私たちの50年!!

1962年5月11日サントス着のあるぜんちな丸第12次航で着伯。681名の同船者の移住先国への定着の過程を戦後移住の歴史の一部として残して置く事を目的とした私たちの40年!!と云うホームページを開設してい居りその関連BLOGとして位置付けている。

2017年06月

Urashimaメモ「秩父、長瀞、寄居への小さな旅」 富田さんからのお便りです。

和田さん&W50年の皆さん、暑くなりましたが、お元気ですか?今週はUrashimaメモ「秩父、長瀞、寄居への小さな旅」をお届けします。「長瀞ラインくだりで水しぶきを浴びた小さな旅は「よい匂いのする一夜」でもありました。ご用とお急ぎでないお方は、下記のブログをお訪ねのうえ、「よい匂い」を筆者と分かち合って下されば幸いです。


富田眞三  Shinzo Tomita

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      秩父、長瀞、寄居への小さな旅

                       京亭の鮎づくしを堪能


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秩父、長瀞、寄居への小さな旅の宿は、3ヶ月前から予約する必要があった、寄居町の旅館・京亭だった。四部屋の小旅館だからでもあるが、京亭は大の食通だった池波正太郎の「よい匂いのする一夜」に国中の名旅館、名ホテルと肩を並べて紹介されている、「知る人ぞ知る名旅館」だからでもある。
 だが、大学時代の仲間である佐藤喬君の姉上の女医・中村蘭子先生が寄居町で60年も医院を経営されていた関係で、鮎解禁二日目に、我々早大海外移住研OB10人組は、旅館を借り切ることが出来たのである。

寄居に行って分かったのだが、老いてなお美しい「蘭子先生」は人口34,000の寄居町で知らない人はいないほど、「町民に慕われる名医」なのである。

 
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6月初頭、学生時代の仲間たちと秩父、長瀞、寄居へ「小さな旅」をして来た。

自宅のある府中から秩父駅までの乗車時間はわずか1時間36分だったが、京王、南武、青梅、八高、西武池袋、秩父鉄道の6社線を乗り継ぐ旅だったから、ある意味「大旅行」でもあった。乗り換え時間を勘定にいれると、2時間26分もかかった。しかも青梅、八高、西武池袋線は単線の上、ドアの開閉が「手動扱い」になっているのが珍しく、いかにも「遠くへ来たな」と言う気分に浸れるおまけまで付いた。なお、秩父鉄道以外の線はすべて「PASMO」が使えた。

 秩父駅前で9人の仲間たちと落合い、駅中レストランで名物だという「麦とろめし」とそばを食べた。絶品だったのは、酒の肴に注文した、鶏皮のから揚げ。初めて食べたが、実に美味かった。

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 食後、駅近くにある、創建2100年の秩父神社に参詣する。この神社は家康が寄進した、左甚五郎作と伝えられる「三猿」の長押彫刻があることで知られている。ところが、秩父の三猿は日光東照宮の「見ざる、聞かざる、言わざる」に対して逆説をとり「良く見、良く聞いて、良く話そう」と教える絵馬であり、「お元気三猿」と通称されている。言い伝えによると、家康はこの矛盾する二つの教えを巧みに使い分けた、という。いかにも家康らしいエピソードではある。

 ところで神社の由緒書きによると、秩父神社の祭神・秩父大神は、かつて武蔵国の神社総社であった、府中の大國魂神社に「四之宮」として祀られている。なるほど、55日の大國魂神社の例大祭である「暗闇まつり」の主役級である、八基のお御輿のうちの一つ「四之宮」は、秩父神社ゆかりの神輿だったのだ。かくして府中育ちの筆者にとって、秩父はにわかに身近な存在になったのだった。

 
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続く旅程は長瀞ラインくだりだった。秩父から長瀞駅まで秩父鉄道で移動。金曜日だったが外国人を含む観光客が多かった。駅からバスで荒川上流へ移動後、20人乗りのはしけで1時間急流を下る。両岸の巨石、奇岩の景色を水しぶきを浴びつつ楽しむ。この後、また秩父鉄道に乗って、今夜の宿となる、「沈流荘・京亭」のある人口34,000の埼玉県寄居町に到着した。

「埼玉県の北西部にある寄居町は、秩父市の北東に位置している。

奥秩父の山脈(やまなみ)を水源とする荒川が、秩父市の長瀞をながれてきて、その川幅が大きくひろがるあたりに寄居町はある」。と池波正太郎は「よい匂いのする一夜」で簡潔に寄居を説明している。

 
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寄居町の荒川河畔から鉢形城跡を正面から見渡す絶好の位置に亰亭はあった。荒川の川幅が大きく広がる、ということはここから関東平野に入ったことを示している。そして川向こうはもう群馬県になり、少し北には真田藩の沼田城、その先には名胡桃城があったのだ。

 
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入口に京亭の看板がある宿に着くと、玄関に「佐々紅華」の表札がかかっていた。我々は普段着の中年の女性の出迎えを受けた。品のよいご婦人だったので、「女将の佐々ゆき江さんですか?」と訊くと、「そうです。お待ちしていました」と、にこやかに笑みを返してくれた。ちいさな宿なので、格式ばらないところが新鮮でよかった。

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佐々京華の姪御さんが、紅華の養女となって、宿を引き継いだことは「よい匂いのする一夜」で学習済みだったのである。それが女将のゆき江さんなのである。

ところで……。

「月はおぼろに東山、霞む夜ごとの篝火に、

夢もいざよう紅ざくら。

忍ぶ思いを振袖に、

祇園恋しや、だらりの帯よ」。

  これは昭和初期に藤本二三吉が歌って大ヒットした、ご存じ「祇園小唄」である。この名曲を作曲した、佐々紅華が奥さんの生れ故郷であった、寄居をいたく気に入って建てた終の棲家が、「旅館京亭」になったのである。もともと旅館にするために建てたものではないので、4部屋しかない。だが、紅華の好み通り造園した庭園は、釣り人の見える、眼下の荒川と川向こうの断崖上の森が借景となり、うっとりするような眺めを作っている。

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 一行は檜の香りが漂う風呂で汗を流した後、浴衣に着替えて見晴らしの良い二階の12人が座る椅子席のダイニング・ルームに陣取った。そして、ハウスワインならぬハウス清酒・「鮎の宿・京亭」で乾杯。

いよいよ待ちかねた、鮎うるか、鮎煮浸しで始まる、鮎づくしを堪能したのである。下記に献立を載せておこう。

お献立

先 付   鮎うるか、 鮎煮浸し

前 菜   新水雲、黒ばい貝、合鴨ロース、蚕豆(そらまめ)、鮎骨煎餅

強 肴   鮎一夜干し、昆布旨煮

お造り   鮎刺身、妻一色

冷し煮物  玉子豆腐

       海老、順采、姫おくら、マイクロトマト、美味出汁

焼き物   天然鮎塩焼き、はじかみ、蓼酢

中 皿   白身魚すり身石焼

揚げ物   稚鮎天婦羅、川海老、蓼景

御 飯   鮎飯、なめこ椀、香の物

フルーツ  季節の果物

 緑字が鮎料理である。

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 圧巻だったのが、鮎飯である。池波正太郎は、「よい匂いのする一夜」で京亭の鮎飯をこう書いている。

「最後に、鮎飯が出た。これは、ちかごろ、めずらしい。昔は、玉川の岸辺の料亭でよく食べたものだが、、私にとって、戦後はじめての鮎飯だった。

鮎を、まるごと、味をつけた飯の上へのせて蒸らし、食べるときは魚肉をほぐし、飯とまぜ合わせて食べる。

 鮎の芳香が飯に移って、実に旨い」。

 夕食の後、一階のサロンに移って、各人思い思いの「酒」のグラスを手に、深夜まで学生時代の思い出話にふけったのである。何しろ、他の宿泊客はいないので、気兼ねなしにくつろげる宿なのだ。

翌朝5時、京亭の離れで目覚める。全員、白河夜船だったので、そうっと起きてひと風呂浴び、散歩に出た。河岸の段丘上の道路を歩くこと10分、川に降りる道があった。木々の間を3040mts.下って河原に着く。そこから大きい石がごろごろして歩き難い河原を100mts.歩いて川のほとりまで行ってみる。水は綺麗に澄んでいた。なるほど、鮎が生育する川だけのことはある。

 
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 7時、宿に帰ると、半分は散歩に出ていた。8時、全員集合して定番の旅館朝食ではない、心のこもった朝食をいただく。即ち、湯豆腐、とろろ汁、あじの干物とご飯とみそ汁だった。食後、荒川にかかる正喜橋(145.9mts)を渡って、川向うの鉢形城跡を見学に行った。

鉢形城は前方を荒川に、後方を深沢川に挟まれた断崖上に築かれていた。15世紀ごろ、この地は交通の要衝に当たり、上州や信州を望む戦略的に重要な地点だった。1476年、この地に本格的に築城した武将は、関東管領であった山内・上杉氏の家臣長尾景春だった。その後小田原の本家・北条氏康の三男の氏邦が鉢形城主になっている。

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 我々は広大な城跡を歩き廻ったが、土塁、堀、土橋等が再現されている。面白かったのは、荒川の河原に多い、丸い大きな石で石垣が築かれていたことだった。 

 鉢形城を後にした我々は、寄居駅前の土、日しか開けない名物そば屋・上総屋でてんぷらそばを食す。噂にたがわず旨いそばだった。寄居駅は現在も交通の要衝で、八高線、東武線、秩父鉄道が通っている。私は「蘭子先生」からのプレゼントの清酒「鮎の宿・京亭」をぶら下げて八高線に乗車、八王子へ向かった。
良い旅だった。(終わり)

わが移民人生=おしどり来寿を迎えて=山城 勇=(10) ニッケイ新聞WEB版より

2017年6月23日

 なかでも小学校6年生3学期からは進路指導があり、先生との接触が頻繁となる。元々私は、小粒な身体で遅進児ゆえに同級生の間ではチビッ子呼ばわりだった。それだけに体重も軽かったのであろう。
 鉄棒では技も割りによく、懸垂では18回で学校では常に優勝していた。身体こそ小さいが負けず嫌いな性格だったようである。満蒙開拓青少年義勇軍への申込みは、いの一番合格が届いたので家族は否応なしに容認してくれた。そして久保田先生は、その栞を取り寄せてくれた。

大陸は呼ぶ
1. 俺も行くから 君も行け
北満州の 大平野
広漠千里 果てしない
自由の天地 われを待つ
2. 望む彼方は 高梁の
丘吹く風と なるばかり
ああ大陸の 空を飛ぶ
捨て身の雲の 翼かな
3. 生きて帰らぬ 命なら
誓いて 堅き此の胸に
高鳴りおどる 大和魂
熱血今ぞ あふれける

 親爺は、勇は長男坊であり助手に都合がよく、将来後継者として育ってもらいたい思いであったろうが、いっこうに口には出さなかった。他人事のようにうんともすんともなく無表情。でも母と姉が賛成してくれたので反対のしようも無かったのかも知れない。
 私は、しめたとばかりに急拠旅支度に取りかかった。はるか茨城県の内原訓練所、その名称だけは覚えたが、その訓練所とは一体どんな内容なのか全く知らない。寒い土地だと聞いているので一抹の不安がないでもなかった。
 しかし、隣家の徳元清孝兄貴がいた。一喜一憂、暇を見て兄貴を訪ねること頻繁となる。彼は3歳年上で、青年学校で銃剣術や教練も修得していて、先輩として色々と教えてくれるばかりでなく真の弟分としてアドバイスしてくれた。
 ところで、3月11日訓練所入所を前に、那覇の海洋会館で手続きと同時に予備訓練が2週間あるとのことで、2月中旬学校を出なければならないとのことだった。
 しかし私の心は、すでに茨城の訓練所へ飛んでいた。
 指示された携帯品を詰め込みそのリックを背負い、久保田先生指示通り徳元兄貴と2人で学校に惜別のあいさつ。校長先生から是非と、全校生徒に別れを告げるべく朝礼時間まで待たされた。始めて指揮台にあがり緊張しながらなんとか出自のあいさつを果たした。
 海洋会館で2週間の日程を終了し、1943年3月3日那覇を出港することになった。その日は、まれの快晴だった。朝日に照らされ子を背負って埠頭に立つ母の姿が目に焼きついてはなれない。長男であるわが子を初めて旅に送る母、船上の自分に小走りながら懸命に手を振っている。あの姿を見るにつけ、おさえがたい涙がこみあがってしようがなかった。
 当時の船便は、那覇から鹿児島まで2泊3日、鹿児島で一泊して汽車便で東京を経て茨城へ向うコース。始めての船便には船酔いに苦しめられたが、健康にはなんら問題はなかった。鹿児島での一泊で元気を取り戻し、翌日汽車に乗り込む。長い汽車の旅には退屈もさることながら、はき出す煙には往生した。

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在サンパウロ日本国総領事館よりのお知らせ!古谷さんが送って呉れました。

皆さん
 古谷です
 
在聖日本総領事館より、下記の通達を受けましたので、各位に連絡申し上げます。

                                              2019-06-28

・6月30日(金),ブラジル国内各地においてゼネラル・ストライキが予定されています。
・公共交通機関の大幅な乱れ,一部の運休により,交通渋滞等も予想されます。
・また,デモが実施されるという情報もありますので,巻き込まれることのないよう十分ご注意ください。
 
1 6月30日(金),ブラジル国内各地においてゼネラル・ストライキが予定されています。現在のところ規模等は不明ですが,公共交通機関の大幅な乱れ,一部の運休により,交通渋滞等も予想されることから,普段よりも時間に余裕を持って行動するよう心がけてください。
 
2 また,同日午後4時から,サンパウロ美術館(MASP)前において,反政府を掲げるデモが実施されるという情報もありますので,常に最新の情報を収集するとともに,デモ実施場所やデモ隊には近づかないようにし,ご自身の身の安全を確保してください。
 
3 デモ等に際しては以下の点にご注意ください。
(1)情報収集を欠かさない。
(2)不要不急の外出を避ける。
(3)普段,比較的安全と思われる場所においても注意を怠らない。

第20回県連日本祭り=食べつくせ! 日本料理の祭典=ここだけの郷土食がズラリ=あれもこれも美味しそう! ニッケイ新聞WEB版より

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 ブラジル日本都道府県人会連合会による『第20回県連日本祭り』(市川利雄実行委員長)が7月7、8、9日に開催される。毎年好評を博しているのは、ほとんどの都道府県が出店して自慢の料理を振舞う『郷土食広場』だ。レストランでは食べられない郷土料理も多数出品され、さながら「日本料理の祭典」。昨年は、人気料理の中には昼過ぎに売り切れになるものが続出した。美味しい料理に舌鼓を打って満腹になること請け合いの3日間、事前に気になるブースを確認しておこう。

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    石川のひじきおこわ

 沖縄県人会は、日本祭り開催当初から続く「沖縄そば」を提供。特製の豚の角煮と紅生姜が味の決め手だ。同じく定番の「サーターアンダギー」も楽しめる。
 鹿児島県人会の「薩摩あげ」は魚を練るところから全工程が手作り。熟練の技で本場の味を実現する。あんこがたっぷり詰まった「かるかん饅頭」も例年大人気の品で、すぐに売り切れるかも。
 宮城県人会からは「牛たん焼き」「はらこ飯」など恒例の人気グルメが登場。「海鮮ソース焼きそば」は、多くのブースであんかけ焼きそばが出品される中、異色の存在。海の幸や野菜がソース味で味わえる。
 熊本県文化交流協会が出品する「辛子レンコン」は、なんといってもビールと相性抜群。去年販売を開始した「いきなりダゴ」はサツマイモと餡子を生地で包んだ郷土菓子だ。辛子レンコンやキンピラレンコンなど各種料理がまとめて味わえる「熊本セット」も嬉しい。
 長崎県人会は来場者の要望に応え、去年から「長崎ちゃんぽん」の販売を開始した。好評だったことを受けて今年も続投を決めた。スープは本場長崎から取り寄せたとんこつベースで、イカやエビなどの具材が楽しめる本格派だ。
 鳥取県人会からは「大山(だいせん)おこわ」が登場。日本祭りの3日間は作り立てを提供するため、毎朝4時から準備するという。なんとブラジル産和牛を使った豪華な「牛丼」も販売予定。こんな贅沢な牛丼は、日本でもなかなかお目にかかれない!?
「お好み焼き戦争」が激化=お気に入りの一品はどれだ!?
 ちまたでは「ラーメン戦争」が話題を呼んでいるが、実は、県連日本祭りでは「お好み焼き戦争」も勃発している。各県人会のこだわりの一品を食べ歩けば、B級グルメ好きにはたまらない一日になりそうだ。
 「ブラジルお好み焼き界」の両雄――といえば、なんといっても和歌山と広島だろう。
 毎年長蛇の列を作る和歌山県人会の「関西風お好み焼き」。ソースと紅生姜は手作りで、桜海老は日本から輸入するというこだわり様だ。根強い人気を誇るブラジル広島文化センターの「広島風お好み焼き」は麺もあいまってボリューム満天の一品。
 お好み焼き人気を牽引する2県に対し、その他関西勢も黙っていない。一昨年からお好み焼きを提供する奈良県人会に加え、今年は満を持して本家本元・大阪なにわ会も「お好み焼き戦争」に参戦。焼いたお好み焼きを串に巻くという独自の工夫を凝らす。
 焼きそばが9つ、ラーメンが6つのブースから出品されるなど、それぞれが特色を打ち出す。食べ比べてみて、お気に入りの一品を見つけてみては!?
 日本祭りの詳細問い合わせは県連(11・3277・6108/11・3277・8569)まで。
会場内位置県人会 ・団体名出品料理名
01長野野沢菜漬、テンプラ、シイタケご飯、どら焼き    
02大阪浪花うどん、弁当、お好み焼き(大阪風)
03静岡すき焼き丼、ギョウザ、ナス漬、手作りお菓子類
04岩手三陸わかめうどん、ギョウザ、コロッケ弁当、コロッケ                 
05子供の園手巻き、ヤキソバ、てんぷら、てんぷら定食、トン汁(豚汁)
06山口バリバリそば、イチゴ大福、長州てんぷら、から揚げ
07広島広島風お好み焼き
08栃木ヤキソバ、干ぴょう寿司、ギョウザ、甘酒                    
09佐賀アイスクリームてんぷら、パステス
10宮崎チキン南蛮、甘酒、コーヒー、うめぼし
11山梨ほうとう、ニクマン、いちご大福、トンカツカレーライス、ラーメン
12長崎長崎ちゃんぽん、ギョウザ
13宮城牛たん焼き、はらこ飯、海鮮ソース焼きそば、ギョウザ、筍すし飯、小豆アイス、仙台どんどん焼き                    
14やすらぎホーム手巻き、ギョウザ、てんぷら、シメジ、コッカーダ、春巻き、カニコロッケ                     
15香川讃岐うどん
16援協ピ-パ焼き鳥、カレーライス、焼魚、 手作りお菓子類                    
17憩の園さんま定食、焼き魚定食、トンカツ定食、いちご大福、バタタローカ、カニコロッケ、かき氷
18高知鯛の蒸し、姿寿司、タタキ、ヤキソバ、桜餅、餅入り土佐うどん                                                           
19千葉ヤキソバ、ギョウザ、寿司、刺身、ホットロール、春巻き、うどん、炉端焼き        
20滋賀関西風しょうゆラーメン、ギョウザ、特選カレー、                             
21群馬かき揚げ風えびテンプラ、弁当
22福岡手巻き、博多ラーメン、千鳥まんじゅう、
23茨城手巻き、寿司、刺身、ヤキソバ、ギョウザ、春巻き、栗おこわ
24石川ひじきおこわ、桜餅、三色おはぎ、牛丼
25岐阜しめじベーコン、みたらし団子、たこ焼き、ラーメン、アユ塩焼き、日本酒、焼酎
26和歌山関西風お好み焼き
27沖縄手巻き、沖縄ソバ、ヤキソバ、しめじバター焼き、てんぷら、サーターアンダギー                                         
28愛媛 ギョウザ、肉まん、酒ピリーニャ、甘酒、タルト、うどん                   
29北海道焼きニシン、焼きイカ、フルーツホンデユー、生チョコレート、黒ゴマパンコッタ      
30富山海老、野菜テンプラ、すきやき丼、コロッケ、ミニコロッケ、アンニン豆腐
31奈良柿の葉寿司、お好み焼き、お汁粉                                
32希望の家パステス・デ・ソーニョ
33鹿児島薩摩あげ、かるかん饅頭、エスペッチーニョ(串焼き)、おにぎり 、しめじ(パック)    
34福井越前おろしソバ、パステス、鉄板ヤキソバ、リングイッサ(腸詰) 
35鳥取大山おこわ、牛丼(和牛肉)
36カルモ桜の会桜餅、弁当
37岡山キビ団子、まつり寿司 、栗まんじゅう、肉まん、シュークリーム                             
38熊本辛子レンコン、きんぴらレンコン、いきなりダゴ、シュークリーム、あんみつ、メロンパン、熊本セット
39青森リンゴ製品(ジュース、ゼリー、ケーキ、アイス)
40兵庫手巻き、ラーメン
41埼玉カレーパン、クレープ、
42秋田きりたんぽ、トリ串カツ、弁当、高清水(酒)、サケピリーニャ、桜餅
43福島 喜多方ラーメン、おにぎり、ギョウザ 、日本酒(福島産)                         
44京都みたらし団子(醤油味、アンコ、きな粉、海苔巻き)、お汁粉、抹茶
45三重イチゴ大福、メレンゲ、ギョウザ
46島根 巻きずし、カレーライス、シイタケご飯、
47新潟白餅、餡餅、新潟物産販売
48山形手巻き、寿司、漬物、芋煮、ギョウザ、干し柿、しそ巻き、ホットロール、ビール+酒ミックス
49徳島たこ焼き、おにぎり                                        
50愛知鶏味噌串カツ、エビ串カツ、豚串味噌カツ、抹茶アイス、シュークリーム、稲荷ずし
51Instituto GABI手巻き、ヤキソバ、テンプラ、たこ焼き、弁当、ホットロール、牛丼、カレー、しめじ、かき氷、フライドポテ、生ジュース(オレンジ、西瓜)
52神奈川肉まん、ショートケーキ、スキヤキ丼、サンドイッチ(ペルニール)
53大分だんご汁、トリメシ、干し柿、牛たたき、はぶ茶(生、煎)、干しシイタケ(パック)

わが移民人生=おしどり来寿を迎えて=山城 勇=(9) ニッケイ新聞WEB版より

 自分にとっては小学高学年にもなると、学校の宿題も多く勉強時間が増えるので親父の三線研修時間とよく重なった。それも連日となると折角の音楽もいやな雑音になり、勉強のじゃまにしかならなかった。
 幼少の頃からこのような環境で育ってきたせいか、音楽(特に三線)は嫌厭感にさらされ、なかなか親しみを覚えることがなかった。
 郷土の文化として深い歴史的伝統をもつ民族音楽をどうしてこんなに忌避するようになったのか、自分にもよく分からないが幼少の頃の「環境」だけにその由来を求めようとする自分にも納得し難いし、頑固な親父の血を受け継いでいる自分自身の中の頑固な性格がそうさせているのかも知れない。
 1958年3月には、ブラジル渡航のため学校を退職し、その旅仕度をしている間、家で妻千枝子の手伝いの積りで長男坊(一也)を子守しながら三線でもなんとかできればと思い、朝から手にしてみたがいっこうに歌や音楽にならない。約1カ月位1人で続けたがやはり駄目だった。幼少年期に忌避したたたりかと思い、以来三線を手にすることはなくなり音痴をそのままひきずってきている。
 でも親爺の血縁がいささかでも生きているとすれば、何ほどかの音曲の手法でも学び、千枝子が常に奨める、「父のように三線音楽を学べ」を実践し手軽に唄三線を楽しめたらよいのにと時々思う。
 しかし、その実践はなかなか難しいようだ。「三つ子の魂百歳まで」の箴言が思い浮かぶ。その箴言のもつ意味の深さに改めて思いを巡らしているこの頃である。

 第2章  戦争の惨禍 
 
 1 満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所へ
 大東亜戦争に突入した1941年頃、軍国主義少年たちにとっては勇猛果敢な軍隊志願が圧倒的に多く、子供たちに将来の希望を尋ねると大多数の子供たちが軍人志向であった。
 しかしそれは、単なる志望であってその基準や条件は厳しく誰も彼もというわけにはいかない。部落の先輩や知人から上級学校に進学したのは何人もいるが、志願兵に行ったのは1人としていなかった。
 高等科卒業の年になると、担任の先生はいろいろアドバイスをする。同級生で前列から2番目に並ぶ私にとって少年志願兵は、夢の夢でしかなく、150センチメートルにも足りない自分の身長ではとてもかなえられない話であった。
 高等科一年の担任は真栄平守正先生であった。
先生は、「日本は食糧不足になやみ軍への食糧供給も足りないので、腹をすかしては戦いに勝てない。食糧増産と補給をするため満州大陸で大農式食糧増産に若い力が必要である。この戦争に勝つためにはソ満国鏡の警備と農業生産に是非若い力が必要とされている。国の為満蒙開拓青少年義勇軍訓練所が茨城県にある。しかも二人の先輩が既に満州に渡っているのだ」と教えてくれた。
 でも翌年高等二年は久保田次郎先生に変った。学校では毎朝朝礼で校長先生の訓話があり、鬼畜米英撃滅と大本営発表の戦果を賞讃して武運長久を祈り、そして「海行かば、水漬くかばね」――を歌って各教室に入いるのであった。
 こうして少年たちの魂は、軍国を啓発・高揚する教育を教え込まれ、その信念で総て対峙する軍国少年が形成されていたので、当然の如くその道にはまっていくのであった。

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