私たちの50年!!

1962年5月11日サントス着のあるぜんちな丸第12次航で着伯。681名の同船者の移住先国への定着の過程を戦後移住の歴史の一部として残して置く事を目的とした私たちの40年!!と云うホームページを開設してい居りその関連BLOGとして位置付けている。

2019年08月

≪新山口駅、東萩駅界隈の観光について≫ はなさんからのお便りです。

和田さん
        はなです
 
杉井さんからも観光場所の説明があっていましたが広島を何時に発たれるのか分かりませんが、時間が許すなら広島からは新山口(旧小郡)で降りて山口市内へ。市内観光後萩に入られるのが良いかと思います。
山口ではザビエル聖堂とありましたが火事で昔の聖堂は焼失し、今のものは現代的な建物になっています。
個人的には私は昔の聖堂のほうが好きでした。叔母から神父様にお願いして中に入らせていただいたものでした。
荘厳な建物にステンドグラスが印象的でした。
 
同じく市内を回られるなら瑠璃光寺の五重塔をお勧めします。
国宝の五重塔は大内文化の最高傑作といわれ、室町時代の建立。京都の醍醐寺、奈良の法隆寺のものと並び日本三大名塔の一つともいわれます。
瑠璃光寺から下ると赤い鳥居の八坂神社、近くに野田神社等があります。
市内ではほかに雪舟の庭園がある常栄寺があります。瑠璃光寺からタクシーで行かれるといいかと思います。
湯田温泉の街中では足湯の出来るとこがあります。
 
時間の余裕がどうか分かりませんのでなんともいえませんが、山口市内では瑠璃光寺は是非にといいたいです。
 
秋吉台(鍾乳洞)行きは一日がかりになるかと思います。
昔行ってから随分たちますが、車があってならまだしもバスを使うなら少し不便だと思います。
秋吉台から萩に入るにしてもでバスの便も少なく不便だと思います。
 
新山口から萩へは高速バスが走っています。
山口生まれの私からの提案でした。
 
萩にお泊りの宿は堀内地区のようで、ここには色々古い武家屋敷、塀などが続くところだったと思います。
高杉晋作旧家、桂小五郎旧家とか色々あったと思います。
東萩駅近く、徒歩20分くらいで松下村塾のある松蔭神社(世界遺産)。東光寺等色々見るところはあると思います。萩焼の窯元もありますし、維新を感じてください!
名所を回る無料バスもあるようですよ。
宿泊されるホテルに色々お尋ねになるといいかと思います。
 
萩から山陰道へは出雲大社、(松江市)、足立美術館がお勧めですが、
そこから松江に戻って,広島、岡山、大阪行きの高速バスはありますが・・
列車の便の関係でどうでしょうか?日程的に無理かな?とも思います。
 
それならそのまま山口県の山陰線沿いの長門、仙崎はどうでしょうか
若くして亡くなった詩人金子みすずの記念館等があります。
山陰の美しい海が見れますよ。
 
そこから新下関まででて新幹線で神戸まで。
しかし緻密に時刻を調べないと大変かな~

はなさん 元住んで居られた山口県に付いては詳しいですね。大変参考になりました。旅の楽しさは、行く前と帰って来てからが楽しいですね。旅行している間は、なんだとか疲れたなとか不満がでます。はなさんのサゼスチオンにより調べて見ましたが是非訪問したい所ばかりです。新山口駅から秋芳洞経由東萩迄走っている東萩駅行『スーパーはぎ号』は、中国JRバスでレイルパスが使える事がわかりました。翌日東萩からバスで丸一日秋吉台、秋芳洞を散策する事にしました。
帰りは、丸1日か掛けて出雲大社、松江城でも見てJRの田舎線で岡山まで出て神戸に夕刻着くようにしたいと思います。最後のyahoo blogにはなさんの旅行案内に写真を付けて残して置きます。有難う。


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臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(142) ニッケイ新聞WEB版より

 その年は偶数の年で、房子は1934年以来、2年毎に定期的に妊娠している。7回目の妊娠だが、妊娠初期のため房子も正輝も確信はもてずにいた。
 日本の勝利を信じるアララクァーラの彼やその仲間ら勝ち組が大規模な祝賀会を行うことは大いに意味あることだった。
 ところが、ブラジルの反対側日本では同日、1月1日、移民たちが絶対に信じられないことが起っていた。1946年1月1日、裕仁天皇が「人間天皇」を宣言したのだ。

 「朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ始終相互信頼ト敬愛トニ依テ結バレ単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲモッテ依テ現御神トシ、且日本国民ヲ依テ、他ノ民族ニ優起セル民族ニテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有スルノ架空ナル観念ニ基ズクモノニ非ズ」

 その勅書は「天皇の人間宣言」とよばれるもので、短い文ではあったが、天皇の神聖と日本帝国の不滅の念の上に立つ日本人の固い信念を揺るがすものだった。ブラジルの報道機関はこのことを伝えたが、ごくわずかの移民にしか伝わらなかった。が、そのことを知ったわずかな移民も日本帝国に対するいやがらせにすぎないと思った。
 1946年3月に臣道聯盟の支部に配布された情報書に根来良太郎幹部は次のように反論している。


 「1月1日に負け組同胞により報道された帝国の詔書と称するものはよく読み返してみると、まったくのデマで、わが国日本を侮辱する報道だ。許しがたい破潰分子による仕業だ。今本部ではこれらグループの本性を突き止めるため捜索を始めた。そのため、各支部において、会員の氏名、住所、出生地を調べ、結果を至急本部に連絡していただきたい」

 このような情報を流したものは国賊で、当然罰せられなければならないという理由で、臣道聯盟は裏切り者とみなされる者たちに脅迫状を送った。そのひとつには
「おまえたち二人は尊き主君、天皇の悪口を言った。したがって、我らはおまえたちを罰するために銃剣で襲う。犯した罪を後悔し、自決せよ。さもなくば、我らが殺す。だから、首を洗って、待っておけ」と書かれてあった。他の脅迫状には「日本とアメリカの戦争が済んで以来、おまえは天皇家に対し、無礼なことばかり言い、在住同胞を牢屋に送り、彼らを苦しめた。その行為は大罪に価する。我々は天皇家への忠誠心をつらぬき、また、獄中の苦しみの仕返しを誓う。大帝国、日本万歳!!! 日本の大勝利 万歳!!!」と書かれてあった。
 たしかに脅迫状ではあるが、幼稚な文でもある。(はじめの脅迫状にある「首を洗って、待っておけ」は切腹する勇気のない人間を斬首することだ)
 冷静に読めば愚かな表現ではある。しかし、これらの脅迫状をかわきりに非常事態が発生したのは厳然たる事実である。

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援協創立60周年盛大に祝う=32人から2千人超に発展=伯国全体の医療福祉に貢献 ニッケイ新聞WEB版より

記念式典に参列した日系団体代表者、来賓ら

 60年前に32人から始まったサンパウロ日伯援護協会(与儀上原昭雄会長)は、今では2千人を擁すコロニア最大の組織に成長した。そんな援協は創立60周年記念式典を12日夜、聖市議会で執り行った。歴代の援協役員、日系団体代表者、野村アウレリオ聖市議、日本国際協力財団(秋山進理事長)の代表者ら約300人が列席。援協の発展を盛大に祝した。
 与儀会長は「戦後移民の支援を目的に職員と理事32人から始まり、2千人以上の職員を擁するまでに発展をとげた。創立60周年を迎えられたことを大変嬉しく誇りに思う。この機会に多大な支援、協力により支えてくれた皆さんに感謝したい」と出席者に謝辞を述べた。
 聖市議会からは「医療・福祉を通して日系社会、伯国社会の発展に寄与した」として援協に表彰状が贈られた。与儀会長は野村聖市議から表彰状を受け取り、笑顔を見せた。
 聖市議会からは日本国際協力財団にも「援協への支援を通じ、日系社会及び伯国社会の医療・福祉の発展に寄与した」と感謝状が贈られ、秋山財団理事長が受け取った。
 記念式典では、今日まで援協に多大な貢献を行った関係者らへ表彰も行われた。
 20年以上にわたり役員を務めた尾西貞夫さん、長年理事を務めた井上健治さん、地区委員会を30年以上務め上げた玉田伯夫さん、その他医師や専門技師らに感謝状が手渡された。
 職員として36年、その後は役員として現在まで14年、50年にわたり援協を支えてきた山下忠男さん(85、京都府)は「当初からは予想できない程、大きな組織になった。伯国社会に受け入れてもらって育ったのだから、今後は伯国に恩返しをしていかなければならない」としみじみ述べた。
 1959年に戦後移住者の最盛期を迎え、その受け入れ支援のため、日本海外協会連合会(現JICA)を中心に、日本移民援護協会(現援協)は設立された。当初は32人の職員・理事で構成され、移住者受け入れ業務を行っていた。
 88年には日伯友好病院を開院。その後は故・神内良一氏(日本国際協力財団創設者)の約11億円に上る支援などもあり、医療機関、福祉施設を開設・拡大した。
 現在では2千人以上の職員を擁し、同病院は伯国内の医療機関を評価する非営利団体「国家認定機関(Organização Nacional de Acreditação=ONA)」から最高評価を受けている。
 援協から表彰を受けた受章者は以下の通り(敬称略、五十音順)。
 【個人】井上健治、内村俊一、大瀧多喜夫、尾西貞夫、小畑エミリオ、加藤英世、菊地義治、税田清七、坂和三郎、佐々木恂(ささきまこと)、佐藤良隆、鈴木厚生、玉田伯夫、壇定則、辻雄三、土井セルジオ、戸田マリオ、藤島幸、藤村隆次、南利実、森エリオ、森西茂行、森政雄、矢島カルロス、安武誠、山本恒夫、吉田繁
 【法人など】国際協力機構(JICA)、在聖日本国総領事館、日本国際協力財団、パナソニックブラジル、ブラジルトヨタ、ブラデスコ銀行、ホンダサウスアメリカ

与儀会長に未来展望を聞く=より良い医療福祉の手本に=新病棟8階から16階に変更

与儀会長

 60周年の節目を迎えた援協は今後、どのような発展を見せるのか――与義会長に今後の展望を聞いた。
 福祉分野については、援協が率先して施設に入所せず日帰りで通える介護施設、デイサービス(通所介護)を導入し、日系社会全体に広めるべきとした。
 伯国は将来、現在の日本のように高齢化を迎える。そこで特別養護老人ホーム(特養)の必要性が高まるという。
 援協ではあけぼのホームが特養にあたるが、特養は入居者あたりの職員数も多く必要とし、経済的に余裕のない入居者からは利用費満額を徴収していない援協にとって、負担の大きい施設だ。
 したがって援協は解決策として、デイサービスを導入し、高齢者の家族や日系社会全体で高齢者を支える仕組み作りを構想している。
 高齢者の家族は、朝晩は面倒を見て、昼間はデイサービスの施設に預ける。将来的には、昼間にあまり使われていない県人会会館も施設として利用するアイデアもある。
 援協はデイサービス施設を定期的に巡回し、指導を行い、日系社会全体にデイサービスを展開されることを目指す。
 与儀会長は「家族を施設に預けたままにするのではなく、毎日接して、温かく見守ってほしい。その方が高齢者も幸せに過ごせて、精神的な健康にもつながる。入居者も援協も経済的負担を小さくできる。援協は施設を提供する団体ではなく、高齢者や家族の幸せを支える団体でありたい」と語った。
 医療分野については、日伯友好病院の好調な経営状況により、福祉施設の赤字を補っている現状。与儀会長は「財政状況が良好な今のうちに、設備など基礎を強化し、今後不測の事態が起きても自立して経営できるようにしたい」と述べた。
 同病院は月によっては1千万レアル以上の黒字を計上。しかし今の医療業界では、米国など海外の医療機関が、伯国の医療機関を次々と買収し、伯国内でグループ化、利用者の囲い込みに乗り出している。
 グループ化された医療機関では、機器や医薬品を一括大量購入することで費用を抑えている。援協ではコスト面で競合するのは難しく、与儀会長は「サービスの質で対抗したい。今では情報がすぐに手に入るため、医療機関の利用者は、人間的な温かみのある援協のサービスを求めて来る」と自信を見せた。
 昨年立ち上げた日伯友好病院の新病棟建設プロジェクトにも言及。今年の半ばから開始予定だった建設計画を、「年内に開始」と遅らせ、当初の予定の8階建てを16階に変更した。この計画では現在240床の病床を100床増やし、病院内の部署や設備の効率化を目的とした配置転換なども行われる。
 さらに自閉症児療育施設(PIPA)について、他州の政治家から「同様の施設を作ってほしい」と要望があったと明かす。とはいえ現在、活動は主に聖州内。「州外でのサービス提供は難しい」と考えている。
 ただし、その要望を受け、日伯友好病院と隣接する形で自閉症児療育施設本部を建設予定だ。将来的には他州の福祉事業関係者が、その本部に視察を行い、加えて他州へ定期的に指導者を派遣する形で、州外にも福祉サービスを伝えていくことを視野に入れているという。
 「援協を日系社会、伯国のより良い医療福祉の手本にしたい」と与儀会長は展望を明かした。

「南米日系人の恩人」神内良一氏=財団からの長年の支援に感謝

秋山理事長(中央右)、渡辺副理事長(中央左)、援協関係者ら

 援協だけで約11億円の私財を投じ、影から支えてくれた大恩人、神内良一氏。南米各地の福祉団体でも同様の寄付や支援を重ね、「南米日系人の恩人」ともいえる存在だ。そんな神内氏が設立した日本国際協力財団から、秋山進理事長(69、神奈川県在住)、渡辺光哲副理事長(67、東京都在住)が11~15日に来伯、援協の各施設を視察した。
 神内氏は1990~2013年にわたり、援協に約11億円を寄付。日伯友好病院の増築や機器購入、聖市リベルダーデ区の援協本部ビル建設などの資金に充てられた。
 秋山理事長は今回で4回目の訪伯。「徐々に職員の対応が良くなったと思う。日本の丁寧なサービスが行われている」と感心した様子。
 渡辺副理事長は神内氏の甥にあたる。88年にも神内氏に同行して来伯。当時、日伯友好病院は開院間もなく、整備もまだ十分に整っておらず、同病院の周辺も今より建物が少なかったそう。現在の立派な同病院の様子に「大変感激した」という。
 秋山理事長は12日の記念式典で「援協を築きあげた皆さんの熱意、苦労は筆舌に尽くしがたい。神内氏は過去に伯国移住を考えたことがあり、移住した一世の方を思いやり、支援を始めた」と神内氏の逸話を紹介。
 「現在、日伯友好病院は伯国屈指の優良な病院に成長し、援協は順調に発展してきたが、今後の課題もあるかもしれない。その時は激動の111年を生き抜いた日系人の勤勉性、結束力、英知を結集して乗り越えてほしい。そして高齢者の方が安心して暮らせれば、神内氏にとっても喜ばしいことだ」と力強く語った。


全てはタイミングと協調の問題 ニッケイ新聞WEB版より

ボウソナロ大統領とサレス環境相(Marcos Corrêa/PR)

 伯国がアマゾン森林火災問題で良くない意味で世界に注目された1週間だった。これに関し、世界の世論の大方は「火災の原因となる森林伐採を増加させた伯国が悪い」と見ているが、伯国内を見ていると「昔の労働者党(PT)政権の方が伐採が多いのに今なぜ」「森林伐採は本当に悪いことなのか」「世界的な左翼的風潮がボウソナロ政権を苦しめたいだけなのでは」と反論する世論もある▼ここで改めて事実を整理しよう。まず、国外からのプレッシャーが「左翼的な風潮の産物か」どうか。まず、ボウソナロ大統領と対立したフランスのマクロン大統領は中道政治家だが、17年のフランス大統領選では投資銀行家の出自ゆえに左派からはむしろ反感を買っていた人物だ。また、ボウソナロ氏がそれ以前から批判を行なっているドイツのメルケル首相は国内では中道右派のリーダー。もっといえば、今回マクロン氏が召集したG7で左派と呼べるのはカナダのトルドー首相くらいなものだ▼また、伯国とて、世界の政界の環境保護重視の路線に反旗を翻している政治家が多いわけではない。昨年の大統領選候補者でそれに反対したであろう政治家はボウソナロ氏以外には考えられない▼続いて、「なぜPT政権の頃の方が伐採が多かったのに問題にならなかったのか」。これも、世界の政治が左派をひいきしたいからではない。国連で森林問題が取り沙汰されたのは1992年に行なわれた国連環境開発会議(UNCED)が最初で、歴史そのものが浅い。さらに、より具体的な対策に取り組む国連森林フォーラムがはじまったのは2000年10月のこと。伯国では90年代に森林伐採が増えていたが、それに対しての世界的な対策さえ作られていなかったのだ▼このフォーラムを通じて、国際的な森林伐採の現状を知るための調査や研究が行なわれ、森林伐採量削減のための具体的な方策が伯国政府の協力のもとにはじめられたのが2005年でやっとのこと。だが、北伯出身の環境相、マリーナ・シウヴァ氏の指揮もあり、伯国の森林伐採量は急速に減少。2017年には、2004年時と比べ、伐採量が72%も減っていた。2014年7月にドイツのボンで行なわれた国連気候変動会議においては「伯国は伐採削減に成功した見本」との報告まで行なわれている▼このようにPT政権は、環境問題に関する世界や世論にうまく同調した。だから、好まれていた。だがそこに、「環境問題などベジタリアンの問題」などとの暴言を吐くような人物がこれまで喜ばれていた流れに逆行するように急に森林伐採を進めたとすれば、どうなるだろう。しかも、伐採増加のデータに加え、異常気象まで記録したとするならば、「これまでの世界の努力をむだにするのか」となっても、それは仕方がないところではないか▼「環境問題推進は先進国のエゴ」。そういう意見もある。だが、それを世界の真ん中で叫んだところで、環境を守らないとどうなるか。事実、フィンランドは伯国からの牛肉の輸入停止を検討し、世界の有名靴ブランド18社は伯国からの靴のなめし革の輸入を差し止めた。環境問題はもはや政治だけでなく、企業倫理にまでかかわる問題だ▼あと、ボウソナロ大統領は森林伐採を「産業の保護」を理由に肯定するが、普段、労働者の権利を煙たがる同氏が古くからの民間の中小林業者の味方になれるのか。さらに今回、森林火災が起こった地域の中には大統領自身が「1平方センチメートルすら拡大させやしない」と言い続けるほど嫌っている、本来、森林伐採が認められていない先住民居住区も含まれているが、それは何を意味するのだろう。(陽)

中高年の「元気が出るページ」終戦記念日特集                    <地獄からの生還>第31回

<地獄からの生還>第31回(最終回)


俺だよ

 池袋界隈も見渡す限り焼野原だった。ここでも空襲で死んだ人たちが沢山いたはずだ。これから電車に乗って15分ほどで着くはずの実家も焼けてなくなっているか、家族の誰かが死んでいるかもしれないと、不安な気持ちになった。
 電車は所々入り口にドアのない車輌があり、幅の広い板が立つ人の胸のあたりと足元に打ち付けてあって、乗り降りはこの板を潜ってしていた。
 江古田駅を出て次が私の降りる桜台駅だと入口で立っていると、停車しないでそのまま通過してしまった。駅に近い実家は通過する電車の中から、まだ残っているのが見えた。その頃桜台駅は一時休止状態にしてあったようだ。慌てて次の練馬駅で降りた。
 練馬駅近くには長姉がいて、養鶏の飼料を売る店をやっていた。そこへ寄れば実家の様子もわかるだろうと、先に立ち寄って行くことにした。
 声をかけると姉が出て来て、夏服に地下足袋、大きなずた袋を背負った私の顔をじっと見ながら、
「どちらさんですか?」
 といぶかし気にたずねた。
「俺だよ」
 というと
「えっ?」
 といったきりじっとこちらを見つめたままでいる。
姉の長女が出て来て
「じんちゃんだ!」
 と叫んだ。
 姉は
「じんちゃんは戦死して、葬式を出したじゃないか」
と言った。
 長女は自転車で実家へ知らせに走った。
家中大騒ぎになった。
 帰った家では母が元気でいて、私の異様な姿を上から下までジロジロ見ながら
「お前は死んだことになっているのに、一体どこにいたんだい?」
とびっくり声で言った。
 母はまだ半信半疑の様子で、ただボーと私に顔を向けて立ち尽くしているだけだった。
 父は田柄町の上野さんへ木を切りに行っていた。長女がまた走って知らせに行くと、父は上野さんに、慌てて帰って怪我をしないようにと言われ、仕事をほったらかして帰って来た。私の顔をじーっと見ていた父は
「これでいいや・・・・」
と一言いったきりで、目をパチパチやっていた。
 父は区役所から遺族への扶助料が届けられると
「金は働けばできるが、息子は帰らねぇ。そんなものもらっても仕方ねぇ」
としきりに言っていたそうだ。
「これでいいや」
は、金ではなく息子本人が帰って来たのだから、俺は大満足、
「これでいい」
と喜んで呟いたのではないかと思う。

易 者

 父は自宅へ私の戦死の公報が届いた時、信じたくない一心から、あちらこちらの易者に私が生きていないか見てもらいに歩いたり、私が酉歳生れで、守り本尊が不動明王ということから、成田のお不動さんへお参りに行ったりしたそうだ。
 ただ、豊島園の裏にいた占い師だけが
「まだ生きている」
といい、袋蜘蛛(土蜘蛛)のような密閉された状態の穴か何かの中で、多少腹は減らしているが生きていると、はっきり予言したそうである。
 母は母で、毎日陰膳を欠かさずしてくれていたという。こうすることで、私が腹をすかさずにすむと言う訳だ。
 この話を聞かされた時、占い師が私の置かれていた状態をよく当てていたのに驚かされた。私は神通力とか超能力とかは信じない方だが、私が助かったのは、もしかすると、親の『大きな愛の力』だったのではないかと思うようになった。
 親に連れられこの占い師へお礼に伺った。その後、よく当たる占い師と評判になって、特に戦死者の遺族が押しかけるようになったということだ。
 死んだはずの私が帰還した噂を聞いて、地方からも戦死公報を受けている父や、夫や息子のことを、もしやと尋ねてくる人が多くなった。
 父は、こう言う客の対応に忙しかったせいもあるが、私が帰ったショックと喜びで、1ヶ月半ほどは仕事が手につかなかった。
 親戚が入れ替わり立ち替わり来ては、座っている私に、足があるかどうか、立って見せろとよく言って苦笑いさせた。人が信じられないのも道理で、本人の私でさえ信じられないでいるのだから。
 家に残していた衣服や自転車まで、私のもの一切が弟のものになっていた。物不足のこの頃、弟に返せとも言えず困りはしたが、そんなことは大したことではなかった。
 私は畳の上で大の字に寝そべって目をつぶっている時、ふと何者かに揺り起こされ飛び起きることがあった。そんな時、本当に我が家にいるのだろうかと不思議に思ったり、しばらくの間、私の体が宙に浮いているような錯覚を何度も起こすことがあった。

                                 


 1ヶ月に渡りお読みいただきありがとうございました。
 櫻井甚作氏は平成26年7月3日94歳で逝去されました。ここに謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

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