私たちの50年!!

1962年5月11日サントス着のあるぜんちな丸第12次航で着伯。681名の同船者の移住先国への定着の過程を戦後移住の歴史の一部として残して置く事を目的とした私たちの40年!!と云うホームページを開設してい居りその関連BLOGとして位置付けている。

2018年09月

日本館の貴重な所蔵品 聖市制400周年時から貯蔵 サンパウロ新聞WEB版より

花談議317≪先日のサンパウロらん展の写真3≫ 松栄さんからのお便りです。

ネットの皆様  展望台の皆様
 
先日のらん展で撮影した、ランの花の写真。
 
最後に添付のが、今回販売会場で見つけて購入したカトレア・ワルケリアーナです。私好みのセミアルバ(準白色系統)です。
この赤と白のコントラストが、溜まらなく好きで、見つけたら欲しくなる。
ので困ります???
 
ワルケリアーナとしては、考えていたほど高価(150レアル=3500円)でな
かったのが幸いでした。
しかし、同じ店で売られていた薄いピンク一色の、同じ系統のノビリオール種
は・・・5500レアル(14万円)、の値が付いていて、目が飛び出ましたが、。。。
 
同行してもらった杉本さんの話では、妥当な値段、なのだそうです。
 
今回のグランプリもそうでしたが、開催のタイミングが良かったのか大作がおおかったようで、グランプリ作出者の郭さんなどは大株を5株くらい同時に咲かせて、出品されていました。
 
今回のグランプリは、小型主と思われるエピデンドラムで、なんと2,40cmにも
成長させた株に、数えきれないほどの花を満開にして、の出品でした。
 
最後の白赤(1801jpg)が、購入したワルケリアーナのセミアルバです。
 
    サンパウロ在住    マツエ

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―移住に賭けた我らが世界― 第2章 飛躍期④ サンパウロ新聞WEB版より


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移民を『苦学』すると大きく報じられた第1次団(1960年10月10日付読売新聞教育面)

~もう一つの学生運動~ 日本学生海外移住連盟 外史
海外実習調査の幕開け ㊦ 第1次南米学生実習調査団員

岩井元長(東京水産大)、加藤伸弘(関学)、新谷正(関学)、小宮山宏明(早稲田大)、伴内季雄(日大)、狭間晋(東京農大)、大束員昭(神奈川大)
 その頃の羽嶋君と芝田君の決意たるや我々も圧倒されるものだった。例えば、彼等は岩井君と大束君に、次のような決意を打ち明けたものである。
 「我々二人は来学年には学業はおろか命をもかけて、この学生海外実習調査団実現に取り組む。来学年中に実現する保証は全くないことは覚悟の上だが、この運動は必ずや日本の将末に有意義な成果をもたらす確信がある。各部門の代表者がその国の最低賃金、すなわち移住者の最低保証レベルで実習・調査することは学生でなければ出来ないことだ。学移連以外には誰にも出来ないことだ。我々こそが日本の大学生を代表して、政府や財界に日本の将来をいかに真剣に考えている学生グループがあるかをアピールしなければならないのだ。この運動には君達、水産と工学部の二人の参加は欠かせない。一年でも二年でも留年するくらいの覚悟で俺達と一緒に運動してくれないか」と問い掛けて来たのである。
 彼等二人の名コンビぶりはそれ以来一日たりとも休むことなくありとあらゆる方法で、政界・財界への趣旨説明の活動を続けた。その甲斐あって、我々の運動はかなり早いスピードで、政財界から一定の評価を受け、八月の初旬ころ総理府及び外務省の理解・支援をいただけることになり、急ぎ十二名の団員選考が行われた。そして九月初旬には船賃を節約する為にウジミナス製鉄所建設資材を運搬した貨物船などに安い経費で便乗させてもらう交渉も成立した。
 協力いただいた船会社は、日の出汽船・二艘(八名)、大阪商船一艘(二名)、日本郵船一艘(二名)。したがって、団員は四班に分かれて出港した。
■第一班農業部門=伴内、狭間=十月十八日に大阪商船チャーターの「錦光丸」で神戸港より
■第二班商業部門=故羽嶋団長、加藤、及び水産部門=岩井副団長、簑輪和彦(東京水産)が十月末に日の出汽船「熊の丸」にて晴海埠頭から
■第三班農業部門=故芝田副団長、故坂上光昭(大阪府大)(出港記録不明)
■第四班商業部門=新谷、犬塚一臣(中央大)、及び工業部門一小見山、大束が十二月一日に日の出汽船「春栄丸」で大阪港から
 もしもあの時点で杉野先生のような理解者に巡り合えていなければ、羽嶋君が第一次団の報告書で、下記のような自信に満ちた団長報告も出来なかったであろう。
 第一次団報告書・団長報告よりの抜粋。
 『計画当初はこの実習調査形式とその根本精神に対し、滔々と異論を述べる者もいたが、真実なるものへの探究心は我々の胸から消すことは出来得なかった。当初幾多の困難が我々の計画の前に横たわり、ややもすると挫けそうになったことも幾度あつたかも知れなかった。しかし、我々の熱意溢れる計画に対して外務省でも出来るだけの協力をしてくださる事を約束され、又、折から訪日中の伯国日系人の中の理想と実践力の人野村農場支配人牛草茂氏の賛同をいただき、工業、水産部門を除く八名の引受人となって下さり大きく一歩前進し、前途に希望を与えて下さった。我々自身で、計画から実行まで全ての事を成し遂げた喜びは、団員全体の空気としていやがうえにも盛り上がり、我々の後に続く者の為、又、今後の平和的海外発展の礎となる自負と、使命感を持って一致団結を誓い、全国の賛同者、同志に多くの期待と心からなる祝福を受けて、(最終船の第四班は)一九六〇年十二月の小雨降る大阪港を未だ見ぬ異国への思いを走らせ、万感胸に迫る思いで日の出汽船春栄丸で出発したのである。』
 その後、各々がブラジルでの実習生活に入ってからも羽嶋君と芝田君の名コンビぶりは遺憾なく発揮された。
 第一次団の構想、すなわち、学生が各々の専門分野で、一年間移住者としての実習体験を通して、その国の実情を調べ、結果を日本政府および全国の学生たちへ報告するという案が、日本では当時の全学連の反政府運動と対比されてか、政財界から一定の評価を受けたことは既に触れたが、実はブラジルでの評判は実習引き受け先によって千差万別だった。
 更に、学移連にとっては初めての海外実習調査団の派遣だったので、団員間の相互認識にも差があり、団員たちの間には受け入れ先から不当と思われるような扱いを受けた者もあり困惑した。そういう想定もしなかった状況下でも第一次団からは脱落する者も病気に悩んだ者も出なかった。それは派遣団出発前に当時の大平官房長官が総理からの伝言として伝えてくださった「日本国の民間大使として国名に恥ないような十分な活躍を期待する」
 とのお言葉を、ブラジルの広大な地域に散らばった我々全員が常に心がけることが出来るように派遣期問中を通してサポートをしてくださったお陰である。
 この実習制度を実現に漕ぎつけた羽嶋、芝田の両君や、二人を終始支援してくださった杉野先生を偲び、後に残された者たちとして、全員の感謝の意をこめて、この史実をまとめた。(つづく)
 (この原稿は、学移連OB会設立準備会が2010年に出版した「我が青春の学移連」の第1次団団員の皆さんが書いた「海外実習調査の幕開け」を転載したものです)
2018年9月28日付け

第39回書道愛好者展のハイライト23日(日)の午後3時15分から先生方のデモンストレーションが行われました。(第2弾)

書道愛好者展のハイライト書道の実演デモンストレーションを動画で紹介する欄の第2弾として若松如空先生の面白い3500年も前に使われていたという象形文字に近い字の分かりやすいデモンストレーションで見たいた人を楽しませて呉れていました。特に女性と云う字に点、点を付けそれがオッパイを表し女性から母に代わり母が家の中に居ると一家の主になるとの説明には、皆さん感心していました。動かす、動と云う字と2編を紹介して置きます。来賓席に座っておられる文協副会長さんと砂古さんの写真も添えて置きます。



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―移住に賭けた我らが世界― 第2章 飛躍期③ サンパウロ新聞WEB版より

イメージ 1第1次団団員 後列左より=小宮山、犬塚、新谷、芝田副団長、加藤、前列左より=坂上、岩井副団長、羽嶋団長、大束、蓑輪(左上=伴内、下=狭間)

~もう一つの学生運動~ 日本学生海外移住連盟 外史
海外実習調査の幕開け ㊤ 第1次南米学生実習調査団員

岩井元長(東京水産大)、加藤伸弘(関学)、新谷正(関学)、小宮山宏明(早稲田大)、伴内季雄(日大)、狭間晋(東京農大)、大束員昭(神奈川大)
 葛西らの南米学生親善使節調査団が1960年4月下旬に帰国したが、それから約半年後の同年11月に第6期委員長の羽嶋禎紀(早稲田大)、芝田可行(東京農大)の二人が中心となって第1次南米学生実習調査団12人の派遣を実現した。この派遣制度は以後、学移連が閉鎖される直前まで毎年送り出し、つごう35回の海外実習調査団が派遣された最重要事項だった。
 羽嶋が切り開いた事業の検証をする前に、同派遣団の団員としてブラジルに渡航した岩井元長(東京水産大)、加藤伸弘(関西学院大)、新谷正(関西学院大)、小宮山宏明(早稲田大)、伴内季雄(日大)、狭間晋(東京農大)、大束員昭(神奈川大)が、学移連創立55周年記念誌「我が青春の学移連」(2010年発行)に共同で執筆した「海外実習調査の幕開け」を転載する。当時の派遣団員が何を考え、行動したかがよくわかる。【編集部】
     ◎
 学移連設立五年目(昭和三五年)を迎えるにあたって、当時の第六期委員長・故羽嶋禎紀君(早大)、副委員長・故芝田可行君(東京農大)の二人は学移連設立以来最大の転機を迎えることになった。
 昭和三四年に第五期委員長・故葛西清忠氏(拓大)の下に、富田眞三氏(早大)、今村邦夫氏(日大)、故・菊池廷氏(東京農大)等の働きで、九月十八日に学移連主催、朝日新聞社後援、岸総理大臣主賓の「南米事情講演会」を神田共立講堂で開催することに成功。続いて学移連最初の海外派遣、「南米学生親善使節調査団」三名(拓大・葛西清忠氏、東外大・山本博康氏、天理大・山崎亮二氏)を十二月二四日に送り出した。
 その後を引き継いだ第六期委員は、来年度(昭和三五年度)の学移連全国運動に『海外派遣』をどのような形で継続して行けるかの方向付けと、先輩達が切り開いてくれた戦後初めての学生独自の世界事情調査への道を途絶えさせられないという責任感に迫られたのである。
 具体的に、親善使節と言う形では、毎年派遣を繰返す可能性は無いし、海外進出・海外移住と言う連盟の学生達の夢との結びつきが薄い上、派遣出来る学生数に制限が出るであろうと言う危惧の中での模索だった。
 ちなみに、当時の社会背景は、昭和三四年四月・皇太子ご成婚、五月・第十八回オリンピック東京開催決定、六~八月・岸総理ヨーロッパ、南米十一ヶ国歴訪、九月・伊勢湾台風、十一月・安保阻止第八次統一行動の国会請願デモ隊約二万人の国会構内入り等。昭和三五年一月には新安保条約調印全権団の米国への出発反対全学連の羽田空港座り込み、五月・全学連による首相官邸突人、六月・安保改正阻止実力行使に五〇〇万人参加、六月・全学連国会突入・東大生死亡、七月・岸内閣総辞職などと、戦後最大規模の大衆運動の波が日本中を巻き込んでいて、デモに参加しない学生はまれな時代だった。
 まさにこういう戦後日本史上でもまれに見る混乱期に我々一次団は故杉野先生のご理解・ご支援と、羽嶋君と芝田君の名コンビによって邂逅することができたのである。
 糸口は、芝田君が東京農大・海外移住研究部がかねてから抱いていた東京農大単独の学生ブラジル実習制度が学移連を通して実現出来れば、東京農大生だけでなく日本全国の大学生達に新しい形の夢を与えられるのではないかと、羽嶋君に持ち掛けてきた事である。
 それをすかさず羽嶋君は学移連役員会にはかり、まずは当時日本からの海外移住者が最も安定して働いている国・ブラジルで多くの移住者が直面するであろう最低レベルの給料で、一年間の専門分野実習兼調査に農業、工業、水産、商業、文化、医療部門(計十二人)の希望者の存在の有無を、加盟全大学(三十六校)に打診した。
 結果として、医療部門の希望者が皆無の見通しになったので、農業、工業、水産、商業の四部門、計十二人とする方針を立てた。その時点で初めて、芝田君を通じて、杉野先生から東京農大案を学移連案として展開することの許可をいただいた。これを契機として、我々は以後全面的に杉野先生にお世話になり、第一次団の成功に結びついたのである。
 説明するまでも無いが、この派遣形式の最大の特徴は、(一)学生でなくては出来ない真剣な調査計画、(二)こういう形の派遣の前例がなかったこと、(三)滞在期間中の個人負担が少なくなること、(四)何よりも、学生独自が立案し実現したことにあった。(つづく)
2018年9月27日付け

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