査が始まった。がんばれ東芝! 事故後の当時のカメラは、放射線が邪魔して、画像がよく見えなかったが、今は、はっきりと見えて、30日に、燃料デブリらしき、黒い塊をとらえたとのことだ。http://photo.tepco.co.jp/date/2017/201701-j/170130-01j.htmlまた東電は、福島4号機燃料棒1533本を、70回くらいに小分けして。2年がかりで無事故で運び出した。
 
まず、廃炉作業は、カイゼンの意識を持つ、日本の技術者が理想的だ。事故を、穴を掘って、埋めて隠す国には、安心してまかせられないからだ。
 
福島第一廃炉に、20兆円もの経費がかかると、問題視されているが、突発的自然災害損失や補償は、国や責任企業が負担するべきで、切り離して考える。
 
純粋な廃炉費用を20兆円としても、これに、未来の技術開発費、例えば30兆円を加算して、社会貢献ファンドか、株式のような証券にして、廃炉事業を、未来の必要産業として、世界中に売り出せば。50兆円規模の事業になる。
 
廃炉技術、新原発技術、ロボット技術、放射線対策技術、放射線対策医療などが確実に進む、これは、将来、万が一、核戦争が起きた時にも役にたつし、すでに世界に、500基も稼働している原発、建設中も含めれば、600基のお客が存在する大事業になる。
これらは、遅かれ早かれ事故も起こすし、最終的には、誰かに廃炉作業を、依頼せねばならなくなる。
その時日本は、アジア地区の、緊急時の救世主としての出番になる。
 
名称が「排炉処理」では、若くて優秀な科学者が集まらないから、「Hi炉新技術開発機構」とかで、知恵者を募集すればよい。
 
原発ゼロ? 50機も稼動させてから、原発セロという人は、極めて無責任と思う。極論すれば、原発は確かに危険であるが“放射線”の問題さえ解決すれば、大きな湯沸かしタービンに、すぎなのではないか。
 
工学部の学生さん。理論的にリスクが許容内で、事故処理や、廃炉手順も始めから配慮した、日本設計の、安全な原発の、基本設計図と、安全運行システム案をつくりなされ。船舶用を含めて、日本発安全原発が、世界をかけめぐる。小型にして、事故時には、大型ヘリで、運べる型なども、考えられるのでは。
 
原発設置場所については、安全距離を設定する、そもそも、原発や軍の空港のような危険な場所から、5キロや10キロの近くに、民間人の住宅があるのがおかしい。立地決定のとき、一番近い住宅との、最低距離を義務づけるべきだ。
 
初めから、その圏内を、居住禁止にできる立地条件で、その広大な空間を、原発特区として、汚染水や汚染土壌の仮置き場、処理場、耐放射線実験農場、大学企業の関連研究室、などに使用可能である。空地は、太陽光発電、風力発電など補助発電に使う。放射線があっても発電するし、もともと発電所だ。
 
福島汚染地区も、汚染水タンクの屋根、汚染物資置き場など、空地は、すべてで太陽光発電をしてはどうか。なお汚染水を、こんなに多くの、貯蔵タンクを設置して、今、大ツナミがきたら危険。日本の総力で、画期的な、水と放射線の分離技術を擁立するべきでは。世界中の、優れた科学者や、企業に競り合わせれば、6基あれば、6手法の、放射能分離の実証が可能ではないか。
 
使用済み核燃料の最終保管場は、世界中で、みつからないことも問題とされるが、とりあえずは、この特区内の仮置き場で、水中に入れておく。
地球上の使用済み核燃料を、太陽に戻す百年計画の可能性はないだろうか。
1)無人島を世界共同の使用済み燃料仮置き場にする。
2)ナノ・カーボン・ケーブル宇宙エレベーターで、成層圏までひっぱり上げて、そこを第二仮置き場にする。
3)太陽行、宇宙列車で太陽の引力圏へ送り込む。 すべては母のもとへ
 
安らぎの大地はマグマの上の乾いた皮の部分で、磁界の外は太陽からの強烈な放射線、太陽フレヤーが収まると、星のバーストの銀河宇宙線が降り注ぐこと、原発反対論議者はこの事実を知っているかナァ~

↑このページのトップヘ