私たちの50年!!

1962年5月11日サントス着のあるぜんちな丸第12次航で着伯。681名の同船者の移住先国への定着の過程を戦後移住の歴史の一部として残して置く事を目的とした私たちの40年!!と云うホームページを開設してい居りその関連BLOGとして位置付けている。

2019年09月

「葉月」という月=義父・酒井と崎山精神=パラグァイ在住 坂本邦雄=《下》 ニッケイ新聞WEB版より

老後にメソジスト教会の牧師になった酒井

 いわゆる「人はパンだけに生きるに非ず」で、余生を移住地の精神指導に尽さんと心掛けたのである。例の事件後に『IGLESIA MEMORIAL Yoshitaro Sakai=酒井好太郎記念教会』の銘板が掲げられた。
 筆者は迂闊にも、酒井夫妻は遅蒔きながら、その数年前にキリスト教の洗礼を受けた事を初めて知った。
 久し振りに酒井を、ピラポ移住地に訪ねた際に、「実に、静かな良い移住地で晩年が過ごせる」と、大変満足気に話していたのを記憶する。
 その後、思いがけなくも、あの惨劇で両親・酒井夫妻は聖天して仕舞った。返す返すも、親不孝の筆者は残念である。

ピラポ墓地の酒井夫妻の墓

 酒井夫妻遭難の後、旧週刊パラグアイ新聞社(奥畑喜代明社長)が「酒井夫妻追悼集」を新聞社のイニシアティブ及び負担で、発刊して下さった。その多くの追悼文寄稿者の中で、ラ・コルメナ移住地最後の支配人日沖剛氏、田名網七五三吉牧師、植民学校の交友や元ピラポ事業所職員等の数多くの人達が異口同音に、謹厳実直で曲がった事が大嫌いだった酒井を「真実の友」、「酒井さんはクリスチャン、クリスチャンとは酒井さん」だったと、その誠実な人柄に敬愛、尊敬の念を一様に述べている。
 筆者が事件後、当時アスンション市のサンティシマ・トリニダー大通りの社会保障局IPS中央病院の向い側の住宅に住んで居たヒューストン牧師に、酒井が生前お世話になったお礼の挨拶に伺ったところ、同牧師は大変酒井の人格を讃えて、真実のクリスチャンを亡くし、惜しい事をしたと、涙ながらに話したのを記憶する。
 筆者は、アメリカ人の涙を、初めて見たものだ。
 筆者は、義父酒井について色んな思い出を、まとまりも無く述べて来た。それは酒井が何となく崎山精神の話をするのを聞いて育ったためで、全ては厳しく説経するのではなく、身をもって手本で示す主義だった。それに、母親テルは昔郷里甲府の実践女学校を出た事もあって、日本語の家庭教育に熱心だった。
 叱られる事は滅多になかったが、怒ると本当に怖かった。酒井とテルは真に苦楽を共にした似たもの夫婦だった。なお、酒井は皇室を畏敬する明治人らしく乃木将軍や二宮尊徳などの徳義を範とした。
 初期のピラポ事業所で一緒に仕事をしていた筆者の同輩、故木戸一栄氏は「酒井さんは無言実行型で、移住事業の仕事のツボを良く心得ていて、身体は小さいが、学校の寮の舎監先生の威厳があって、とても頭が上がらなかった」と述べて居る。
 筆者は幼少より酒井の口から、信仰の話を一切聞いた試しが無く、晩年になって夫婦して初めて新教徒の洗礼を受け、伝道師になった事を、後程初めて知った程である。
 そして、ピラポ移住地で自由メソディスト教会を建て、教会守りをしながら、夫婦して穏やかな余生を暮らす心算だった。

ピラポ移住地の会館(JICA資料より)

「酒井兄姉記念教会」の献堂式が6月23日に

献堂式に集まった人達

 親不孝も良いところの筆者は、両親の災難の後、酒井が遺した店兼住宅の土地と教会が建てられた隣接地区は、事業所や関係者に後継の牧師さんが来るまで管理を願って、家屋は宣教師住宅に充てるべく、期待していた。
 しかし、勝手な筆者は他事に追われ、ピラポへ行く事もなく、その後の事情を一切感知しなく、その以前の事も分らない。
 だが、2015年に至り、日本キリスト教団から「ピラポ自由メソジスト酒井兄姉記念教会」に、知花スガ子宣教師が派遣され、移住地の日本語学校の教師も兼務しながら、2年間務められて今年1月に帰国された。
 続いて5月には後任の江原有輝子新牧師が着任し、前記の「酒井兄姉記念教会」の献堂式が、去る6月23日に、地元関係信者や各方面の牧師さんが大勢集まって祝賀された。
 ちなみに、パラグアイで移住地が6ケ所あるが、日本人教会があるのはピラポだけだそうである。かつて、酒井が点じた小さな信仰の灯火が立派に輝いたのである。
 思うに、この教会の落成式=献堂式は2度目の事ではないかと思う。つまり、酒井が生前建てた教会及び住宅の敷地は、筆者が教会に献上の意味で、旧事業団にお任せした。だが、このたび市街地中央区の筋向いの別な場所に建てられた新教会は、大変お金も掛ったとお聞きするが、多少はその資金の足しにでもなったのだろうか・・・?
 筆者は、昔CAICISA製油㈱に勤務中、石井社長(元大使)とのジープの事故で骨折の大事故や、その後の硬膜下血腫で頭の大手術を受けたなどの、後遺症のせいかは知らぬが、最近急に半身不随になり、今でも未だ歩行が不自由等で、自宅で蟄居静養中である。せっかくの献堂式への御招待をもらいながら、出席かなわなかった。
 全く、デタラメな、義父とは似ても似つかぬ無責任な筆者に自ら呆れている。
 筆者が、旧移住振興会社のアスンション支店勤務中、大畠一男支店長は「よくもラ・コルメナは、戦後の移住事業にさっそく役立つ多くの人材を早くから教育したものだね!」と感心していた。
 また、筆者がワイフと共に一度、日本に旅行した際に、旧拓務省ラ・コルメナ駐在官、戦後はエンカルナション領事を務められた、その頃は既に外務省を退官されていた藤勝周平氏を御自宅に訪れた。その節、同氏は「イャー、酒井さんは、本当に植民精神を最後まで貫いた人だったね!」と故人を大層偲んでいたのを記憶する。
 これは、故人がブラジルの稲田耕地に始まり、戦前のパラグァイで初めての日本人移住地ラ・コルメナから戦後のピラポ移住地に至るまで一貫して全うした崎山精神に他ならない。
 崎山先生は、太平洋戦争が勃発する少し前に、自身も一家揃って、伯国アマゾンのマナウスに入植された。戦時中にピメンタの栽培に従事しながらマラリアに斃れた。
 その恩師崎山先生が「理想の村落に不可欠なのは①教育、②教会、③協同組合の3要素だ」と説かれた。その教えを、酒井はパラグァイで正に実践躬行したのである 。
 それを裏から静かに支えたのが、酒井テルの人知れぬ内助の功であった。
《終わり》


「葉月」という月=義父・酒井と崎山精神=パラグァイ在住 坂本邦雄=《中》=邦人移住の草分けになった義父 ニッケイ新聞WEB版より

パラグァイ邦人移住の嚆矢となったラ・コルメナ移住地の公民館入口(2006年11月撮影)

後妻テル、私はその長男

 一方、酒井の後妻となったテルは山梨県押越(昭和町)の旧家の出である。父の清水吉重(しみずきちじゅう、筆者の祖父)は俳号を舎生舎清水(しゃせいしゃせんすい)と呼ぶ蕉風俳諧の宗匠だった。
 そして、栃木県宇都宮市で代々かなりの商家だった「丸邦屋」が嫡子(正妻が生んだ男子のうち最も年長の子)坂本利兵衛が未成年の頃、父母が相次いで早世、「丸邦屋」は破産したので利兵衛はお家再興を志して上京した。
 後に横浜市で寿司屋を経営していたその利兵衛とテルは1928年に結婚。翌年4月4日に長男である筆者と、1931年10月21日には長女洋子が出生。それぞれ宇都宮の坂本家本籍に入籍された。
 早くから海外渡航を夢見ていた利兵衛は、横浜の寿司屋を畳み、一家は1932年に大阪商船のモンテビデオ丸でブラジルへ渡航。酒井の入植先である稲田米作耕地の隣のサンパウロ州カニンデ駅サンベネジットのカフェー耕地に配耕され、義妹タツも構成家族として同伴入植した。
 しかし耕地入植後、間もなく、昔の事で、ロクな医療施設も無い耕地で、未だ誕生日前の長女洋子が、病名も不明な熱病で死亡。続いて父親の利兵衛も、ブラジルに着いて1年もしない中に、同じ熱病で亡くなった。享年42歳だった。
 二人共、在サンパウロ帝国総領事館の分館が在ったリベロンプレット市の共同墓地に埋葬された。

酒井家と坂本家

 思えば、酒井一家と坂本一家は、同船者ではないが、同じ年に夫々前後してブラジルへ渡航している。
 そして、縁あってヤモメ同士の再婚で、前記の総領事館分館で婚姻届け出をだし、母テルは酒井家に入籍した。だが、連れ子である筆者は坂本家の嫡子なので、当時の戸籍法では長男は移籍出来なかった。だから、今でも坂本の名字を名乗っている訳だ。
 こうして、新酒井一家は稲田耕地で1935年10月頃まで、日本語教育に困っていた入植者の子弟のために、夫婦してほとんど自費をもって、自宅で夜間日本語学校を開いていた。だから「サイタ サイタ桜ガサイタ」等と、生徒が昔の小学校の読本を朗読する声を、筆者は良く聞いたものだ。
 今は忘れてしまったが、耕地の入植者は熊本県の出身者が多かったので、筆者は熊本弁を自然に覚えた。
 この他、酒井はケミスト(化学者)でもあり、医者も居ない耕地でマラリア患者の応急注射くらいの世話は惜しまなかった。だから、耕地の人達から非常に慕われていた。
 そして、1935年10月に一家3人は、耕地の入植者達から大変惜しまれながら、酒井の植民学校の同窓生、石井道輝氏を頼って、パラグァイに転住した。
 その動機は、近々パ国に初めての日本人移住地が出来るので来ないかと前記の石井氏に勧められたのと、妻テルが伯国で乾燥期には、毎度酷いゼンソクに悩んでいた問題があったと思われる(この転地のお陰か、不思議にテルの喘息はパラグァイに来てから治った)。
 残念だったのは、一家がパラグァイに転住して間もなく、ブラジルに残った酒井の義弟が前記のリオ・グランデ河で水死、及び他の耕地に嫁いで行ったテルの義妹(坂本)タツも病気で亡くなったという相次ぐ訃報に接した事だった。
 3年間も続いたボリビアとのチャコ戦争が終わった直後、我々一家3人がパラグァイのアスンション市に着いた。1935年の10月末頃だった。

パラグァイの草分けに

 パラグァイに着いてからアスンションでは、酒井は石井氏の岳父星田宗人氏が経営していたバーでアイスクリーム等の製造を手伝ったり、後には近郊で搾乳の牛飼いをしていた中尾英積氏の牧場で、一家はしばらく厄介になった。
 そして、例のラファエル・フランコ大佐の起こした二月革命の政変で、種々遅滞していた日本人移民導入が、極めて制約された条件で、二月党(フランコ大佐の)新政府により、1936年4月30日付大統領令№1026をもって紆余曲折の揚句、晴れて認可された。
 そのようにして、初めてのパラグァイ日本人集団移住地に決った、元地主イグナシオ・エスコバール氏の旧「ラ・パルミーラ」(約8300ヘクタール)の土地を、日本人が「ラ・コルメナ」(蜜蜂の巣)と改名した。その入植地開拓の準備のために、内田千尋初代移住地支配人、笠松尚一技師と酒井好太郎の3人が、パラグァイのめでたき独立第125周年記念日に当る1936年5月15日に、首都よりイビチミー駅経由、東南約130キロの地点に位置するラ・コルメナに入植第一陣として乗り込んだのである。

ラ・コルメナ日本語学校の様子(2006年11月撮影)

 このラ・コルメナ入植記念日が、のちほどパラグァイにおける日本人移住記念日の元になったのは周知の通りである。
 それから酒井はラ・コルメナでパラグァイ拓殖組合の事務所職員、日系最初の産業組合(農協)創立者となった。そして戦後のピラポ移住地では、旧移住振興㈱現地事業所の勤務を終えた後に、同移住地で市街地に住宅地を求め、夫妻ともども生活のための小店を経営していた。

新ピラポ自由メソジスト教会

 その傍ら隣接地に、ブラジルのサンパウロ市にある日本自由メソディスト教会(田名網七五三吉(しめきち)牧師)の支援で、エンカルナション市におられた塚本登牧師とヒューストン(米国人)牧師参加の元に、ピラポ自由メソジスト教会が建設された。酒井はその管理人兼代理宣教師を務め、入植者の「心の開拓」に努力した。 《つづく》

第40回書道愛好家展に恵子が参加しています。

第40回書道愛好者展が今日28日(土)と明日の29日に文協貴賓室で行われておりその準備も兼ねて木曜日の夕刻からサンパウロに出て来ています。昨日1日掛けて展示場の準備を終え今朝9時から会場の受付を担当して頑張っています。私はすることがなくホテルと会場の文協に行ったり来たりリベルダデ界隈をぶらぶら歩いて過ごしています。展示会関係の写真の掲載の第1報を掲載して置きます。石川師範、愛好会会長の作品とその前で撮らせて頂いた写真、恵子の作品等を先ず掲載して置きます。

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「葉月」という月=義父・酒井と崎山精神=パラグァイ在住 坂本邦雄=《上》 ニッケイ新聞WEB版より


両親の写真(酒井好太郎とテル)

 和風月名で8月を「葉月」と呼ぶ。
 パラグァイでは8月15日は、首都アスンション市の創立(1537年)記念日である。別名「Madre de Ciudades」(都市の母)と呼ばれる。
 スペインが南米を植民地にしていた時代に、征服派遣隊はアスンションを根拠地として、今の南米南部地域の70余りの都市、ボリビアはサンタクルス、アルゼンチンはコルドバ、サンタフェ、コリエンテス等の数々を、1551~73年の間に建設した。更には英国に一時占領されたブエノスアイレスを、1580年に奪還して再建した誇りがある。だから「都市の母」なのである。
 年代は変わるが、8月25日(1967年)は憲法改正議会により、いわゆる大統領再選を無期限に許した、旧ストロエスネル憲法の発布記念日である。
 やはり葉月、1938年8月1日にラ・コルメナで筆者の義妹栄子が生れた。なお、その義妹の夫、井上徹も年は異なるが、同じ誕生日である。
 そして、筆者が今でも悔恨の念に責められるのは、老後のロクな世話も出来なかった両親・酒井夫妻を、山奥の新開地ピラポ移住地で1967年の8月16日の夕刻、思わぬ現地人による殺害事件で、無残にも亡くしてしまった事だ。
 親孝行ができなかった筆者が、特に悲しみとする無念の「葉月」である。
 なお、8月16日と言えば元ストロエスネル大統領が、亡命先のブラジリアで2006年に逝去した日でもある。および、奇しくも筆者のワイフの父親(マキシミリアノ・アリアス)が、ストロエスネルが失脚した1989年に、102歳の高齢で亡くなった命日でもある。
 この様に、葉月に起きた色々な出来事が、歳を重ねるに連れて走馬灯の如く思い出される。

義父・酒井の思い出

 筆者の義父・酒井好太郎は、京都府綾部市の出身だ。故郷の学校を終えてから、今で言うアルバイトをしながら、東京で岩倉鉄道学校工業化学科を卒業したケミストだった。

晩年の崎山比佐衛(1875―1941年、高知県)〈「崎山比佐衛伝」吉村繁義著、1955年〉

 その後、東京ガス会社の淀橋研究所に5年間勤めたが、思うところがあって会社を辞し、晩学だが東京世田ヶ谷の海外植民学校に入学した。
 同校はその名が示す如く特殊な専門学校で、創立者の崎山比佐衛(1875―1941年、高知県)先生は、熱心なクリスチャンで、当時は軍の銃剣の下に、満蒙開拓が益々盛んな頃だったが、種々の調査、研究の揚句、日本人の海外発展の道は南米以外に無いとの結論に至った。
 崎山先生は、日本資本主義の父といわれた渋沢栄一子爵にお百度参りをし、学校の建設資金を依頼した。ところが、いつまでも色よい返事がサッパリなかった。しびれを切らした崎山先生は、最後には渋沢翁の禿げ頭を大きな手で押さえ、持ち前の大きな声で聖書を片手にお祈りをしたところ、さすがの翁も折れて、必要資金を出して下されたという“武勇伝”の持ち主だ。
 開校後、崎山校長は翁の別荘を、学校の創立記念日には学生達を引連れて挨拶に参上し、渋沢翁の訓話を聞きながら、茶菓子を御馳走になって一同帰って来るのが恒例だったと言う。
 崎山先生は「理想の村落には、教会、学校、協同組合の3つが必要欠くからざるものだ」と教えられた。
 すなわち、アメリカが大を成したのは、いわゆる「ピューリタン(清教徒)精神」によるところが大きく、それは崎山先生がいう宗教的信念、知的教養、産業協同組合精神という3つが要である。そのパラグァイにおけるモデルは、メノナイト移住の団体組織だと思われる。
 なお、植民学校の寄宿生だった酒井は、良く崎山校長に銭湯へお供をさせられ、先生の背中を流したりしたので、崎山精神なるものの薫陶を最も身近に受けた学生の1人だった。

渋沢栄一の顔写真が入った2024年度発行予定の一万円札見本(財務省)

崎山精神の薫陶受ける

 酒井からは、崎山精神として「移住とは、受け入れ先国の開拓や経済社会発展に尽くし、果てはその地の土となり、子孫には誇りを持っていつでも帰って来られる良い故郷を残してやる事だ」と聞かされたものだった。
 次いで、両親・酒井夫妻の関係について述べれば、先ず酒井は植民学校を終えて、同校出身者(佐久間宮子)と結婚。 やはり植民学校出の義弟唯雄と3人で、1932年にサントス丸でブラジルへ移住、ミナス州コンキスタ駅の稲田耕地に入植した。
 翌年、サンパウロ州モジアナ、タクアラールに移転した。同稲田耕地で、酒井が米作に従事中の留守宅で、病床にあった妻宮子が黒人のカマラーダに殺害された。義弟の唯雄も酒井一家がパラグァイに転住直後、トラックで耕地の友人達とリオ・グランデ河へ慰安の魚釣りに行った際、ボートが転覆し、水難事故で亡くなる不幸が続いた。《つづく》

スザノ市=世界初?! 小学校で相撲教育=市立6校が親善大会15日に=非日系ブラジル人200人 ニッケイ新聞WEB版より

開会式で選手宣誓

 聖州スザノ市(ロドリゴ・アシウチ市長)は相撲教育部(ルシアナ・ワタナベ部長)を創設、7年前から小学校児童200人を対象に相撲普及に取り組んできた。公立小学生を対象とした相撲部設置は、日本を含めて世界初ということもあり、昨年からJICA(国際協力機構)がボランティアの飯田浩之教師を派遣、スザノ市の相撲プロジェクトを強化した。そのかいあって、先の全伯相撲大会では女子チームが万年連続優勝のスドエステ(聖南西)文化スポーツ連盟(大瀧多喜夫相撲部長)を下し、下本八郎ブラジル相撲連盟名誉会長寄贈の「ブラジル女子相撲大会優勝旗」を手にした。

女子チームが全伯初優勝

 9月15日午前10時からスザノ市サンベルナルディノ区のルイ・フェレイラ・ギマランエス小学校で、『第7回スザノ市立小学校相撲親善大会』が行われた。相撲部のある同市公立6校の対抗試合だ。今大会では、7月21日に聖市ボン・レチーロ区の常設土俵で行われた全伯大会のスザノ女子チーム総合優勝も同時に祝った。
 日系人が一人もいない非日系ブラジル人児童たちが土俵正面に整然と並び、ブラジル語で選手宣誓、開会した。

スザノ市長

 日系のアシウチ市長は開会あいさつで「全伯大会優勝おめでとう。スザノ市役所相撲部役員、JICAの飯田先生、ブラジル相撲連盟役員の皆さんありがとうございました」と感謝した。
 森和弘・元副市長は「〝礼に始まり、礼に終わる〟相撲を取ることによって、日本の良い習慣がブラジルに広まることを願う」と相撲普及の意義を述べ、ロータリー・インターナショナルのガヴァナーだった国際経験から、「たとえ300年かかっても」ブラジル文化が先進国並みにレベルアップすることを願った。

ルシアナ部長

 全伯女子相撲チャンピオンでブラジル代表選手でもあるスザノ市相撲教育部のルシアナ部長は「ブラジルに女子相撲が導入されて以来、全伯大会の女子総合優勝はすべてスドエステ(聖南西)チームに持って行かれていた。それがJICAの飯田先生の指導のおかげで、今年は念願の優勝がかないました。夢のようです」と喜びいっぱいにあいさつした。会場に飾られた「全伯女子相撲大会優勝旗」は下本八郎ブラジル相撲連盟名誉会長によって2015年に寄贈されたもの。
 ブラジル相撲連盟の木本忠昭・副会長は「女子相撲の世界大会決勝でルシアナが日本の選手と対戦した時は、日本の応援団以外は会場全員がルシアナを応援していました。国際舞台に立った感激が、スザノ市の相撲部設立につながったと思う」と記者に説明した。

大浦文雄氏「スザノ史を画す出来事」

 スザノ市の歴史資料収集をして9月22日に「生き字引(Memória Viva)」として表彰される95歳の大浦文雄・元汎スザノ文化体育協会理事長は「スザノ市が相撲プロジェクトを推進しているとは知らなかった。日本古来の神事であり武道でもある相撲に取り組むことは、スザノ史の時代を画する出来事だ。女生徒がまわしを付けて相撲を取っても、別に違和感はなかった。黒人の男子選手の中に、一人だけそんきょの姿勢を取った時、目の付け所が定まっている選手がいた。将来性があると思う」とスザノ市の相撲取り組みに感激し、相撲の普及発展に期待した。

飯田教師

 日本学生相撲の優勝経験があるJICA派遣の飯田教師は「最初はつかみ合いだけだったが、この一年で子供たちの《礼に始まり、礼に終わる》という相撲の型ができてきた。すり足もできるようになり、また、勝負を最後まで〝あきらめない〟ようになってきた。日本でも中学校以上なら相撲部があるが、小学校レベルで相撲部があるのは世界でもスザノ市だけではないかと思う。ルシアナ部長の熱意が通じて相撲部ができたのでしょう」と評価し、「もっと大事な事として、子供たちには〝土俵には神様がいるから、草履で上がってはいけない〟と注意し、土俵が汚れたら掃除をするようにと、技術だけではなく精神面での指導もしている」と記者に指導内容を説明した。

下本八郎氏「女子相撲が20年で伯国に根付いた」

 パラー州ベレンで行われたアマゾン日本移民90周年記念祭に出席するのために同大会に出席できなかった下本八郎ブラジル相撲連盟名誉会長は、「女子相撲は1999年に私が男女平等思想に基づいてブラジルに導入した。20年にして女子相撲がブラジルに根付いたという感じがする。日本伝統の礼儀のスポーツがブラジルに普及し、ブラジルのためになることは私の政治家(サンパウロ州議員6期24年)としての信条でもあった」と喜びのメッセージを送った。


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