私たちの50年!!

1962年5月11日サントス着のあるぜんちな丸第12次航で着伯。681名の同船者の移住先国への定着の過程を戦後移住の歴史の一部として残して置く事を目的とした私たちの40年!!と云うホームページを開設してい居りその関連BLOGとして位置付けている。

2017年02月

JICA日系社会ボランティア山根孝仁、西堀恵子さん南伯訪問5 イボチ移住地花卉栽培伴さんの手作り日本庭園訪問。

イボチの日本人移住地は、家長を失った未亡人が10名以上おられ皆さんでゲートボールを楽しんでおられるようですが、農業を生業としておられる家族は、少なくなっておりぶどう栽培、野菜(苗育成)、花弁等の農家が主で移住地開設50年の歴史が感じられる。往時は、ドゴール大統領がこよなく愛したと云われるぶどうの巨峰をフランスに輸出、サンパウロにも大量の食卓ぶどうをトラックで運ぶ組合があり、現在は、組合も解散、その事務所を改造して日本語学校にしており、移住地内にあった小学校が移民資料館になっている。
折角なのでどこか農家を見せてやりたいとの思いで花卉栽培の伴さんの花園と伴さんが手作りで作ったご自慢の日本庭園の見学を飛び入りで実施した。出かける寸前の伴さんを捕まえ事前連絡もせず飛び込みでの訪問を詫び事情を話して花園と日本庭園を見せて頂いた。倉庫では、明日の出荷準備でカスミソウ、トルコ桔梗等の花束が沢山あった。
池を掘ったら出て来たと云う大きな岩をあしらった小さな滝のある日本庭園には錦鯉が沢山泳いでおり餌をばらまくと水面に上がって来ていました。
帰りには女性群は、大きな束のトルコ桔梗を頂き男性の私と山根君は、大きな莢豆の束を頂きました。また新生姜が出来ているとの事で袋に一杯、奥様が出て来られて恵子は茗荷を貰っていました。昨年も丁度今頃、トロントの斉藤さんと訪問させて貰ったことを思い出し、莢豆の時期を思い出し来年も押し掛けようと思っています。関係写真を貼り付けて置きます。

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移民110周年に向け発進!=皇室ご訪問に高まる期待=(8)=勝ち負け抗争で揺れたマリリア  ニッケイ新聞WEB版より


 マリリア市内中心から車でおよそ15分。ひっそりとした佇まいの自転車店内に日高徳一さん(90、宮崎県)はいた。狭い店内に入ると、「よく来てくれました」としっかり手を握り、朗らかな表情で迎えてくれた。
 勝ち負け抗争に翻弄され、脇山甚作陸軍退役大佐事件に実行者として加わり、12年間刑務所で服役したという元強硬派の最後の生き残りだ。
 終戦直後、聖州を中心に血みどろの抗争を繰り広げた日系社会。特に、マリリア周辺では激しい衝突があった。
 「なぜ、勝ち負け抗争が起きたのか」と率直に聞いてみると、しばらく考えたのち、「国の中心に天皇陛下がおられるなかで起こった事件だった」と静かに語り始めた。
 終戦後、「誰も負けるとは思っていなかった。口には出さずとも戦勝を信じていた」と往時を語る。情報が錯綜し、偽情報文書を売る詐欺師さえ現れるなかでも、その思いが揺らぐことはなかった。
 だが2カ月後、敗戦を伝える外務省からの詔勅が届いた。日系社会の指導的立場にあった7人により伝達書に署名され、配布されたのだ。
 「まさにこれがやぶ蛇だった。日本の戦勝を信じる人々の気持ちを逆撫でする結果になった」と言葉を詰まらせる。
 そこから不穏な雰囲気が強まり、警察官が日章旗で汚れた靴を拭いたとされるツッパン事件が起き、さらに皇室に関する不敬な話を噂として流す行為までが起きてしまい、情報が錯綜するなかで「負け組の仕業」として伝えられたという。
 「皇室の尊厳が冒涜され、じっとしてはおられなかった。帝国陸軍大佐でありながら、敗戦を認め混乱させた責任をとってもらう必要がある」。そして、当時20歳だった日高さんは決起に加わることを決心した。
 だが「脇山大佐の態度は実に立派だった。人を危めるのは、どんな理由があってもあってはならない」。事件後、日高さんは自首。12年間、監獄島アンシェッタや各地の刑務所を転々とし、模範生として過ごした。
 奇しくも出所したのは、三笠宮同妃両殿下が御来伯した58年だった。(つづく、大澤航平記者)

JICA日系研修OB・OG訪問 サンパウロ新聞WEB版より

2017年2月27日
吉沢隆ジュリオさん

新時代の料理人 日本の食文化を広報する吉沢さん

寿司カウンター

 今回のJICA日系研修OB・OG訪問は業種別としては初登場の「和食」ビジネス振興研修、若き経営者そして料理人の日系3世吉沢隆ジュリオさん(29歳)が経営するサンパウロ州ブランガ・パウリスタ市の日本レストラン「隆」を訪問した。
 吉沢さんが福岡県北九州市の北九州国際技術協力協会が受入先となり、2016年11月5日からの1カ月間に行った研修ではレストラン経営におけるマーケティングや配膳等の講座、寿司等日本食の外食現場は元より、蕎麦打ちやたこ焼作り、料理を支える味噌・醤油・麹といった食材・調味料の生産工場までを見学する徹底ぶりだった。
 研修以前にブラジルでの日本食レストラン経営について、吉沢さんが問題視したのは政治経済の不安定さと食材となる魚介類の高価格化から来るコスト面の問題、そして日本食ブームこそ結構だが、地方市のブラガンサ・パウリスタでさえも13店に増えた競合店との競争だった。

糀工場訪問

 ブラガンサ・パウリスタ市でブラジル人に対する日本食文化を最初に広めたのはロジジオ(食べ放題)やポールキロ(量り売り)といった大衆食堂でレストラン隆の売れ筋メニューも手巻寿司とやきそばであるが、日本研修を終えた吉沢さんがさらなる顧客開拓として初めたのが「寿司のもうひとつの食べ方」。ブラジル人にしてみれば寿司ネタはほぼ鮪にサーモンだけだが、実は数十種類の寿司ネタが存在することを知ってもらい、もっと美味しく調理された日本料理があることを伝えて行きたいとしている。
 サンパウロ市の高級寿司店では結構見慣れた風景だが、その日に仕入れた最良のネタだけを注文する「お好み寿司」や寿司職人への「おまかせ」で楽しむのが寿司本来の食べ方だが、どっこいレストラン隆でも富裕層の常連達が吉沢さんの握る寿司を目当てに日々来店している。

醤油工場訪問

 そしてカンピーナス・カトリック大学経済学部卒の吉沢さんが新時代の顧客営業として実行したのがWhatsApp(対話アプリ)を利用して寿司常連客約30人のスマートホーンにその日仕入れた寿司ネタをいち早く情報提供する試みだった。
 最上客の非日系ブラジル人の地元企業経営者にいたっては来店するといつも眼で合図、日本酒を飲みながら「おまかせ」を待っているとか。
 勘違いなきために説明しておくが、サンパウロ市高級店のように1人あたりの客単価が500レアルという事はなく125レアル程度でしっかり寿司を堪能してもらっているらしい。

食材の徹定利用と細工

そば打ち実習

 さらに日本で学んだことは食材の徹底利用と細工、他のレストランにはない新しい材料を使った料理の開拓やコストを下げるために無駄なく食材を利用する術を学んだ。 ブラジルの寿司現場では魚のかなりの部分が寿司ネタとして利用されずに廃棄されたり、安い魚種が利用されていなかったりしている。
 例えばヒラメの縁側といった部分がブラジルでは捨てられていたり、鰺や鰯といった光物が寿司ネタになることがまだ少ないのが現実、日本から帰って寿司ネタのひとつとして始めたのが鰺のタタキ寿司、そして通常の寿司に海苔、香味野菜、鰹節等で細工をほどこして顧客から好評を得ている。 さて、29歳で店主という吉沢さん、その人となりとこれまでの経緯を紹介したい。
 父ネルソン(62歳)母アリセまちこ(58歳)の長男としてサンパウロ市で生まれた吉沢さん、父方祖父が北海道、母方祖父は鹿児島県からの移住者。
 3歳で両親と共にブラガンサ・パウリスタに転居、家業はポテトチップス工場だった。
 ブラジルの教育課程に通学する傍らブラガンサ日本語学校に5歳から10歳まで、日本食のプロになる準備としてさらに18歳から21歳の間にも日本語を学んだ。

たこ焼き実習

 子供の頃から料理が好きだった吉沢さんが日本食の現場に入ったのは13歳、中学校に通いながら先に営業していた日本レストランにアルバイトとして入店。
 5年間の就業を経て18歳でテーブル7つの小さなレストランを父母との3人で開店。
 その間、大学にも通う忙しい日々を送ったが開店2年目で店の経営も軌道に乗り、現在は夜間のみの営業で80人を収容できる店舗に拡大、従業員も13人に増えた。
 2006年には両親が経営していたポテトチップス工場を閉鎖して家族3人がレストラン業に専念、2005年当時には3店だったブラガンサ・パウリスタの日本食レストランは先の通り13店と競争も激化してきた。地方ということもあってか、時々日本食の食べ方を知らないブラジル人のお客もやってくるが、そんな時は食べ方をやさしく教えるように努めている。
 まだ結婚はしないの?という記者の無神経な問いに「実は近々、非日系ブラジル人の彼女と結婚式を挙げます」と嬉しい言葉が返ってきた。 
 記者が今回、取材の前後で大きく認識を改めたのはレベルの高い日本食を提供できる料理人は今やサンパウロ市の日本食レストランに限らないということで日本の旅番組ではないが地方に名店あり!と評判になる日も近いだろう。
2017年2月24日付

JICA日系社会ボランティア山根孝仁、西堀恵子さん南伯訪問4 小林奈央さんからのお便りです。

和田好司様
 
こんばんは。
小林奈央です。予定通りサンパウロに着きました。空港ではお見送りまでしていただき、ありがとうございました。
 
この度は大変お世話になりました。イボチに住んでいながら、まだまだ知らないことも多かったので、今回は大変勉強になりました。
また滋賀県についても知ることができ、姉妹都市計画を是非とも成功させたいという気持ちが大きくなりました。
 
ポルトアレグレ観光も行ったことがないところも多かったのでとても楽しかったです。
 
この3日間、好司さん、恵子さんには大変お世話になり、本当にありがとうございました。
 
私のイボチでのボランティア活動も残り4ヶ月ですので、イボチにいる間に山根くん、西堀さんと協力し、少しでも計画が前進するように頑張りたいと思います。
 
ありがとうございました。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
 
JICA日系社会青年ボランティア
イボチ日本語学校
小林奈央=

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JICA日系社会ボランティア山根孝仁、西堀恵子さん南伯訪問3 イボチ市長と移民資料館へ

イボチ市役所での会合の後、是非メモリアル博物館を見て欲しいとの事で市役所の車で先導して呉れてイボチ移住地内にあった小学校の校舎を使って作ったイボチ市の観光スポットにもなっている日本移民資料館を訪問させて頂きました。4年間市の行政から離れている内に移民資料館は、色々補修する箇所が出てきており予算を取って改修するとの事でご自分で色々CHKしておられました。
我々が着くとイボチ移住地の重鎮の鈴木さんがイボチ市会議長をしておられる息子さんから市長に誘われたが別件があり挨拶に行けないので親父さん代わりに行って置いて欲しいとの依頼を受けたとの事で来ておられました。
日本移民資料館には、滋賀県から寄贈された展示物が多く陳列されており入り口近くの信楽焼の大きな狸が目を引きます。滋賀県伝統工芸品として愛荘町の伝統工芸品びん細工手まりも大きなのが飾られており山根さん、西堀さんを喜ばせました。その内、愛荘町のびん細工手まりを市長室にも飾る日が来れば嬉しいと記念に西堀さんより貰った小さなびん細工手マリを大事そうにしていました。
写真を貼り付けて置きます。資料館には、いつも行っており写真を撮っているので手抜きをして殆ど写真を撮っていませんでした。御免なさい。

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