私たちの50年!!

1962年5月11日サントス着のあるぜんちな丸第12次航で着伯。681名の同船者の移住先国への定着の過程を戦後移住の歴史の一部として残して置く事を目的とした私たちの40年!!と云うホームページを開設してい居りその関連BLOGとして位置付けている。

2019年05月

花談議448≪イペーロッショの苗が見つかりました≫ 出石さんからのお便りです。 

山本さん 和田さん
神戸、出石です。

今日移住ミュージアムに行きまして、イペーの苗を見ましたらロッショの苗がありました。去年発芽させたものです。

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元町に取りに来ていただいてもいいですが、もし必要でしたら、着払いでよければお送りしますが如何いたしましょか?

≪アマゾンのアグロフォレストリー≫ トメアス移住地の高松壽彦さんの書籍より(その22)

  農場のアグロフォレストリー
視察にやってきた四人の住民代表では、ダウベルトとアダイルソンが農業自然採集人ファミリースクールを卒業して二三年経つ青年だから農業の理屈は分かってくれると思うが、心もとないのは肝心のアウレリオである。
材木の引き出しと製材が専門の彼は畑を全くやっておらず、これまでの僅かな付き合いから察すれば、農業には殆ど関心がない様子なのである。
彼が話すことはと言えば、身の回りに関わる郡や州の政治のこと、コミュニティー内に生じる人々のいさかい事に対する評論、最近少し減ってはきたが、聖書の話などといった、どちらかといえば人文的、政治的、宗教的なものなどが主で、弁が立つほうである。
彼には農業への関心をもっと持ってもらいたいが、視察に連れてきたのは、協会長として、少なくとも協同組織の運営の仕方を学んでもらい、これから大いにリーダーシップを発揮してもらいたかったからだ。
感心なのは、オリベイラである。人の話を聴くときの目付きがまったく違う。彼も質問するほうではないが、いつも人の話の内容を吟味しながら咀嚼している感じなのである。
アセロラの畑が終わり、第一耕地を縦貫する農道を少し奥に進むと、その農道を左右に分かれて六百メートルほど続くカカオ畑に入る。
懐かしくもいとおしいカカオたちである。一緒に植えた胡椒はもうとっくの昔に無くなっているが、このカカオは二十数年この農場で頑張ってくれている一番の古株である。
もっとも、畑にはカカオだけ植わっているわけではない。高いところをパリカの木を始め、マカカウーバやタペレバの木が覆っていて、その下にバナナやアサイも一緒に植わっている。しかし、これらはみんなカカオの後に植えられたものである。
森のような畑に来てなんだかみんな元気が出てきたようになる。あたりが少し陰になり、お馴染みの作物に囲まれて少しバルゼアに戻ってきたみたいな気分になれたのか。
「しかし、実は、一時期カカオが弱って、畑は全部じゃないけど、ちょうどこのあたりの区画がひどくて、見るも哀れに荒れてしまったことがあったのだよ。」
 「初めこのカカオは胡椒の間にゴムと一緒に植えられたんだ。みんなも知っていると思うが、カカオは陰のないところではよく育たないよね。だから、ブラジルには昔からのやりかたで、カカオは最初マンジョカやバナナを一時陰木として育ち、エレトリーナとかパリテーラなんかを永久陰木にして生きていくようにする方法があった。」「しかし、トメアスーでカカオの栽培を始めた日本人は、胡椒を一時陰木としたのはみな同じだったが、金にならないパリテーラやエレトリーナを永年陰木として植えるよりも、将来には材木が採れるということで、マホガニーとかフレジョなどを植える人がけっこう出てきた。そういう訳で、俺の場合ゴムを植えたんだ。ところが、そのゴムが植えて七八年経ったころから葉が落ちてしまう病気に罹って次第に枯れ始めたんだ。」
 ゴムの落葉病はゴム液の出が悪くなるアマゾン地方では深刻な病気であるが、農業改良普及所から供与を受けた苗が完全な抵抗性品種でなかったようで、我が農場の場合、激しい落葉を繰り返すために、ろくに採液もしない前に木がとろけるようにして枯れてしまったのである。
「ゴムは、普通株間を三メートル、列の間を七メートルにして植えるが、ここの胡椒の列幅の関係から、それを七メートル半にしたんだ。そこに、ゴムがどんどん枯れていくもんだから、カカオに苦手な直射日光が当たるわ、風が当たるようになるわで見るも哀れなカカオ畑になってしまった。それにバルゼアにはないようだけど、痩せた土地にはびこるサッペ草で一面一杯になってしまったんだよ。」
サッペ草とは日本のチガヤにあたる種類の草で、この辺りでは痩せて酸性の強い土地にはびこることが多い。
 「そこで、俺はどうしたかというと、まずカカオの列と列の間に生えているサッペをロータリーで掻き混ぜてやったんだ。サッペは地下に一杯根を張ってしつこくて鍬で削ったくらいで絶えるものじゃないが、掘り返すと簡単にやっつけられる性質のものだからさ。」
「もちろん、そこに石灰や肥料もやった。そして、そこに豚豆と一緒にアサイとバナナ、それにパリカとかマカカウーバ、アカプーなどといった木を植えたんだ。」
「すると、まず豚豆がいっせいに生え揃って地面を覆ってくれ、サッペ草がすっかりなくなってしまった。その間にバナナが大きくなってカカオに陰を作るようになった。そのあと、パリカも勢いよく伸びてきて、そして、カカオが何とかこれ位までに回復したのさ。」
 誰かが、バナナはあまりなっている様子じゃないけどと言う。
「植えて五年も経つしね。しかし、二年目からはかなり獲れて売るのに苦労したくらいだった。それで、干しバナナを作って町のスーパーに卸したらよく売れたよ。いま生らないのは、畑が陰っぽくなったせいだと思う。しかし、ここまでカカオが回復してくれたし、アサイも採れる様になったのだから、バナナはもう役目を果たしたと言ってもいいよ。」
農道脇の左側には、極楽鳥科のエリクーニャ、生姜 ( しょうが )の仲間で帝王の ( つえ )と言う意味のバストン・デ・インペラドールやシャンプーなどといった、茎葉が人の背丈よりはるかに大きくなる多年性の花がずらりと植えられている。
これらの仲間は陰を好み、実際に森の中に野生種が咲いているもので、先ほどの傷んだカカオの区画に入れてみようかと思い、苗を採るために植えたものだが、とうとう手が回らずそのままになってしまった。
先程の様な傷んだカカオ畑の修復のやり方は、住民へのセミナーで教えた様な全ての作物を最初から同時に植える様な方法からすると変則的ではあった。
何故変則的かというと、傷んでいたとはいえ、カカオのような永年作物が既に成木になっているようなところに、本来の植生の変遷の姿から見ると初めから植わってなければならなかった様な豚豆やバナナを後戻りして植え込んだからである。
しかし、もしこれが永年陰木の下で育つ健全なカカオの成木園だったとしたら、豚豆やバナナはうまく育たなかっただろうし、第一その様なことをする意味もなかっただろう。
わたしがCAMTAで勤めた役職のほとんどが農業技術や組合員の教育分野だったから言えることであるが、このカカオを植えた八十年代の半ば頃は、同一場所で同時並行的に農業と林業を行う生産システムであるといった様なSAFの定義などは未だ誰も取り沙汰する人などいなかった。
既に、その十年位前にトメアスーでカカオが本格的に植栽され、その中で木を植える人が出てきだし、それ以前から、胡椒の中に木を植えて大事に育ててきていたごく一部の人が居たにも拘わらずである。
それもそのはず、世界の研究者の間にSAFの定義の合意が出来たのは、1970年代の初め、アフリカのケニアで開催された世界SAF学会に於いてである。
その時期はちょうどトメアスーで本格的なカカオの植栽が始まった頃に当たる。それまでは、SAFは研究者が十人いれば十通りの定義があったと言われる。
しかし、ゴムが枯れ始めた頃だったが、リオ・デ・ジャネイロで“エコ92”が開催された頃から次第にわたしは、環境のことや環境に優しい農業について強く意識するようになり、そして、アグロフォレストリーのことを真剣に考えるようになったのである。
他の人なら、そんなところはぶった切って初めからやり直すとか、いっそ、なげてしまったらいいだろうと言ったかも知れない。たしかに、その方が経済的かもしれないが、わたしはどうしても自然再生型SAFの方法でカカオ園を修復してみたかったのである。
約十町歩あるカカオ畑の終わりに来ると、直角にクロスする農道が境となって、こんどは縦貫する農道の両側にクプアスーとアサイが混植された区画に入る。
この区画は四町歩ほどあり、初めに胡椒が植えられたが、その胡椒が枯れ始まったころに、そのまま支柱として針金を張ってマラクジャを植え、その列の間にアサイとクプアスーを交互に、そして25m真四角にカスタニアール・ド・パラーを植えたものである。
その様にしてアサイを植えたのは十二三年前のことだったが、昔から町の中でもよく家庭排水などを利用して家の裏庭などにアサイを二三株植えているような姿はよく見られたものの、テラフィルメの畑にアサイをまとめて植える人など殆どいなかった。
ただ、昔わたしが遠くの離れ耕地にいつも車で通っていたころ、途中にブラジル人農家が家の近くに二三反歩ほどの小さなアサイ畑を作っていたが、それがヒントになったのは間違いない。
近くに川があると言う訳でもないアサイ畑の前を通るたびに、アサイはテラフィルメでも結構育つものなのだなと思いながら眺めたものだ。
そのうち、パーミットの乱獲でアサイがアマゾンからなくなってしまうかもしれないと言われだしたり、アサイジュースの値段が変に動いたりするようになったので、ひょっとしたらアサイは将来有望かもしれないという気がしてきた。
しかし、思い立ったときには苗を準備してなかった。
そこで、耕地裏のイガラッペの縁に沿って生えたアサイの林から実生苗を引き抜いてきて、マラクジャの陰になるようにしてクプアスーの苗と一緒に植えた。もちろん翌年からはちゃんと苗を仕立てたが。
そこで、これまで何度かクプアスーと言う名前が出てきたが、クプアスーとはどんな作物かと言うと、そのフルーツには何せ独特の風味と味があるのだ。地元の者はみんな大好きだが、日本にはこれと似た風味のものが存在しないので、例えて説明のしようがない。
日本からやって来た人にそのジュースを勧めたりすると、「ユニークな味がしますね。」とか「パンチの効いたジュースですね」などと一応のご挨拶は言うけども、本音はちょっとねえーといった感じの人が多いのである。
しかし、勧めるほうも勧める方で、日本の人に勧める場合はもっと考えないとならない。
何故なら、日本の皆さんは何でもまろやか好きだから、クプアスーの様にパンチの効いたフルーツをジュースにするときは、うんと薄めて砂糖の量を微妙に調整するようにするとか、ミルクを加えるとかすれば「これは美味い」ということになるはずだ。でも、ユニークといえばユニークだ。
そこで、クプアスーは同じ青桐科の植物だからカカオと樹の格好がよく似ているが、初めて見る人が珍しがったりするように、カカオの実が幹の表面にもよく生るのに対して、クプアスーの実は枝だけに付く。
そのカカオの実は ( から )に光沢があり、熟れると黄色くなるが、クプアスーの方は殻の表面にざらざらとした暗褐色の粉をふいたような薄い膜が被っていて、若いときから熟れるまで終始暗褐色をしている。そして、カカオの実の両端が少し細くなっているのに対して、クプアスーの実は中央が円筒状になっていて両端が丸く膨らんでいる。

実はカカオよりかなり大きく、重さが一キログラム以上あることが多い。


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クプアスーの木と実

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 カカオの木と実

ところが、そのような格好をしているクプアスーの実の収穫はカカオのようにもぎ取るのではなく、落ちた実を拾うのだ。木からちぎってみたとて、クプアスー独特の香りがせず使い物にならない。落ちてからこそ匂いが出るようになるが、かといって拾うのが遅れると、殻の中で発酵したり、カビが生えたりして台無しになる。
それに、いいやつは泥棒に拾われてしまう。落ちている実は、落ち葉の色で紛らわしいところがあるが、一つは実から発散す
る匂いが頼りになる。    
殻を割ると両者とも白っぽい果肉を被っている種が並んでかたまる様にして入っている。ただし、チョコレートの原料となるカカオビーンズが種を果肉ごと発酵乾燥して仕上げられるのに対して、クプアスーの方は種から果肉を切り離して用いることが多く、ジュースやお菓子作りの原料としてその独特の風味や香りは先ほどの通りである。でも、種からは白チョコが作られたり、油が採られたりする。
わたしがアサイとクプアスーを植えた区画には、空中窒素の固定や乾燥防止、それに土作りなどを目的として熱帯 ( くず )を植えた。蔓が樹に巻きついて、大変な思いをすることもあったが、それでもよく育ち、実が生るころになると、研究者や普及員たちが多く見に来るようになった。その後、周囲にも、次第にアサイが植えられるようになってきた。
 
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 カカオ、アサイとさまざまな樹木類

縦貫農道は耕地尻までまだ百五十メートルほど残っていたが、途中から右側の区画の中へ入って、畑の中を斜めに突き抜けて歩くように彼らを誘導した。
乾燥期の盛りで炎天下は暑いが、畑の中は何時もながら一種のさわやかさと豊かさがある。作物の陰が強くなったために草が勢いよく生えなくなったが、草刈機で刈られたたばかりでさらにきれいになっている。
アサイの株を避けたり、クプアスーの低い枝を掻き分けたりしながら進んでいくと、誰かが、「この小さいのはカカオじゃない?」と言った。
「そうなんだ。去年植えたばかりだ。クプーが十年くらいを過ぎたころからバソーラ・デ・ブルーシャがひどくなって手入れが大変になるが、この点、カカオはあまり病気が出ないようになったし、市場の将来性を考えて植えてみたんだ。」
「あんたたちはバソーラ病を知っているかな?あんたたちのところでは未だ見たことがないが。今ここも手入れしているからバソーラは少ないけど、これがそうだよ。」と少し高いところにあった病気の付いた枝を引っ張り下ろして折って見せた。
わたしたち地元の者は普通クプアスーのことを縮めてクプーと呼んでいる。
そして、バソーラ・デ・ブルーシャとは、直訳すると、魔法使いのおばあさんのホウキということだが、いわば天狗巣病のことで、カカオもクプーもこの病気に罹る。
一種の菌の出す物質のホルモン作用で罹病部分に奇形が生じるもので、菌が枝の新芽や花芽に付くと、そこが異常に肥大したり、分裂して箒状 ( ほうきじょう )の奇形になったりする。木は枯れることはないが、実につくと、殻の中の種や果肉が石のように固くなって台無しになってしまう。
樹が若いうちはあまり罹らないが、盛りになってくるとよく出だす。初めぽつんと出たかと思うと、今度はそっち、次はあっちこっちと、まるでホウキに乗った魔法使いのおばあさんが飛び移っていく様にして増えていく。

県連故郷巡りカリフォルニア=150周年、満砂那(マンザナー)に平和を祈る=《17》 ニッケイ新聞WEB版より

米国の自由と平等を守った男
 2001年9月11日の米国同時多発テロの時、米国の自由と平等を守るために活躍した日系人がいた。ノーマン・ミネタ氏は運輸長官としてブッシュ大統領からホワイトハウス地下の緊急対応センターに呼び出された。その時米国上空を飛んでいた民間機4638機を緊急着陸させるという米国史上初めての命令を発令し、2時間20分で遂行した。
 ミネタは民主党議員としてクリントン政権で日系人として初めて閣僚に選ばれ、その実績を買われて、共和党のブッシュ政権になっても閣僚を続けた珍しい人材だ。党派を超えた逸材と見られていた。
「なぜ銃口が私たちに向けられていたのか…」。少年時代に経験した強制収容所の生活について語るミネタ氏(DVD『アメリカを守った男―日系人議員ノーマン・ミネタの80年史』FCI、2012年の冒頭場面)
「なぜ銃口が私たちに向けられていたのか…」。少年時代に経験した強制収容所の生活について語るミネタ氏(DVD『アメリカを守った男―日系人議員ノーマン・ミネタの80年史』FCI、2012年の冒頭場面)
 当時、イスラム教徒やアラブ人を飛行機に乗せるなという世論が高まり、「アラブ系市民の隔離をせよ」という意見まで出ていた。全米日系人博物館で配布されたDVD『アメリカを守った男―日系人議員ノーマン・ミネタの80年史』(FCI、2012年)によれば、《全米でアラブ・イスラム系市民への差別行為がテロから1週間で645件》という数字が公聴会で発表され、テロ後1カ月間では「ターバンをしてひげを蓄えていた」という理由でシーク教徒を殺す事件など7件の殺人事件まで起きていた。

 しかしミネタ氏は日系人強制収容所での辛い経験から、全米放送のテレビ報道番組に出演して「アラブ系やイスラム系市民だというだけでその人をテロの容疑者扱いしてはいけない」と公言し、保守派のメディアや政治家から強い非難を受けるに至ったが、断固として受け入れなかった。
 人種を選別することなく空の安全を守るために、ミネタ長官がアメリカ合衆国運輸保安庁(TSA)を創設した。そこによって作られたトランクケースの鍵の新しい規格が「TSAロック」で、最近のものにはほぼ常備されている。海外旅行に使うトランクにも、米国日系人の経験と判断が影響している訳だ。彼は後に全米日系人博物館の理事長にもなった。
 一行の一人、多田邦治さんからはこんな一首も送られて来た。
《星条旗のもとに生まれて星条旗ひるがえる収容所に君らいくとせ》
マンザナー強制収容所跡地の博物館駐車場になびく星条旗
マンザナー強制収容所跡地の博物館駐車場になびく星条旗
 マンザナーの強制収容所資料館を、じっくりと最後まで見ていた参加者の渕田光治さん(78、二世、聖市)は、「マンザナーを実際に見るためにこのツアーに参加した。日系人であるがゆえに強制収容された歴史を、二世として見てみたかった」とのべた。
渕田光治さん
渕田光治さん


 この慰霊碑は、前日に観光したハリウッドやビバリーヒルズより100倍も印象に残った。果たして、ブラジルのサントス強制立退きへの謝罪請求運動は米国のような動きになるだろうか。(つづく、深沢正雪記者)






花談議447≪うらやましい~!!≫ はなさんからのお便りです。 

しゅくこさん、出石さん
                            はなです
 
うらやましい~!!
フィトンチッドとマイナスイオンの森林浴、最高ですね。
おまけに沢の水を飲めるなんて。
 
ちいさなアジサイは山アジサイですね、山野草を愛で、遠く緑の山々を望み。
ああ~私も行きたかった。
体調が停滞中では仕方ありませんが。
ドクターからもマイナスイオンの中を歩くのは良いといわれています。但し登山は禁止。
出石さんの散歩道なら大丈夫でしょう、いつか一緒に歩きましょうね。
 
出石さんお得意の料理も美味しそう。
78枚もたいらげるなんてよっぽどのお味だったのでしょうね。
レシピをいつか又教えてくださいね。
 
出石さんからいただいた「エラブユリ」今年もきれいに咲きました。

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臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(99) ニッケイ新聞WEB版より

 ウサグァーは一言もいわず、泣き言もいわず ののしりもせず、ただあえぐのだった。子どもたちは従妹、ウサグァーの苦しげな息遣いを聞いていた。母親ほどの年齢の差はあったが、まぎれもなくマサユキ、アキミツ、ヨーチャン、そして、赤子ミーチの従姉に違いなかった。
 ヨーチャンが「死にかかっているんだろうか?」と聞くと、マサユキは長男としての威厳を見せ、「だまっておれ」と命令した。
 しかし、三人ともドアにぴったり耳をあて、注意深く音を聞き、ドアの向こう側でいったいなにが起きているのか、かつて経験したことのない事態に聞き耳を立てていた。

 すべての騒動がはじまったのは夜、8時30分を少しまわったときだ。
 はじめの銃声があってからの30分は、全員にとって恐怖の時間だった。正輝と房子がウサグァーの出血を抑えようと、躍起になっていた。どうにもならないことが分っていても、簡単にあきらめきれず、状況に打ち負かされないよう房子が金切り声をあげながら、がんばりつづけたあの30分間こそ、壮絶な時間だったといえる。信じがたいことだが、人間はどんな悲壮な状況におかれても、時とともに状況を受け入れ、馴れていくものだ。不思議なことだ。事件が起きてまだ1時間も経っておらず、ウサグァーのうめき声が弱まり、呼吸も速いとはいえ、静かになったとき、
「ヌーウスガテー、ヌーウスガテー(どうしよう、どうしよう?)」
とののしったり、訴えつづけてはいるが、房子はもう叫ばなくなり、落ち着きをとり戻していた。あとは待つだけ。助けを待つ、そして、警察を待つだけなのだ。
 ただ、それは長い長い時間だった。助けをよびにいった者は、町の中心にあるサンタカーザ慈善病院まで8キロほど歩いて行かなければならない。そこから、警察所までいって、事情を話し、警察はマシャードス区に出向するチームを動員しなくてはならない。
 死の訪れを待つだけだ。死はゆっくり、ゆっくりやってきた。うめきは止まらなかったが、しだいに弱く、間隔がのびていった。子どもたちは目を覚ましたままだった。夜が明けようとしていたころ、うめかなくなった。房子は突然、激しく叫び声をあげ、絶望的に泣きだした。
「声をだしてちょうだい。やめないでちょうだい」
と姪の体を揺さぶりつづけたがむだだった。正輝は力ずくで妻を抑えつけた。
 そのあと、ようやく警官と医者一行がやってきた。先頭に地域警察署長のライムンド・アルバロ・デ・メネーゼスがいた。状況にかかわらず冷静な態度で何がおきたか質問した。
正輝は自分が見たことを、自分なりの考えで述べた。玉城牛吉が姪の頭に2発、弾を撃ちこみ、そのあと自分に向けて銃を発したといった。そのときになって、みんなはその部屋にもう一人被害者がいたことを思い出した。午吉にはまだ息があり、所長の質問にひとつだけ答えると、救急車でアララクァーラのサンタカーザ慈善病院に運ばれていった。そこで、胸の弾を抜きだす手術を受けたが、何時間か後に死亡した。
 警察署長は家には正輝の家族と被弾した2人だけがいたのかと質問し、彼はそのとおりだと答えた。事件はどのように起きたのか聞かれ、正輝は答えた。子どもたちを寝かせつけ、居間で夫婦と話しているとき銃声を聞き、そちらの方に走っていったら、あのような状況だったと話した。
 メネーゼス署長はもう一度質問をくり返した。
「家にはだれかもう一人いなかったのか?」
「わたしたちだけです」と答えた。
 ところが、房子は右手で頭をたたいて、「戸田さんはどこ?」と聞いた。

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