私たちの50年!!

1962年5月11日サントス着のあるぜんちな丸第12次航で着伯。681名の同船者の移住先国への定着の過程を戦後移住の歴史の一部として残して置く事を目的とした私たちの40年!!と云うホームページを開設してい居りその関連BLOGとして位置付けている。

2017年04月

《ブラジル》県連故郷巡り=「承前啓後」=ポルト・ヴェーリョとパウマス(11)「日本人死ね! 国に帰れ」ニッケイ新聞WEB版より

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聖州リメイラから始まり、アクレ州リオ・ブランコまでつながるBR364号(By Gaban, via Wikimedia Commons)

 田辺さんが、光日本語教室を始めたきっかけは、パラナやサンパウロから来た若い日系人が、子供に日本語を教えたいと言い出し、「お前は一世だから日本語教えてくれ」と頼んできたことだ。
 「ボクは6歳で日本から来て、一生懸命に働いてきた。日本でもブラジルでもまともに学校にいっていない。だから日本語を教えるのはムリだ、と最初は断った。でも父兄から『日本語話せるのはアンタだけ。うちの子が日本語話せるように、会話でいいから教えてくれ』と頼み込まれた。『じゃあ、一緒に勉強をするという感じにしよう。5人以上生徒を集めたら教える』と条件を付けたら、父兄が生徒を10人も連れてきたので、しぶしぶ始めた」と笑う。
 最初は自宅の応接間から。無料で教え、狭くなって専用の教室に移った。生徒たちが自主的に電気代などの経費ていどの授業料を集めるようになった。「いざ始めて、子供から『センセイ』と言われると、ちゃんとしなくちゃ、となる。フォノマギ書店から日本語教材を取り寄せて、自分で勉強しながら教え始めた」。
 JICAから青年ボランティアの日本語教師を送ってくれるようになり、3代目の中山美早紀さんが任期を終えて帰国したのち、再び戻ってきて、田辺さんの光日本語教室を続けてくれている。田辺さんが大腸ガンの治療を始めるなどの事情をあったためだ。
 文協の方にも日本語教室ができ、こちらの生徒は140人にもなった。漫画アニメ人気とともにブラジル人の生徒が増えている。
 田辺さんはいう。「僕が日本語を教える本当の目的は、親日ブラジル人を育てることなんだ。僕らがここに入植したのは終戦間もない頃で、住民には『日本人は敵性国民』という意識が根強く残っていて、僕らはよくイジメられた。子供の頃、友達になろうと近づくと『日本人なんか死ね! 自分の国に帰れ』って言われてね。酷かったんだよ、あの頃。だから、二度とそんな風にならないように、親日ブラジル人を養成しているんだ」。聞くだけで、胸がいたくなるような実話だ。
    ◎
 故郷巡り一行は3月18日(土)の午後4時、田辺さんも発起人だったロンドニア日伯文化協会の会館を訪れた。
 会館といっても事務所棟と、調理施設の横に屋根だけのイベント会場という質素な場所だ。そこに、非日系人の若者や家族連れが150人以上も詰めかけていた。きけば「日本祭り」の真っ最中だった。演者側も見る側も7割が非日系だ。
 日系人同士の親睦を深めると同時に、「親日ブラジル人を養成する」ための団体だとしみじみ感じ入った。(つづく、深沢正雪記者)

アメリカ便り「Mexicoよいとこ、一度は…」  富田さんからのお便りです。

日本訪問中の和田さん&W50年の皆さん、お元気ですか?さて、今週のアメリカ便りは、Mexicoよいとこ、一度は…」をお届けします。私の第二の故郷・Mexicoの思い出(156人の女店員さんに囲まれた話等)をつづりました。ご用とお急ぎでないお方は、下記のブログをお訪ねのうえ、アメリカ便り「Mexicoよいとこ、一度は…」をご笑覧いただければ幸いです。  http://blogs.yahoo.co.jp/stomita2000/27843212.html
 
富田眞三  Shinzo Tomita

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                           Mexicoよいとこ、一度は…

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いつも硬いテーマばかりの「アメリカ便り」なので、今回は趣を変えて雑談をしたい。現在は慢性的渋滞で治安が悪く、物騒になってしまった、メキシコ・シティーだが、かつては空気の澄んだ「森の都」と言われた良き時代もあった。私が柄にもなくメキシコ国立自治大学に留学した、1960年代初頭、海抜2300メーターの高地にあるメキシコ・シティーは、故郷の東京より遥かに豊かで輝いて見えた。

 さて、メキシコで大学に通っていたころ、街一番の「リベルプール」というデパートに行ったときの話である。女店員さんに「あなたはどこのお国の方?」と訊かれたので、「ハポンーJaponですよ」と返答したところ、彼女は突如大声で、「みんな、ちょっとこっちへ来て!」と大声で怒鳴ったのである。何事かと驚いていると、156人の女店員たちが集まってきた。実は彼女たちはそれまで「日本人を見たことはなかった」のである。動物園のサルのようにジロジロ見つめられたのは、気分の良いものではなかった。「黄色くないじゃない」とか、「それほど醜くないわね」とか勝手なことを言われたことを覚えている。

 

 当時、イベロ・アメリカーナ大学に上智大の学生たちが数人、語学留学に来ていた。ギターを弾いてメキシコの歌を歌う彼らは人気者で、週末には必ずメキシコ人家庭の夕食に招かれて、日墨親善に努めていた。よく美人のセニョリータにもてた話を聞かされたものだった。

ところで、メキシコ・シティーの留学仲間から、二人の大学教授が出たことは、落ちこぼれの私も「良い仲間を持っていた」と言う、自慢話になるのである。

 
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写真:(www.reflejo.mx.com

 60年代のメヒコ(メキシコではMexicoをこう発音する)は対ドルの為替相場が12.50ペソと安定しており、対円では1ペソ=30円となり、昭和45年に渡墨後初の訪日をした際、日本円は非常に割安に感じられた。お陰で買い物資金に乏しかった我々も成金気分に浸れたのだった。

そして政治的にも当時のメヒコは安定しており、隣国の合衆国とも友好関係にあった。当時のアメリカは「哀れなメヒコよ、あまりにも神さまから遠く、あまりにもアメリカに近い」とかつてのメヒコの独裁者:ポルフィリオ・ディアス(18761911年大統領として君臨)が嘆いたような存在ではなかった。

 一方、メヒコはフランコ将軍の独裁政治が続く旧宗主国だった、スペインとは国交断絶していた。また世界第二のカトリック信徒を有するメヒコは、バチカン市国とも国交がなかった。

メヒコは1910年のメキシコ革命以降、PRI(革命立憲党)による左翼革命政権が続いていた。彼らは祖国からスペインとカトリック教会の影響を排除することを革命の一大目標としていた。従って、PRI党員は全員カトリック教を棄教して、フリーメーソンに入会している。

 

 当時束の間ではあったが、豊かだったメヒコには、日本では見たこともなかった、アメリカ製の高級車が見受けられた。以下は大統領公邸警備の白バイ隊員だった、隣人の話である。

ある日猛スピードで走る赤いスポーツカーを停車させた隣人が、窓を叩いて免許証の提示を求めると、窓の上部から10ドル紙幣が差し出された。思わず紙幣を手にとって、ドライバーの顔を見ると、何とそれは大統領のロペス・マテオスだった。同氏はニコッと笑ってウインクすると、立ち去って行った。当時も今もメヒコでは、こんなとき、「袖の下」が通用するのである。隣人はさすがに「これはまずい」と後悔したが、その後何の咎めもなかった、という。

このロペス・マテオス大統領は私がメヒコに着いた当時の大統領で、名大統領と評価が高かった彼でさえ、警官に「袖の下」を握らせたのだ。袖の下をスペイン語では「mordida」即ち直訳すると「噛まれた跡」で、わいろを意味し、もはやこれはメキシコ文化と言われている。いや、ラテンアメリカ全般に通用する文化と言って良いだろう。とにかく私も交通巡査に対しては「この文化の恩恵」に与っていたので、あまり批判は出来ない。

 

 今になって思い起こすと、ゴルフを始めたことで私に大きなチャンスがもたらされた。メキシコ渡航から7年後、独立を果たした私に少し時間的、経済的余裕が出来た。先ず考えたのは、当時メキシコでも流行り初めていたゴルフだった。メキシコでゴルフをプレイするには、ゴルフ・クラブに入会するしか道はなかった。そして入会するなら会社に近い、カントリー・クラブと決めていた。しかし1902年創立のメキシコシティ・カントリークラブはメキシコ随一の名門クラブだったので、私ごとき外国生まれが易々と入会できるクラブではなかった。

 
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だが以前から鼻つまみ者だった乱暴者のドイツ系のメンバーが、あるメンバーに大けがをさせる不祥事を起こしたため、クラブは彼を追放処分にすることを決めたのである。そしてたまたま、当時入会申請していたのは私だけだったので、ドイツ人を追い出したい一心のクラブ幹部は、面接試験や信用調査まで免除して、私を入会させてくれた、のだった。

入会後、3か月間もプロのレッスンを受けさせられた後、初めて独りでコースに出た日にプレイしたのが、スペイン人グループの諸君だった。お陰で私は貴重なアミーゴスに出会えたのだった。

 この時期、私の事業も順調に発展し、業界で知られる存在になっていたことと、カントリー・クラブ加入が相乗効果を生み出し、付合いの範囲が大きく広がって来た。

 
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カントリー・クラブでスペイン人のアミーゴスが出来たことで、私は普通のメキシコ人の知らない世界を垣間見ることができた。例えばゴルフ友達のスペイン領事のフアン・ガンダリアスは男爵である。「男爵」の仕事って何をするのだ、と訊いたところ、「村長だな」という答えが返ってきた。先ず、四男坊の彼が男爵を継いだのは、兄貴たちが「退屈な村長職」を嫌ったため、一番出来の悪い(本人曰く)フアンにお鉢が回ってきた、という訳だ。スペイン北部のバスク地方のガンダリアス村は人口3500人の農村であり、村民の大多数は男爵家の小作人である。選挙に出て村長にもなったこともある、当時42歳のフアンは文字通り独身貴族で我が世の春を謳歌していた。

 日本食が大好きな独身のプレイボーイのフアンをわが家の夕食に招くと、一輪の赤いばら

を手に訪ねてきた。こういうことに女性は弱いから、わが家でフアンはいつも大歓迎されていた。

 

 カントリーのスペイン人グループにメキシコ・シティー商業会議所の会頭がいた。任期満了になった、フェルナンド会頭の跡を継いだのもカントリーのメンバーのナッチョだった。彼の息子と私の息子は偶然、小中高の同級生で、ナッチョとは長い付き合いがあった。そんな縁もあって、新会長のナッチョから商業会議所の理事になってくれ、と勧誘されたのである。
当時も今も会議所の理事はスペイン系ばかりで、日本人は日系二世のホルヘ関口と私だけだった。

 
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写真:(www.mexicoresorts.com

 さて、「Mexicoよいとこ、一度はおいで」だが、メキシコ・シティー等の大都市の治安ははっきり言って良くない。しかし、北米、欧州の観光客、避寒客が大量に押しかける場所がある。メヒコのビーチである。特にカリブ海に面し、北半球の冬でも泳げる、7色の海を持つカンクン(Cancun)が素晴らしい。

 カンクンを初めとするメキシコのビーチ地帯の治安は、1960年代の古き良き時代のメヒコ並みにすこぶる良いのが、大きな取柄といえる。いわゆる「エントツ無き産業」とメキシコ人がいう観光は今でも健在である。

カンクン国際空港の発着便数、乗降客数は人口1500万のMexico City空港(国際、国内線が同居)に次いで2位だが、世界中からの直行便がある国際線に限ると、断然1位になる。それほどカンクンは欧米人に愛されているのだ。

冬場、ハリウッドの女優たちは水着の上に毛皮のオーバーを羽織ってカンクンに降り立つ、と言う伝説があるくらいである。

どうです、あなたも今年の冬はメキシカン・カリブで泳いでみませんか?近くにはマヤ文化の「世界遺産」がありますよ。七色の海を眺めながら、テキーラやマルガリータを飲むのは最高ですぜ。
Mexicoよいとこ、一度はおいで」。(終わり)

新連載 桜井悌司さんの『ブラジルを理解するために』(その1)

連載エッセイ1
ブラジルを理解するのは何故難しいのか?-距離感と面積
 
執筆者:桜井悌司(日本ブラジル中央協会常務理事)
 
ブラジルやブラジル人を理解するのは容易なことではない。ブラジルは大国である。人口は2億人で世界第5位、面積も同じく世界5位である。一人あたりのGDPは12,000ドルに満たずまだまだであるが、国単位では世界で堂々第7位の経済大国でもある。さらにブラジルは、世界一の日本人移住者受入国であり、150万人の日系人が住んでいる。日本にも19万人にも及ぶ出稼ぎの人々がいる。これだけの条件がそろっていれば、ブラジルの知名度、理解度がもっと上がってもしかるべきだと考えるが現実にはそうなっていない。何故なのであろうか?様々な理由が考えられよう。誰もが考えるのは、日本と地理的に大きく離れているからという理由である。日本と同様ブラジル政府が自国の広報に力を入れないという理由もあろう。ブラジルは、多人種・多民族によって成り立っているので、ほぼ単一民族の日本人にとって理解が難しいということも考えられる。またブラジルの既成のイメージが強すぎて、その先に進まない。所謂コーヒー、サッカー、カーニバルの域からなかなか抜け出せないのである。私のサンパウロ駐在時代に、この既成のイメージといかに戦ったかについては、次回以降に紹介したい。
ブラジルは実際に見ないとわからない国とよく言われる。私もその通りだと思っている。私は距離感と面積についていつも考えている。2年以上駐在した国は、スペイン、イタリア、メキシコ、チリの5か国であるが、距離感と面積について体験したことを紹介したい。私の独断と偏見に基づくものである。日本で「遠い」という感覚を持つのは、30キロから50キロだと思う。例えば、東京から横浜に行くとなるとやや遠いという感覚を持つ。これが、スペインやイタリアだと50キロから100キロ、チリやメキシコとなると、100キロから300キロ、これがブラジルとなると、500キロから1,000キロだと「遠い」という感じであろう。
駐在中の大きなビジネス案件の一つは、エタノールの対日輸出であった。ご承知の通り、ブラジルのエタノールの生産性は世界一である。車もほぼフレックスカ―で、ガソリンとエタノールの両方が自由自在の配合で使用できる。エタノールは環境に優しい燃料なので、日本でもガソリンの中に一部混入するという計画があり、日本から多数のミッションが訪伯した。その都度、UNICAと呼ばれるサンパウロ州のサトウキビ・エタノールの生産団体を訪れ、カルヴァーリョ総裁に何度も面談した。総裁とは、ジェトロが招待したこともあり、親しくさせていただいたが、彼は、私に「どうして日本から沢山の異なるミッションがやって来て、同じことを質問するのか」と尋ねたものであった。日本の関心事は、ブラジル側が、日本に対しエタノールを安定的に供給してくれるかという点に尽きた。ブラジル側から言うと、「注文もしないのに質問ばかりする」と思ったに違いない。彼は、「もし注文してくれれば、何とでもできる。ブラジルには、まだ耕地面積が多く残っており、何の心配もいらない」と言う。確かに米国や中国には耕地面積は残っていないが、ブラジルにはまだ20数パーセント以上も残っているのである。私もブラジル側の言うことを半信半疑であったが、一度はサトウキビ畑を見るべきと考え、サンパウロ州ヒベロン・プレット市に出かけた。驚いたことに、車で1時間くらい走ってもまだ道路の両側には、延々とサトウキビ畑が続くのである。ブラジルは見ないとわからないということを本当に実感した瞬間だった。ミッションのメンバーには、サンパウロ市ばかりではなく、サンパウロ州やパラナ州等の産地を見るべきだと思ったものであった。
話は変わるが、ブラジリアに行かれた方も多数おられると思う。1956年にクビチェック大統領により建設が開始され、60年に遷都したものだが、ブラジルのほぼ中心にある。ベネズエラ、コロンビア、ペルーなど国境の接するブラジルの州には、ブラジリアを経由して出かけることになるが、都市によっては、サンパウロから7時間もかかるところもある。私も当初、ブラジリア遷都の重要性を十分に理解していなかったが、ブラジリアを経由して多くの州に出張している内に、何故クビチェック大統領が何もなかったブラジリアに遷都したのかが明確に理解できるようになった。距離を克服しようとするブラジル人の執念がわかるようになったのである。
狭い日本に住んでいると広大な面積を持つ国の人々の発想を理解することは至難の業である。一般的には、大国の民は小国の民より大きな発想ができるものと思われる。日本人がブラジルのような圀や国民に対処するには、現地に足を運び、距離感をつかむことが必要である。
2015年9月上旬
 
 
写真 セラードの大豆畑
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写真 サトウキビ畑とエタノール工場
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≪イペーサミットのお礼とお詫び≫ 井川会長からのお便りです。

前田さん
      井川です
 無事霧島へご帰着になるころかと存じます。
遠路大泉町までご足労いただき、明快・有益な講演をお聴かせくださり、有難うございました。
 
 貴重なDVD20部拝受しました。前田さんが身をもって経験され、また研究された貴重なデータ満載のDVDは、今後新しくイペー栽培を始める人々のため、大いに役立ってくれると思います。また、私もこれからいつも身近に置いて、参考にしながらイペーと付き合いたいと思います。
 
 前田さんのカラオケソングを楽しみにしていましたが、そんな時間もなく、またそんな雰囲気でもなく、残念でした。またいつかゴキゲンで一杯飲む日がくることを期待しています。
 
 北千住ではご迷惑をおかけしました。ごめんなさい! では、お元気で・・。
霧島高原トレーニングをお続けください。       感謝!!

下記写真は、イペーサミット開催時に私が撮らせて頂いた前田さんの写真です。

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≪イペーサミットのお礼とお詫び≫ 井川会長からのお便りです。

有隅先生
       井川です
 はるばる大泉までお越しいただき、すばらしい講義をお聴かせくださり、まことに有難うございました。
北半球でイペーを育て開花させることがいかに困難なことであるか、よく理解できました。しかし、その困難を克服して見事なイペーを開花させることは決して不可能ではなく、真摯な努力を続ければ、目的を果たすことができると確信できました。
 
 今後先生が言われたことを大切にして、「だめでもくじけない」真剣な協力者を探して、その人々と協力して、各地へ慎重にイペーを移植して、「より強くて美しいイペー」を発見し、また育てたいと思います。
 何卒、今後ともよろしくご指導・ご助言をいただけますよう、お願い申し上げます。
 
 なお、北千住で特急に乗る際、私の早とちりのため、到着時間を遅らせてしまいましたこと、心よりお詫び申し上げます。
 無事鹿児島へご帰着されますよう、またますますお元気でお過ごしになるようお祈り申し上げます。          感謝!!

下記写真は、イペーサミット開催時に私が撮らせて頂いた有隅先生の写真です。

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