私たちの50年!!

1962年5月11日サントス着のあるぜんちな丸第12次航で着伯。681名の同船者の移住先国への定着の過程を戦後移住の歴史の一部として残して置く事を目的とした私たちの40年!!と云うホームページを開設してい居りその関連BLOGとして位置付けている。

2017年07月

風車小屋公園のイペーロッショ3本の内1本は、まだ葉が落ちず花も咲いていませんが1本は、花が散り始めています。

同じ場所に3本並んで植えられていますが、1本は、満開が過ぎ、真ん中の1本にも花が着き始めていますが左端の1本は、まだ葉が落ちず花も咲きていません。
面白いですね。町の街路樹も既に盛りを過ぎて花を散らしピンクの絨毯が出来始めているのから葉が落ちず花も咲いていない樹もあります。
7月28日(金)に風車小屋公園に行った時に撮った3本のイペーロッショの写真を貼り付けて置きます。

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わが移民人生 =おしどり来寿を迎えて=山城 勇=
(30)  ニッケイ新聞WEB版より

2017年7月28日

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 アメリカ陸軍史上空前の紫心部隊、勲章部隊、勲功部隊として二ユース映画になったことは申すまでもない。この「442部隊の実践記録」という本と、「第442部隊」の本2冊がその部隊に所属した兵士たち自身が書いているので機会があったら見てごらん、と云うことだった。第442二世部隊の異名とする功績部隊とはアメリカ陸軍史上未曾有のことだと多くの新聞は報じたと云う。その異名とは下記に説明すると
紫心部隊=アメリカ全陸軍中最も多く死傷者を出した部隊のこと。
勲章部隊=最も多く勲章でかざられた部隊を称していう。
勲功部隊=個人でなく集団・部隊に対する勲功は大統領が贈る感謝状で、軍最高位の栄誉とされること。
 こうした勲功の裏には多数の二世兵士の犠牲があったことを物語る。国立記念墓地ハワイのポンチボールを覗けば納得できる。1万数千の英霊が眠る。ポンチポールはホノルル観光コースの一つとなっている。

 9 結婚記念日
 結婚記念日は1956年6月17日1951年3月三和中学校新城幸栄校長に誘われて代用教員に就いたものの元々教員になる気もなかったし、一時腰掛的な気持ちで教職についた。校長は早めに教員資格の取得をとすすめるので、琉球大学の夏季講座や糸満教員訓練所にまで行かざるを得なかった。
 自分にとって将来は農業か畜産業を夢みていたが、沖縄の狭少な土地ではその思いを果せる場もなく単なる夢に終わるか、と半ば諦めかけていた。しかも村役場や部落から教職の他多種多様な依頼事がまい込んできたり関わりが生れたりする。村の青年会長も推されるし、日曜日の4Hクラブ活動も手がけていて、余暇を見て体協だとか青年会だとか1人2~3役にもなると実に多忙この上もない日々であった。
 そこで若い教員仲間に急務を求めたり、協力を依頼したりしていた。その教員仲間の1人が山城千枝子だった。
 村の運動会や陸上競技大会、それに糸満地区の陸上競技大会、更に糸満地区中学校の各種スポーツ行事が頻繁に催される。その都度一致協力してくれるので接触の機会も多い。それに彼女は放課後生徒の個人指導を行ったり、休日や日直の日を利用して何人かの子供たちに補習授業をも行うなど、熱心な女教師像になって映り、心を惹かれる存在になっていた。何時の日か自分の思いを語ってみたいと思っていた。しかも彼女の父親は永年村役場の収入役を務めていたのでよくつき会うし、両家同部落とあって家庭事情も周知していたので将来への配偶者に、と心ひそかに1人で考えていた。
 その以後も接触を重ねているうちに彼女自身も心の内を語ってくれた。いわゆる相思相愛の仲となり、周囲のすすめもあってハワイ行き直前に婚約結納を交した。
 ところが、5月ハワイ出発と云う最初の予定だったがなかなか連絡がない。関係機関に問い合わせても明確な返事が得られなかった。その頃米国民政府で通訳をしている並里の知友を通じて秘かに知ったのが、山城勇が以前満州の頃にソ連軍との接触をもっていたということで検閲にふされているらしい事実が浮んだ。
 そうこうして3ヶ月も遅れてようやく8月末日出発することが出来た。空港到着するや空港出入口のガラス戸が自然に開閉してびっくりするのを初めて見るもの聞くもの田舎者には総て珍しく物量豊かなアメリカ(ハワイ)の6ヶ月間、しかも移民が築いた日系や県系人社会の実態に深く触れることが出来たことは、人生の分岐点を強く意識させたものと云える。

アメリカ便り「ブラジルを理解するために その7」  富田さんからのお便りです。

和田さん&W50年の皆さん、お元気ですか?今週のアメリカ便り、桜井教授の連続エッセイ【ブラジルを理解するために、その7『ブラジルやラテン世界でフラストレーションなく仕事をする方法』】をお届けします。ラテン民族は依頼された仕事が仕上がっていないと、平然と「明日またね」と言うのです。本来この言葉は、「また明日!」というあいさつ言葉なのですが、昨今は「言い訳」に流用されて、国際的に有名になっています。そこで、桜井教授はこの連続エッセイその7で、「明日またね」への対処法を伝授してくださいます。中々面白く、ためになる読み物になっていますので、下記のブログをお訪ねのうえ、ご味読のほどを。


富田眞三  Shinzo Tomita

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「ブラジルを理解するために」その7

連載エッセイ7

 
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写真:(www.pinterest.com)

 

ブラジルやラテン世界でフラストレーションなく

仕事をする方法

   執筆者:桜井悌司(日本ブラジル中央協会常務理事)

【まえがき】JETROの所長ともなると、仕事上のお相手は大臣、州知事、大会社の社長クラスである。そういうクラスのお偉いさんが「アスタ・マニャーナ(明日またね)」と言うのだから、一般国民は「推して知るべし」である。

さて、「小話」の愛好者である筆者はこの項を読んで、2001年の911を題材にしたメキシコ小話を思い出した。「何故メキシコ人はテロリストになれないか」である。理由は10あるが、半分だけご紹介しよう。
  1. 午前745はベッドを離れるには早すぎる。
  2. 我々は常に遅刻するので、どんな時間のフライトにも乗り遅れる。
  3. やっと乗り込むと、機内の美人に気が散りやすい。
  4. 機内の食事と酒で肝心の「仕事」を忘れてしまう。
  5. 身振り手振りで話すので、武器を床に置かざるを得ない。
 だから、メキシコ人はテロリストになれない、と自虐的に自己批判するのである。テロリストになれなくとも、私はこういうメキシカンが好きですね。ところで、桜井教授が説く、こういうラテン系との「付き合い方」は、メキシコに40年住んだ筆者から見ても誠に的を射た、一読の価値あるエッセイである。これを実践すれば、「ラテン諸国」でもフラストレーションなく仕事が出来ること、請け合いである。ご味読のほどを。(富田記) 

ブラジルやラテンの世界でフラストレーションなく仕事をすることは容易ではない。日本や米国から直接ブラジルに赴任した駐在員は、特にそうであろう。よく言われる言葉に、「アテ・アマニャン」や「アスタ・マニャーナ」(明日またね)というのがある。例えば、誰かに仕事を頼み、約束の日に出かけてみると、完了していない。「アテ・アマニャン」とか「アスタ・マニャーナ」と言われ、翌日また行くと、同じ言葉で追い返されるという経験をした日本人も多い。私も同様で大いに苦労したが、徐々に彼らと仕事をすることに慣れてきた。その結果、ラテンの世界でフラストレーションを感じることは比較的少なくなった。常に彼等の生産性や効率性を考えて仕事をすることにしたのである。例えば、ブラジル人やブラジルの組織に依頼してやってもらう仕事があるとする。その場合、同じこと日本でやれば、どのくらいの日数がかかるのかを考える。日本だと10日間くらいかかるとしよう。とすると10日以上前から始めればよい。では、ブラジルやラテンの国ではどれくらいでできるか。アミーゴも知り合いも少ないブラジルでは、常識的に考えて、日本より少ない日数でできるはずはない。仮に15日間かかると仮定する。とすれば、15日以上前に準備を開始すればいいのである。ただ、それだけではうまくいかない。10日くらいたったところで、依頼した人物に進捗状況を聞いてみることが必要だ。そこでの会話によってしっかりやっているかどうかが判断できる。さらに5日前くらいに挨拶代わりにご機嫌伺いをする。さらに前日か前々日に最終の再確認をするとうまくいくケースが多い。相手に嫌味を感じさせないで、少しずつ追い詰め、仕事を完了してもらうのである。これは、通常のやり方であるが、ラテンの世界はアミーゴ社会である。一緒に食事をしたり、情報交換をしたりして、アミーゴ関係になれば、新しい展開が始まる。アミーゴ・ネットワークがうまく機能すれば、日本の10日間よりもっと早く、場合によっては、7日とか8日でできることも珍しくない。ラテン世界の不思議である。

楽観主義もラテンの世界で仕事をする上で有効である。ここで楽観主義と言った場合、最初から運を天に任すということでは決してない。自分でできることは、あらかじめ最大限行っておくことが前提である。さらに他人に物事を頼む場合でも、可能な限り彼が実行に移しやすいように仕向け、最後は運を天に任せると言う方法である。悲観主義の人は、ブラジルやラテン系の国々には向いていない。

2015年12月上旬

斎藤さんに無理やり頼んで運んで貰ったカシャーサが丸木さんの所に届いたそうです。

荷物が一杯でお土産も一切受け付けないましてや人に届ける品等は絶対にお断りと到着早々宣言して居られ無理かと思って居たら丸木さん宛なら断れない?との事で一部の荷物を破棄して運んで頂いた丸木さん宛の箱入りのカシャーサカップ付きのセットが届いたそうです。明日の神戸の皆さんのシットウ会でカイピリニアにするとの事でしたが、出来ればもっと大きなカシャーサも用意していたのですが、荷物制限で駄目でした。コップは大事に奥さんと飲む時に使って下さい。

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丸木で~す
 遠路はるばる、和田さんから預かられ南大河州産カシャッサを斎藤さんが持ち帰られ、今日受け取りました。あしたのパーティーでカイピリーニャを飲め、タイミングが良かったです。トロントのジャパンタウンに出店されてる斎藤さんの露店にて

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ウルグアイの田中大使が来伯 500人の日系人が日本文化普及  サンパウロ新聞WEB版より

イメージ 1田中大使と森田書記官(左から)

21年に日本との外交樹立100周年

 21日に開催されたブラジル日本商工会議所の定例昼食会に参加するため、田中径子在ウルグアイ日本国大使が来伯。これに付随して、邦字紙及び在伯日本メディア向けの懇談会が、20日に在サンパウロ日本国総領事館で行われた。
 田中大使は、民間メーカー企業勤務の女性としては初めて大使として抜擢された経歴の持ち主で、2014年11月に同職に就任した。着任当時は知人や友人がおらず、スペイン語も話せなかったそうだが、「大使館職員の皆さんのお陰で楽しくさせてもらっている。カーニバルにも出場し、今はウルグアイにどっぷり」と現地で充実した生活を送っていると語った。
 懇談会では、同国の政治や経済、産業などについて述べ、「大国に挟まれて影響される面もあるが、経済は上昇傾向。政治はFA(左派連合)政権のもと、安定している」と説明した。しかし、少子高齢化が進んでおり、「出生率では南米最下位。移民導入にも積極的ではない」と、同席した同大使館の森田広一郎2等書記官が現状を明かした。また、同国では大麻販売が解禁されたばかりだが、「外国人は購入登録できず、購入登録者は予想していたより少なかった」と印象を述べた。
 日系社会に関しては、「約500人の日系人が同国におり、日本人会は今年で創立50周年を迎える。弁論大会や運動会、日本祭りが行事として行われているが、当地(ブラジル)ほど組織だっているわけではなく、規模も小さい」と田中大使は話した。日本祭りは例年、9月下旬か10月上旬に行われ、「日本文化の普及が主に行われている」とした。
 日本語学習者は現在、同国内に約1000人おり、共和国大学と日本人会に日本語教室が設置されている。日本語能力試験は今年初めて、同国で実施されることになったという。しかし、2世、3世と世代が進むにつれ、日系人の日本語話者は減少しており、田中大使は「多くは同国(ウルグアイ)社会に溶け込んでいる」と日系社会の現状を話した。かつては花卉栽培で生計を立てる日系人が多かったが、「それも世代が進むに伴い、(首都の)モンテビデオ市の企業などで働く層が増えている」と森田書記官は述べた。
 最後に田中大使は、来年アルゼンチンのブエノス・アイレス市でG20(主要20カ国・地域首脳会議)が開催されることに触れ、「川を挟んですぐなので、日本の総理の初訪問を期待している」とし、また「2021年に日本とウルグアイが外交関係樹立100周年を迎える。80周年時に日本庭園を造ったように、現地の人が喜ぶような何かを考えなければならない」と述べた。
2017年7月27日付

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