私たちの50年!!

1962年5月11日サントス着のあるぜんちな丸第12次航で着伯。681名の同船者の移住先国への定着の過程を戦後移住の歴史の一部として残して置く事を目的とした私たちの40年!!と云うホームページを開設してい居りその関連BLOGとして位置付けている。

2019年08月

中高年の「元気が出るページ」終戦記念日特集                    <地獄からの生還>第30回 ニッケイ新聞WEB版より

<地獄からの生還>第30回


星条旗

 気温がますます低くなり、収容所で着ていた衣服まで着込んだ。
いよいよ日本へ近付いていることを肌で感じた。
 小笠原諸島の父島に着いた時、ここは日本領土のはずなのに星条旗が翩翻(へんぽん)と翻っているので、これはどういうことだと騒いだ。が、米軍は何も答えなかった。

 船が入った浦賀港にも、いたるところに星条旗が翻っていた。
 出迎えに来たダルマ船の船頭にどうしてなのかと尋ねた。
 日本は「無条件降伏したのだ」と、初めてここで聞かされたのだ。
 しかし、無条件降伏の意味が、咄嗟に理解できなかった。誰も急に黙り込んでしまった。我々は一体これからどうされるのか、日本軍から「生きて虜囚の恥」を罰せられるのか? 不安でたまらなかった。
 その頃の復員船の兵隊は、食糧不足で体が衰弱しているのがほとんどで、担架や人の肩を借りなければならない者が多かったそうだ。が、我々は人一倍元気で、体力があり、自力で大きな荷物を担いでダルマ船に乗り移った。しかも菱形のつぎの当たった服装が異様である。
 船頭さんに不思議がられ「兵隊さんどこから帰ってこられた?」と聞かれた。
 浦賀は、私が戦地へ送られる前に、8ヶ月間勉強した海軍工作学校のあったところだ。
横浜海軍航空隊のほとんどが戦死してしまったというのに、私だけが何の因果か戦死もせず、餓死もしないで、ここへ再び戻ってくることができた。
 忘れもしない1946年(昭和21年)2月3日、船は浦賀の岩壁へ無事についた。
おお、懐かしい祖国だ! 日本の土だ! 我知らず涙がポロポロ出て泣けて仕方がなかった。
浦賀を出て、実に3年8ヶ月ぶりの帰還であった。
  感無量であった。短い期間ではあったが、様々な悲劇があった。地獄があった。あり過ぎた。何回か生死の境をさ迷った。

 軍は陸、海軍とも解散させられたという。
 それなら、我々を処分するところがないはずだ。
 ホッとした。
 私のいた工作学校が新しくできた「復員局」の一時収容所になっていた。このまますぐには帰してもらえなかった。
 ニュージーランドの収容所での事件については、安達少尉が代表で調べを受けていた。ここで一人一人事情聴取を受けることになった時、偽名のままでいたほうがいいのでは、と迷った。捕虜であったことがバレると、日本でどんな扱いを受けるか不安だった。親兄弟まで近所から後ろ指指されることにならないか、それを心配した。軍籍簿にある私の名も、戦友の名にも「戦死」と赤字で書かれていた。
 復員局から住んでいた地区町村役場へ通知を出し、返事が来てからでないと帰れないことになっていて、5日間ごろ寝をしながら足止めを食った。ここで初めて日本全土がいたるところ空襲の被害を受け、特に広島、長崎が原子爆弾でやられたこと、私の故郷、東京も全市内が空襲で焦土と化したことなどを知り驚いた。
 家族の安否も気づかわれた。

軍籍簿の本名

 やはり、軍籍簿に戦死となっているのを書き替えないと戸籍を復活することができないらしい。本名を名乗るしかなかった。
 私は横志工2087(横須賀鎮守府 志願兵工作科)横浜海軍航空隊三等工作兵、櫻井甚作と本名を名乗った。
 調べられた後、捕虜だったからといって別に心配していたようなことは何も起こらなかった。仲間同士、実はとここで初めて本名を名乗り合い、お前も、お前もやはりそうだったかと、笑いあった。
帰宅の際、これまでの服装は脱ぎ、夏服を支給されてこれに着替えた。ニュージーランドからずっと履き続け、ピカピカに磨き上げた靴は、進駐軍の連中に見つかると取り上げられる言われ、これも支給を受けた地下足袋に履き替えた。
 兵隊には全員300円の金銭と、どこまでも乗って帰れる全国共通の交通無料切符、5食分の乾パンの配給があった。
 北海道や九州へ帰る者がいた。みんなこのまま別れればいつまた会えるかわからないので、近くの汁粉屋に入って送別会をすることにした。入って汁粉の値段に驚いた。以前一杯5銭だったが、25円になっていた。
 闇屋がしつこくくっついて来て、我々の持って帰って来た毛布を高く買うから売れという。北海道へ帰る一人は、物価の値上がりに驚き、たった300円ばかりを家へ持ち帰ってもどうにもならない、と毛布を売って金に換えた。
 横須賀線は空襲で破壊されたまま、まだ、復旧作業が出来ていないところがあって、途中何度も降りては山越えをして歩かなければならなかった。       
 (明日に続く) 

中高年の「元気が出るページ」終戦記念日特集                    <地獄からの生還>第29回

<地獄からの生還>第29回


帰還

その頃の時局は
1945年(昭和20年)
  12月 1日 陸軍省・海軍省廃止。
      6日 GHQ、近衛文麿・木戸幸一・大河内正敏・緒方竹虎等九人に逮捕命令。

1946年(昭和21年)
   1月 1日 人間天皇宣言。
      4日 GHQ、軍国主義者の公職追放・超国家主義団体の解散を指令。
     15日 「復員だより」放送開始。
     29日 GHQ、奄美大島を含む琉球列島・小笠原諸島等に対し、日本の行政権を
         停止する覚書を交付。
   2月11日 占領軍の食糧放出開始。
   3月 6日 政府、憲法改正草案要綱発表。主権在民・象徴天皇・戦争放棄。
   4月22日 米軍、琉球列島米国軍政府下に沖縄中央政府設立。
   5月 3日 極東国際軍事裁判開廷。
  11月 3日 日本国憲法公布。
  12月 5日 樺太引揚第一船、函館入港。
      8日 シベリア引揚第一船、舞鶴入港。

帰還船

 1945年(昭和20年)12月31日の朝、徴用工員たちの捕虜がいるNo.1の約300人が何台ものトラックに分乗して、砂ほこりを高く巻き上げてフェザーストン捕虜収容所を出発した。
私のいるNo.2の約300人も、トラックですぐ後に続いた。
 鉄条網の金網越しに外側から収容所を見る風景は違っていた。空き地に我々の作った草花が風に揺れて、別れを惜しんでくれるかのようだったが、主のいなくなった小屋は抜け殻のようで殺風景に見えた。
 遠ざかる収容所を眺めながら、不思議と嬉しさも喜びも何もこみ上げて来なかつた。初めはあんな大事件を起こした収容所生活が、住めば都のたとえで、次第に境遇や環境になれ、平和で、安穏過ぎていたからかもしれない。むしろ、この反動がいつくるのか、必ずしも日本へ帰れるとは限らない、フイリピンへ降ろされ強制労働をさせられるのではないかなど、いろんな噂が飛び交い不安になっていたせいかも知れない。みんな少しも嬉しそうな顔をしていない、誰もがブスッとして、何も喋らず、ただ黙々とトラックに揺られていた。

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 アンザック駅には客車が待っていた。オークランドからウェリントン間を一日に一往復する途中駅である。以前、チーズを積んだ貨車の荷下ろしをさせられ、同室だった原さんは釘で袋へ穴を開け、今日はチーズを一杯食っちゃったと言って、我々を羨ましがらせたところだ。
初めの頃荷卸し作業をしていると、遊んでいる子供達や、道行く街の人々が我々に手を振ってくれた所でもあった。

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 12月31日の夜だったと思う。
 ウエリントン港から3隻のLST(上陸用舟艇)に分かれて乗せられた。
船は箱舟のようになっていて、戦争中は戦車を積み込んでいる船底のようなところに、ずらりとベッドが並んでいた。両側にも蚕棚のようになったベッドがあった。便所はエレベーターで甲板へ上がり、船の舳先にあった。シャワーもあった。
 船は米軍の管轄だった。
 日本はどうなったのか、我々はこれからどこへ連れていかれ、どうされるのかの説明がないまま船は動き出した。また日露戦争の時の捕虜は終身労働をさせられた話が出たり、日本へ引き渡され浦賀に上がった後、敵の捕虜になったという罪で、どこかへ連れていかれるのだ、などと言い出す者もいたりして、次第に不安が募っていった。
 食事は全て缶詰、卵焼きチーズも缶詰であった。チーズ缶は臭くて日本人には合わなかった。海へ投げ捨てる者もいた。以後、私は捨てるくらいならと、もらったり、他のものと換えたりして、いくつも古い靴下に詰め込んだ。もし本当に家へ帰れたら、なんの土産もないのだから、せめてもの記念品、手土産にしようと思った。
 食器、水筒、これは大きいので湯たんぽにも使えた。靴はニュージーランドの編み上げを1足予備に持っていた。使い古しの毛布、継ぎ接ぎだらけの外套も持ってきていた。船の中では何もすることがなく、暇と不安とで苛立つばかりだった。
 敵を困らせてやろうと、張り巡らされている電線を切るいたずらを何度もした。
島だ! という声に海上を見ると、雲だったことが何度もあった。
 最初に見た島はグァム島らしく、大分日本に近づいてきた。ここで二、三日停泊した。
三隻目のLST船艇が横波を食らって船にヒビが入り、新しい船に乗り換えた程度のことはあったが、大したこともなく順調に航海が続き、すでに30日以上が経った。
赤道直下を離れ、北上するにつれて気温がどんどん下がってきて、詰め込んできた下着を何枚も重ね着した。                  (明日に続く)  

一笑一若・メキシコ小話「親愛なる人種差別主義者」
富田さんからのお便りです。

和田さん&W50年の皆さん、ここテキサス南部は厳しい残暑が続いていますが、日本やブラジルの皆さんはお元気ですか?さて、今週は一笑一若・メキシコ小話「親愛なる人種差別主義者」をお送りします。「これが小話か?」と思うような内容ですが、米国の移民問題の、一面を見事に活写している、と思います。そして、「親愛なる(Dear)人種差別主義者」」と呼び掛けていることにご注目!品があります。ご用とお急ぎでないお方は、下記のブログをお訪ねのうえ、社会風刺的、一笑一若・メキシコ小話「親愛なる人種差別主義者」ENJOY!!! 
ところで、Yahooブログの閉鎖に伴い9月一杯、「アメリカ便り」を休載させていただきます。10月には新たなブログ・サービスを通じて、再開する所存でございます。詳しくは別便でご案内いたしますので、よろしくご了承ください。
 
富田眞三  Shinzo Tomita

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           親愛なる人種差別主義者

 

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                                                      写真:http://ktla.com/2014/07/01/


  君の車は日本製

 君のビールはドイツ製

 君のワインはスぺイン製

 君の民主主義はギリシャ製

 飲むコーヒーはコロンビア製

 飲むお茶は中国製

 君の時計はスイス製

 君のスーツはフランス製

 君の下着はインド製

 君の靴はタイランド製

 君のラジオは韓国製

 飲むウオッカはロシア製

 あぁそれなのに、それなのに何故君の隣人が「移民」だと言って、文句を言うのだい?

 

 お後がよろしいようで…。


ポルト・アレグレ日本祭り=(下)=非日系も熱心に日本文化発信 ニッケイ新聞WEB版より

来場したペロッタス市川辺日本語学校の一行(中央がペイルさん)

 17、18両日、南大河州都ポルト・アレグレ市の軍警察学校で開催された「第8回日本祭り」(樋渡ミルトン実行委員長)。校舎の各教室では、生け花や折り紙、書道、着物の着付け体験などの展示やワークショップが行われ、非日系人の活躍が目立っていた。
 イゴル・デ・カストロさん(28)が開いたのは、包丁と研磨技術に関する展示。自身も包丁を研ぐ様子を来場者に見せ、刃の美しさや研磨技術について紹介していた。
 カストロさんは心臓外科医で、日本の病院で研修した時に、日本の刀や包丁の研磨技術に関心を持ったそう。「高度な研磨技術は伯国では見かけないし、仕事でもメス(医療用ナイフ)を使うから気になったのかも」とほほ笑み、「刃物はきちんと研がないと本当の美しさ、切れ味が発揮されないんだ」と研いだ刃をじっと見つめた。

日本の刃物の研磨技術について説明するカストロさん

 ステージでは、田尾政良さん(24、三世)と妹の春香さん(21)が、大学の友人と4人で音楽ユニット「カルテット・タオ」として演奏。『ふるさと』『大きな古時計』などを中平マリコさんと共演して優しい音色で観客を癒やした。

パフォーマンスで観客を驚かせたアキさん

 日本からは国際交流基金の助成で、バルーンパフォーマー・アキさん(39、兵庫県在住)が来伯出演。和装に身を包み、音楽に合わせて風船で巨大な龍などを作るバルーンアートを披露した。目の前で作られる作品は、完成まで何ができるのか分からないよう工夫されており、完成の瞬間には客席から驚きと称賛の大喝采が起こった。
 アキさんは国内外の数々の大会で優勝し、アジア、欧州からも出演依頼を受ける大人気パフォーマー。「こんなに盛り上がると思わなかった。伯国の方々にもバルーンアートを見てもらえて嬉しい」と笑顔を見せた。
 風船を取り出す所作、完成を予想させない演出など、作品だけでなく「見せる」ことにもこだわっている。常識にとらわれない発想で「風船の世界を広げたい」と思いを語った。

息の合ったダンスを披露した健康体操の発表

 ブラジル健康体操協会も息の合った軽やかなダンスで会場を盛り上げた。鈴木富久子さん(70、北海道)は「当地にも健康体操の教室を開いてほしいとの声があった。来たかいがあった」と充実した様子。

観客を魅了したグループ「新星」(中央が田代さん、右が田辺さん)

 グループ「新星」からは、田代ふみこさん(86、鹿児島県)と4人の孫娘で日本舞踊を披露。華やかな着物をまとい、優美にゆったりと舞う姿に、観客は思わず見とれた。ステージを降りると多くの来場者に写真撮影を求められていた。
 田辺瞳さん(30、三世)は「幼い頃から祖母に踊りを教わり、自分に日本文化が染みついている。その素晴らしさを周りにも伝えたい」と日本語で話した。
 会場には約200キロ離れたペロッタス市の川辺日本語学校から、教師のレナータ・ペイルさんが生徒15人程を連れて来場。「この日本祭りが日本文化を体験できる貴重な機会。生徒が日本文化に触れられて良かった」と感想を述べた。
 南伯援護協会の谷口浩会長は「今回も無事開催でき、多くの方が来てくれた。今後も日本文化を絶やさぬよう日系社会が協力して祭りを盛り上げていきたい」と力強く語った。(終わり、岡本大和記者)















□関連コラム□ 大耳小耳
 ポルト・アレグレ市の日本祭りに来ていたレナータ・ペイルさん。非日系だが、日本への留学経験があり、現在は南大河州ペロッタス市の川辺日本語学校で日本語教師を勤めている。学校では約40人の生徒を一人で教えており、「文協はあるが、手伝ってくれる人がいない」と現地の人手不足を嘆いた。非日系教師が非日系生徒に教えている訳だ。ブラジルの日本語教育界にどんどん非日系が増えていく現状を反映しており、ある意味、将来を先取りした姿を見た感じかも。日本語普及に奮闘する非日系教師とその学校に、何か支援はできないだろうか。

砂古画集102作品紹介 作品編その31 最終

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100  Pão de Açúcar アクリル画 50 x 70

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 有名すぎる風景は描くものでないと、先輩の画家に窘められた事がありましたが、
 1)Rioはブラジルで最初に住んだ場所でもあり、2)手前のBotafogo区を粗削りなデッサン風に仕上げの構想で解決すれば何とかなると考え着手。着想実現が困難で技術未熟を認識、反対に抑え込みの単純化で解決をはかったが、自己満足出来なかった作品です。
 これはリオ地区シリーズの一点として描いたものです。
 独身赴任の身軽な存在で、日本から空路持参のトランク2個をもってタクシーで、短期間にFlamengo海岸、Flamengo裏のRua Paissandú,,Larangeiras,
Copacabanaと下宿も変えてRio生活を満喫しました。

101 対岸から望むRIO遠景 アクリル画 50x70

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  これもリオのシリーズ。Rio対岸のNiteroiの裏山の高台にある公園からリオを眺める風景。Niteroiに行くたびに車で上ります。                

     今回は今までより一番美しい時間帯の夕景を得たので、同じ場所での3回目に描く作品です。    左の奥に微かに並ぶ白い高層建築群が6キロにわたるCopacabana 海岸。

     その上の左端は双子山(dois irmões)が重なって一人っ子に見えます。その右の梯形の山頂がGáveaの岩山、真ん中の海に出っ張るのがPão de Açúcar。その右彼方にキリストの像を頂く尖った山頂がCorcovadoです。

102  Cena bucólica 田園風景 水彩 30x40cm

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 この画集に登場させるのを忘れていた、水彩スケッチを見つけました。2004年作と右下隅にあります。サンパウロ衛星都市のGuarulhos郊外で広い面積に全面竹藪を持ったオーナーから誘いを受け、バスを仕立てて写生グループを案内した記憶が浮かびます。

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