私たちの50年!!

1962年5月11日サントス着のあるぜんちな丸第12次航で着伯。681名の同船者の移住先国への定着の過程を戦後移住の歴史の一部として残して置く事を目的とした私たちの40年!!と云うホームページを開設してい居りその関連BLOGとして位置付けている。

2019年04月

文協選挙=「文協の本当の役割を果たす」=石川レナト氏、会長に就任=全伯団体との緊密化目指す ニッケイ新聞WEB版より

石川レナト新会長
石川レナト新会長
 ブラジル日本文化福祉協会が27日午前に『第156回文協定期評議員会』を文協ビル1階で行い65人(委任状17人)が出席し、サンタクルス病院理事長の石川レナト氏(80、二世)が正式に新会長に就任した。任期は2年。石川新会長は「全伯の日系社会と協調」をテーマに地方文協との交流を緊密化し、日本政府や各団体・企業とも受身ではなく積極的な姿勢で協力し合い「文協の本当の役割を果たす」と誓った。
新しい理事会・評議員会の役員ら
新しい理事会・評議員会の役員ら

 27日の同評議員会では、石川氏を会長とする単独シャッパ「協調と進歩」が出席者の拍手によって承認され、新体制が誕生した。
 石川会長は1938年12月生まれ。マッケンジー大学経済学部を卒業後、2年間米国へ留学した。帰国後は民間企業に勤め、98年にはNEC・ド・ブラジルの社長を務めた。
 12年にはNECでの経営手腕を買われ、サンタクルス病院の理事長に抜擢された。同病院の経営改革を行って財政再建を進め、単年度では黒字決算に立て直し、巨額な借金を返す目処をつけた功労者だ。
 病院理事長の他に、不動産開発のCNL社の社長と、95年に購入したコーヒー農場「ファゼンダ・アリアンサ」の経営も続けている。
 石川会長は、文協で最初に取り掛かることとして現状把握を挙げ、「自分は文協を知らないので、まずは各事業を分析する」とした。国士舘スポーツセンター再開発事業等の課題は慎重に引き継ぐが「利益を追求した事業が重要だと思っている」とその経営手腕が窺える考えを述べた。
 また「各理事の役割の明確化」も同時に行うと説明。7人の副会長をはじめ各理事と話し合う機会を設け「それぞれが責任を持ち、得意な分野で貢献してもらう」とし、毎月話し合いを行うことも強調した。
 各地方文協との連携は「既に各地への挨拶を始めている」と強調。聖州内だけでなく9月のアマゾン入植90周年記念式典にも参加する予定だと語り、「相手に頼むだけではなく、自ら行動を起こし協力をお願いする」との意向を示した。
 日系社会の統合を進めるために、地方文協だけでなく県連やACAL等の日系団体や若手とも協力し合いたいと意気込み、「ブラジル日本青年会議所(JCI)と話し、協力をとりつけている」と述べた。
 決まっていない15人の追加理事は「文協外から誰かを連れてくるつもりはない」と明言。文協を良く知る人物を任命するつもりだと語った。
 気になるサンタクルス病院理事長との兼任は「9月まではやる」と回答。その後はまだ決定していないが、「文協への比重が大きくなるのは間違いない」と文協に集中する意思を示した。
 二期4年を満了し退任する呉屋春美氏は、「日伯修好通商航海条約締結120周年、日本人移民110周年等の責任の重い行事をやり遂げた」と任期を振り返った。
 昨年の収入は620万6628・63レ、支出は616万9924・20レで繰越金2万656・26レの黒字決算だった。


ブラジル日本交流協会=「ブラジルで1年研修しませんか?」=2018年度研修生体験談=<4・終>異文化の中で、自分の至らなさに気付く 黒澤菜月 ニッケイ新聞WEB版より

黒澤菜月(25)。ラーメン数の同僚たちと
黒澤菜月(25)。ラーメン数の同僚たちと
 18年度研修生の黒澤菜月(25)です。大学在学中に曽祖母の代からの信仰である「世界救世教」のブラジル研修に2度参加し、短期滞在の経験があります。大学卒業後は半年間ブラジル料理店で勤務し、その後1年半、愛知県内の高校で教員として勤務していました。
 ブラジルへ興味を持ったきっかけは外国への好奇心からで、交流協会の研修事業に参加しようと思った理由は、2度の研修経験からブラジルが好きになり、「世界救世教の信者としてブラジルで生活する」という夢を叶えたいと思ったからです。
 私の前半の研修はリオ・グランデ・ド・スル州のカシアス・ド・スルで日本語を教えることでした。生徒数は約30人、1日平均4回の授業をもう1人の先生と行っていました。
 その研修の中で私は、様々な「壁」にぶちあたりました。今まで当たり前のように書いてきた「も」の書き順や「そ」の書き方を説明する難しさ。「慣れ」で済ませていた部分を、まったく文化が違う人に理解してもらえるように教えるというのは、とても難しいことでした。教えることを通じて、教えられていると思いました。
 至らないところが多くある私ですが、研修先の引き受け人でもあるホームステイ先のお母さんには、そのところを多く教えられました。
 正直、そのお母さんを私は何回怒らせてしまったか分かりません。過去10人の研修生の中でもたぶん一番だと思います。「菜月が変わる気がないならカシアスから去ってもらう」とまで言われました。「変わる」と言われても「何を変えたらいいのかがわからない」まま毎日が過ぎていきました。
 私の家庭には生まれたときから宗教がありました。小さいころから教会に行くことは当たり前で、私はそれをカシアスでも続けるつもりでいました。母子家庭で育った影響から、何でも自分だけで決めてしまう癖があり、教会通いのこともステイ先のお母さんにあまり相談せずに行っていました。
 私を心配してくれている気持ちに気付くことができませんでした。
 叱られながら聞いた「菜月がどんな宗教を信仰していようと家族みんな絶対に偏見を持ったりはしないからね」という言葉を聞いて、改めてちゃんと話しておけばよかったと本当に思いました。「ちゃんと相談してから決める」。当たり前だけど、とても大切なことを教わりました。
 意識を改めて研修に励んでいましたが、協会から9月の中間研修報告会(半年間の研修体験を報告する発表会)をもって、カシアスでの研修は中止となったことを告げられました。ステイ先家庭でのトラブルや日本での教員経験からくる授業方法の相違が教室を混乱させたことが原因だと思います。
 「変わるってこういうことなのかな?」と少しずつ気付けるようになっていた時のことでした。研修の中止は日本への帰国を意味します。後悔や不安など様々な思いが胸を去来しましたが、どこか「ホっとした」という気持ちがありました。
 中間研修報告会ではこれまでの体験を全て話しました。その途中、カシアスから「もう1人の先生が菜月が残ることを望んでいる。もしも、菜月が望むのであればカシアスに残ることができる。ただし、授業の準備はもう1人の先生が全て行い、菜月はそのアシスタントに徹すること」と連絡が入りました。
 今後の研修について選択する機会が急に私に与えられたのです。
 「一度いらないと言われてしまったのに、戻るとはどういうことなのか」
 「どうしたらいいんだ?」
 心の中は戸惑いで溢れ、すぐに答えを出すことが出来ませんでした。
 悩みを抱えたまま私は、報告会の翌日から行われる中間研修旅行に出発することになりました。
 「カシアスで研修を続ける」「日本に帰国する」二つの選択に心が板ばさみになっていたその時、協会から第三の選択肢が与えられました。それは「聖市のラーメン店ラーメン和が研修を引き受けてくれる」というものでした。
 一度覚悟した日本への帰国の気持ちは強くありました。研修中止を告げられてからこれまでに、カシアスに戻って上手くやっていけると思えるほど自分が成長したという実感もありませんでした。
 私はラーメン和での研修を希望しました。「逃げた」と思う部分もあります。でも、カシアスに戻っても今のままでは失敗を繰り返すことになると思いました。和での研修が始まる間、自分を見つめ直しました。そもそも、なんでこんなことになってしまったのかと。そもそも、なんで私はブラジルに来たのかと。
 和では、もともと飲食店での勤務経験があったので、仕事は1週間でほとんど覚えることができました。
 一緒に働くみんなは菜月の「ツ」が言えないので、私のことを「ナチ」と呼んでいました。みんなに会えるのが楽しみで毎日出勤していました。
 職場の方は周りの人のことを考えて動いてる人が多く、私の至らない部分を見本のように見せてくれていました。
リオのカーニバルで
リオのカーニバルで
 カシアスではできなかったことをここでは実践しよう、挽回しようと毎日意識して研修していました。
 リベリダーデ店のリニューアルセレモニーに着物で参加させてもらうことがありました。
 そこでの私は、せっかく着物を着せてもらったのに、来場者の接待が上手く出来ず、料理を食べたり、スマートフォンを触ったりしていたことを覚えています。「そういう周りを見れないところがダメなんだよな…」と誰に言われるでもなく自己反省しました。
 自分の行いを省みる。

 カシアスの時には出来ていなかったことができる様になっていると思いました。成長実感のある毎日が続き「いい顔してるね!」と周りから言われることが多くなりました。
 話は少し変わって、私が初めてブラジルに来たのは大学3年生の時。教団を通じて2週間の青年海外研修プランに参加をした時のことです。たった2週間の出来事でしたが、その時の感動が忘れられず、大学4年生の時にも1カ月間ブラジルで過ごしました。今回の研修はそれ以来2年振りの訪伯です。
 7月、サンパウロにある聖地に滞在して教義の一つでもある「自然農法」の体験をさせてもらいました。200ほどの苗植えを任さてもらいました。途中、職員の方に「苗にもちゃんと命があって、それを土が育ててくれるんだよ」という言葉をかけられて、はっとしました。植えることだけに集中して、作業を遂げる機械の様になっていた私。「そこに命がある」ということに全く気付かなかったのです。
 「苗にも優しくできない人間が、周りの人のことを考えられるわけがない…」
 そのことを意識してからは丁寧に、きれいに植えることができました。
 自分の至らない部分に気づく。教義と研修生活での学びが偶然にも一致しました。このことに気づくためにブラジルに来たんじゃないかと今は思っています。
 思えば新しい環境で私はいつも浮いていました。それは、わが道を行くというわがままな性格のせいだったと思います。そしてそれが自分の知らないうちに周りの人に迷惑をかけてしまっていたんだと思います。
 悪気はないのに、周りの人の気に入らないことばかりしてしまったり、自分の殻に閉じこもって思いを伝えられなかったり。
 この一年の経験を通してもっと周りの人のことを考えられるようになりました。
 カシアスで過ごした6カ月は一生の財産です。わがままな自分から変わろうと、至らない部分を改善しようと、自分の知らない自分に出会うために磨かれまくったからです。
 2018年のブラジルは本音を言うと楽しいよりも辛いことの方が多くて、「ブラジルに来ないで日本で高校の先生を続けていればよかった」なんて思うことも正直ありました。カシアスでは人生で初めて首周りまでアトピー性皮膚炎が出て、かゆ過ぎてぐっすり眠れないことも多かったです。
 でも、今は決してブラジルに来なければよかったとは思っていません。
 きっかけはただ「世界救世教の信者としてブラジルで生活がしたい」だけだったはずなのに、ブラジルに来なければわからなかったわがままな自分の姿、わが道は通用しないという想像以上の大事なことに気付けたからです。
 25歳になってこれからの人生で生きていくために大事なこと「気配り」をブラジルという鏡が私に見せてくれました。
 4月からは岐阜県内の高校でまた教員として働くことが決まっています。
 これからの生活は心も身体も磨いて、ダイヤモンドのように輝いていられるようにします。そして、ダイヤモンドのような旦那さんと家庭を築くが今の私の夢です。
 “Construir o um novo eu, e se auto analisar constantemente”
 「第2の自分を作って、第1の自分を常に批判する」これを忘れずに。
     ◎
 2020年度の研修生募集期間は7月31日まで。募集人数は15人程度。参加要件は、①2020年4月1日時点で成人している②高等学校卒業もしくはそれと同等以上の学力を有する③犯罪歴が無い④日本事務局が開催する募集説明会に参加していること。
 参加費用として100万円が必要で、半年間の派遣前研修を日本で受けてから渡伯となる。応募、詳細問い合わせは同協会HP(http://anbi2009.org/)から。(終り)

一笑一若・メキシコ小話「画家の愛人の女優は…」  富田さんからのお便りです。

和田さん&W50年の皆さん、GWをいかがお過ごしですか。今週は*一笑一若・メキシコ小話「画家の愛人の女優は…」*
をお届けします。映画俳優の職業病とも言える問題を抱えていた、愛人を全快させてくれた医師に画家は,
奇想天外な贈物をしました。この件についてマスコミにインタービューされた、医師の答えが傑作!その上、ゴージャスなイタリア系メキシコ女優の写真が「見もの」。

では、ご用とお急ぎでないお方は、下記のブログをお訪ねの上、

*一笑一若・メキシコ小話「画家の愛人の女優は…」*をE N J O Y !!!

http://blogs.yahoo.co.jp/stomita2000/28706805.html

富田眞三 Shinzo Tomita


イメージ 2
             画家の愛人の女優は…
 
イメージ 3
            写真:(www.momentos.reloj.com)
高名な画家の愛人である映画女優は、映画撮影時の強烈な照明を受け続けたせいで、重度の慢性結膜炎に悩まされていた。
そこで画家は彼女を眼科の専門医に連れて行って診察してもらった。
 
幸いにも眼科医の適切な治療のおかげで、女優の目はすっかり回復した。
 
  数日後、医師が医院に着くと、おびただしい数の新聞、TVの記者、リポーター、カメラマンがマイクやカメラを手に医院前に群がっていた。
 
驚いたことに、高名な画家は愛人の目を直してくれた、医師への感謝の念を込めて、医院の建物の正面の壁に巨大な「目」を一晩で描き上げていたのだ。
 
「ドクター、この壁画をどう思いますか?」と取材に来たレポーターたちが医師に質問した。
 
医師は巨大な目を見上げて、「いやぁ、眼科でよかったよ、婦人科でなくて…」と答えた。
 
お後がよろしいようで……。

花談議412≪マリコショーに行って来ました≫多加代さんからのお便りです。

出石さん しゆくこさん 杉井さん 皆さん
阪口多加代です
 
遅くまでお疲れ様でした。
楽しいひと時を過ごす事が出来有り難う御座います。
一年ぶりのマリコさんの声が聞けて、相変わらず、いえいえ、ますますの迫力のある歌に聴きいってました。
 
元町駅でイペを見て来ましたが交番の横と三本並んでるイぺはあまり芳しく無かったですが一本は満開でした。
 
下山手通の鉢植えの四鉢の中一鉢だけがパラパラと咲いてました。
坂道を登って行くと後少しで移住センターが見えてくる頃から黄色の花がはっきりと見えてイペがどうだ綺麗だろ と咲き誇っているのが見えて感動しながらゆっくりと歩いてました。
今年はセンターのイペは最高の花を咲かせてました。
5階の窓から写したもを見て下さい。
 
最後に出石さん色々とセットをして頂きまして有難うございます。
おかげ様で皆さんと語らいながら時間を忘れて楽しく過ごさせて頂きました。
これから暑くなりますがお身体ご自愛なさって下さいませ。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

連載エッセイ59 ≪日墨学院建設の思い出」

連載エッセイ59
「日墨学院建設の思い出」
 
執筆者:桜井悌司(ラテンアメリカ協会常務理事)
 
1974年から77年まで3年3ヶ月ジェトロ・メキシコに駐在したが、最大の思い出は、日墨学院の建設計画のお手伝いに関与できたことである。
 
メキシコでは、当時、駐在員子弟のための学校であるメキシコ日本人学校と日系コロニア関係の学園が3校(タクバヤ学園、中央学園、タクバ学園)が存在していた。日本人学校も1968年にスタートした時点では44名の生徒数であったが、1974年には、148名に増加していた。3つのコロニア関係の学園の合併も長年の懸案であった。そこで一つの立派な学校を建設しようということになった。1974年5月に、ブラボ・アウハ文部大臣と奥野誠亮文部大臣の会談で、「日本・メキシコ学院」の設立が提案され、1974年9月に、田中角栄総理とルイス・エチェベリア大統領会談の共同声明で決定されたものである。田中総理の訪墨は極めてタイミング良いものであった。カナダ、メキシコ、ブラジルの3カ国を公式訪問されることになったのだが、ブラジルではセラード・プロジェクト、カナダでも具体的なエネルギー・プロジェクトがあったが、幸か不幸かメキシコには具体的プロジェクト存在しなかった。そこで当時の日本大使館関係者や駐在員社会、コロニア関係者が協力し、日墨学院の構想が提案され、日本政府からの100万ドル(3億円)の拠出が実現することになった。当時、日本人学校の理事長で日墨学院建設委員長であった私の上司のジェトロ・メキシコの中屋敷正人所長も2度に渡り一時帰国し、日本政府関係者を訪問し、このプロジェクトへの支援を要請した。
 
当時、駐在員社会には錚々たる人物がいた。例えば、伊藤忠商事の小林勇一さん(日墨商工会議所会頭)、丸紅の中原孝三さん、武田製薬の村田誠良さん、東京銀行の丸山善三さん、日商岩井の森田和夫さん、Kラインの入り江則嘉さん、三菱商事の林正治さん、日本輸出入銀行の高野尚彦さん等々である。日系コロニアには、カルロス春日さん、ベニート山崎さん、海老沢潔さん、平沢胤敏さん等の顔が目に浮かぶ。建設資金の大枠は、日本政府が100万ドル、進出企業が150万ドル、日系コロニアが50万ドルと決められ、プロジェクトが動き出した。最終的には、日本政府、100万ドル、進出企業、160万ドル、日系コロニア、50万ドル、日本人学校の売却費、12万ドルの合計322万ドルとなったようだ。
 
私が命じられた仕事は、上司である中屋敷ジェトロ所長兼日墨学院建設委員長の指示に従い、主として3つのことを行うことであった。打ち合わせ会議の組織と、寄付割り当て金額の配分表の作成、参考となりうるドイツ学校の調査等である。
 
当時、日墨学園をどのような形態にするかについては、2つの考えがあった。1つは、ドイツ学校(Colegio Aleman)方式である。ドイツ人、メキシコ人が一緒に学び、ドイツ語とスペイン語で教育するという方式である。もう一つは、フランス学校(Liceo Franco-Mexicano)方式で、フランス人コースとメキシコ人コースを並列させる方法である。2つのコースは、それぞれの国の文部省の教育課程に準拠するというものである。
 
私も中屋敷所長に命ぜられ、ドイツ学校の校長先生にアポイントを取り、取材に出かけた。ドイツ学校は、1894年に設立され、幼稚園から高校までの一貫教育で、当時でも生徒数は3,000人以上ということであった。校長先生の言によれば、教育方針は極めて厳しく、小学校から中学校に進む際に、半分の生徒が落第となり、さらに中学校から高校に進学する時にも同じく半分は落第させられるとのことであった。その厳しさにびっくりしたものだ。日本では、進級できないと、その生徒を可哀想と思うが、ラテンの世界では、出来ない生徒が出来ないのに進級させられた場合、その生徒を可哀想と考えるということが、後になってわかり、なるほどと納得したものであった。中屋敷委員長などはドイツ方式が良いと考えられ、私もそう思ったが、日本人には、とても受け入れられないということでフランス方式が採用になった。日本の一流の大学を卒業した父兄は、総じてドイツ学校方式に強く反対されていたことを思い出す。当時の論争などについては、城山三郎氏の著作にも紹介されている。
 
大使館、進出企業、コロニア関係者が集まる会議は、当初ジェトロの会議室で開催された。私の担当は、会議の案内、弁当の手配等であった。何度も開かれ、時には午前2時頃まで続き、喧々諤々の議論が展開された。参加者の議論を聞きながら、その熱気に感動したことを鮮明に覚えている。
 
進出企業の分担金の整理も、先輩の土井所員と私の仕事であった。大商社やニッサン自動車のような大メーカーは一律60,000ドルで、その他は、規模に応じて分担金を負担することになった。ジェトロのような政府機関は、政府として100万ドルを供出しているので必要ないという理解であったが、ジェトロ本部に寄付金の申請をダメ元で行ったところ、幸運にも補外収入が残っていると言うので、200万円(6,600ドル)を支払ってくれることになった。関係者からは、「ジェトロですら200万円を寄付してくれた」と大いに感謝された。コロニアの有力者も、次々と寄付の名乗りを挙げられ、松本三四郎さんは、100万ペソ(2400万円)、木村敏正さんは、50万ペソ、木村平次さんは、40万ペソを寄贈された。コロニアの有力者の太っ腹には感銘を受けた。
 
1976年6月13日には、エチェベリア大統領以下、ブラボ・アウハ教育大臣、主要閣僚、UNAMIPN主要10大学の学長を迎えて、日墨学院の礎石式が開かれた。私も式の様子を後方から見ていたが、大統領自ら礎石式を行う様子は華やかなものであった。永年の懸案の学校がついに実現することになり感無量であった。この学校の完成までには、多くの人々が関係したが、進出企業の中では、小林勇一日墨商工会議所と並んで中屋敷所長は、間違いなく最大の功労者の1人と言えよう
 
日墨学院は、1977年9月に開校した。その時には、私も帰国していたが、その後、サンパウロに駐在することになった。駐在中の2006年初めに、初めて日墨学院を訪問する機会があったが、当時を懐かしく思い出し、喜びが込み上げてきたものだった。学院の設計者は、メキシコの著名な建築家のペドロ・ラミレス・バスケスとその弟子のマヌエル・ローセンであるが、当時の大使館の公使参事官であった故林屋栄吉さんが、「主設計者はマヌエル・ローセンに決まったよ」と嬉しそうに話されていたのを思い出す。ペドロ・ラミレス・バスケスは、国立人類学博物館、アステカ・スタジアムの設計で有名であるが、メキシコ・オリンピックの組織委員長、住宅・公共事業大臣も務めた人物で、レフォルマ通りの日本大使館の設計も手掛けた。 日墨学院の建築を見て、さすがと思ったものだ。
 
毎日新聞社は、日墨学園の10周年を記念して、「日本メキシコ学院十年の歩み」を発行した。その中で、中屋敷所長も執筆されているが、「当時ジェトロ職員であった桜井悌司君(現チリ所長)には私のアシスタントとして深夜まで熱心に下働きをしていただいた」と書いている。                         
 
イメージ 1
写真:日墨学院

↑このページのトップヘ