私たちの50年!!

1962年5月11日サントス着のあるぜんちな丸第12次航で着伯。681名の同船者の移住先国への定着の過程を戦後移住の歴史の一部として残して置く事を目的とした私たちの40年!!と云うホームページを開設してい居りその関連BLOGとして位置付けている。

2019年02月

臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(57) ニッケイ新聞WEB版より

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 しかし、ガイジン(当時、日系以外の者に対して使われた言葉)の家の応接間のテーブルはきちんとしていた。粗末だがテーブルクロスがかけられ、真んなかには素焼きの水ガメが置かれて、だれがいつ訪れてもいいようになっていた。家具も多く、住民が一日の疲れをいやすことができる。いつもベッドにカバーがかけられていたし、家庭用品もきちんと整理整頓されていた。農機具は家庭用品とは別の場所にしまわれていた。
 日本人とブラジル人やヨーロッパ移民のとの大きな壁は言葉だった。正輝のような若者でさえ、ポルトガル語をきちんと覚えようとはしなかった。というより、学ぶ場所もなかった。学校があっても通う時間がなかった。仕事に精をだすとはいえない正輝でさえ、稲嶺の家族といっしょに一日中畑仕事をし、くたくたに疲れて家に帰ると、ブラジルで生きていくにはポルトガル語を覚えなければと考えながら、これで充分でないかと思ってもいた。
 もっとも、正輝はよく使われるポルトガル語の単語をまるで日本語か沖縄語のようにたくみに使った。こちらに来てから「寝台」という日本語を一度も使わなかった。移民収容所でおぼえた「カーマ」をずっと使いつづけた。また、「鍬」という日本語がありながら、「エンシャーダ」といった。鍬をとりにいくとき、「鍬をとりにいく」といわず「エンシャーダをとりにいく」といった。日本には「馬車」という言葉があるが、ここのラバに引かせる「カロッサ」とは多少違うが、日本式の「カローサ」と発音した。
 また、おもしろいことに「台所」を「コジニァ」とよぶ他の移民の影響を受けて正輝は「コジン’ヤ」といった。ふだん使いつけている単語を正輝の変な発音できかされたとき、ブラジル人やヨーロッパ系の移民は大笑いした。「コジン’ヤとは何のことだ?」ときく者もいた。正輝は言語的に正しい発音として使ったので、質問の意味が分からなかった。けれど台所を指差して「コジン’ヤ」といったので相手は「ああ、コジニァか」と納得した。
 同じように正輝や他の日本人移民がおもしろい方法で使った言葉に、当時のブラジル貨幣単位の「ミル・レイス」がある。「ミル・レイス」と全部発音するのは難しいので、「ミル」に短縮した。だから「cem mil-reis」は「100ミル」となった。移民たち仲間ではこの言い方で充分通用した。あまりにも簡単に分りすぎ、ブラジル貨幣の正式単位だということが頭にないのだが、いずれも時間とともに分ってくれるようになった。
 言葉の問題は、他の国からきた移民にもあった。日本人ほどではなかったが、笑いの対象になったこともある。隣に住むスイスからきた移民のマラクジャー(パッションフルーツ)についてのことだ。マラクジャーは正輝がタバチンガにきてから初めてみた果物だ。ドイツ語ではJがYの発音になり、最後のjaのアクセントがu にうつる。けっきょく「マラクーヤ」となり、笑いをさそうのだ。


『百年の水流』開発前線編 第四部=ドラマの町バストス=外山 脩=(20) ニッケイ新聞WEB版より

進出企業と競合、生き残る
天野賢治
天野賢治

 順風満帆の、そのさ中、またもブラタク製糸の存亡に関わる大異変が発生した。1972~76年、日本の生糸メーカー6社が進出してきたのだ。カネボー、グンサン、昭栄、コーベス、東邦レーヨン、市田である。

 6社が進出したのは、日本の養蚕家の減少が主因であった。従って、いずれも生糸の生産、日本その他への輸出、ブラジル国内での販売を予定していた。

 生糸の本場日本の業者が、競争相手になったのである。太刀打ちできるだろうか?
 その頃、国内の生糸メーカーは十数社あった。結果的に1974年から83年にかけて、ブラタクを除き、すべて廃業した。品質面で対抗できなかったのだ。
 しかし、どうして、ブラタクのみが生き残れたのか?
 その答えとしては、まず日本から新技術を懸命に導入してきたことが上げられよう。
 さらに次々と手を打った。以下の様に――。
 1974年、昭栄、伊藤忠と合弁でショウエイ・ブラタクを設立、その蚕種製造技術を導入。
 同年、北パラナのロンドリーナに新工場を建設。
 大型資金を投じて、1975年新式の稚蚕共同飼育所、1977年改良マブシの生産工場を建設。
 製品を養蚕家に配布して収繭性を改善。(マブシ=蚕に繭をつくらせる用具)
 1980年代、日本の専門家と共同で、蚕種製造に関する技術改革をし、生産性を引き上げ、かつ高質生糸に生産の重点を移行……等々。
 進出企業に破れぬため、必死になっていたのである。
 もっとも、こうした新規投資のため資金を要したので、給料は低く抑えられ続けた。
 なお、その頃、バストスに於けるブラタクの比重は、極めて大きなものになっており、ムニシピオの税収入の40㌫は、同社とその関係者が払っていた。
「俺は死ぬヨ」
 この間、1979年、日本へ出張中の天野賢治が急逝した。75歳だった。出発前、平然と「俺は死ぬヨ」と会社の幹部たちに話していた。
 天野はいわゆる“侍”で、頭が切れ人情家で人望があった。すでに触れたことであるが、彼は日本の開戦の少し前、米国からブラジルへ転住、ブラ拓に入った。その頃、ブラ拓やその系列会社には橘富士雄、相場真一など後に高名になる同年輩の若手が居た。が、往時を知る人の懐旧談によると「天野は一頭地を抜いており、橘や相場の影は薄かった」そうである。
 この話は筆者には驚きだった。筆者の知る時期…ということは戦後も1960年代以降のことになるが、橘や相場は、日系企業の代表格に成長していた南米銀行の最高幹部であり、公職にも着き、輝いていたからである。同時期、ブラタク製糸は地味な存在で、天野の知名度も低かった。筆者は、当時、邦字紙記者として7年ほど日系企業の取材をしたが、この人に会ったことはなかった。(つづく)

アメリカ便り「越境請負業者は麻薬組織」 富田さんからのお便りです。

和田さん&W50年の皆さん、ご機嫌いかがですか? さて、米墨国境の壁建設を巡る論争はすでに3年目を迎えて、未だ解決に至っていませんが、不法越境は現在進行形です。そこで今週から二回に亘ってアメリカ便り「越境請負業者は麻薬組織(上)」をお送りします。トランプ政権になってから、警備が厳重になったため、請負人なしの越境はほぼ不可能になりました。そして、強大な組織と資金を持つNarcos(麻薬犯罪組織)が越境ビジネスに参入してきました。
その実情をレポートする、下記のブログをお訪ねいただければ幸いです。http://blogs.yahoo.co.jp/stomita2000/28658741.html


富田眞三  Shinzo Tomita

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      越境請負業者は麻薬組織(上)
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      写真:(www.mysanantonio.com
米墨国境の壁あるいは防壁建設を巡る論争は、すでに3年目を迎えたが、未だに建設の目途は立っていない。トランプ大統領は今年に入って既にテキサス・メキシコ国境の二都市を視察している。マッカレンとエルパソである。
そこで、実際に国境の柵を見たことがない、小欄もトランプ氏を見習って、国境の町を訪れてみた。
筆者は先月、メキシコとの国境である、リオ・グランデ河畔に広がる、イーグル・パス・ゴルフコースで実際に「国境の柵」を見て来た。率直に言って、
現在の柵では効果はないが、トランプ氏が計画する「防壁」ならば、一定の効果は望める、という感触を持った。
 ではここで、国境の壁デザインの公募の際、国土安全保障省が要求した設計仕様書の概略を記しておこう。
「構造的にも外見的にも堂々とした防壁であること。
高さは1830フィート(5.49㍍~9.14㍍)とし、壁の下にトンネルを掘らせないように地下部は6フィート(1.83㍍)の深度を持たせる。
防壁の強度は、大ハンマー、つるはし、火炎放射器等その他の道具類を使用しても最低30分は耐えられるものとする。
そして、壁の米国側の外観は審美的に楽しいものにすること」。以上である。地元の大方の意見では、5㍍は低すぎる、9㍍は必要だ、というものだった。
 
ところで、壁建設に反対する側は、今や越境する人々は少なく、大多数の不法滞在者は「正規のビザ」で入国して来るから、壁は不要だと、言う。そうだろうか?
 
先月、トランプ氏が訪れた、マッカレンのダーリング市長は、米墨国境から遠く離れた、ウイスコンシン州の人たちが壁建設を唱えているだけである、と語った。それを聞いた、知り合いのウイスコンシン州出身者は、「我々もカナダとの国境に壁を作るさ」と笑っていたが、これは冗談で、同州はカナダと地続きではなく、国境は五大湖の一つである、スペリオール湖なのだ。
大体、トランプ支持者が多く、白人が90%以上を占める、米国内陸部の住人たちはメキシコ人を見たこともないのだろう。こういう人たちは一般に「外国人嫌い」で、不法移民が彼らの職を奪っている、と感じているのだ。だから「壁」が必要だ、となる。

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写真:(www.telemundo.com

一方、トランプ氏が訪れた、テキサス南部、特に国境のほとんどの町は90%がメキシコ系なのである。そして、彼らはメキシコ人の親類が国境の向こう側に住んでおり、彼らは買物に、食事にアメリカを訪れてくれる、大事な顧客でもある。だから、「壁」はない方が良い、と感じている。筆者はPerez, Garciaと言ったスペイン系の苗字を持った、金髪碧眼の白人女性を多数知っている。彼女たちの夫はメキシコ人なのだ。このようにテキサスのメキシコ人はアメリカ社会に溶け込んでいるのだ。いやそうじゃない。白人たちがメキシコ社会に溶け込んでいるのだ。何しろ、市の公用語をスペイン語にしてしまった、エル・セニソ市のような例もあるのだ。とにかく、国境地帯にはウイスコンシンの住民が知らない複雑な事情があるのだ。

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写真:(www.mysanantonio.com
しかし、筆者が見聞した限り今回のテキサス滞在中、二件の不法入国者グループが逮捕されている。うち一つの、57名の不法移民を乗せた大型トレーラーがサンアントニオ市内を通行中に警察に拘束されたニュースは住人に大きな衝撃を与えた。このケースは背後に大きな組織、即ちナルコス(Narcos)と通称される、麻薬犯罪組織があることを示唆しいる。
不法越境入国は現在進行形なのである。そしてナルコスは不法越境者の越境を請け負う、ビジネスを立ち上げているのだ。更に筆者を戦慄させた事実がある。ナルコスは彼らを「越境請負業者」として契約しない、越境志望者たちを人質にとって、在米国の親族から身代金を取る部門も併設していることだ。米国に親族のいない者は、麻薬組織の「運び屋」等に使役されるのだ。
 
ナルコスの組織
ゲバラさんの証言の前に、ナルコスとはどんな組織かお話しよう。
コロンビア等の南米ナルコスはコカイン等の麻薬を小型潜水艇でメキシコ沖まで運び、「ぶつ」を海中に投じて、メキシコ・ナルコスに引き渡すと、100万ドルの価値がある潜水艇を沈没させる。使いすてなのだ。「ぶつ」の価格は船の10倍以上なので採算は合う。その他数種のルートがある。
 メキシコのナルコスは10年前、メキシコ陸軍と戦争をしたほどの軍事力を持っている。そして、南米のナルコスは麻薬製造に特化し、メキシコは米国へ密輸出する、ロジスティックの担当と両国は業務を分業している。
大小さまざまの、カルテルと呼ばれる、メキシコ・ナルコ犯罪グループ全体の売上は、メキシコの国家予算を上回る、と言われている。
そして、今月、ニューヨークの連邦裁判所で終身刑が求刑された、メキシコ最大のナルコスのボス・エル・チャポは、数年前メキシコの刑務所を脱獄するために、1.5㌔のトンネルを掘って、脱獄していた。
このような強力な犯罪組織が、「越境請負業者」の看板も掲げているのだ。
 
先ず、我々はどんな人たちが何故、危険を冒してまでも越境して来るのか、実際のケースを通して、実情を観察してみたい。
では、4度越境を企てながら、いずれも失敗した、生後8ヶ月で米国へ連れてこられた現在50歳の男性の誘拐事件を通して、この米墨国境問題を考えてみたい。
              ゲバラさんの証言
 
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                                           写真:(www.reforma.com
以下はメキシコの全国紙レフォルマ(2017228日付け)が報じた、メキシコの麻薬犯罪組織の餌食となった二人の体験談である。
エフレン・ゲバラ・ガリンド(50歳)はテキサス州の南に位置する、メキシコ国・チワウワ州のオヒナガ市(人口22000人)近辺で暗躍する、ラ・リニアと称する麻薬組織(ナルコス、Narcosと通称される。以下ナルコス)に誘拐され拷問にあった経験を下記のように語っている。
テキサス州ダラスの建設作業員だった彼は、現在メキシコ国内のキリスト教団の移民支援センターで、ギャングによる足蹴と、カミソリによる、腕、脚、脇腹の切り傷の治療を受けている。
 
メキシコ人の両親に伴われて生後8ヶ月の赤ん坊のとき、米国へ連れてこられたゲバラは、昨年12月の災難(後述します)にあってから、金輪際不法入国はしない、と決断した。命には代えられないからだ。だが、この決断は彼を落ち込ませた。何故ならば米国へ残してきた妻と6人の息子、娘たちと15人の孫たちとは、もはや一緒に暮らせないからだ。
包帯を巻いた腕と右わき腹が痛々しいゲバラが語る。ナルコスは彼の身代金を払わせるべく、米国に住む彼の家族の住所と電話番号を知らせろ、と彼に拷問を加えた。だが彼は住所も電話を絶対に知らせなかったため、ひどい拷問を受けた。
 
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写真:(www.mexico.as.com
奇跡的に生き延びることが出来たゲバラは、都合四回、越境を試みて逮捕されたが、いずれの場合も米墨国境付近で放免されていることから、ゲバラには「不法入国」以外の犯罪歴はない、と思われる。しかし、何らかの事情でメキシコへ出国した不法滞在者のゲバラは、正式入国が出来ないため、「越境」の道を選んだものと推察される。赤ん坊のときから50年間、米国に住んでいながら、彼にとって米国は外国なのである。 (続く)
 
次号はゲバラさんが監禁された牧場でのギャングによる、取り調べの模様をお伝えしたい。

元隠れキリシタンが作った保和会の役割 ニッケイ新聞WEB版より

2016年12月にペレと結婚した青木シベレ・マルシアさんの記事(ヴェージャ誌サイト2016年7月10日付)
2016年12月にペレと結婚した青木シベレ・マルシアさんの記事(ヴェージャ誌サイト2016年7月10日付)

 「保和会がもうなくなるかもしれない」―そんな噂を聞いて愕然とし、関係者を急いで探した。
 保和会といえば、福岡県三井郡大刀洗町今村出身者で、元隠れキリシタンの青木家、平田家らが中心になって作った親睦会だ。1960~70年代には、平田ジョン進連邦下議の選挙応援で大活躍した。平田進の両親の出身地が今村だからだ。本田保神父の「保」と、当時本田神父を助けていた伝道師の青木和平の「和」をとって「保和会」という。

 長崎県浦上の隠れキリシタンの家に生まれた本田保(たもつ)は1867年(慶応3年)、14歳の時にキリスト教徒弾圧「浦上四番崩れ」でとらえられた。長崎県浦上村の村民たちが江戸幕府の指令により、大量に捕縛されて拷問を受けた事件だ。

 明治に変わっても、幕府のキリスト教禁止政策を引き継いだ新政府により村民たちは処罰されつづけ、本田保は四国の土佐に流刑された。《彼らは流刑先で数多くの拷問・私刑を加えられ続けたが、それは水責め、雪責め、氷責め、火責め、飢餓拷問、箱詰め、磔、親の前でその子供を拷問するなどその過酷さと陰惨さ・残虐さは旧幕時代以上であった》(ウィキぺディア「浦上四番崩れ」項、2019年2月3日参照)。
 欧米へ赴いた遣欧使節団一行(1871年12月から1873年9月)は、これが欧米のキリスト教諸外国で激しい非難を呼んでいることを知って驚き、弾圧が条約改正の障害となっていることに気付いて本国に打電。そのため1873年(明治6年)になって、ようやくキリシタン禁制は廃止された。
 これで、1614年以来、実に259年振りに日本でキリスト教信仰が公認された。
 これは「浦上四番崩れ」で、「一番崩れ」は1790年に起きていた。「二番崩れ」は1839年、「三番崩れ」は1856年、やはり密告によって信徒が捕らえられ拷問を受けていた。このように繰り返し密告を受けて拷問されていたために、彼らは「明治政府が公認した」といってもにわかには信じられず、海外を目指した。
 本田神父は1887年に長崎の大浦天主堂の司祭に、1896年には今村教会主任司祭になった。子供時代に弾圧を体験した本田神父が「外地なら気兼ねなくカトリック信仰ができる」と海外移住を勧めた結果、今村からはブラジル、ペルー、メキシコなどの新天地に向かう移民家族が多く生まれた。
 集団で向かった先の一つが、サンパウロ州プロミッソンのゴンザーガ地区だ。彼らはそこに今村教会をモデルにして、クリスト・レイ教会を建てた。正式名称は「キリスト王日本二十六聖人天主堂」。長崎二十六聖人を顕彰するものだ。
 この1月5日に保和会のメンバー、本岡・平田・サチエ・オウガさんから聖市ブルックリン区の自宅で話を聞いた。「母の兄弟が平田進の父。母が16歳のころ、平田家の構成家族として一緒に来た」という。
 母親はどんなふうに故郷の村のことを語っていたかと訊くと、「母が今村のことを語っていたのを聞いたことない。いつもブラジルでの生活のことを気にしていた」という。思い出したくない記憶だったのかもしれない。今村との関係はどうなっているかと尋ねると、「今はまったく連絡がない」という音信不通状態だ。
 昨年6月、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界遺産委員会で登録決定したことを知っているかと訊くと、「ああ、そうなの」とそもそも関心がないようだ。この登録申請は、もともとは「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」として大刀洗町今村も入っていた。
 だが、途中で、潜伏キリシタンに焦点を絞る形で構成資産が再考された結果、長崎と天草だけに限定された経緯がある。それを説明して「今村が外されたのは残念ですね」と同意を求めたが、ピンと来ていないようだった。
 夫で戦後の技術移民の本岡公さん(いさお、83、兵庫県)は「以前、今村教会の改修費用を支援してくれという手紙が来ていたな」と思い出した。

サンパウロの電話帳には平田家の名前がズラリとならぶ
サンパウロの電話帳には平田家の名前がズラリとならぶ
 『国会議員になった「隠れキリシタン」』(高橋哲朗、沖縄探見社、09年)によれば、保和会は1954年に生れ、毎年正月に平田進の自宅に今村関係者が150人も集まったという。高橋哲朗の取材に対し、中心メンバーの一人・平田ペドロは、《大サンパウロ圏だけでも1万5千人ぐらいの『青木』『平田』がいると思います。もちろん、全員に強い親族意識があるわけではないのですが、それでも千五百家族が会員になっています。二、三カ月に一度の割合で会報も出しています。毎月第一土曜日に頼母子講を開いて作った資金で、サンパウロの郊外に土地を買い、会館を建設しました。そこで毎年九月半ばころに運動会を開きますが、五百人くらい集まります》(140ページ)と往時の様子を説明している。

 保和会の現状をオウガさんに尋ねると、「まだ続いている。毎月イタペセリッカの会館に30人ぐらい集まる。でも若い世代は誰もいない。子どもたちは保和会に関心がない。まだ、まだ無くなってはいない」とのさびしい返事だった。
 昨年、日本移民110周年を顕彰して記念曲『ありがとうブラジル』を作って、各地の式典で歌った歌手・平田ジョエさんは親族の一人。そしてオウガさんから「そういえば、ペレの今の奥さんのマルシアも青木家よ」と聞き、両家のブラジル社会への浸透の深さを実感した。サッカーの“王様 ”ペレが16年に結婚した青木マルシアのことだ。
 聖書にある言葉「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし」を思い出した。保和会は役割を立派に果たし終えつつあるのかも―と思い至った。(深)

花談議372≪アマゾンから珍しい写真を送ります(その2)≫アマゾン昭子さんからのお便りです。

皆様へ               アマゾン昭子
物の奇形の続きです。私は血圧 高脂血症コレステロール 血糖 いずれも正常がほこりでした。しかし2ヶ月前 心臓の血管の検査を医師に処方されました。何故ならお風呂にはいったり泳ぐために川に入ったりすると苦しいほどでもないが 一寸胸が押さえつけられる感じ。 また深呼吸した場合あるときは何故か咳込んで仕舞う。肺になにか問題があるのかとその筋の診察をうけたら心臓の検査をせよと言う。エコーをとったら逆流が見つかり 今度はその解明のため血管検査をうけよとのこと。検査のとき血糖。コレステロール。高脂血症。血圧の異常がないのにどうしてこの検査を受けるのかと聞かれたが 逆流の原因をみきわめるためと ポ語でこたえられなかった。 結果は心臓の表面を走るべき血管の一本が真っ直ぐ表面を走らず 一旦中に潜り込んでその後上に出てほかのと並んでいるのでそのため逆流しているようにうつったので。つまり生まれついての奇形だという。但し。血管の一ヶ所にカルシュームがくっついているので気をつけるようにとのこと。年をとると言う事は色々体調も変わると言うことらしい。お互いに気をつけて過ごすことにいたしましょう。
 
ジャッカ(波羅蜜)
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3   パンの実
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椰子
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椰子の木
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隼人瓜   
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カリフラワー
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