私たちの50年!!

1962年5月11日サントス着のあるぜんちな丸第12次航で着伯。681名の同船者の移住先国への定着の過程を戦後移住の歴史の一部として残して置く事を目的とした私たちの40年!!と云うホームページを開設してい居りその関連BLOGとして位置付けている。

2018年01月

移民110周年=眞子さま、7月に来伯へ=「最高に嬉しいニュース」=皇族として最後の海外公務に ニッケイ新聞WEB版より

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パラグアイ移民80周年記念式典に出席した眞子さま(パラグアイ日本人会連合会提供写真)
 秋篠宮同妃両殿下の長女・眞子さまが、日本移民110周年でブラジルを訪問されることが検討されていると29日、共同通信やNHKはじめ日本の各メディアが報道した。11月にご結婚される眞子さまにとって、皇族としては〃最後の海外公務〃となる見通し。移民110周年に強く期待されていた皇室ご訪問の吉報とあって、日系社会から歓迎の声があがっている。
 昨年1月に一足早く祭典委員会を発足させ、大祭典に向け準備を進めてきたパラナ州移民110周年祭典委員会の折笠力己知祭典副委員長は、「待ちに待っていた。パラナ日系社会として最高に嬉しいニュース」と感激で声を震わせた。
 パラナ日伯文化連合会では、皇室ご訪問されることを想定した旅程を確定させ、在クリチーバ総領事館からも早々と承認を得ていた。7月19日にクリチーバとロンドリーナ、20日にローランジアとマリンガーを予定。マリンガーで開催される移民110周年エキスポで、記念式典が午後7時から執り行われる。
 折笠副委員長は「西森祭典委員長が訪日して働きかけてきた結果が実った。州各支部からバス2、3台と駆けつけてもらい、2万人を集めて盛大に行う。式典では500人以上の子供を集め、桜や故郷などの唱歌を合唱してお迎えする」と意気込む。
 一方、聖州移民110周年祭典委員会の呉屋春美祭典委員長は「初耳です。とても喜ばしいこと」と喜びを表わし、「若い皇族のご訪問だけに、若い日系人が関心を持つきっかけになる。記念に残る110周年にしたい」とのべた。
 菊地義治実行委員長も「聖州日系社会として大歓迎」と語る。県連日本祭で7月21日に開催される記念式典についても触れ、「海外最大の日本祭りを見て頂ければ、日本文化を守ってきた日系社会の姿に感心されるのでは。若い人も沢山参加し、特別な式典になる」と期待を膨らませた。
 聖州の旅程は確定していないが、マリンガーでの式典を終えた後の来聖を考慮し、今後、詳細な日程が組まれる予定。飯星ワルテル連邦下議によれば、聖州ではプロミッソン、アラサツーバ、マリリア、カフェランジアに立ち寄られる見通し。
 〃移民の故郷〃上塚第植民地100周年を迎えるプロミッソン。同地移民100周年祭典委員会の前田ファビオ実行委員長は「眞子さまをお迎えし、記念式典を開催することは大きな誇り」と語り、「全ての人の記憶に刻まれるものとなる。皆の力を取り戻し、全日系社会の輝かしい未来を祝して盛大に開催したい」と熱い想いを吐露した。
 眞子さまの海外公務は、昨年のブータンに続く4回目で、一昨年には日本移民80周年でパラグアイを訪問し、現地日系社会と交流を深められた。6月上旬に予定されるハワイ移民150周年には、秋篠宮同妃両殿下が訪問される方向で調整が進められているという。
□関連コラム□ 大耳小耳
 眞子様は、移住80周年でパラグアイをご訪問し、約10日間滞在された。1936年に最初の入植者が足を踏み入れたラ・コルメナを始め、5つの移住地をご訪問され、腰を落として高齢の移住者の声に耳を傾けられていたという。訪問を終えられ、「想像を絶するような困難を勤勉さと誠実さで乗り越え、努力を積み重ねて現在の生活を築かれたことと思いますが、穏やかな表情で今の暮らしへの感謝を語られる一世の方が多いことは印象的でした」と語られた眞子様。ブラジル移民110周年では聖州地方部、特にプロミッソン(上塚植民地)やカフェランジア(平野植民地)にも足を運ばれる可能性がある。どのような印象を持たれるだろうか。

≪中銀 29 日発表の12月統計≫ 山下さんからのお便りです。

山下@リオです
 
中銀29日発表の統計より 2017年結果

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12月の海外直接投資は92億ドル、過去12カ月累積は12
まで604億ドルです。日本は17位でした。(inv801.xlsx)
 
国内の外貨フローは、貿易で12月は63億ドルの黒字です。
ファイナンスは、156億ドルの赤字で、差し引き93億ドルの
大量流出となりました。
 
本年12月の経常収支は43億ドルの赤字です。
 
12月の貿易収支は50億ドルの黒字で、過去12カ月累積は
670億ドルです。
 
12月の外貨準備高は3820億ドル記録更新です。
(添付cambiocontratado801.xlsx) 
(添付baldepagto801.xlsx) 
12月の支払い手段M110.70%増、M1の過去12カ月は4.37
増です。過度の引き締めから正常に戻りました。
 
インフレはFGVIGPDI指数で、12月は0.74%、
過去12カ月累積は12月までマイナス0.42でした。
 
外債は、2016年末5486億ドルに対し、20175508億ドルで、
ほぼ同水準を保ちました。
(添付dividaext 801.xlsx) 

ブラジル放談・男のエッセイ ≪映画「戦争にかける橋」の実話≫ by 東海林 マルコス

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映画の中の「戦場にかける橋」
今年(2018)1月19日から一週間の日程で、私は娘のマリーナと、商用でタイ国のバンコックを訪れた。時間に余裕があったので、現地ツアーに参加することにした。ホテルのカウンターにあったツアー案内を見ると、何と「クワイ川訪問ツアー」というのがあるではないか。「もしや…」と思って係りの女性に訊いてみると、紛れもなく、その昔、ブラジルに移住する前に日本で観た映画「戦場にかける橋」の舞台になった、あのクワイ川を訪問するツアーだ。途端にあの感動的なシーンの数々と、軽快な「クワイ川マーチ」のメロディーが、鮮やかに脳裏に蘇った。私は一も二もなく、ツアー参加を申し込んだ。
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川幅300メートルの、とうとうと流れるクワイ川
ツアー当日は期待で胸が躍った。朝7時に出迎えのヴァンでホテルを出発し、午前中に水上マーケットを見学した後、勇躍クワイ川へと向かった。西に向かって走ること約2時間、ヴァンはクワイ川の畔にあるレストランに横付けされ、バルコニーのテーブルから川を見下ろしながらの昼食となった。眼下のクワイ川は、川幅が約300メートル位であろうか、水をとうとうとたたえてゆったりと流れている。200メートルほど下流に目をやると橋が一つ見える。ガイドさんによると「実物の橋」とのことであるが、イメージしていた木製の橋ではなく鉄橋のようだ。
昼食を終え、期待に胸をふくらませながら、徒歩で橋へと向かった。1943年に架けられた「戦場の橋」は、確かにそこに存在していた。しかし、橋のたもとに備え付けられた小さな台座の上に張り付けられた一枚の銅板を見た時、私の胸にあった期待は、急激に萎んでいった。
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橋のたもとにある台座の上に張りつけられた銅板
そこには、1942年から1943年にかけて、旧日本軍による、タイのノンブラードウィックからビルマのタムビザヤ間、約415kmの鉄道建設に駆り出された捕虜と労働者の数と、その死者の数が刻み込まれていたのである。アジア人労働者200.000/死者80.000、イギリス人捕虜30.000/死者6.540、オランダ人捕虜18.000/死者2.830、オーストラリア人捕虜13.000/死者2.710、北米人捕虜700/死者356、日本人・韓国人15.000/死者1.000と記されていた。インターネットで歴史の供述をひもとくと、鉄道建設中に、約1万6千人の連合軍捕虜が、飢餓、疾病と虐待のために死亡したとされており、現地で駆り出されたアジア人労働者の死亡数はその5倍にも及んだと記されている。
映画「戦場にかける橋」では、旧日本軍の捕虜となったイギリス軍兵士たちが、名誉と誇りのために日本軍に替わって橋を建設し、その開通式当日に、同橋を自らの手で爆破したことになっているが、その内容は英米合作映画の完全な脚色であり、事実とは大きくかけはなれていることが、実際にクワイ川に足を運んだ誰しもが、認識させられる。
この鉄道は、1942年の旧日本軍によるビルマ占領を契機として着工されたもので、ビルマ側、タイ側の双方から建設が進められた。全工程で最も難工事とされていたのが、クワイ川に架ける永久橋の建設とその前後のルートであった。設計・建設の主体となったのは、旧日本軍の優秀な橋梁建設専門部隊であったが、クワイ川は急流のため、工事は難航を極めたため、永久橋完成までの間に使う資材運搬用の橋梁として、永久橋の下流に木製の橋が架けられることになった。木橋は1942年12月に完成し、次いで永久橋の鉄橋も1943年5月には完成した。
映画「戦場にかける橋」のモデルになったのは、この木製の橋の方であると思われるが、歴史の供述には、イギリス軍捕虜たちによって橋が建設されたことや、同橋が開通式の日に爆破されたという事実は存在しない。
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実在の「戦争に架ける橋」中央部の角型橋梁が修復された部分
一方の永久橋は、1945年に連合軍の空爆により中央部が破壊されたが、鉄橋が不通の間、替わって木製橋が輸送の役目を果たしたとされている。永久橋の鉄橋は、戦後賠償の一環として、日本の横河橋梁によって修復されたが、修復部分は旧来の丸型橋梁ではなく、角型橋梁になっており、現在もその姿をクワイ川にとどめている。一方、木製の橋は1946年の大雨による増水で、姿を消している。
 
 
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鉄道犠牲者博物館
クワイ川を訪れた日本人たちが、さらにダメージを受けるのは、「鉄道犠牲者博物館」の存在と、その前方に広がる犠牲者たちの墓地である。撮影禁止になっている博物館の内部には、旧日本軍が鉄道建設にあたって、捕虜と労働者に対して行った過激な虐待行為が、パネル、写真、ビデオなどで、生々しく展示されており、見学者たちの驚愕と義憤を誘う。とりわけ「死者の数は、鉄道の枕木一本当り500名に及んだ」と記されたプレートの存在は、事実の凄惨さを如実に物語っている。さらに2階に上がると、窓からのぞめる芝生を敷きつめた広大な墓地と、おびただしい数の死者の墓標プレートが、見学者たちの心痛にさらに追い打ちをかける。
 
 
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広大な犠牲者の墓地に佇むマリーナ
私は、クワイ川ツアーに娘を伴って参加したことを、少なからず後悔している。というのは、わがJBC社は、「日本文化をブラジルに伝える」ことをコンセプトにした出版社で、娘のマリーナは、日本、日本人、日本文化が大好きで、私の後継者として誇りをもって仕事に取り組んでくれている。戦争を知らないブラジル生まれの彼女にとって、今回の体験は、知られざる日本人の一面を垣間見た訳で、かなりショックだったようだ。彼女は口では「戦争だから…」とコメントしていたものの、帰路のヴァンでは終始無言だった。
夕食の時に、私は「日本は大きな代償を、30万人の原爆犠牲者で支払ったのだよ」と言ってはみたものの、それがどこまで彼女の慰めになったものやら…。
帰路の機内で、改めてYOU TUBEから映画「戦場にかける橋」を観た。事実を知った後では、昔の感動がウソの様に空しく感じられ、あの軽快な「クワイ川マーチ」もただうつろに耳を素通りするだけだった。映画には、旧日本軍の捕虜虐待シーンなどは、描かれていなかったことが、せめてものなぐさめである。ちなみに、現地ガイドによると、映画はタイのクワイ川ではなく、スリランカにある河川で撮影された、とのことである。(完)

半沢友三郎の壮絶な戦時体験=フィリピンの戦いとブラジル移住=(7)=恐る恐る米軍の収容所へ  ニッケイ新聞WEB版より




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バレテ峠を匍匐前進する米軍歩兵(From Wikimedia Commons)
 










ある日、部落の入り口で原住民が騒いでいる音が聞こえた。見に行くと、半沢さん達を探す伍長が原住民と怒鳴りあっていた。
 半沢さんを見つけた伍長は「俺はこれから米軍の収容所に行く。お前らも皆行かなきゃならん」と告げて行ってしまった。
 数日後、またも見張り役の原住民が不在だった。半沢さん達は「ちょうど良い」と部落を脱出し、米軍の収容所に向かうため蛇行した下り道を進んだ。
 すんなりと部落を出られたものの、半沢さん達の足取りは重かった。「先を急がなければ」という気持ちはあったが、「米軍に捕まったら殺されてしまうのでは」という恐怖は消えなかった。
 下ってきた道の上から声が聞こえた。弟と隠れて待っていると、半沢さん達の見張り役だった原住民と日本兵が喋りながら降りてきた。
 日本人の姿と毎日寝食を共にした原住民を見た八郎が安心したのか、原住民を驚かそうと「ワッ」と前に出てしまった。半沢さんは心の中で「馬鹿野郎!」と大声で罵り、原住民は2人が部落から逃げだしたことに激怒した。
 日本兵について米軍の駐屯地に行くことになった半沢さん達は冷や汗をかきつつ、日本兵に体をぴったりくっつけて歩いた。
 たくさんのテントが設置された駐屯地に着いた。兵隊と別れて身体検査などを受け、2日ほど泊まった後、大型車に乗せられて港にあるもう一つの収容所に向かった。
 半沢さんが乗せられた車の前後に2台ずつ、米兵が乗ったフォードGPがついていた。各GPに通訳係の日系米兵が乗っており、車が止まると一番先に降車してほかの兵のためにドアを開けていた。雑用で走り回り、使用人のような扱いを受けていた。
 フェンスに囲まれた大きな収容所に着いた。収容所内は4つの区画に田の字型に分けられ、中央に米軍の事務所が設置されていた。
 友三郎さんは弟と一緒に第4区の孤児院に入った。ほかに2~30人の孤児がおり、その中に同じ学校の上級生も1人いた。
 その上級生は日本兵の一団に家族を殺されていた。上級生はその日、両親に頼まれ川で洗濯をしていた。洗い終えた衣服を抱え家族のもとに戻ると全員死んでいたそうだ。怪我で動けなくなった日本兵も一人残されていた。
 その日本兵の説明によると、一緒に行動していた数人の兵隊が上級生の家族に食糧を求めた。家族は「私達の分がなくなってしまう」と拒否し、殺されてしまったそうだ。兵隊達はその場で食事し、動けない兵隊を残して先に進んだ。兵隊の手元には手榴弾が置かれていた。
 上級生はその場を離れた。砲弾の音が止み静けさが戻った夕方、爆発音を聞いたそうだ。
     ◎
 収容所では病気や栄養失調で死んでしまう人もいた。
 死が近いと判断された人はフェンス沿いに建てられた1人用テントに「遠隔治療」と言って運ばれる。そのまま放置され、死ぬのを待つ。
 その中で息を引き取り2、3日も経つと、ガスで遺体が膨れて汁が出る。テント内から凄まじい悪臭が広がるが、仕事や手続きに追われて処理する人がいない。遺体の処理は2週間後にもなった。(つづく、國分雪月記者)


ダニエラ ユミさんは、無事金沢に付き研修を始めたようです。

初日は、姉妹都市ポルトアレグレ市に贈られたことじ灯篭がある兼六園、金沢城を見学、市長表敬と市長主催の歓迎夕食会に参加したそうです。日本冬を楽しんでいるようです。

Bom dia Wada san!
Hoje passeamos por Kanazawa e visitamos o Kenrokuen e oCastelo de Kanazawa.
Seguem fotos! Postei no meu facebook também. Como faço parapostar no facebook do Tomonokai?
Tivemos também o encontro com o prefeito, entreguei umomiyague (cachaça Weber Haus) e os livros. Ficaram muito agradecidos. Entregueitambém a carta para Fujie-san. Tivemos uma janta com ele e demais organizadoresdo departamento de Intercâmbio Internacional.
Abraços.
Atenciosamente,

DANIELA YUMI YOSHIMOTO
Arquiteta e Urbanista

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