私たちの50年!!

1962年5月11日サントス着のあるぜんちな丸第12次航で着伯。681名の同船者の移住先国への定着の過程を戦後移住の歴史の一部として残して置く事を目的とした私たちの40年!!と云うホームページを開設してい居りその関連BLOGとして位置付けている。

2019年07月

中高年の「元気が出るページ」終戦記念日特集                    <地獄からの生還>第9回 


地獄からの生還 第9回


天井は敵の通信中継基地
 
 日にちは天井穴の薄明かりから判断して約1ヶ月立った頃、われわれ二人の悪い予感が的中する事態が起きた。
 われわれの寝ている昼間、二人の頭の上を登っていく数十人の足音で飛び起きた。壁に耳を当てると、敵兵が壕の上に器材を運び上げている様子だ。そのうち階段までできたらしく、足音がトントントンとリズミカルに聞こえて来たのには肝をつぶした。
 暫くすると、今度は天井穴の近くからハロハロと話したり、チリンチリンと電話を掛けたり、かかって来たりするような音が聞こえ始めた。われわれには英語は理解できなかったが、何か言葉を反復しているように聞こえて来た。これは後になって考えたことだが、爆撃でガブツ島とタナンボコ島を繋ぐ桟橋は破壊されていたし、向かい側のフロリダ島には敵の水戦基地があり、これらをつなぐ通信の中継基地を造っているらしい。

 最悪の事態だ。向こうの音がこれだけ大きく聞こえるということは、逆にこちらの物音もちょっと耳をすませば聞こえるに違いないと、自分たちの立てる音にはことさら神経質になった。暗い中では手まねや表情では意思が通じず、どうしても話したいときは、相手の肩を叩き、耳へ口をつけて内緒話の仕草をした。
 われわれの命の水、天井から落ちる滴は、空の缶に受ける最初のカンカンと響く音を少しでも消そうと、最後に飲んだものが少し残しておいた上に受けるようにした。
 われわれが水溜りをピチャピチャと歩き回っては向こうに聞こえてしまうだろうと、敵が活動する昼間は、こちらの行動をピッタリやめて寝ることにした。
 敵の通信士は、2時間おきぐらいに交替するのもわかった。
 暫く音がしなくなると、夜がきたなと、今度はこちらが行動開始。日課の自分たちの居る場所に乾いていそうな土盛りをはじめ、終わると梅干し樽の底に沈む残り汁を指につけてなめ、終いには塩気を爪で引っ掻いて舐め尽くし、全くの空っぽになった。
 とうとう自分たちが口から吐き出した梅干しの種を、盲目の人が潮干狩りで貝を探すように、泥水につかった土の中を探り、泥と一緒につかみ出し、その中に種を見つけると口に放り込んでは奥歯でカチッと噛み砕き、中の天神様、子葉を食べるまでに追い詰められた。
 敵の通信士が階段を上ってくる足音がすると、また朝が来たなと思い、われわれはお互いが生きていることを確かめ合った。わが軍による奪還の期待は諦めに変わっていた。

 いよいよわれわれはこれまでか。この壕に閉じ込められて幾日になるかもはっきりしない。だが、何かいい方法はないのか?
 ここを脱出し、生き延びるにはどうしたらいいか。二人ともいくら考えてもいい方法が浮かんでこない。外の状況が分からず、敵がどの程度どこにいるのかを知らなければ、なんの対策も立てられなかった。
                (明日に続く)

アメリカ便り・メキシコ車旅(3)映画「イグアナの夜」余話 富田さんからのお便りです。

   和田さん&W50年の皆さん、日本はやっと梅雨が明けたそうですが、ご機嫌いかがですか。今週はアメリカ便り・メキシコ車旅(3)映画「イグアナの夜」余話をお届けします。
この映画は、名匠ジョン・ヒューストン監督がリチャード・バートン、エヴァ・ガードナー、デボラ・カー、スー・リオンを起用して、メキシコの小漁村・プエルト・バイヤルタで1963年にクランクアップした作品です。そして、今回我々はこの辺りまで足を伸ばして、この映画に関する余話を集めてきました。例えば当時、「バイヤルタにはイグアナより多い芸能リポーターが集結した」と言われました。何故か?もう一つ、ロケに出発する前、監督は女優たちに物騒な「有るもの」をプレゼントしました。何でしょう?ご用とお急ぎでないお方は、下記のブログをお訪ねのうえ、アメリカ便り・映画「イグアナの夜」余話E N J O Y !!!


富田眞三  Shinzo Tomita

イメージ 2

                                   メキシコ車旅(3)
 
映画「イグアナの夜」余話
 
イメージ 3

                                           写真:(www.southeastern.center-for-contemporary.com)
1964年に封切りされた「イグアナの夜」というアメリカ映画をご記憶だろうか?映画のロケ地には、メキシコ東部の太平洋岸に面する、当時は小漁村だったプエルト・バイアルタ近辺が選ばれた。そして、今回のメキシコ車旅で、我々はそのプエルト・バイアルタ近辺を旅して来た。
「イグアナの夜」は1961年ブロードウェイで上演された、同名のテネシー・ウイリアムズ作戯曲をベースにして映画に翻案したもので、ジョン・ヒューストンとレイ・スタックが製作を担当し、二つのオスカーに輝くヒューストンがメガフォンを握った作品である。撮影はメキシコの名カメラマン・ガブリエル・フィゲロアが担当した。
主役を演じた、リチャード・バートン、エヴァ・ガードナー、デボラ・カーとロリータ役で一躍スターになった、スー・リオンの4人はいずれも当時彼らの絶頂期にあったことを考慮に入れると、いかにこの映画が桁外れだったかが分かる。
 
ヒューストン監督にとっても4人の大スターをまとめて行くことは大仕事だった。エゴの強い大スターが4人もそろえば、火花が散るだろうことは予測できた。前兆はあった。デボラ・カーの夫のピーター・ヴェルテルはエヴァ・ガードナーとの不倫がうわさされていた。レイ・スタックが嫌がるエヴァに出演を承諾させるのに、三か月かかったのも理解出来る。一方、バートンも当時不倫関係にあった、エリザベス・テイラーを伴って来ていた。
 
                    主役たちにピストルをプレゼント
イメージ 4

 
                                              写真:(www.espacio.mex)
そこでヒューストンはバイヤルタに旅発つ前に、4人の主役たちとエリザベス・テイラーを集めて、各人に一丁づつデリンジャーの小型ピストルをプレゼントして、こう語った。「箱の中には各々の名前を記した黄金の弾丸も数発づつ入っている。ロケ中、必要になったら使ったら良い。そうしてくれると、私に降りかかってくる面倒を回避できるからね。」
監督の思惑通り、ロケ中ピストルを使った者はいなかった。72日に亘ったロケ中バートンは朝食からビールを飲み、エヴァは演技で感じる不安を酒で紛らわせるのが常だった。スー・リオンの恋人に至っては、見境なく女優たちにいちゃつくので、監督から撮影現場に近づくのを禁じられた程で、何が起こっても不思議ではない緊迫した状態で撮影は進行していたにも関わらずだった。
 
 ところが、主演の4大スターたちよりも遥かに大きな関心を呼んだのは、エリザベス・テイラーだった。リチャード・バートンと共演した、クレオパトラの完成後、休暇をとった彼女は主役のバートンの愛人として、ロケに加わる許可を得ていた。
世界的大スターの二人は、互いに正式に結婚した伴侶がいたため、この情事と逃避行が米国はもとより、世界中のマスコミの注目を集めたのは、当然の成行きだった。監督のヒューストンは、「バイヤルタにはイグアナより多い芸能リポーターが集結した」と後に自伝に書き残しているほどだった。パパラッチの走りが現れたのが、この時だったと言われている。
二人がメキシコ市空港に着いたとき、バートンとリズを見ようと、500人以上のファンと野次馬が殺到して、リズはファンに揉みくちゃにされ、彼女はハンドバッグと片方の靴を無くした、という。
 
イメージ 5

                                           写真:(www.puntamita.com)
こんな秘境が世間をはばかる愛の逃避行中の、リチャードとリズにはピッタリだった。1963年封切りの映画「クレオパトラ」で共演した、リズもリチャードは共に家庭を持つ身だったので、二人は不倫関係にあった。この映画で当時としては桁外れの700万ドルを入手したリズは、休暇をとって、三人の幼子を伴ってリチャードのロケに参加したのだった。
だが、その後結婚した二人は10年間無事に過ごした後、離婚したが、数年後二人は再婚し、一年で再び分かれた。従って、エリザベスは7人の男と8回結婚する、という記録をのこしている。そして、そんな二人がプエルト・バイヤルタに現れたので、その名は世界中に知れ渡った。
 
                 さて、ここで映画のあらすじをご紹介しよう。
イメージ 6

 
                                                    写真:(www.listal.com)
ストーリーは教会牧師のローレンス・シャノン博士(リチャード・バートン)が教会の日曜学校の若い女性教師と「不適切関係」を持ったことによって、教会を追放され、神経衰弱になって入院したことから始まる。
二年後、やっとテキサスの旅行社のガイドの仕事にありついたシャノンは、テキサスのミッション・スクールの女性教師たち15人を案内して、メキシコのプエルト・バイヤルタに行くのである。
 シャノンは教師たちのリーダーのミス・ジュディー・フェロー(グレイソン・ホール)の姪に当たる、16歳のシャーロット(スー・リオン)の誘惑に負けて、二人だけで密会している現場を、ミス・フェローに見つかる。怒ったフェローは旅行社に圧力をかけて、シャノンを首にしようと図る。
 
イメージ 7

写真:(www.puertovallarta.net)
 腹を立てたシャノンは、一行の乗るバスとグループ一行を、プエルト・バイヤルタの、電話もないコスタ・ヴェルデ(みどり岬の意)ホテルに連れていけば、フェローも旅行社と連絡を取れないだろうと考えたのである。
ホテルは彼の友人フレッドが経営していると思っていたが、着いてみるとフレッドはすでに亡くなっていて、今は色気たっぷりで男好きのする未亡人、マキシン・フォーク(エヴァ・ガードナー)が経営していた。
 
イメージ 8

写真:(www.sullivan60.blogspot.com)
 同日、ホテルに二人の客が着いた。あちこち旅して描いた絵を売って暮らしている、マキシンとは対照的にしとやかなハンナ・ジェルクス(デボラ・カー)と100歳近い祖父の詩人だった。宿賃も払えない二人のために、シャノンはマキシンに後払いで泊めてやるように、説得してやった。こうして、シャノンと彼を巡る、三人の女性が一堂に会した。
 
 長い夜更けたころ、イグアナとさそりがうごめくホテルで、彼の弱点である、性欲とアルコールを克服しようとするシャノンを、再び17歳のシャーロットが誘惑する。それを咎められたシャノンは酔っぱらって暴れると、マキシンのホテルの二人のビーチボーイが、彼をハンモックに縛り付ける。ちょうど、彼らが食用にするために、木につないで太らせているイグアナのように…。
すると、シャノンに好意を抱くハンナがハンモックに縛り付けられた、シャノンにケシの実茶を与えて介抱した後、縄をほどいて開放してやった。
その夜、ハンナの祖父は長い詩を彼女に口述筆記させる。口述し終わって彼は息を引き取る。
 
三人の女たちも、各々シャノンとの混乱した関係を清算するのである。シャーロットは伯母と先生たちとバスでホテルを後にし、マキシンはシャノンと二人でホテルを続けようと決心する。そして、ハンナは最後の恋のチャンスを失って、一人さびしく旅発っていくのである。
 
                                        映画のロケ地・ミズマロイア
イメージ 9

 
写真:(www.viajaramexico.com)
先日、 プエルト・バイアルタ近辺のサユリータ(Sayulita)という、人口5000人の海辺の村で十日間を過ごした際、一日友人の大型ヨットを借りて、プエルト・バイヤルタがある、バンデーラ湾内を周航したときのことである。昼食を取りにマライカ(Maraika)ビーチのホテル・レストランに向かった。ここは陸路がまだないため、海からしか接近できない。ちょうど、半世紀前の「イグアナの夜」のロケ地ミズマロイアと同じ条件のビーチなのだ。
 
マライカと同様、ミズマロイアは映画が撮影された1960年代、陸路からのアクセスはなく、ここに行くには海から上陸する以外、方法はなかった。この地は無住の地だったため、電気、水道等などはなく、ビーチの後背部は2,0003,000㍍級の西部シエラ・マドレ山脈が人間の侵入を阻んでいた。ジョン・ヒューストン監督は非社交的性格の人物で、こういう人跡稀な場所、特に海辺が好みだった。
 
 従って同映画のプロジューサーのレイ・スタークが、ロケ地にミズマロイアを推薦したとき、ヒューストンが即決したのは、当然だった。不便な点は、ハリウッド映画の資金力があればいくらでも改善できる。映画のロケはパパラッチ、記者、カメラマン、芸能レポーターが簡単に近寄れない場所で、72日間にわたって行われた。ジョン・ヒューストンはプエルト・バイヤルタに撮影本部を設置して、村唯一のホテル・エル・パライソに宿泊した監督、出演者、スタッフ等は毎日、ヨットでミズマロイアまで出勤したわけである。
 
プエルト・バイヤルタ、「イグアナの夜」以後
 
イメージ 10

                                                        写真:(www.pinterest.com)
バイヤルタの歴史を語るとき、「イグアナの夜」以前と以後に分けて書く必要がある。「イグアナの夜」以前のプエルト・バイヤルタは最も近い空港のある、グアダラハーラから車で16時間かかる小漁村に過ぎなかった。今は3時間で行ける高速道路が通っている。
映画「イグアナの夜」によって、バイヤルタはさなぎが蝶、それも世界的に通用する蝶に変身したのである。これはロケに来た、4大スターとバートンに同伴したエリザベス・テイラーたちを争って取材した、芸能リポーターのお蔭もあったが、「この大変身」の仕掛人と言うか、触媒の役を果たしたのが、ジョン・ヒューストン監督だった。
 
イメージ 11

                                                   写真:(www.travelandleisure.com)
映画を企画、監督したヒューストンによって、映画は米国を初め世界中の映画ファンが映画館に駆け付ける、大ヒットとなり、その結果この地は世界的に有名になった。数年後、当時のロペス・マテオス・メキシコ大統領は、国策事業として、プエルト・バイアルタを一大リゾートに変貌させるである。メキシコ観光省は、古くからある漁村の南部の何もない海辺を開発して、高速道路を建設し、国際空港を開き、巨大客船が接岸できる波止場を作ったのだ。
そして今では、4145星印の一流ホテルがプエルト・バイヤルタに軒を連ねている。
 
あの頃、ぼくはすでにメキシコに住んでいたが、政府の観光産業への思い入れは、「観光は煙突のない産業である」というスローガンによく表れており、実際大成功するのである。メキシコのビーチが一大観光資源になることをメキシコ人に教えてくれたのが、自らメキシコの海辺に釣りのための別荘を建てたジョン・ヒューストンだった。
 
イメージ 12

 
                                                     写真:(www.trickr.com)
当時のプエルト・バイヤルタは今は旧バイヤルタと呼ばれるようになり、新しく開発された、世界的リゾートの方がプエルト・バイヤルタ市になっている。今では人口も32万(2018年)に増え、年間500万の観光客が空路、海路、陸路から訪れる観光地になった。映画の封切りによって、小さな村がリゾートに大変貌した例は世界的にも珍しいと言われる。すべてはメキシコの海を愛した、ヒューストンのお蔭である。
 
プエルト・バイヤルタ市は、ヒューストンへの感謝を込めて市内にヒューストン広場を作り、永遠に市民の記憶に残る監督の銅像を立てた。そして、1978年、バイヤルタ市が属するハリスコ州は彼とリチャード・バートンに「ハリスコ州名誉アミーゴ」の称号を贈っている。
メキシコを愛したヒューストンにとって、この名誉アミーゴ称号は、ハリウッド大通りの「ウオーク・オブ・フェイム」に埋め込まれた、彼のプレートより嬉しい栄誉なのではないだろうか。
メキシコ車旅(3)終わり

アマゾンのアグロフォレストリー≫ トメアス移住地の高松壽彦さんの書籍より(その36)

アルファイアの船に苗を積み込む

予定から丸一日遅れ、アルファイアの船がいくらなんでもジャリの港に着くはずの土曜日になった。しかし、船と連絡が取れないため何時着くのか判らない。
育苗園の従業員は土曜日の昼で仕事が打ち切りというから、一刻も早く船に着いて欲しいし、落ち度であったが、カタライヤたちが着いたときどこに連絡すればよいか教えてなかったので、まず朝の7時アントニオと車でジャリの港に行ってみた。
港といっても、一ヶ所は商店街に近く船がごちゃごちゃと泊まっている場所と、もう一ヶ所は川岸の高床の家が並んでいる通りを挟むようにしてある外れの少し寂しい船着場の両方を見なければならなかった。
おまけに、アルファイアの船と似たようなのがいくらもいるので注意深く探さなければならなかった。
念のため、向こう岸のモンテドラードの船着場まで目をやっても、それらしき船の姿は見当たらなく、小さな連絡船が両岸の間を行ったり来たりしているのが見えるだけである。
「しかし、待てよ!アレは誰だ。船着場の脇にあるバールの前に立っているのはカタライアじゃないの?」とアントニオに言うと、「似ているけど彼じゃないよ。ほれ、今横になったから見てよ。奴さんの太鼓腹はあんなもんじゃないよ。でも、彼は昔この両岸を繋ぐ連絡線のパイロットをしていたからカタライアと言うあだ名がついたのだってさ」と応える。
なるほど、そうだったのか。たしかに、たった百五六十メートルくらいしかない川で向かい合った二つの町の間を行き来している連絡線はみんなカタライアだ。
しかし、今待っているアルファイアの船のように多くが営業用として作られ、横壁や独立した船室などがある木造船は通常バルコと呼ばれ、そのバルコとカタライアが両岸壁にごちゃごちゃと停泊しているのである。
次は九時ころ行っても着いてなく、三度目は昼前にケリーがついて行ってくれたが、やはりバルコは着いていなかったので、育苗園に戻って彼女が親切にも従業員に午後からになるはずの積み込みのためにそのまま待機するよう頼んでくれた。
お昼を食べたあとホテルで少し休んでいると、二時ころアントニオが迎えに来る。車に乗り込むと、アントニオが普段使ったりしない香水の匂いを漂わせている。昼休みの間にリージアとお楽しみだったようだ。リージアの友達をわたしに紹介させる約束はどこへやら。そんなこと聞いたところで野暮なこと。
しかし、ふたたびにぎやかな方の波止場に行ってみると、バルコは今着いたばかりの様子で、アルファイアとカタライアの二人が川岸に打ち込んである杭に太いロープを繋いでいるところをやっと探し当てた。
そこで、わたしは初めて面と向かってアルファイアと挨拶したのである。
年は四十の半ば過ぎくらいか。彼はかなりの男前と見てよいし、背が高く体格もいい。日に焼けているから分かりにくいが、彼は少し白めのモレーノである。と言うことは、ローラの白さからすると、多分奥さんがかなり白いほうだろうなどと想像していると、何ということだろう。
サンタナ港で船に乗っていたあの若者たちが、近くのバールから缶ジュースを買って出てきたではないか。もちろんその中にあのローラも。
私は年甲斐もなくうれしさを抑えることが出来なかった。
ローラはあのとき16歳と言ったが、あとの娘は二人ともローラの従姉妹とかで少し年下に見え、モレーナだが、ローラに負けず劣らず美人ばかり。
二人の青年のうち一人はアウレリオの末息子でアレシャンドレ、もう一人はやはりローラの従兄弟でエペソンといったが二人とも瑞々しい17歳くらいの好青年である。
さて、いよいよ苗を船に積み込まなければならない。
外れの寂しい場所にある船着場の方へ移らせることにし、アレシャンドレとエペソンの二人を育苗園に連れて行き、あらかじめチャーターしてあったトラックへの積み込みと積み下ろしを手伝い、三人の娘たちはアルファイアやカタライアらと一緒に残って船への積み込みを手伝うこととなった。
作業を開始したときは既に午後3時をまわっていた。
四トン積みトラックに最後の積み込みが終わったので、わたしも船への積み込み状態を見届けに行ってみた。
既に街頭が灯り始めた薄暗い中で青年達がトラックの荷台から苗を下ろし、女の子たちがそれを船に移しているのを横目に、カタライアが「アルファイアからローラを一時間だけ外に連れ出す許可をとったよ」と言いながらわたしに目配せする。
 
  踊り明かす

 作業が終わったのはとっぷりと日の暮れた7時半を過ぎていた。わたしは青年達に向かって、「今日はご苦労さんだったね。これからみんなで僕の泊まっているホテルの横のハブでビールでも飲もうか」と誘った。
ホテルに戻りシャワーを浴びて暫らくすると、アントニオがみんなを連れてきた。ローラ、イボーネ、サンドラとアレシャンドレ、エペソン、カタライア、それにアントニオとわたしの七人が、ボーイに頼むでもなく自分達で勝手にテーブルを三つ並べて、ビールを注文した。
ほかの客達も入ってきていつの間にかハブの中が込んできた。
暫らく飲んでいると、ローラがわたしに「わたしたち三人の写真をとってくれる?」と頼む。ホテルに戻ってカメラを持ってきて何枚か撮り終わると、またローラがこんどは外でも写して欲しいというので、男達を残して三人の娘達と外に出る。ハブとホテルのある付近はごちゃごちゃしたジャリの町の中にしてはチョッと洒落た場所で、前に大きなスポーツ会館とその横が公園になっていて、土曜の夜ということもあり、大勢の家族連れや若いカップルがそぞろ歩きをしたり、ベンチに座っていたりしている。
まず、会館の前庭に植わっている小人椰子の茂みの前で一人ずつポーズをとる。
今晩のローラは白いセーターとジーンズ姿だ。この辺りには珍しい金髪色白で、瞳が暗褐色、身体の伸びがよく、広く開いた襟からのぞいている豊満な胸の一部が眩しい。
その割には顔の作りが少しおとなしく、なんとなく日本人に似ているところもある不思議な子であるが、内気と言うより、少し意地が強そうで、決して微笑まず、超然としているようで、しかし時折瞳の奥から妖しく人を見つめている風なのである。
サンドラは年をきくと15歳と言う。モレーナで、髪と瞳が真っ黒、くっきりした大きな目はインド美人を思わせる。ジーンズのミニスカートから伸びるスリムでしなやかそうな肢体が悩ましい。
彼女も決して笑ったりせず、完全に内気な性格のようである。
同じくモレーナのイボーネは13歳。一番小柄で、女性としての体はこれからといったところで、まだ胸も十分に張り切っていないが、三人の中では一番愛らしく、しかも優しさに溢れいつも微笑んでいる。
それでもやはり黙り気味なのは、無口な年上の従姉妹たちに遠慮しているからに違いない。
次は公園に行ってみようと歩道を歩こうとすると、なんとイボーネとローラの二人が左右両方からわたしの腕に手を回してきた。サンドラはイボーネの片方の手と繋いで歩く。
一般にブラジル人は男も女もおしゃべりが好きだから、女の子が三人も一緒に歩けば少しくらいお喋りしたり、はしゃいだりしても良いと思うのだが、彼女達は殆ど黙々とわたしに寄り添って歩くだけ。
或いは、この年頃の女の子というものは、女性としての自我意識が急速に強まり、情緒的に不安定になりやすい時期でもあろうから、安定を保つための精神的負荷が彼女らを内気にさせているのかもしれない。
それにしても、日本人の顎髭を生やしたおじいちゃんと三人の美人娘が腕を組んで歩道の幅を占領して歩く姿がよほど奇異に見えるのか、向こうからやってくる人々がわたし達を両側によけ、じろじろ眺めながらすれ違っていく。
と、言っても後から考えれば会館から公園までの距離からすると一二分もかからなったはずであるが、わたしは完全に上気し、情緒的不安に陥っまるで時間が止まったかのように思えた。
ふと「そこで三人を一緒に撮ってくれる?」と言うイボーネの声で我に帰ると、公園の中央に、何かを背中の籠に入れようとしている働く男の銅像がある。
像台に張られたプレートには「自然物採集人を讃えて」と書いてある。アマパ州に多い自然保護区の中で、ブラジリアンナッツなどの自然物採集を許されて暮らす人たちを記念しているのである。


イメージ 1
 銅像の脇にたたずむ三人娘

三人娘が像台に腰を持たれかけて立つ姿と、一方は像台の上に立って銅像と並んでいる姿にシャッターを押す。
ハブへは同じ道を戻った。わたしは行きにそんなものがあることさえ覚えてないほどであったが、歩道の脇にはずらりと夜店の棚が並んでいた。
すると、ヒッピー風の人たちが装飾品を売っている黒い布を張ったパネルのところに三人娘がそれとなくといった風に立ち止まった。
わたしは一歩引き下がって彼女たちのしぐさを見ていたが、三人は話し合うでもなく、棚主に尋ねるでもなく、ただ黙々と品定めしていただけなのである。
そして、結局彼女らは何も買わずに終わってしまった。
ハブに戻ってからはみんなで飲みんだ。三人娘は、さすがお酒はまだあまりと見えてすぐコークやファンタに切り替えたが、アントニオやカタライアはいわずもがな、アレシャンドレやエペソンの飲みっぷりは、若者らしく、小気味良いほどであった。
勘定のときに飲んだ数がわかるようにビール缶をテーブルの下に並べたのだが、いつの間にか置き場所もなくなるくらい溜まってしまった。
そのうち、壁の向こうからガンガンと音楽が鳴り出したかと思うと、外から若い男女ががやがやと入ってきて、奥の壁と前にある衝立との間に吸い込まれていく。
壁の向こうがディスクになっていて今から始まるという。周りの客も入りだす。アレシャンドレが今からタカマツはダンスするんだよと言う。
わたしはアントニオの顔を覗き込んだが、彼もニコニコしてわたしを促している。飲み代は当然ながら私のおごり。
すでに十時をまわっているが、ローラの一時間だけの外出許可は?と言えば、はたしてそんなものがあったんだっけ。こんな場所は大抵男だけ払えば済む事になっているが、入場料を払って中に入った。
ホールの中は既に超満員で、妖しいイルミネーションがぐるぐる回っているほかは、近づかないと顔が見えないような薄暗いとところで若者たちが踊っている。
びりびりと、振動が体全体をマッサージするようなボリュームである。
カタライアがわたしに何かを言うがわからない。アア?アア?と何度も聞き返すと、彼はわたしの耳元に口をつけて、ビールを飲みたいけど、小遣い持ってないから買ってくれないかと言う。
まったく底なしのしょうがない奴だなと思いながらも、カウンターに買いに行こうとするやいなや、エペソンが胸と両腕の間にいっぱいの缶ビールを抱えて来て、いきなり我々がいた輪の間の床にガラガラと置くではないか。「苗運びをしてもらった小遣いはみんな使い果たしたんじゃない?しかし、なかなか粋なことをするじゃないの」と思ったその瞬間だった。ローラが私の手を引っ張って踊ろうと誘う。
さっきから北ブラジルで今流行のパゴッテと言うリズムばかりが鳴っていたが、それは昔流行ったジルバの踊り方をさらに激しくしたようなもので、ローラについていくのがやっとだった。
瞬く間に汗が噴出してきた。
暫らく踊った後、まだたくさん残っているエペソンおごりのビールを飲みながら休ませてもらった。
次はわたしがイボーネを誘った。イボーネは小柄で華奢であるばかりでなく、相手の動きに任せるといった感じなので疲れない。
ふと気が付くとローラがわれわれの知らない男と踊っている。
カタライアは太鼓腹にもっぱらビールを流し込んでいるばかりで、ダンスはからっきしダメな感じは判るが、普段から歌の好きなアントニオにダンスのセンスがないわけがない。しかし、何故かはじめからビールを飲みながらカタライアと一緒に踊りの中に棒のように突っ立っているばかりなのである。
仲間の二人の青年はどうかといえば、アレシャンドレはダンスがそこそこなのか、踊るのをあまり見なかったが、エペソンは次々に相手を変えながら、ダイナミックに、しかも華麗にパゴッテを踊っている。
彼らと三人娘との間にはまったく恋人関係がないことはハブに入る前からわかっていたことだが、ほかの男達がローラに目をつけないわけない。知らない男はローラが独りになったところをすばやく捕まえたのだろう。
ところが、である。わたしがイボーネと踊り終わり、少し緩やかなブレーガのリズムに変わると、ローラがすぐまたわたしを誘ったのである。依然としてテンポは早いほうだが、ブルースを踊るときのような手の当て方をしても体をあまり密着させなければ何とか踊れる。これは塩梅がいいぞと思っていると、やっとアントニオがサンドラと踊りはじめた。
彼もまたわたしと同じような手の当て方だが、サンドラの体を包み込むようにしてグニャグニャさせながらうまく踊っている。そうか、アントニオは図体が大きいからパゴッテのようなハイテンポで離れて踊るのは苦手だったのかと納得した。
実はわたしの着ていたシャツは汗でびっしょりと濡れていて気が引けていたこともあったのだが、つい思い切ってアントニオの踊り方をまねてローラの体に密着させてみる。
ローラの豊満な胸がわたしに触れ、時折彼女の吐息がわたしの首筋辺りに降りかかる。なんともはかなくやるせない心地であった。その後も彼女は幾度か知らない男と踊ったが、わたしが空いているときはすべてローラのほうからわたしを誘った。
しかし、である。いつの間にかまったく知らない子がわたしに寄り添うようにして居続けるようになったのである。
カタライアが何か言うが、相変わらずよく聞こえず、身振りでどうにかわかったことは、ともかくお前はこの女の子と一緒に居れと言うことだった。
二十歳を二三歳過ぎたくらいだろうか、三人娘ほどの新鮮さはなかったが、熟れ切った感じの女の子はよくわたしに話しかけてきた。しかし、やはりあまりよく聞こえないので適当に相槌を打っていた。
その彼女とは一二曲踊っただろうか。
既に時計の針は朝方の四時を指そうとし、音楽がいつの間にかボレロの曲になっていてボリュームも幾分下がり、客も少しずつ減り始めていたが、アントニオに新しい子と踊ってもらうよう頼んで、カタライアの傍に立って休んでいたときのことである。
ローラが近くにいないのに気づいて会場を見渡したところ、客が減って人の群れが少し疎らになってできた円形の空間の向こう側に彼女がひとりぽつんとこちらを向いて立っているのを見付けた。
彼女と目があったので安心して、カタライアに「おまえらの船出は早いんだろう。そろそろ出ようや」と言って、再びローラの居た方に目をやったのであるが、すると、ローラの姿が突然消えてしまったではないか。
ローラから目を離したのはほんの一瞬のことだったと思うが、どこへ行ってしまったのか見当もつかなくなってしまった。
慌ててカタライアに訊いてみると、彼もローラは急にいなくなり、行方を見失ったと言う。
そこで、ついわたしは踊りの中をくぐって彼女を探したのだが、どうもホールの中にはいそうもない。
けっきょくローラは一人でホールを出たのだろうということになり、アントニオと新しい女の子とのダンスが終わったのをきっかけに、みんなで外に出ることになった。
すると新しい女の子がわたしにしがみ付いて、もう少し居てと言ってきかない。
アレシャンドレはニヤニヤしながら、「タカマツはいつからジャリにガールフレンドをつくってたの」と言い残して出て行く。
カタライアも「ローラは連れて帰るから心配するな。タカマツはこの子と残っておれ」と言うので、「彼女は一体誰なんだよ」と訊くと、「はじめに紹介したじゃないか。俺の従妹のイゼッチだよ。」エーッとわたしは驚いたが、そういえば、思い出した。われわれのジャリ行きが決まったときに、カタライアが「ジャリには可愛い子がわんさかいるよ。なんだったら俺の従妹たちをあんたに紹介してやるよ。」というから、「オーパ!それはいい。でもひょっとしたら、お前と同じビール樽腹じゃないの。」と茶化すと、「何を言うんだ。とびっきりの可愛い子だよ」などと言い合ったりしたのを思い出した。わたしはあまり期待もせず、忘れていたのだが、カタライアは律儀にも言葉を守ったのだ。
イゼッチが串挿し焼肉をねだったので、自分の分も買って一緒に食べながら、しかし、どうもローラのことが気になってしょうがない。わたしは彼女に「チョッと外に出てくるけど、必ず戻るから、ここに居るんだよ」と言って外に出てみた。
既に朝の四時半を過ぎ、ハブの前に仲間たちの姿は既になく、それでもなお見回すと、昨夜あれほど賑わっていた体育館と公園の周りに人影はなく、街灯が空々しく樹々と芝生を照らしているだけである。
年甲斐もなく、切ない思いに陥ってしまったものよ。
中に戻ってみると、イゼッチが男の子と踊っているのを見つけたが、彼女はこちらに気づいていない。わたしは少し迷ったが、「そうか、イゼッチはおじいちゃんにおやつを奢ってもらえばそれでよかったのか」と思ってそこを去ることにした。
ホールに入ったのが昨夜の十時過ぎ、出たのが朝の4時半過ぎだから延々6時間以上も浮かれていたことになる。
ホテルに戻り、部屋を目指して階段を昇るときは、さすが疲れを覚えた。もうシャワーを浴びる気力もなく、そのままベッドに横になったものの、眠たいような、眠たくないような妙な感覚で朦朧と想いを巡らしていた。
が、そのときである。コツコツとドアをノックする音がする。今頃誰だろうと思いながらドアを開けてみてびっくり。なんとそこにみんなと帰ったはずのローラが立っているではないか。
あまりにもの驚きに、わたしは声も出ず仰け反ってしまった。
それに合わせるようにして彼女は入ってきたかと思うと、後ろも向かず、片手でドアを閉める。
そのとき彼女は確か「やっと、二人きりになれたわ」と言ったようだった。そして、あの瞳の奥からの妖しくも悩ましい眼差しでわたしを見つめながら、わたしの両肩に手を当てたのだが、いつの間にか後スザリしていたわたしの足がベッドに支えて座り込んでしまった。
わたしは夢を見ているのではないかと自分を疑った。
しかし、彼女はわたしの傍らに座るや、わたしの手を握り、白いシャツの裾のところに当てて早く脱いでと誘う。わたしはいつの間にか激しく彼女のシャツを剥いでいた。しかし、ブラジャーのフックをどうやって外したのか、その行程をまったく覚えないが、現われたのは想像していた以上の見事な乳房であった。
豊満ながらも、一部の緩みもない、白く艶やかな乳房の先に付いている乳首は小さくて初々しくやや外側に向いている。
わたしはもう後には戻れないことを悟りながら、まさに彼女の胸に唇を当てようとした、そのときである。部屋のドアがガバッと開いたかと思うと、これまた驚きであった。今度はホールに置いてきたはずのイゼッチが、しかもなぜか素っ裸で入ってきたのである。
先ほど踊ったときにかなり大きいなと想像はしていたが、その乳房はただでかいだけでなく、ビューと長ウリのように伸びた、とにかく長い乳房なのである。それをブランブランと揺るがせ、何やらわめきながら近づいてきたかと思うと、いきなりローラのブロンドの髪を掴んで彼女をベッドから引きずり降ろしてしまった。
すると、仰向けになったローラも負けてはいず、イゼッチの長い乳房を下から引き千切れんばかりに引っ張った。
わたしは彼女らの指を必死になって外しにかかった。しかし、二人とも掴んだところを決して放そうとしなかったので、わたしはヤメロー、ヤメローと必死になって叫ぶしかなかった。ヤメロー、ヤメロー、何度か叫んでいた。
しかし、そのうち、出来事とその気配がどこかうつつのものとは違うなという意識が次第に蘇ってきたかと思うと、ふと我に帰った。
と言うか、必死の思いと自身のうなされ声に呼び醒まされて、わたしはやっと夢を見ていたことを知ったのである。
わたしには、必ずと言ってよいほどであるが、眠りに入って二十分ほどしたら一旦目を覚ます癖がある。
その間に夢を見るときは見て、そのあと本格的な眠りに入り、それからは起きるまで夢を見ることはあまりない。
 それにしても夢の中で夢を見ているのではないかと疑ったのは我ながら可笑しかったが、そのときもし自分の頬をつねりでもしていたら、彼女らはわたしの取り合いのために取っ組み合いの喧嘩なんかをしなくてもすんだかもしれない。
 しかし、男はいくつになっても、どうしようもなく、目出度くできているものよと、独り感心ながら深い眠りについたのである。
 翌朝、ジャリからの帰り道、アントニオにローラは外に出てどうしてたのときくと、「はじめ、前にいなかったので少し慌てたけど、どこにいたと思う?タカマツの泊まった隣のホテルの前にある椅子に座ってたんだよ。きっとあんたを待っていたのさ。」と言う。
 マサカーとは言ったものの、わたしにまたもやおめでたさがもたげかけてきた。
ダメダメ、何時までも浮かれているわけにはいかないよ。
 ジャリの旅は終わったのだ。住民達が植え付けのために苗を待っている。 

中高年の「元気が出るページ」終戦記念日特集                    <地獄からの生還>第8回

地獄からの生還 第8回


お互いが人という字になって

 この洞穴のような壕は、入口がふさがってから排水されず、地下水なのか雨水なのかわからないが、天井や壁を伝って水が常に滴り落ち、赤土の上を水浸しにして行った。
 自分たちがいる場所は半畳有るか無しかの広さに、まず石を敷き詰め、その上に乾いた土を運んできては相撲の土俵のように盛り上げた。土が水分を吸ってじめつくので、毎日乾いた土を探してきては盛り上げる作業を二人とも日課にした。この土の上に島中尉が残していった外套と毛布2枚を敷き、二人が横になる広さはないので互いが互いの背中に寄りかかって寝た。文字通り二人で一つの、人という形を作り、身を寄せ合って異常な事態を密かにしのいでいた。

44P防空壕の中.jpg

(防空壕)

 私は三等兵、本来なら6ヶ月経てば二等兵になる。しかし、こんな激戦下では、日本から通知が届くわけがなかった。とはいえ宮川は二階級上の一等兵である。軍隊というところは階級が絶対モノをいうところ。この階級差があったからかもしれないが、宮川とはほとんどと言って良いほど必要なこと以外、故郷のことや私事を話さなかった。むしろ外の敵がそばに来ていそうな気がして、話し声も極力避けるようにしていた。
 日本軍は負け知らずの軍隊とはいっても、もしわれわれを助け出せない位置にいたなら、この二つの小島は敵ばかりで、ここを何時どんなときどんな風にして捕まらず脱出できるか。そのため外の物音には極度に耳をそばだてていた。敵の弾に当たるより、捕虜のはずかしめだけは決して受けたくないと思っていた。この暗く長い穴蔵生活の中では数週間経つうちに、序列、階級はさておき、お互いがお互いを必要とし、頼りにするようになっていった。何をするにも相談しあった。やはり一人では、到底生き延びることはできなかったと思う。
                   (明日に続く)

臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(130) ニッケイ新聞WEB版より

 6月はじめ、アメリカ軍は牛島が設定した防衛線を突破、島の南方に前進した。彼らは正輝が生まれた新城や房子が生まれた玻名城の近くを通って具志頭に侵入した。
 日本軍の抵抗は皆無といえた。降伏することは軍人の恥とみなされ、とくに上位の軍人ほどそう思っていた。敗北がはっきりしたとき、牛島中将と上官の張勇参謀長は割腹自殺した。何百人もの軍人がその階級を問わず手榴弾で自決した。そして、沖縄は血の海と化した。
 太平洋戦争のなかで最も悲惨な戦いだったといえる。82日間の戦闘で、10万7000人の日本の兵士が死んだほかに、2万3700人が洞穴に埋められた。1万2000のアメリカ兵、そして、10万人以上(14万2000ともいわれる)の沖縄民間人死んだ。3万8000人のアメリカ兵が重症をおい、1万700人の兵士が捕虜となった。だが、その数は全召集兵士の10%に過ぎない。
 アメリカ側の物的損害は34隻のいろいろなタイプや大きさの船舶や368隻の海軍の艦艇が損傷を受け、763機の戦闘機が撃墜された。
 だが、日本側の物的損害はそれよりずっと大きかった。4月6日、軍隊は沖縄に出動したが、空からの攻撃には無防衛だった。史上最大の戦艦大和が翌7日、敵軍の潜水艦と、戦闘機により沈没され、航空母艦としての役が不可能となったのだ。軽巡洋艦と駆逐艦8隻からなる護衛艦も沈没したか、ひどい打撃を受けていた。沖縄戦で日本軍は16隻の戦艦、九州の基地から出発した神風特攻隊の1465機を含む7830の戦闘機を失った。
 戦闘が始まる前の記録では沖縄の住民は30万人となっている。戦後その数は19万6000人で、なんと3ヵ月足らずのうちに、三分の一以上の人がいなくなってしまったのだ。台風、旱魃、貧困、空腹いわゆる「ソテツ地獄」に慣れているとはいえ、想像もつかない、言葉では言い表せない状況を迎えていた。「荒廃」とはこういう状況を指すのだろう。沖縄の戦争は前代未聞の出来事だった。
 皮肉なことに、この産物もなく、自然現象に罰せられ、貧乏だが、明るい気性の島民を養い、長い間中央政府から見放されてきたこの沖縄が、日本の将来の行方を左右する場所になったのだ。日本は沖縄をとられないため、そして、アメリカは沖縄をとるため、双方は必死に戦った。もし、日本が沖縄を維持できたら、本土への道を防ぐことができた。アメリカは沖縄を占領すれば、日本へ上陸し、本格的攻撃が可能となるのだ。沖縄戦の結果、日本はアメリカの前進を阻止できないと悟った。
 4月のはじめ、東京は大空襲を受け、アメリカ軍が沖縄に上陸したとき、9ヵ月前、東条英機の政権を引き継いでいた小磯国昭首相は辞職した。
 あとを継いだのは鈴木貫太郎元連合艦隊司令長官だった。沖縄戦争の人的、物的損失に陸軍、海軍両大臣は動揺したものの、陸軍高官に強い影響力をもつ元東条首相に支持を受けていた阿南惟幾軍陸軍大臣は平和交渉が始まることを阻止していた。
 アメリカ軍が沖縄を占領してから一ヵ月後、また、ドイツが無条件降伏(5月9日)してから2ヵ月半の1945年7月26日、四ヵ国の首脳会議が開かれ全日本軍の無条件降伏を宣言した。その宣言には降伏のあと、全日本を軍の占領下におき、軍事力を放棄させ、これまで日本が占領した土地を破棄させることが含まれていた。

イメージ 1


↑このページのトップヘ