私たちの50年!!

1962年5月11日サントス着のあるぜんちな丸第12次航で着伯。681名の同船者の移住先国への定着の過程を戦後移住の歴史の一部として残して置く事を目的とした私たちの40年!!と云うホームページを開設してい居りその関連BLOGとして位置付けている。

2018年02月

ブラジル駐在経験者のリレーエッセイ≪ 連載89:マナウス自由港(ZONA FRANCA MANAUS-ZFM≫ 山岸 照明

連載89:マナウス自由港(ZONA FRANCA MANAUS-ZFM

執筆者:山岸 照明 氏YamagishiConsultoria Ltda. 社主、元アマゾナス日系商工会議所会頭)

 
昨年、2017年2月 マナウス自由港(以下ZFM)は 50周年を迎えました。半世紀の間に色々なことが起こりました。苦しい時代でしたが、又快進撃の時代でもありました。

昨年10月27に付け マナウスのJORNALDO AMAZONAS 紙によると、「最近の英国の経済紙 FINANCIALTIMES 紙は “ラテンアメリカで最も近代的且つ安定性のあるマナウス自由港への投資を推奨する”との記事を掲載しています。

ゴム時代の終焉、日本移民の齎したジュート産業、そして、第二次世界大戦、約45,25%を占める北部 アマゾン地方の維持に政府は苦心しました。1945年12月、憲法再生法案議会へアマゾナスより議員を送り出し、1946年9月18日の憲法第199号の改正案を提出致しました。内容は、“アマゾナス経済活性化の為、少なくとも20年間に渉り年間歳入の最低3%を宛てる”という案でした。

更に、1946年10月には、第33案 として国家アマゾニア庁を創設し、全ての開発経済プロジェクトを纏めて追行すべく アマゾニア経済開発局の設立を提案しました。此の改正案は6年間の議論の末1953年1月6日 法令第1806号として可決されました。そして 連邦憲法 第199号は発令され、AMAZONIA経済開発監督局(SUPERINTENDENCIADO PLANO VALORISAÇÃO ECONOMICA DA AMAZONIA-SPVA) が設立、発足しました。


イメージ 1
マナウス港

しかし、SPVAの活動は余り活発とは言えず、西部アマゾンの開発に当たり、当時のジェットリオ・ヷルガス大統領の計画による、アマゾンの天然資源の調査、研究を目的とした国立アマゾナス研究所をマナウスに国家調査研究所の下部組織として設立、マナウス電力会社の発電所のプロジェクトに携わりました。そして1957年6月6日付け法令法令,3,173号にてマナウス自由港が発足、免税で輸入品を輸入、在庫し、マナウス市内での販売、そして、域外への出荷に応じ、課税する制度を施行しました。又、マナウスの電力は前世紀 イギリスの技術で作られた発電所は老朽化し、電力事情は危機に見舞われ、漸く1962年7,500KVAの火力発電所が完成しています、

ブラジルは折からの政経状況の混乱より1964年軍部のクーデターが起こり、軍政権が発足しました。軍政府.初代大統領のカステロ・ブランコ大統領はセアラ州の出身で第二次世界大戦ではイタリア戦線に従軍し戦果を上げ、アマゾニアの総司令も体験した軍人でした。この様な軍事経験より、アマゾナスの経済状況、また過疎化の進む状況に大変苦慮し、マナウス自由港の設立に努力を払われました。そして、当時カステロ政府の企画大臣を勤められたロベルト・カンポス大臣の手により、マナウス自由港への実現に取り組みました。
私は、何時も 「何故 マナウスが自由港に指定されたのですか ?」という質問に対し、軍政府より、アマゾンの防衛、国家の財政難より輸入代替品の供給、そして 後進地域のアマゾンの開発の為、軍政府が制定したのです。と答えて来ました。
今回本稿を記すため、当時の記録を調べたところ、決して簡単では無かったことが分かって来ました。先ず、政府がアマゾンの活性化を図る方針を決めた理由は、上記の三項目は勿論のこと、当時、ぺルーが、ペルーアマゾンの イキトス市に自由港を設定するプロジェクトを感知し、アマゾン経済の主導権を取られることを避けるために どうしても マナウスの上記1957年発令マナウス自由港制度の活性化を図ることが必須の課題でした。又、コロンビアもブラジルとの国境付近のレテイッシア市に自由港を建設する計画の情報も入って来て、ブラジル、国境警備も当然のことながら、アマゾン地帯の経済圏を他国に牛耳られるリスクは軍部としては、何としても防がねばならぬ問題であったと推察できます。

しかし当時,企画省では ロベルト・カンポス大臣を中心に ガナバラ自由(ZONAFRANCA DA GUANARABA)の研究が進んでいました。首都のブラジリアへの移転(19561月)後 のRIO 市を自由港にしようという訳です。そこで、世界中の自由港、又、経済特区の制度、香港、シンガポール、アメリカのニューヨーク、ニューオリンズ、等々を虱潰しに調べました。.しかし、結局、カステロ・ブランコ大統領の意思のためか、{ZFRIO} は実現できず、調査の資料は全て ZFマナウスの設立に使われた様です。  (注)出所ROBERTOCAMPOS A LANTERNA NA POPA MEMORIA 2 より 転載)


イメージ 2
進出企業の工場風景

そして、いよいよ カステロ大統領 が動きます。1966126日カステロ・ブランコ大統領はマナウス市のアマゾナス劇場にて「第一回アマゾニア開発に対する恩典供与案」(REUNIÃODE INCENTIVO AO DESEMVOLVIMENTO DA AMAZONIA- I RIDA)の会議が、特別地方組織省のーアマゾニア オペレーションの一環として開催されました。出席者は、国家工業連盟、国家農業連盟を中心とした組織の幹部です。
翌日 明け方のベレン行き、ブラジルロイド汽船会社のROSADE FONCECA 丸に全員乗船し、会議はベレン到着迄、4日間に亘り行われました。各関係大臣、ブラジル北部各州知事、企業家、プロジェクト専門技師、財政投資家、有力報道機関、そして外資系企業代表者、等々429名が参加しました。会議は、丸三日間行われ、アマゾニアの発展の為、重大なる三項目、すなわち、住民社会の発展、経済の独立、国家統合等に関し徹底的な討議が行われました。
ROSA DE FONCECA
丸は1211日にベレン港に到着し、会議は終了しました。そして、その結果を纏めた「アマゾン宣言」(DECLARAÇÃODA AMAZONIA)が同日付では発表されました。
アマゾン宣言は「今回の会議で決議された優遇政策を忌憚無く実行に移し、連邦政府、並びにアマゾニア(アマゾナス州のみならず、ブラジルアマゾンの全ての州)の全ての州政府は一致団結しアマゾニアの社会発展、そして国家への統合を目指し全ての便宜供与に努力を惜しまない」という趣旨でした。何れにせよ、アマゾン地域開発にあたり、全ての関係者を4日間、世間より隔離し、真剣に討議された会議は、この後にも先にも唯一の会議でありました。現在のZFMは 軍事政権のお陰と思われます。
その結果、マナウス自由港の制度は1967228日 大統領令第288号により誕生を迎えました。発表された税制恩典は、
1-輸入税(連邦税)の免税、
2、工業製品税(連邦税)の免税、
3、商品流通税(州税)の還付、4.法人所得税(連邦税10年間100%免除(現在は75%)免除。期間は30年(1997年まで)と規定されましたが、後年何度も延長され現在は、2075年と定められています。
これらの税制恩典は前述 の監督局―SPVAに変わり設立された、SUPERINTENDENCIADA ZONA FURANCA DE MANAUS-SUFRAMA(マナウス自由港監督局)が設立され、各企業は3年間の事業計画をSUFRAMAへ提出し認可を受ければ恩典が供与されます。地方税の商品流通税(ICMS)の恩典は州企画局(SECRETARIADE ESTADO DE PLANEJAMENTO E DESENVOLVIMENTO ECONOMICO-SEPLAM)SUFRAMAへの申請と同様3年間の事業計画を提出し、認可を取得、規定に従い製品により還付率が決められます。法人所得税の控除は北伯開発局(SUPERINDENDENSIADE DESENVOLVIMENTO AMZONIA-SUDAM)同様の申請を出し、認可を受ける事が出来ます。
こうして、ZFMが 発足すると、税制恩典を目的に企業の進出が始まります。
第一号は アマゾン原産の砂金を原料にした貴金属メーカーでした。そして直後の1970年にはPANASONIC,71SHARP,同年GENTEC(GENERAL,JITU),73年 SANYO,同年PHILIPSそして 75年には HONDAがオートバイの生産を開始しました。この様にZFM発足一年目に約 50社が進出しています。
そして、50年の歳月が経ちました。ブラジルの政治状況、マクロの経済状況業績は、多くの山、坂を乗り越えながら現在に至っていますが、説明するまでも無く南米の地方開発プロジェクトとしては、突出した成功例として評価されています。
発足当時人口20万人足らずの過疎化の進む町は、現在250万人の都市に成長しました。2013年にはZFMの売上げが 410万億ドルに達し、記録を更新しました。
その後、伯経済の不景気で2017年は半減していますが、工業団地では約500社の工場が稼動し、生産能力は確保されていますので、ブラジルの景気が回復すれば、必ず業績は好転します。現に今年は 既にマクロ経済に好転の兆しが見え始めて来ました。金利の引き下げ、インフレの低下、労働法の改正等、ブラジルの近代化を目指した政策が施行され始めています。

前記の通り、ZFMの制度は2073年迄有効です。将来への課題はロジスチックの問題を含めインフラ整備、の必要は枚挙の暇もありません。そのうえに、将来の人材の育成が必須課題です。州政府は一応教育問題の改善を計っていますが、2012年の実態調査の記録が発表されています。
ZFM 開設以前
2012
総合大学、単科大学
19
修士、博士課程
73
研究、調査機関
州立学校
中,高校
208
保険所―病院を含む
464
GDP一人当たりアマゾナス州
14,620(R$)

以上の様な状況ですが、最初は専門職は全て先進他州より導入していましたが、漸くアマゾナス州出身の専門管理職が 工業団地で活躍し始めています。一方単純な一般直接工は、最初は 時間の観念を教えるのに 各社とも苦労されましたが、最近は 経験を積んだベテラン工も現れ、一般的に手作業の能率は非常に良好です。
上記資料で、まずは一生懸命やってることは推察いただけるものと思いますが、近年のような国の政治、経済の問題に対しての対策も新しい意欲が感じられます。

国内市場を目的とした工業団地の製品市場は輸出よりも国内市場、マナウスの市場はまだまだ小さく、アマゾナス州独自の経済基盤を開発する必要が生じます。そこで、ZFMの誕生以来、忘れられていた天然資源の開発が出来れば、財政的な問題は解消します。アマゾナス州は熱帯雨林保護、世界の気象現象を守るため、環境の保全を厳しく管理している為、豊富な天然資源は殆ど手が付けられていません。しかし、近年環境保全の新技術の発展等、資源開発の道が開かれようとしております。私共は、ゴム時代の様に、世界中がアマゾンの天然資源を必ず求める時代が来ると信じております。現に最近、中国による調査が増えているようです。
そういう観点よりも、日本の皆様のアマゾナスにおけるインフラ整備、環境保全事業、天然資源の開発等に目を向けていただきたいと願っております。長く成りましたが、5回にわたりアマゾナス州の歴史をのべてまいりました。しかしほんの一部しか、お伝え出来なく残念に思っております。私自身は、もう少し掘り下げ、例えば、例の縄文文化とアマゾンの関係等勉強したいと考えております。Para州サンタレン市の遺跡から出る土器はどこから見ても縄文土器なのです。
そして、どんなに苦しい状況でもジョークで笑い飛ばす ブラジル人の国民性は 私には未だに理解できないことが多々あります。結果として、非常に困難な状況を笑って乗り越える「術」を会得したいと願っております。
 

第7回ミナス日本祭り 盛況だった日本文化発信ブース ベロで110周年記念行事が開幕 サンパウロ新聞WEB版より

イメージ 1開会式に参列した来賓者
イメージ 2















ミナス文協ブースでは日本語ワークショップを開催

第7回ミナス日本祭りが23~25日、ミナス・ジェライス州ベロ・オリゾンテ市のEXPOMINASで開催され、同地の移民110周年記念行事が開幕した。会場では、協賛のミナス日伯文化協会(馬場英陵理事長)を始め、同州と姉妹提携都市である山梨県や、在リオ総領事館、JICA、国際交流基金などの日本政府関連機関もブースを出展。日本語のワークショップや、留学支援などが行われた。他にも日本食や、日本製品、漫画やアニメなど様々な日本文化を発信するブースが設けられた。
 毎年約2万人規模が来場する同祭。初日を迎えた23日は、まだ人出が少ない中、午後2時半から開会式が開催された。
 開会式には、在ブラジル日本国大使館から山田彰大使、リオ総領事館から星野芳隆総領事、在ベロオリゾンテ名誉総領事館のウィルソン・ブルメール名誉総領事、ウジミナス製鉄の森高弘副社長、セニブラの土肥直浩社長などが来賓として出席した。
 山田大使は「移民110周年の年に、(同祭りを通して)日伯の文化交流を発展させてほしい」とあいさつした。
 ウジミナスの森副社長は「2012年から始まった日本祭りにとって、2018年は特別な意味を持つ。日本移民110周年を迎える両国にとって重要な交流の場所になる」と語った。
 ミナス日伯文化協会のブースでは、同文協の活動紹介、日本文化のレクチャー、日本語のワークショップが開催され、同文協が運営する日本語会話コースの受付も行われた。
 同文協の会長補佐を務める赤木文雄さん(79、熊本)は「現地のブラジル人がここに来れば、日本の文化に触れられる」と紹介。馬場会長を始め、同文協関係者10人前後でブースを運営していた。
 JICAが運営するブースでは、日系人支援としての留学制度の説明が行われ、同市在住の帰国研修員同窓生(研修生OB)らも参加し、自身の経験を留学希望者に伝えていた。
 日本食販売ブースでは、日本の食材を使用した日本の弁当を販売する「MrBENTO」もブースを出展。3年前からブラジルに進出した同店は、同市に2店舗、サンパウロ(聖)市内にも店舗を構えている。向井アレキサンドレ社長は「全てが日本の味の弁当を広めたい」と話し、聖市に2店舗目の開業も決めている。
 また、別のベースでは日本食普及親善大使を務める小池信也シェフによる日本食のワークショップも開催された。
 同祭に、ブラジルの市場調査を兼ねて出展した日本企業の姿もあった。薬用品販売を行う「エフエイファーマ」は、ブラジルで競合しない商品として筋肉などを冷却する緩和剤を販売し、来場者の反応を見ていた。宮川貴之代表は「『肩や腰が痛いから』という顧客の声もあって、売れ行きは悪くないです」と話し、ブラジルでは普及していない配置薬システムの導入を目指しているという。
 会場では、盆踊りをブラジル人が見よう見まねで踊っている姿もあり、ステージでは太鼓などが披露されるなど、同地の110周年記念事業開幕に花を添えた。
2018年2月27日付

日系代表4団体が法務省に意見=「四世にも三世と同じ条件で」=(1) ニッケイ新聞WEB版より

イメージ 1

ブラジルのパスポート(Foto: Isaac Amorim/MJ)
















 日系四世に就労可能な日本での在留資格を与える新制度、四世ビザ問題について、日本国法務省がパブリックコメント(意見公募)を先月23日から1ヵ月間、公募した。それに対し、ブラジル日系社会を代表する関連4団体が、次に掲載する意見書を日本国法務省に提出した。コロニアの将来を考える上でも重要な問題であり、日系社会内のコンセンサス(意見統一)を促す意味で、ここに掲載する。(編集部)


「出入国管理及び難民認定法第七条第一項第二号の規定に基づき同法別表第一の五の表の下欄に掲げる活動を定める件の一部を改正する件(案)」等に係る意見募集に対する意見


2018年2月20日
法務省入国管理局参事官室 殿

ブラジル日本文化福祉協会 
ブラジル日本都道府県人会連合会
サンパウロ日伯援護協会
国外就労者情報援護センター


 在サンパウロ日系4団体は「出入国管理及び難民認定法第七条第一項第二号の規定に基づき同法別表第一の五の表の下欄に掲げる活動を定める件の一部を改正する件(案)」等に係る意見募集に対し、次の意見を申し上げます。

▼第1 意見の趣旨

 (1)在留資格について四世の日系人の在留資格を日系三世と別にするのではなく、同様に取り扱っていただくようお願い申し上げます。
 (2)四世の日系人のみならず、五世以降の日系人の在留資格についても配慮を頂きますようお願い申し上げます。
 (3)新制度導入にあたっては子弟の教育問題へのいっそうの配慮をお願い申し上げます。

▼第2 意見の理由

 (1) 日系一世は日本国籍を有しているのが通常です。したがって、従来から日本人として日本に入国し、在留することができました。日系二世についても、従来から「日本人の子として出生した者」として在留資格が付与されていました。日系三世については、従来は個別に審査し、「法務大臣が特に在留を認める者」として日本への入国および在留が認められていました。
 しかし、1990年の入管法改正で定住者の在留資格が創設されて、定住者として日本への入国および在留が認められるようになりました。
この法改正の後、多くの日系三世がいわゆるデカセギとして日本に渡航しました。そして、2007年末には日本に在留する日系ブラジル二世及び日系ブラジル三世の人数は31万7000人に達しました。
 入管法が日系三世に定住者としての特別の地位を与えたのを踏まえて、1993年の海外移住審議会意見は、移住者支援において、これまでの移住者本人を対象とした支援にとどまらず、概ね日系三世までを対象とすることが必要且つ適切であるいう方針を打ち出しました。
 これによって、三世までの日系人が移住者支援の対象になりました。しかし、その陰で日系四世は日系人の定義から除外されてしまいました。

 (2) 日系四世が日系人の定義から除外されているという状況に対して、私たちはこれまでに多くの不満の声を聴いてきました。ある人は単に祖父が日本人であるというだけで、他の親族はすべて他国にルーツを持っているのに日系人としての保護を受けています。これに対してある人は、父方母方いずれの祖父母も日系人で本人は血統的には100%日本にルーツを持っているのに、日系人としての保護を受けられません。こういった不満です。同じ日系人として生活している者の心情としても、日本人の血を引く日系人に定住者の在留資格を認める1990年の入管法改正の趣旨からしても、このような不満が出てくるのは当然のことだと思います。
 私たち日系団体にも、徐々に四世あるいは五世の仲間が加わっています。日系社会で生活する上で、三世も四世も何も違うところはありません。
 しかし、ある人は三世なので日本で生活することが許され、ある人は四世なので日本では生活できないのです。同じ日系人でありながら、同じ日系社会という環境で暮しながら、このような差が生じていることは残念でなりません。
 それから、リーマンショックの際に、いわゆるデカセギ子弟が多数ブラジルに帰国したことによって生じた新たな問題もあります。今年1月5日にも、在学中の日系四世の親が帰国した場合に、当該日系四世の告示外定住を認める通達が発出されています(平成28年1月5日付法務省管在第57号)が、リーマンショックが発生した2008年以降、多くの日系四世が、親である日系三世のブラジルへの帰国の影響を受けて、自身もブラジルへの帰国を余儀なくされてきました。
 彼らは日本で育ったいわば「新日系一世」とでもいうべき存在です。ポルトガル語ではなく日本語を母語とし、ブラジルの日系人というよりも日本人の文化を身に着けている者が多くいます。しかし、日本に渡航して生活することは許されません。(つづく)

《ブラジル》ジャパン・ハウス=さらなる戦略的対外発信を=堀井外務大臣政務官がブラジル初訪問=「英米JHはサンパウロ市に追いつけ」 ニッケイ新聞WEB版より

イメージ 1
霊碑を訪問した堀井外務大臣政務官
 堀井巌(いわお)外務大臣政務官(参議院議員、自民党、52、奈良県)が24日、ジャパン・ハウス(JH)における戦略的対外発信の強化のためブラジルを初訪問した。同政務官はJH、イビラプエラ公園内の慰霊碑、日本館を訪問。移民史料館も訪れ、ブラジル奈良県人会を含む日系団体代表らと懇親夕食会を行った。日本館では本紙取材に応じ、JHの戦略的対外発信の展望を語った。

 堀井政務官は23日に日本を発ち、同日にロンドンに到着。今年中のオープンを目指して突貫工事中の同地JHを視察した。なお米国ロサンゼルスのJHは昨年末から一部、今年8月頃に全面開館を予定している。
 当地のJHが昨年5月の開館からこの1月までの9カ月間で来館者数65万人を記録したことに触れ、堀井政務官は「予測よりはるかに多くて嬉しい限り。JHサンパウロは世界で最初に開館し、日本政府からの期待も高い。他2館はJHサンパウロに追いつき追い越せで頑張って欲しい」と笑顔を見せた。
 先月同館で日伯有識者による政策論議『日本と東アジアの安全保障 ブラジルにとって重要であるか?』というテーマの講演が行われた経緯について、「日本とブラジルは遠いようで近い国。ブラジルの人にアジア地域について知って欲しいという意向もあり、同地域の安全保障の話題を扱った」と説明し、同様の情報発信事業が今後も続くことに強い期待感を伺わせた。
 奈良県橿原市出身の堀井政務官は、「奈良県とブラジルの関係も深まると嬉しい」と語り、再度のブラジル訪問を約束した。同県は「日本の始まりの地であり、多くの外国人旅行者が日本の原点を知りに来る。埴輪や五重塔など日本独特の美の感覚も奈良県が発祥。ぜひブラジル人、奈良県人子孫にも来て欲しい」と呼びかけた。
 ブラジルの印象を尋ねると、JHの人気ぶりや慰霊碑などから「先人が築いてきた歴史の重みを知ることができた」と語り、「東京都でも現在、四世など日系ブラジル人の存在が話題になっている。現在国会会期のため時間がとれないが、ブラジル日本移民110周年も応援している」と述べた。
 堀井外務大臣政務官は2013年に第23回参議院議員選挙で初当選した。その後外交防衛委員会筆頭理事、東日本大震災復興特別委員会委員、17年8月第3次安倍第3次改造内閣時に外務大臣政務官に就任した。

≪学移連ヒストリア講演会≫ 五味さんの写真と報告が届きました。

和田好司・富田眞三様・50MLの皆様へ
 
学移連ヒストリア講演会での五味の私的報告

218日(日)午後 JICA横浜であり、講演内容は、.  拓大移住研活動とエクアドルでの社会貢献活動の実践:井上順八 .  早稲田移住研活動と一次派遣団・羽嶋団長の思い出:佐藤喬 .  揺籃期の学移連と葛西委員長の思い出:今村 邦夫(日大OB)であった。

 まず井上氏は、今村氏がエクアドルに来た時の裏話をして盛り上げて、
拓大は、学移連創設期から委員長を出し、活発な活動をした。エクアドル
でマンタの子ども達への社会貢献で政府からも感謝された活動が報告された。
次に早大移住研の佐藤氏は、一次派遣団の羽嶋団長の思い出を鹿児島の
西郷隆盛の話しをまじえて面白く語り、多くの学移連委員長を輩出し活躍
した事などを語った。
 私は、前々から今村氏にお会い出きる機会があれば思っていましたので、
「残された宝庫南米ボリビア」(昭和29年発行)の著者の尊父今村忠助代議
士の事などをお聞きしたくて待っていました。講演直後にメキシコでも付
き合いのあった親友富田眞三氏に紹介して頂き、懇親会でゆっくりお話し
が出来ました。尊父は、野田良治著の「新南米」のみでボリビアの知識を
学び、ペルー大使館の高島理事官と日本移民入植適地視察を日系人の方々
とサンタクルスの地に求めた。西川移住から始まったサンファン移住地は、
5年後に立て直しを図るため、農林省出向で外務省派遣の後藤連一書記官が
中心となって全体業務の指導にあたることになり、移住地に「一連山荘」
と名付けた茅葺の小屋に常駐した。その後、1978年に学生移住連盟顧問と
してサンファン移住地を再び訪れたが学移連の移住者は皆無である事など
を話した。また、尊父の曾孫さんが、今村忠助氏の研究を始めたとのこと
で話もはずみました。
2次会は、富田・井上氏と共にホテルの俱楽部で昔話などお聞きすること
ができ愉しいひと時でした。50MLに井上氏が参加したのは、同船でエク
アドルに行った故菅間氏(早大)と一緒にマリコさんの“クラブけい”に
行った時で、写真の最後に添付します。
五味 茂より


イメージ 1


イメージ 2


イメージ 3


イメージ 4


イメージ 5


イメージ 6


イメージ 7


イメージ 8

↑このページのトップヘ