中高年の「元気が出るページ」終戦記念日特集 <地獄からの生還>第30回 ニッケイ新聞WEB版より
<地獄からの生還>第30回
星条旗
気温がますます低くなり、収容所で着ていた衣服まで着込んだ。
いよいよ日本へ近付いていることを肌で感じた。
小笠原諸島の父島に着いた時、ここは日本領土のはずなのに星条旗が翩翻(へんぽん)と翻っているので、これはどういうことだと騒いだ。が、米軍は何も答えなかった。
船が入った浦賀港にも、いたるところに星条旗が翻っていた。
出迎えに来たダルマ船の船頭にどうしてなのかと尋ねた。
日本は「無条件降伏したのだ」と、初めてここで聞かされたのだ。
しかし、無条件降伏の意味が、咄嗟に理解できなかった。誰も急に黙り込んでしまった。我々は一体これからどうされるのか、日本軍から「生きて虜囚の恥」を罰せられるのか? 不安でたまらなかった。
その頃の復員船の兵隊は、食糧不足で体が衰弱しているのがほとんどで、担架や人の肩を借りなければならない者が多かったそうだ。が、我々は人一倍元気で、体力があり、自力で大きな荷物を担いでダルマ船に乗り移った。しかも菱形のつぎの当たった服装が異様である。
船頭さんに不思議がられ「兵隊さんどこから帰ってこられた?」と聞かれた。
浦賀は、私が戦地へ送られる前に、8ヶ月間勉強した海軍工作学校のあったところだ。
横浜海軍航空隊のほとんどが戦死してしまったというのに、私だけが何の因果か戦死もせず、餓死もしないで、ここへ再び戻ってくることができた。
忘れもしない1946年(昭和21年)2月3日、船は浦賀の岩壁へ無事についた。
おお、懐かしい祖国だ! 日本の土だ! 我知らず涙がポロポロ出て泣けて仕方がなかった。
浦賀を出て、実に3年8ヶ月ぶりの帰還であった。
感無量であった。短い期間ではあったが、様々な悲劇があった。地獄があった。あり過ぎた。何回か生死の境をさ迷った。
軍は陸、海軍とも解散させられたという。
それなら、我々を処分するところがないはずだ。
ホッとした。
私のいた工作学校が新しくできた「復員局」の一時収容所になっていた。このまますぐには帰してもらえなかった。
ニュージーランドの収容所での事件については、安達少尉が代表で調べを受けていた。ここで一人一人事情聴取を受けることになった時、偽名のままでいたほうがいいのでは、と迷った。捕虜であったことがバレると、日本でどんな扱いを受けるか不安だった。親兄弟まで近所から後ろ指指されることにならないか、それを心配した。軍籍簿にある私の名も、戦友の名にも「戦死」と赤字で書かれていた。
復員局から住んでいた地区町村役場へ通知を出し、返事が来てからでないと帰れないことになっていて、5日間ごろ寝をしながら足止めを食った。ここで初めて日本全土がいたるところ空襲の被害を受け、特に広島、長崎が原子爆弾でやられたこと、私の故郷、東京も全市内が空襲で焦土と化したことなどを知り驚いた。
家族の安否も気づかわれた。
軍籍簿の本名
やはり、軍籍簿に戦死となっているのを書き替えないと戸籍を復活することができないらしい。本名を名乗るしかなかった。
私は横志工2087(横須賀鎮守府 志願兵工作科)横浜海軍航空隊三等工作兵、櫻井甚作と本名を名乗った。
調べられた後、捕虜だったからといって別に心配していたようなことは何も起こらなかった。仲間同士、実はとここで初めて本名を名乗り合い、お前も、お前もやはりそうだったかと、笑いあった。
帰宅の際、これまでの服装は脱ぎ、夏服を支給されてこれに着替えた。ニュージーランドからずっと履き続け、ピカピカに磨き上げた靴は、進駐軍の連中に見つかると取り上げられる言われ、これも支給を受けた地下足袋に履き替えた。
兵隊には全員300円の金銭と、どこまでも乗って帰れる全国共通の交通無料切符、5食分の乾パンの配給があった。
北海道や九州へ帰る者がいた。みんなこのまま別れればいつまた会えるかわからないので、近くの汁粉屋に入って送別会をすることにした。入って汁粉の値段に驚いた。以前一杯5銭だったが、25円になっていた。
闇屋がしつこくくっついて来て、我々の持って帰って来た毛布を高く買うから売れという。北海道へ帰る一人は、物価の値上がりに驚き、たった300円ばかりを家へ持ち帰ってもどうにもならない、と毛布を売って金に換えた。
横須賀線は空襲で破壊されたまま、まだ、復旧作業が出来ていないところがあって、途中何度も降りては山越えをして歩かなければならなかった。
(明日に続く)