私たちの50年!!

1962年5月11日サントス着のあるぜんちな丸第12次航で着伯。681名の同船者の移住先国への定着の過程を戦後移住の歴史の一部として残して置く事を目的とした私たちの40年!!と云うホームページを開設してい居りその関連BLOGとして位置付けている。

2018年10月

新風が吹きぬけた統一選挙=聖市在住 諸川有朋=10月13日記 ニッケイ新聞WEB版より

イメージ 1
ボウロナロ大統領候補(Fernando Frazão/Agencia Brasil)

<その1>
 選挙により、国民に合った政治家が選出されると言われ、国の政治が良くなるのも悪くなるのも、元々は国民の責任であると言われ、私達日系人はよく親達から「清き一票を」とよく聞かれた。

 しかし、私達の見解では本当にだれがブラジル国の発展と国民の為になってくれるのか解らないで、最終的には知人の要望や心に無い夢のような目的を公約し、当選した後は自分の為にのみ行動をとる人に投票してしまう事が多くみられる。
 または、立候補者がどんな人物であろうと、自分に少しでも便宜を図ってくれた人に投票するのが一般的である。私はそのようにならないようにと思いながら、家内と共に6人の候補者の番号を書いた紙きれを持って、10月7日7時50分に出かけ、選挙に望みました。そこでこの重要な選挙に付いてコメントさせていただきます。

イメージ 2
ハダジ大統領候補(Ricardo Stuckert)

▼選挙の数字

《1》ブラジル国の26州と首都が構成されている5570の郡(MUNICIPIO)に45万4493の電子投票機(URNAS ELETRONICAS)が設置された。
《2》240万人に近い管理人員が、選挙法に基づき訓練を受け、選挙日(日曜日)に動員された。その内130万人が無給ボランテアであった。
《3》★ブラジル国の有権者数「1億4730万人」
★うち20・3%(2868万人)が欠席
★投票を行った有権者は11862万人
 欠席率の高い理由は70歳以上は投票義務が無く、老齢者の多い事やブラジルの政治の悪さにあきらめている人も少なくないようでした。
《4》「候補者数」と「議席数」
(A)大統領候補13人に対し、1議席
(B)上院議員(各州1か2)候補者358人に対し、54議席
(C)下院議員(人口比率によって州ごとに異なる)候補者8591人に対し、513議席
(D)州議員(各州の人口による)候補者1万9055人に対し、1059議席
(E)州知事の候補者199人に対し、当選者は27人のみ。
【候補者合計】2万8216人

【A】大統領選
 10月28日の大統領決戦投票に望む上位二人の候補者フェルナンド・ハダジとジャイール・ボウソナロの経歴と施政方針が詳しくインターネットで広報されております。
 10月13日の世論調査によるとハダジ氏が東北伯地方で有利、他の4地方でボウソナロ氏が有利となっており、全体の42%がハダジ氏、58%がボウソナロ氏を支持していると公表されている。両候補者の政治論争はテレビ、インターネットを通じて続き政治評論家の解説も多く見られ楽しみである。
【B】上院議員選
 このたびの上院議員選挙では、合計81名の総議席の3/2(54議席)が入れ替えとなり、358人の立候補がった。現職32人が再選に名乗りを上げたが、8人しか通らなかった。
 残りは新人候補に奪われてしまった。上院議員議長、副議長を始め多くの長老政治家、大臣経験者、州知事を務めた有力者が落選し、85%が新しくなった。

【C】下院議員選
 下院議員の513議席を8591人の立候補者達が争い、再選に望んだ多くの現職議員が落選し、243人の新人に議席を奪われた。およそ半分近くが新人に替わった。
 今回の選挙の特徴は政治党派(PARTIDO POLITICO)が25から30に増えた事。大きな党派と称されていたPT党、PSDB党、MDB党の議員が大幅に減少し、小さな党と言われていたPSL党、PDT党、REDE党、PSOL党、NOVO党などが議員数を増やした。
 特にPSL党は前回の当選議員が1人だったのに、今回は52人を選出し、全党の第2位となった。ボウソナロ人気の影響とされている。また全体的に年齢が若くなり、軍人、女性議員が増加した。

▼選挙資金

 ブラジルの新選挙規定により、どの政治党や政治家も、選挙への寄付を企業から貰えなくなったために、政府は巨額な選挙資金基金17億万レアイスを許可、設定した。その資金は党派の大きさによって配付された。上下院議員の内44・7%がこの資金により助成をうけたにもかかわらす、11・62%のみが当選した。また、100万レアイス以上の助成金を受けた議員359人の立候補者の内175人のみが当選した。
 選挙助成金を使わなかった候補者の当選率は非常に少なく、わずか2%であった。例外として政治資金助成金を全然うけなかったPSL党及びREDE党は、ボウロナロ氏の政治力によって見事多数の議席を獲得した。
 今回の統一選挙で感じられた事は、ブラジルの政治、多くの政治家達の不正に国民はあきれ果て、新しい思想を持った政治家に変えなければならない事に過半数以上の国民が目覚め、その結果が表れたものだと思います。

<その2>ボウソナロとはどんな人物か?=10月22日記
イメージ 3
諸川有朋さん

まず、彼の略歴を説明したい。
 ジャイル、ボウソナロ氏は1955年3月21日にグリセリオ市(GLICERIO市は人口わずか4801人)の小さな町で、兄弟6人の三男として生まれた。
 この町はサンパウロ州ノロエステ地方のプロミソン市とビリグイ市の間にある。しかし、父親によってカンピーナス市に戸籍登録がなされた。
 父はドイツ系で母はイタリア系。彼が幼児のころに家族と共に転々と引っ越しが続き、最初にリベイラ市に移転、1964年にジュンジャイー市、1965年にセッチ・バラーラス市に、1966年にエルドラド市を転々とし、1973年に兵士訓練学校に志願。一年後に陸軍養成専門学校(AMAN=AGULHAS NEGRAS)入学、1977年に卒業した。
 卒業直後、リオ第8軍隊の兵士として入団し、落下傘部隊で訓練を受けた。1979年から1981年に南マット・グロッソ州で第9師団に入団。1982年に兵士体育専門学校を卒業した。
 1986年にはリオの第8軍隊の落下傘部隊のカピトン(大尉)に任命された、
 しかしその年に、彼は「兵士の給与が安すぎる」という一文をVEJA誌に公表し、軍隊の秩序に反するものと軍事裁判所より裁きを受け15日間拘束された。
 しかし軍人仲間から150通もの賛同電報を受け取った。その後も軍隊に反する行為を実行したと報道され、フィゲイレード大統領、ニュトンクルス大将当時、1988年にボウソナロ氏は予備役(CAPITAO DE RESERVA)にされてしまった。
 犯罪容疑者と見なされていたが、結局は2年後に軍事裁判所によって無罪との判決を得た。
 そんな1988年より政治生活が始まった。1988年、政治運動に加わり、リオ市の市会議員に立候補して当選し、政治家としての活動を開始した。
 1990年の選挙で下院議員に立候補し、リオ州で一番多い46万4千票を獲得し、当選を果たした。
 1991年より下院議員として活躍を始めて7回続けて当選し、最初にPDC党に加入、93年~95年にPPR党、95年~2003年にPPB党、2003年~2005年にPTB党、2005年にPFL党、2005年~2016年にPP党に、2016年~2017年にPSC党、2018年から現在までPSL党に加入した。
 27年間の下議生活をへて、大統領選挙に望む事を決意した。
 PSL党を土台として立候補のスローガンは「BRASIL ACIMA DE TUDO、DEUS ACIMA DE TODOS」。意味は「すべてをブラジルの為に、すべての人々が神を崇めること」と言う表現を採用する事にした。
 2017年にINSTITUTO FBS PESQUISA (FBS)調査局により、ボウソナロ氏が社会的に最も影響力を与えた下院議員であったと公表された。

▼ボウソナロ下院議員の意志と目的

 私が数週間前にボ氏が記者会見するのを見たときに、記者は「貴方はただの下院議員として長年勤めてきた。だが、大臣になった経験が無いのにどうして大統領候補に出馬するのですか」と問われた。
 ボ氏は次のように答えた。
     ◎
 私は他の下院議員以上にプロの政治家として、自分の金儲けでは無く、ブラジルが良くなるためには何をしたら良いのか、しなければならないのかを、真面目に熱意をもって国民の代表として働いて来ました。そして多数の専門委員会に参加し、数年の間に172の法的プロジェット、5の憲法修正法(PEC)、委員会に対して470の追加プロジェットを提出した。だが可決されたのはほんの僅かで、同席議員から、貴方の考えは右翼派すぎて可決できないと言われました。そこで自分の真面目な考えを実行するにはどうしたらよいのか考えはじめた。
 『長』にならなければならない、と思うようになり、下院議員議長に3回立候補しましたが、僅かの議員から支持されたのみでした。
 そこで私は戦略を変えて、自分が真面目にブラジルを良くしたい考えや、ブラジルの政治改革、新しい考えの必要性、国民の考えを変える必要性を、確信を持って下院議員一人一人に説得を続け、百人以上の下院議員の仲間、同志に賛同が得られた。
 労働党の政治のやり方に初めから常に反対し続けてきた。また、下院議員の役割として、ブラジル中をできるだけ歩き(自分の費用で東北伯、北伯(ロライマ)、中部、東部、南方(リオ・グランデ・ドスールを歩き)、地方の問題点に理解を深めて、ブラジル全体の問題を把握した上、それらの問題を解決するために大統領に立候補した。下院議員を27年務めたうちに育った願望である。
    ◎

 私は上記のインタビューを拝見してから、ボウソナロ下院議員の真面目さ、長年望んでこられた意志に賛同するようになった。ブラジル中の国民、特にインターネットを通して情報を得ている多くの国民も賛同をしているものと思われます。

≪ブラジルのトランプさん≫ 岡山滞在中の山下リオさんからのお便りです。

山下リオです
ブラジルのトランプさん。
まずは当選おめでとうございます。
上院81議席:与党57議席70.4
下院512議席:与党363議席70.8
新政権に大改革を期待します。

Gazetado povoにわかりやすい図がありました。

 PTに勝つことはできたが44.87%の反対派が存在し、これをどう抑えていくかがこれからの課題になる。
PSL76%以上の票で勝てた州はAcre77.22%)
以外には存在しない。地元のリオでも67.95%。
逆にPiauiPT76%以上(77.05%)である。
北東伯全体でPT63%以上であり、北東伯への政策が非常に重要になる。
イメージ 1
実は市別では2758市対2812で負けている。
反対派が北東伯をはじめ全土に存在する。
イメージ 2
上院81議席:与党57議席70.4
下院512議席:与党363議席70.8

第49回県連ふるさと巡り⑰  サンパウロ新聞WEB版より

イメージ 1あいさつする安永連合会会長

ビリグイで移民110周年追悼法要

イメージ 2
移民110周年追悼法要の様子

 5日目の9月24日午後6時、ビリグイ日伯文化体育協会(田中オズワルド会長)会館で行われた「移民110周年追悼法要兼夕食会」に向けて、ふるさと巡り一行はアラサツーバのホテルを出発した。
 午後7時頃、同会館に到着した一行は、ノロエステ連合日伯文化協会の安永信一会長や、同協会関係者らに歓迎されて、会場に入った。
 追悼法要では、アラサツーバ所在のノロエステ西本願寺の井上●(※人偏(にんべん)に譲の右側)信(じょうしん)導師(41、東京)が、読経を読み上げる中、同協会の田中会長、安永連合会会長に続いて、一行が一人ずつ焼香を上げ、先人への祈りを捧げた。
 井上導師は法話で「110年も111年も同じように、一日一日大切な日が続いていく。今日ここにやってきたことが思い出の一つになり、多くの人とつながれたことを感謝してください」と話した。
 川合昭団長(83、秋田、県連副会長)は「このような素晴らしい会館で、ビリグイでの110周年追悼法要を迎えられると思っていなかった。安永会長らのお陰です」と謝辞を述べ、「今回の旅行で感じたのは、県連が地方の日系社会と協力して、ブラジル日系社会に努めていかなくてはいけないということ」と決意を語った。
 法要の後、クラブ・ロータリー・デ・ビリグイ19デ・アブリルの理事から、ビリグイ市の景観や産業、交通インフラの発達、人の営みなど、同市を様々な角度から撮影した映像が一行に紹介された。
 アラサツーバ市から約13kmに位置する同市は、1911年に創設された人口約12万人の都市。「ビリグイ」とはインディオの言葉で、小さな蚊を意味するそうだ。現在は靴製造の都として名を馳せている。
 また、ビリグイ日系社会の歴史をまとめた同地100周年記念誌『A INFLUENCIA DA IMIGRAÇÃO JAPONESA EM BIRIGUI 1908-2008』が川合団長に贈呈された。同記念誌は、安永連合会会長が同日本人会会長時代の2008年に、移民100周年を記念して製作されたもの。記念誌は食事中に一行の手元を回り、移住当初の貴重な写真などを見つめて歓談する参加者の姿があった。(戸)(つづく)
2018年10月26日付


第49回県連ふるさと巡り⑯ サンパウロ新聞WEB版より

イメージ 1入植100周年記念碑「拓魂之聖塔」と山田さん

100周年を超したA・リンパ植民地

 1915年に入植が始まったアグア・リンパ植民地(旧ビリグイ植民地)は、2015年で入植100周年を迎え、盛大な記念式典が挙行された。記念式典には、来賓や同地に縁にある人ら総勢約300人が出席した。同地には、旧アグア・リンパ日本人会館敷地内に、入植100周年記念碑「拓魂之聖塔」が建立されている。
 同地で生まれ育った山田英一さん(84、3世)は、同地の繁栄に、同日本人会と日本語学校の存在が欠かせなかったと振り返る。同日本人会は、入植開始当初から存在したそうで、入植者の集い場として、同地居住者の交流促進に役立ったという。戦後になり、1952年に同日本人会会館が建立されている。
 日本語学校は、入植開始から4年後の19年に建設され、初代教師に高橋麟太郎(りんたろう)氏(ノロエステ連合日伯文化協会元会長)が就任している。戦前の間、多くの子弟が日本語を学び、戦時中に日本語禁止令が出されている間は、昼間に住宅まで教師が通い、生徒の指導に当たっていたそうだ。
 戦後、日本語学校校舎は49年にブラジルの私立学校「グルーポ・エスコーラ・ゴメス・カストロ」に土地を提供し、廃校となった。52年からは、同会館で日本語教室が始まったが、翌年に教師がいなくなり、山田さんら青年がその後数年間にわたり教鞭を執っていたという。さらに、山田さんは「戦後はここでも、勝ち組と負け組の抗争に敏感になっていた。アグア・リンパでも多少の揉め事はあったけど、近くの地域では、命をとることも。アグア・リンパはみんな注意を払っていた」と当時の状況を証言する。
 また、同地は芝居劇が盛んで、戦前から居住者の楽しみの一つだった。55年に同地最後の芝居が行われる際には、山田さんも登壇し、演技を披露したという。
 63年、山田さんら有志が集まり、同地で最初となる慰霊碑を建てた。2年毎に、9月7日に慰霊祭を開催し、先人を弔うことも欠かしていない。山田さんは「開拓に苦労した人に世話になったから、先祖を大切にしたい」と何度も口にしていた。
 現在は慰霊碑の隣りに100周年記念碑もあるため、2つの碑の前で慰霊祭を行っている。今年は同地出身者の家族ら含む135人が集まったそうだ。居住者が少なくなろうと、同地の先祖への想いを持った人はまだまだいるようだ。(戸)(つづく)
2018年10月25日付

花談議326≪雨合羽を着たジョン≫ 古谷さんからのお便りです。

しゅくこさん
   古谷です
 
ご無沙汰しました。お元気の様子、大慶に存じます。
 
当サンパウロ市は、此処暫く鬱陶しい天気が続きました。
我が家の愛犬ジョンは、雨の降らない日は、前足を前後に挟むリードを付けますので、首が自由になり、思いっきり私を引っ張って、好き勝手に歩き、喧嘩相手を見つけるや飛び掛からんばかりに暴れますが、雨天の時は、雨合羽の構造上、首輪を付けねばならず、体の自由が利かずトボトボと歩きます。
 
尤も、良くしたもので、雨天では他所の犬は外出しませんのでジョンも喧嘩相手が居らず、トボトボと歩かざるを得ません。
 
前のアパートの時もそうでしたが、ジョンは雨合羽着用の先駆犬です。ジョンが付け出して、他所の犬も真似だしました。今のアパートもすれ違う人は「あれまアー」と驚いたり、ケラケラ笑ったり、していますが、そのうちに、他の犬も真似だすだろうと思っています。そうすれば、雨具メーカーより、宣伝報奨金を贈って来るだろうと期待しています。

イメージ 1

イメージ 2

↑このページのトップヘ