2019年10月
県連故郷巡りアマゾン=90周年に沸く「緑の天国」=(13)=唯一パラグアイからの凄い参加者 ニッケイ新聞WEB版より
県連故郷巡りアマゾン=90周年に沸く「緑の天国」=(13)=唯一パラグアイからの凄い参加者 ニッケイ新聞WEB版より
上塚芳郎(よしお)さんに、いつから祖父・司の移民事業に関心を持ったのかと聞くと、「本人の死後だ」という。「祖父が生きていた時は大学生で、あまり関心がなくて。山根一眞さんというジャーナリストがブラジルを知りたいと家に来て、それで自分も興味を持ったんですよね」。
97年に米国のハーバード大学へ留学した際に、秋山桃水さんに会いに、サンパウロ市のリベルダーデまで行った。高拓生会報を読んで興味を持っていたからだ。そこで出会った秋山さんとは上塚司やアマゾンの思い出話、高拓生の消息など様々なことを談笑した。
98年には、念願のアマゾンへ足を運び、ベレン在住で第3回高拓生の安井宇宙さんを訪ねた。その時に初めてアマゾン地域まで足を運んだ。その後は高拓70周年、80周年、日本人移民百周年の時など、4回ほど来伯。祖父が「第二の日本」を夢見たビラ・アマゾニアにも行き、当時の建物を目にした。
高拓生の子孫、現在は廃墟となったアマゾン開拓事業の遺産――祖父が開拓事業を始めたアマゾンのその後を、芳郎さんは辿っていった。そして今回も、当日の夜と翌日には、祖父の思いを引き継ぐように90周年式典に参加する。
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「博多」での歓迎昼食会後、一度ホテルに戻って故郷巡り一行と合流し、パラー州立文化基金(CENTUR)へ向かった。ベレン市恒例の「日本週間・アマゾニア祭り」が、今年は特別にこの場所で開催されている。
宮城県、北海道、広島県など各県人会の屋台やステージ、生け花などの日本文化の展示が並ぶ。汎アマゾニア日伯協会の伊藤真美事務局長によれば、例年は8千人の来場客が訪れるところ、今年は3日間で1万5千人も訪れたそうだ。
ベレンは暑かったため、この日は水やビールなどの飲み物がよく売れた。「一緒にビールを飲もう!」と美味しそうにビールを飲む伊東比古さん、「まだ仕事?頑張るねぇ。1杯だけどうですか?」とこちらもグビッとビールを飲む菊地義治さんの誘惑に負けそうになる。
でも記者はアルコールなんか飲んじゃいけない――と涙を飲んで断り、食べ物のコーナーを見ていると、途中で会った江藤キヌエさんから「私の同室者の話が凄いの。ぜひ取材して!」とお呼びがかかった。何でも、今回の参加者の中で唯一国外から参加しているのだという。
「夫の仕事の都合で国外に住んでいるけど、私自身はサンパウロ生まれなのよ」。薄い緑色の服を身につけ、眼鏡を掛けた優しそうなその女性は、パラグアイから参加した栄田秋実さん(79、二世)。妹2人がサンパウロに住んでいる。
今回は、その妹2人が夫婦で参加するのに誘われ、一緒に申し込んだ。「私達の父が第2回高拓生。父のブラジルの故郷を見てみたかったの」と言い、パラーやマナウスに行きたくて参加した。
これが、江藤さんが言う「同室者の話が凄い」ということなのだろうか。気になり単刀直入に聞いてみると「昔パラグアイのイグアス移住地で殺人事件があって、その家の子どもを引き取って育てたのよ」と静かに語り始めた。(つづく、有馬亜季子記者)
サッカー=選手育成目的の新クラブ誕生=日本企業と元セレソンが設立=目指すは日欧への選手輩出 ニッケイ新聞WEB版より
サッカー=選手育成目的の新クラブ誕生=日本企業と元セレソンが設立=目指すは日欧への選手輩出 ニッケイ新聞WEB版より
サッカー元伯国代表のエジミウソン・ジョゼ・ゴメス・モラエス氏が代表を務める、プロサッカー選手育成を目的としたサッカークラブ「フッテボール・クルベ・スカイ・ブラジル(以下FCSB)」が8月から選手受け入れを始めた。日本の「スカイライトコンサルティング(株)」(本社=東京都港区、羽物俊樹代表取締役)が運営に関わる。聖州サンタナ・デ・パルナイーバ市にある拠点「テレ・サンターナCFA(Centro de Formação de Atletas Tele Santana)」を19日に取材した。
スペイン式のサッカー教育プログラムと、繊細で素早い足技などが特色の伯国の長所を取り入れ、欧州や日本で活躍できる選手の輩出を目指す。直近の目標は、来年の聖州選手権で好結果を収めることだ。
8月から選手の育成を始めるため、コーチ陣は3月から全国で大会などの視察、スカウト、入団審査を行い、1万人以上の選手を見てきた。バイーア州、南大河州など遠方からの選手もおり、サンパウロFCなど有名クラブから移籍した選手も所属する。
15歳以下(U15)、17歳以下(U17)の2部門で来年から大会などに出場するため、現在は14、16歳の選手約55人が練習を行っている。全選手と職員の多くは宿舎に寝泊まりして生活する。選手は平日午前中に市内の学校へ通い、午後は練習、土曜日は練習試合を行い、日曜日は休日となる。
芝生のサッカーコートも備え、空いている土地にさらに5面ほどコートを新設予定。トレーニングジムも準備中で、悪天候時に使用する体育館、リハビリなどに使う室内プールも完備する。
U14チームの監督を務めるカイオ・ルフィーノさん(31)は「選手の環境はとても良い。不真面目な選手は退団させ、常に新しい選手の入団審査を行っている」と育成に妥協は許さない。
プレー以外に、礼儀や教養などの教育面にも注力し、グラウンドに来たら必ずコーチにあいさつする、練習中は他人のプレーに腹が立っても悪口を言わないなど独自のクラブルールを定める。
U14主将のアンドレ・ルイスさんは、バイーア州の親元を離れて来た。「欧州で活躍し伯国代表になる夢を叶えたい。またクリスチアーノ・ロナウド選手のように、最高のプレーに加えてグラウンド外での人間性でも尊敬されるような選手になりたい」と将来の展望を明かす。
単身で2年間のスペインサッカー留学を経て、現在FCSBで特別に練習に参加する、唯一の日本人の中村希(まれ)さんは「1対1の攻守で勝ち抜き、状況を打開できる突破力を身に付けたい。日々努力を積み重ねて目標に近づいていく」と力強く語った。
ルフィーノさんは選手の現状について「まだ完璧ではないが、将来海外で活躍できそうな選手がいる」と自信をにじませた。
□関連コラム□大耳小耳
FCSBの監督カイオ・ルフィーノさんは非日系だが日本語は完璧。伯国のプロ選手だった父エジソンさんが、日本に指導者として招へいされ、家族も日本に移り、カイオさんは小学校と高校を日本で過ごした。Jリーグでもプレーし、帰化して日本代表を目指すことも考えたとか。現在はFCSBと聖州バルエリ市の少年クラブチームで指導を行う。FCSBでは将来的に日本のチームを招いて大会開催も考えている。今後もルフィーノさんが日伯サッカー界をつないでくれそうだ。
◎
FCSBでは選手の1日の練習時間は1時間半ほど。日本の中高校の部活動では毎日午前・午後通して練習することも珍しくない。ルフィーノさんは「選手の集中力、疲労、練習成果などを考え、効率が最も良いのがこの練習時間だった」という。日本の学校の部活動は、これを見習って考え直すべきかも。
県連故郷巡りアマゾン=90周年に沸く「緑の天国」=(12)=追い続けた“第二の日本”の夢 ニッケイ新聞WEB版より
県連故郷巡りアマゾン=90周年に沸く「緑の天国」=(12)=追い続けた“第二の日本”の夢 ニッケイ新聞WEB版より
戦前に第2回高拓生の尾山萬馬の父・良太がジュート(黄麻)の優良種の栽培を成功させ、アマゾン流域の産業創出に貢献した。戦後、同地では労働力となる日本人移民が望まれていた。そこで再び登場するのが、上塚司だ。
「これは私が提供した写真です」。上塚芳郎(よしお)さんは、アマゾン日本人移住90周年記念祭パラー実行委員会が発刊した「アマゾン日本人移住90年の歩み」をめくり、1枚の写真を指差す。そこには、当時のゼツリオ・ヴァルガス大統領と交渉する上塚司が写っている。
日本は敗戦後、住居の不足、失業、食糧難等の深刻な問題を抱えており、政府は移民政策の再開を急いだ。上塚司はアマゾニア産業の辻小太郎らと共にヴァルガス大統領に直訴し、パリンチンス地方への移民導入の許可を得た。こうして53年3月、戦後第1回移民17家族54人が同地へ入植した。
「祖父は時折ブラジルへ来ていました。戦前、最後にブラジルへ来たのは39年。100万ヘクタールの土地のコンセッション(無償譲与)を受けようとして、リオで演説も行ったそうです。結局無効になったそうですが」。
移住事業のために、国会議員を半年休んでブラジルへ行った他、懇意にしていた元大蔵大臣の高橋是清に口利きをしてもらい、財閥の資金援助を得た。夢を追い求め続けた上塚司の真意を芳郎さんに聞くと、「〃第二の日本〃を作りたかったんでしょう」と答える。
満鉄は国策会社として、日本が満州に対して植民地経営を行うために重要な役割を果たした。そこで働いた上塚司は、日本人を入植させるために中国人を追い出し、戦いによって住む場所を奪うやり方が誤りだと考えた。
ならば、元々先住民が少ない場所で移住事業を行いたい――それがアマゾン開拓の夢へとつながった。しかし第2次世界大戦が勃発し、その夢は潰えた。「思っていた事ができず、挫折した気持ちがあったようです」と、芳郎さんは静かに語る。
「70歳の頃の1960年代に、上塚司は最後にブラジルへ行ったんです。高拓生で成功された方々が残っていて、ベレンやマナウス、サンパウロへも会いにいったようですよ」。
上塚司と高拓生の交流は続き、東京の自宅へは晩年も手紙が届いていた。「第1回生だった秋山桃水さんは、戦後サンパウロに住み、和文タイプライターで書いた高拓生会報を毎月1回出して東京まで送ってくれてたんですよ」と言うように、上塚司と高拓生との絆は結ばれ続けた。(つづく、有馬亜季子記者)
金沢マラソン初参加の2選手を連れての日本への旅日記
金沢マラソン初参加の2選手を連れての日本への旅日記
10月22日(火)午後2時過ぎに飛行場でマラソン選手二人と落ち合う。4時5分発予定のAZUL便が遅れ5時前にサンパウロに向け飛び立つ。旅の始まり。金沢マラソンに着て走るシャツを特別に誂えたとの事。写真を撮る。
7時前にUAのカウンターに着き搭乗券を受取る。9時発の予定が矢張り半時間程遅れるが無事サンパウロを飛び立つ。粗、満席残の機内の最後の列45HとKを旅行社のマルコニが取ってくれていた作戦が当たり真ん中の席が空いており楽になる。アナイさんアリジンニヤさんは、4列前の通路側の隣席を取って貰っていた。10時過ぎから夕食が出たが一番最後の配膳で10時半になってしまう。ビーフとチキンがあったがビーフを頼みビールで美味しく頂きました。11時半に電気が消え、残りの飛行時間が7時間との事。横になって一寝りすることにする。
恵子の膝を枕にして横になり足を伸ばしてぐつすり寝る。3時半に目が覚めてトイレに行きその後は、恵子と代わる。残り飛行時間が2時間40分との事。既にアメリカに近づいている。
丁度到着1時間前に朝飯が出て恵子を起こして暖かいパンとフルーツ、ヨーグルトを頂く。遅れて来たコーヒで目が覚める。後40分でアメリカだ。
到着予定時間が5時35分だから時差は僅か1時間のようだ。9時間掛けて北上、北半球にやってきた。日本に1時間近付いた事になる。これから入国手続き、荷物を取って通関の上再ドロップとANA機に乗り換え成田に向かう。11時5分発予定で6時間近くのアメリカ滞在になる。
定刻の5時35分に小雨降るニュワークに着陸する。さあ又アメリカだ。
凄い人で入国手続きをして(全て機械)旅券に入国日の判子を押してくれない。荷物を受け取りトランジットの荷物ドロップの場所に行き引き渡す。出国の手荷物検査で靴まで脱いで検査。ポケットに残っていた名刺入れのカード、身分証明書入れが取り上げられて再検査に回り、もたもたするが何とか無事通過する。時間があるので朝食を摂り広い飛行場内を歩く。飛行場内だけで6000歩、歩いたが今日23日は、最低の1万歩は、無理かも知れない。
スターアライアンスの、UA便は、粗定時に近い時間に離陸、成田に向かう。成田迄の飛行時間は、13時間弱。日付変更線を超えて1日飛び24日の午後1時55分成田到着予定。これから北上して北極圏経由成田に向かう。1万1千キロの飛行になる。直ぐに飲み物が出て南ア産の赤ワインを頼みちびりちびりやっていたら昼食が出る。12時半頃から昼食が出て少し食傷気味だったがチキンの味の良い味のご飯を平らげてリンゴジュースで嗜む。
これから又一眠りすれば起きれば日本に近づいているだろう。昼間から寝れるかどうか?寝ようと思っていたらアイスクリームが配られシャヴェット状になった美味しいアイスクリームでこれも平らげる。飛行機は、ハドソン湾に出て進路を西に向けて走っている。成田迄 10時間半、一眠りしよう。
何度も目が覚めて熟睡できず。7時半に目が覚めると飛行機は、極東の大陸に到着し南下を始める。到着予定は6時間後で予定は、少し早まり午後1時半になっていた。もう直ぐだ。時差12時間で時計は、そのままで使える。これから先は、日本時間に合わせて寝ないで夜まで頑張り、日本時間の夜に疲れて熟睡するのが時差ボケ防止になるとの恵子の作戦を生かす事にして起きて置こう。
9時になった。後4時間半。愈々日本が近づき飛行機は、オホーツク海に入る。北海道の釧路上空を通過、いわき市沖を通過すれば成田は、直ぐ。もう一度食事が出るだろう。しつかり食べておこう。
最後の食事は、飛行機が北海道を過ぎ本州に入ってから始まる。残り1時間20分12時を過ぎていた。仙台の上空を飛ぶようである。ポルトアレグレの自宅を出てから36時間の空の旅の余り変わり映えのしない記録になってしまたが、これで終わりにする。2週間とちょっとの日本での旅を楽しむ事にする。