私たちの50年!!

1962年5月11日サントス着のあるぜんちな丸第12次航で着伯。681名の同船者の移住先国への定着の過程を戦後移住の歴史の一部として残して置く事を目的とした私たちの40年!!と云うホームページを開設してい居りその関連BLOGとして位置付けている。

2019年12月

112   París Notre Dame 15x23 aquarela 砂古さんの新しい画像集です。


 ベルギーを出る前に、次の予定先のロンドンでブラジル人一人を殺害したテロのニュースで船中は驚きに囲まれた。今ほどテロが頻繁に起こらなかった時代である。

急きょ、予定先をフランスの北にあるLe Havreに変更。 以前にロンドンと南フランスのニースに旅行した僕には、北フランスは有難い話。東京に住む次男Fabioが仕事でロンドンに偶々滞在中で、我々と再会の予定だったが、それををパリーに変更した。

 凱旋門近所のホテルに6人で3泊した。名は聞いたホテルだが、寝室もトイレも狭かった。ルーブルとオルセイの両方の美術館に行ったが、オルセイは印象派の作品収集に全力集中しているのが気に入った。、その中の一点には驚いた。モデルの下腹部と微かに開いた両太腿を中心として寝ポーズの両胸が彼方の薄着の間に垣間見る作品だ。ピカソの、遊び心で描いたエロ素描を見たことがあるが、この真剣な筆使いとは大違いで感心した。

 18世紀後半のフランスのレアリズムな人物画で有名な Gustave Courbet がトルコの外交官の注文に応じた唯一のエロティシズム作の評が貼ってあった。

 オルセイはパリー市内に散在する鉄道駅の一つを改造し1986年に発足した美術館。その優美で豪華な建物は暗いルーブルとは対照的である。

 次男の招待で, Lyon駅にある、すべて金色で内装した豪華な Le Train Bleuレストランで夕食をした。市内に。現存する六つの駅の一つで、この駅は南仏に旅行するお金持ちが利用するので、その昔このレストランが出来たとか。アルバム不使用の今日、我が家の記念にも残るので、添付します。

セーヌ川を回遊する観光船にも乗った。金ぴかで大きな模様を付けた鋳鉄の橋の手摺りや、眼の前に

エッフェル塔を見上げ、高層建築が規制され空が広いパリー風景、川淵でワインや軽食を楽しむ人々の姿が印象的だった。エッフェルは登るのに待ち時間が長いので見送り。

有名で小高いMonmarteにも足を運んだ。自作を売るためと似顔を描く絵描きと旅行者で賑わって

居て、取り囲む店々も特別の雰囲気で一興であった。

予期しない最高のパリーで、現場でスケッチする時間はなかった。



年忘れ小話大会・アメリカ小話「アイルランド人は大酒飲み」 富田さんからのお便りです。

   和田さん&W50年の皆さん、泣いても笑っても今年はあと1日のみとなりましたが、いかがお過ごしですか。年忘れ小話大会の最終回は、第一位に輝いた、アメリカ小話「アイルランド人は大酒飲み」をお届けいたします。今秋開催された、世界ラグビー選手権で我が日本はBEST8入りを果たし、この快挙は今年の10大ニュース二位に選ばれました。特に、日本が強豪アイルランドを破った大金星は長く語り継がれる、歴史となることでしょう。さて、令和元年の一笑一若・小話大会のチャンピオンは、ラグビー人気のお蔭でこのアイルランドの小話が選ばれました。彼らのビールの鯨飲振りは日本人を驚かせましたが、アメリカ人も魂消ていたのです。では、ご用とお急ぎでないお方は、下記のブログをお訪ねのうえ、一笑一若・アメリカ小話「アイルランド人は大酒飲み」をE N J O Y !!!

では、皆さん、良いお年をお迎えください。本年もよろしくお願いいたします。

http://iron3919.livedoor.blog/


富田眞三

  Shinzo Tomita

アメリカ小話

             令和元年 年忘れ小話大会 Best5

          第1位 アイルランド人は大酒飲み
005.irishtimes

                     写真:(www.irishtimes.com)
 カウボーイハットをかぶったテキサスからの観光客は、アイルランドのパブに入ると、満員のお客さんたちに向かって声を張り上げた。
「アイルランド人はそろって大酒豪だ、と聞いています。そこで、ここにお集まりの皆さんの中で、10パイント(5.7リットル)のギネスを続けざまに飲んだ人に1,000ドルの賞金を提供したい。誰か挑戦する人はいないか?」と怒鳴った。

パブ中はシーンと静まり返った。誰も手を挙げなかった。それどころか、一人の男はパブを後にした。
 
30分後、さっき出て行った男が戻ってくると、テキサス・カウボーイの肩をたたいた。
「あんたの賭けに挑戦したいのだが、まだ受け付けてくれるかい?」と訊いた。

テキサス・カウボーイは「もちろんだよ」と言って、バーテンに10パイントのギネスを用意させた。
アイルランド男は直ちに10個のジョッキを次々に空にして行った。
パブ中の吞兵衛たちは、歓呼の声を上げて、男をたたえた。テキサス・カウボーイは感嘆しつつ、男の飲みっぷりを見ていたが、10杯のジョッキが空になると、破顔一笑して男に10枚の100ドル札を手渡した。

テキサス・カウボーイは、1000ドルを獲得したアイルランド人に、「差支えなかったら、さっき30分間外出して、どこに行ってきたのか、聞かせてくれないか?」と訊いた。

アイルランド男は返答した。
「オー!俺は近くのパブに、実際10パイントのギネスを次々に飲めるかどうか、試しに行ったのだよ。」と答えてニヤリと笑った。
お後がよろしいようで……。



第40回バーチャル座談会『新春放談、行く年来る年2019ー2020』 番外編

https://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=1955

昨年のバーチャル座談会では、その11(番外編)に73年の歴史を持つサンパウロ新聞の廃刊宣言とそれを惜しむニッケイ新聞の記事を取り上げていますが、今年は、生き残ったお世話になっているニッケイ新聞の深沢編集長の論説、≪愛読者の皆さまに感謝の一年!≫ を番外編として残して置きたいと思います。お世話になっているニッケイ新聞が色々新しい方針を立て出版物を通じての活字の新聞の生き延び策を模索して居り出来る限りの協力はして行きたいと思っています。余った字数で2019年度のニッケイ新聞が選んだコロニアに10大ニュースを一緒に掲載して置きます。今年の目玉ニュースは、アマゾン移民80周年との事で県連のふるさと巡りに参加してトメアス、ベレン、マナウスの式典に参加出来て良かった。写真は、深沢編集長が書かれた『移民と日本人』を使わせて貰いました。

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≪愛読者の皆さまに感謝の一年!≫ ニッケイ新聞WEB版より
2019年12月24日

 2019年は読者の皆さんにとって、どんな年だっただろうか?
 昨年末にサンパウロ新聞が廃刊したことの余波が、繰り返す波のようにいろいろな場面で押し寄せてきた。取材依頼が例年以上に多いと感じたのは、その一例だ。
 年明けに400人ほどのサ紙読者が弊紙に移ってきてくれた。別の新聞を読むという決断は、読者にとって大きな、重いものだと承知している。心から感謝したい。
 サ紙読者の多くは購読料を年末年始に払っていたと聞く。つまり翌年の購読料を払ったばかりのところで、「寝耳に水」のように昨年末に廃刊となり、頭に来た読者も多数いたと聞く。
 その余波を受けて、「どうせニッケイ新聞もすぐに潰れる。乗り移ってすぐに潰れたら、嫌な思いを繰り返すことになる。それなら、もう購読しなくていい」と読まなくなった方も多数いるという話も方々で聞いた。
 逆にいえば、「それだけサンパウロ新聞を愛読していた」からこそ受けた廃刊のトラウマ、ショックだろう。まったく無理もない話だ。実際のところ40年、50年も愛読していた新聞から、ある日突然「廃刊します」と宣言され、その1週間後に実際にこなくなる―という経験は悪夢だ。
 しかも、晴れ晴れとした期待感一杯の気分で読みたい新年号が、最後の号になった。「2019年は、なんという嫌な形で始まった新年か…」と嘆いたサ紙読者も多かろうと想像する。

 とはいえ、邦字紙全体としてみれば、たとえどの新聞の読者であれ「邦字紙を愛読してくれていた」という事実は誠にありがたい。早くそのトラウマが癒えてくれることを心から祈りたい。

とにかく忙しかった1年
 編集部としてこの一年を振り返ってみると、「とにかく忙しかった」の一言に尽きる。
 普通に考えてみると、一世は減っているのだから、日本語で記事を出す需要は減ると思える。どの日系団体でも二世、三世が中心になっている時代だ。日本語新聞を読まない世代であり、彼等にとって日本語新聞の存在意義は薄れているはずだ。
 だが実際は「日本とのつながり」「日本から来賓を呼ぶので日本語の記事も出してほしい」「日本の人にも読んで欲しい」という意味で、思いのほか日本語で記事を出す必要性は残っている。
 裏を返せば二世、三世の時代になっても日本とのつながりはそれだけ多く、重要だという認識が続いている証拠でもある。本当にありがたいことだ。日系団体のイベントはむしろ年々増えており、「ネタは尽きない」どころか「こなしきれていない」のが現状だ。
 興味深いことに、日本語で記事が出たことで、取材依頼をしてきた日系団体は「その案件は国際的にも注目されている」とブラジル側の重要人物や官憲に見せて、アピールするという風にも使われている。
 そんな忙しい取材の合間を縫って、今年は3冊の本を刊行した。ざっとそれを振り返ってみたい。

子孫に読んでほしい『眞子さま写真集』
『眞子さまご来伯記念写真集/日本文化第9号』
 眞子内親王殿下がご出席され、盛大に祝われた昨年の日本移民110周年を記念して、本紙は今年2月に『眞子さまご来伯記念写真集/日本文化第9号』を刊行した。しかも日ポ両語で全ページカラー刷り、60レアルという格安価格で出した。
 全伯各地に記者を取材に派遣し、翻訳代もかけ、270ページ近くもあるのに全ページカラーで印刷代をかけたので、正直言ってかなり経費がかさんだ。弊社社長にも呆れられた。ビジネスとして考えた時、この値段では儲けにならない。正直言って、貧乏新聞社がすることではない。
 とはいえ、それも宮坂国人財団、天野鉄人氏、下本八郎氏をはじめ理解者・団体の協力があってこそ初めて実現できた。
 儲けが残らないのに、なぜ貧乏新聞社がそんなことをするか? それは、眞子さまがご訪問された感動を一世だけでなく、できるだけ多くの二世、三世、四世、五世、ブラジル人にも共有してもらうことが、次の大きな節目である日本移民120周年(2028年)を盛大に行うための最大の準備になると信じているからだ。
 子孫がこの本を開いて眞子さまの写真を眺め、逸話の数々を読んで、「皇室はブラジル日系社会のことをいつもに気にかけていてくださる」と胸に刻みつけることにより、「自分は日本をルーツとして持っている」「日系人としての誇り」という意識が蘇ってくるはずだ。この「日系人としての自覚」なくて日系社会というコミュニティに将来はない。
 この本が、できるだけ多くの日系家庭に常備されることで、三世、四世、五世がふと、「自分はどこからきたのか」「自分はなぜ今ここにいるのか」「何をするべきなのか」などとルーツに関する疑問を感じた時に、紐解いてもらえるのではと考えている。
 三世、四世がこの本を開けば、自分という存在の貴重さに気付くはずだ。「皇室」という1千年を軽々と超える、世界史の中でも稀に見る存在が、わざわざ自分たちのためにブラジルまでたびたび足を運んでくれるのはなぜか。
 第126代天皇である今上陛下も、移民百周年で当地に足を運ばれ、本紙ではその折にも写真集『百年目の肖像―邦字紙が追った2008年』を刊行した。
 今年10月の即位礼正殿の儀の折、あの写真集をとりだして、まざまざまとご覧になった読者も多いのではないか。リオのポン・デ・アスーカルの上でカメラを片手に微笑む姿など、素顔の陛下を垣間見られる貴重な写真が収められている。
 今回の眞子さま写真集からも、「日本という国の長い、長い歴史の流れの延長線上に、日系人としての自分がいること」「平野植民地、ノロエステ地方、トメアスー移住地をはじめとする明治以来の数えきれない移住に関する試行錯誤」「多くの善意や喜怒哀楽の積み重ねの上に、今の日系社会のあること」が感じられるはずだ。
 だからこそ、今のブラジルでは日系人は敬意を持って接されていることが伺われ、そこには、奥深くて、温かい、確かなものを感じるはずだ。
 そんな移民史を少しでも知ることで、日系人としてのアイデンティティが固まり、自分の存在により誇りが持てるようになるのではないか。
 我々一世にとっても、「子孫が日系人であることに誇りを強め、ただがむしゃらに生きてきた一世の人生の軌跡を高く評価してくれること」こそが、最も喜ばしいことではないか。

日本の人に読んで欲しい『移民と日本人』
『移民と日本人』(無明舎出版、2019年) 本紙は今年6月に、日本で『移民と日本人』(無明舎出版、150レアル)も刊行した。
 なぜ地球の反対にあるブラジルに25万人もの日本人が渡ったのか。「明治」という時代の、どんな背景の中から大量の日本人は押し出されるように地球の反対側まで渡っていったのか。
 そして「ブラジル日本移民という存在は、近代日本史から忘れられた存在になっていないか。正しく歴史の中に組み込まれているか」という問いかけをしている。
 これはグローバル時代ならではの、外国人労働者が近隣に押し寄せる生活環境になった日本の日本人に対する、移民大国ブラジルの日系社会からの提言として刊行したものだ。読み終えた人には、「日本人もブラジルで移民だった」という感覚から、「隣の外国人」が他人ごとでなくなることを期待して書かれたものだ。
 これは、日本の日本人向けに出した本だ。現在の邦字紙の役割の一つには、《日本の日本人に「移民とは」「ブラジルとは」ということを伝えること》も含まれると考える。だから、あえて日本で出版した。
 グローバル時代には、日本で起きていることの多くは、瞬時にブラジルにも伝わる。だが、ブラジルで起きていることは、めったに日本側に伝わらない。邦字紙は、印刷物はもちろんサイトやSNSを通して、ブラジルの情報を日本側にもっと発信していくべき時代になった。それが、邦字紙生き残りのキーワードの一つでもある。
 6月に、無明舎出版から郵送で送ってもらったが、手違いからいったん、日本に送り返されてしまった。再び郵送し直してもらい、先週ようやく到着した。新年から本格的に販売を始めるが、すでに日系書店には並んでいる。
 日本から来た来賓、知人や友人にプレゼントするなどにも使ってほしい一冊だ。

日本に馴染がない世代向け『COISAS DO JAPAO』
ポルトガル語翻訳版『O MUNDO AGRADECE! COISAS DO JAPAO』
 本紙は今月9日、『世界が感謝!「日本のもの」』(「ニッポン再発見」倶楽部著、三笠書房、2015年)のポルトガル語翻訳版『O MUNDO AGRADECE! COISAS DO JAPAO』(40レアル)の販売を開始した。
 世界の人々を魅了する「日本の優秀な製品やサービス」全97種をポルトガル語で紹介する本だ。ポルトガル語世代の子や孫、日本のハイテク製品に関心のあるブラジル人の友人やビジネスパートナーへのクリスマスや年末年始のプレゼントにぴったりの一冊だ。
 本の中では、世界の暮らしを便利にした「日本のもの」として、痛くない注射針、LED技術、新幹線、公文式教育法、魔法瓶、ファスナーや高機能トイレを始め、世界に安全と安心をもたらした交番、内視鏡など多数を紹介している。
 ブラジル日本商工会議所の平田藤義事務局長からも、《日本で当たり前に普及している技術やその応用製品、システムが、どれだけ途上国に移転され、それらの国々の国民に恩恵や幸せを与えているだろうか。技術移転には供与国側と導入国側の親密な連携が不可欠だ。日本の先進技術を非常にわかりやすく、網羅的にまとめた同書が出版されることで、導入国側であるブラジルの日本に対する意識が向上し、より親密な連携関係を生み出すことを私は確信している》とのあとがきを寄せてくれた。
 この本の読者は一世ではない。普段は日系社会と関わりがないような二世、三世、四世、五世、なかでも一般ブラジル人を中心読者として想定している。
 まずは日本製品についての関心を深めてもらうことで、日本的な製品設計思想、製造哲学を少しだけでも理解してもらい、そこから日本語や日本文化、歴史へと進んでもらう第一歩にならないかと思って刊行した。
 とくに日本文化好きなブラジル人には堪えられない一冊ではないかと自負する。
 これらの本はみな本紙編集部(11・3340・6060)、太陽堂(11・3208・6588)、竹内書店(11・3104・3399)、高野書店(11・3209・3313)などから購入できる。
ポ語読者開拓で生き残り
 このように今年、貧乏新聞社ながらも3冊、本を刊行した。『眞子さま写真集』は日系社会向け、『移民と日本人』は日本の日本人向け、『COISAS DO JAPAO』は一般ブラジル人向けという基本的な方向性で発行した。今のところ、それぞれ好評なので胸をなで下ろしている。
 来年に向けては、すでに『日本文化』第10巻、『日本史』などの刊行準備に入った。
 新聞には「今コロニアで起きていることを読者に知らせて注意喚起する」「移民史に残すべきことを記録する」などの役割がある。通常の新聞発行に加えて、このような本の出版事業を続けるのは、正直言ってかなり重荷だ。だが、本には本の役割がある。
 新聞読者の理解がある限り、新聞社は続く。移民社会の宿命として日本語の読者は減るとしても、その分、ポ語の読者を開拓すれば生き残れるはずだ。
 その点、ポ語週刊新聞NIPPAKの存在は心強い。それに加えて、このようなポ語刊行物を出し続けることで、少しでも日本文化、日本の情報がブラジル社会に広まっていけば、コミュニティ新聞として生き残っていけると信じている。
 先人の開拓精神に学び、ポルトガル語市場という新しい〃畑〃を開墾して広げていきたい。
 旧年は愛読者の皆さんに本当にお世話になったと感謝している。新年もご愛読のほど、心からお願いしたい。(深)


コロニア10大ニュース=1位はアマゾン移住90周年=平成から令和へ日系社会も祝賀 ニッケイ新聞WEB版より
2019年12月27日
今年の日系社会で大きな節目だったのは、アマゾン日本人移住90周年だ。現地からの声を、今年後半、本紙ではできる限り紙面に掲載した。9位にある通り、県人会や各日系団体の周年行事も多かった。6位の「日本語教育推進法」は新年から実施され、その効果の程がいよいよ判明する。母県から助けてもらうばかりでなく、時には支援するという意味で、7位の首里城再建寄付は重要だ。とはいえ良いことばかりではなく、喉の奥の棘のように5位の韓国文化院の展示問題も起きてしまった。だが2位と3位である「御代替わり」には、日系社会も積極的に祝賀し、その様子は日本のメディアでも大きく報じられ、存在感を示せた年だった。

第1位=アマゾン日本人移住90周年
乾杯の音頭を取った第1回目アマゾン移民の山田元さん
 今年の日系社会で最も大きな出来事は、アマゾン日本人移住90周年だ。今年9月13~15日に、パラー州トメアスー、ベレン、アマゾナス州マナウスにおいて、3日間連続で盛大に記念式典が開催された。
 トメアスー式典は、二世を中心とした祭典実行委員会が開催。第1回アマゾン移民で現在も同地に住む山田元さんを始め、同地で活躍した多くの一世が表彰を受けた。
 ベレンでは、豪華絢爛な平和劇場で開催され、ヘルデル・バルバーリョ州知事も出席。日本政府や祭典実行委員会による表彰の他、パラー州政府から9人が叙勲を受けた。
 マナウスでは、歴史ある優雅なアマゾナス劇場で開催された。サンパウロ市からは文協コーラス部ら約50人が特別に駆けつけ、美声を披露した。“アマゾン開拓の父”上塚司の孫、芳郎さんも来伯し、式典後も夕食会で節目の年を盛大に祝った。
 今回も県連ふるさと巡り一行約180人が全ての式典に出席した。
 90周年の準備と本番の様子は、本紙でも連載『アマゾン90年目の肖像=「緑の地獄」を「故郷」に』(有馬亜季子記者)全17回、連載『90周年に沸く「緑の天国」』(同記者)全23回で詳しく報じた。

 5月1日、皇太子徳仁親王殿下は第126代天皇にご即位され、新元号「令和」に改元となった。約200年ぶりに譲位により皇位を継承した新天皇陛下。ブラジル日系社会でも令和の御世到来を盛大に祝した。
 ブラジルでは、主要日系5団体が「新天皇ご即位・新元号『令和』祝賀晩餐会」を4月30日夜(日本時間5月1日)、サンパウロ市のブラジル日本文化福祉協会ビルで開催。日系団体関係者、駐在員ら約200人が出席し、日伯のメディアもこれを報じた。
 10月22日にも、日本で同日行われた「即位礼正殿の儀」を受け、奉祝晩餐会をサンパウロ市のクルベ・シルクロ・ミリタル・デ・サンパウロで開いた。全伯から約800人が集まり、日本の儀式の映像もNHKから特別に提供され、日系社会が一丸となって祝福した。
 新天皇陛下はこれまで3度も来伯され、ブラジル日系社会とも縁が深い。令和も日伯の絆を一層深める時代となることに、期待が高まっている。

第3位=平成の天皇陛下御即位30年
 平成の天皇陛下は今年、御在位30年を迎え、4月10日に「天皇陛下御即位三十年奉祝感謝の集い」が東京で挙行された。驚いたことに、その壇上に招待された一人が、サンパウロ市在住でエタッパ高校2年生の宮﨑真優さん(16、五世、大志万学院卒業生)だった。
 安倍晋三首相や映画監督の北野武氏など錚々たる面々が祝辞を述べた後に、彼女は祝辞を述べた。原稿も見ずに堂々とスピーチし、国内外に感動を与えた。それを報じた本紙サイトの記事には「いいね」が2500以上も押された。
 さらにブラジル日本移民史料館の9階では、御在位30年特別展が開催され、両陛下のブラジルご訪問が写真パネルで展示された。
 史料館は、78年6月18日の移民の日に皇太子同妃両殿下(当時、現上皇・上皇后両陛下)のご臨席のもとで開館。移民百周年の08年には、当時進められていたアーカイブ・プロジェクトに対して御下賜金が下賜された経緯がある。

第4位=日本人歌手が続々来伯!
 今年は日本の歌手の来伯公演が特別に多い年だった。
 移民の日に合わせ、6月16日に行われた演歌歌手・三山ひろしのコンサートには、2回公演とも文協大講堂を埋め尽くす2400人が来場。特技のけん玉の披露や「よさこい鳴子踊り」を高知県人会の青年部の踊りと共に歌い盛り上がりを見せた。
 8月3、4日の聖市おきなわ祭りでは、バンド「ザ・ブーム」のボーカリストとして有名な宮沢和史が特別出演。日系社会でも愛唱されている『島唄』や『風になりたい』、沖縄民謡など8曲を熱唱した。
10月6日には、北島三郎の弟子である北山たけしが単独公演を行った。2千人が文協大講堂を訪れ、津軽三味線の演奏と合わせた歌を披露。さらに華麗な剣舞や尺八、大太鼓などの演奏で会場を沸かせた。
 11月8日には、沖縄県うるま市出身のバンド・HYが初来伯。20代、30代を中心とした若者や沖縄県所縁の高齢者が公演に訪れ、会場一体となり歌って踊る特別なショーとなった。

第5位=韓国文化院で竹島問題展示
 日韓関係が緊迫する年だっただけに、今年8月4日にサンパウロ市パウリスタ大通りに移設オープンした、韓国の現代文化を発信する広報施設「韓国文化院」の動きは日系社会の注目を集めた。
 特に日系社会に激震が走ったのは、今年後半の10月に「竹島は韓国の領土」という内容が展示されたことだ。2つのパネルと1つの映像で構成され、竹島が韓国の領土であることはポ語で強調されている。
 これに在サンパウロ日本国総領事館の楠彰首席領事は、「韓国文化院と韓国総領事館に抗議した」と対応、今後も断固として反対する方針だ。
 読者から反響も大きかった他、日本の新聞でも報道され、更に韓国のテレビや当地の韓国コミュニティ紙でもこのニュースは取り上げられた。

第6位=日本語教育推進法案が成立
 日本国内で暮らす外国人を主な対象として日本語教育を推進するための『日本語教育推進法』が、6月21日に日本の国会で成立した。
 この法案のために、ブラジル日本語センターの日下野良武理事長は昨年から3回訪日し、関係者に根回しを行った。その結果、この法案には海外日系社会の日本語教育支援も盛り込まれ、今後の日本政府の支援が期待されている。
 この法案成立に先立ち、同センターに日本語教育関係者らが集まり、意見交換会を行っていた。日本語教師育成の資金援助や安い給料の改善、専門家の派遣など、幅広い要望が集まった。
 法案施行後、ブラジルの日本語業界にも大きな好影響が期待される。

第7位=首里城再建に募金開始
 日本時間の10月31日未明に、沖縄県那覇市では大規模火災により首里城が焼失した。世界中のウチナーンチュが悲痛な叫びを上げる中、ブラジル沖縄県人会は翌日から義援金集めの検討を始めた。
 12月8日には、再建への寄付を呼びかける芸能イベント「ちばりよーうちなー ~皆で首里城の再建を~」を開催。来場者は約700人、約300人の演者が参加した。
 第2部では、ブラジル琉球舞踊玉城流扇寿会代表の斉藤悟さんが作り上げた、首里城をテーマとした創作歌舞劇を上演。寄付金は入場料だけで約5万レアルとなり、日系社会屈指のマンモス県人会の底力を見せた。寄付は来年2月10日まで受け付けている。

第8位=アメリカ杯、若き侍躍動!
 サッカー南米選手権(コパ・アメリカ)が6、7月に伯国で開催され、地元ブラジルが優勝した。日本代表も招待国枠で参戦し、若き「サムライ」が大健闘を見せた。
 日本代表はチリには大敗ながらも強豪ウルグアイ、エクアドルと引き分け、決勝トーナメント進出こそかなわなかったが一定の力を示した。
 日本からも代表チームサポーターがスタジアムに駆け付けたほか、聖市のジャパン・ハウスでもパブリックビューイング(試合生中継応援イベント)を開催。日系人、ブラジル人も青のユニフォームに身を包み、試合展開に一喜一憂、ピッチの選手に熱い声援を送った。
 スペインの名門クラブ、レアル・マドリードへの移籍が決まり、注目を集める久保建英選手(くぼ・たけふさ)らが奮戦を見せた若き日本代表。来年の東京オリンピック・パラリンピックでの活躍に期待が高まるとともに、日伯対決も見たいところだ。

第9位=多数の日系団体が節目
 今年はサンパウロ日伯援護協会(与儀上原昭雄会長)の創立60周年、ブラジル北海道文化福祉協会(大沼宣信会長)の道人移住100周年・協会創立80周年など、多くの日系団体が節目を迎えた一年だった。
 他にサンタクルス病院(石川レナト理事長)が開院80周年、ブラジル宮崎県人会(竹下達也会長)が創立70周年、ブラジル和歌山県人会(谷口ジョゼー眞一郎会長)と在ブラジル青森県人会(名和渋川幸子マリア会長)が創立65周年、在ブラジル長野県人会(篠原オラシオ裕之会長)が創立60周年、大阪市とサンパウロ市の姉妹都市協定締結50周年も。
 さらに曹洞宗両大本山南米別院佛心寺(采川道昭住職)が同寺の創立及び南アメリカ国際布教総監部開設60周年、世界救世教ブラジル宣教本部(宮道マルコ・レゼンデ本部長)も宣教本部竣工50周年を迎えた。
 節目を盛大に祝うことで団体内の士気を高めるとともに、日本から慶祝団を迎え、日伯交流の深化につながる機会にもなる。今回節目を迎えた団体が、今後一層発展することを願うばかり。

第10位=JRパス問題が再燃
 来年末をもって海外在住日本国籍者が利用できなくなることで、問題が再燃している「ジャパン・レール・パス(以下、JRパス)」。2017年に世界の在外邦人の切実な願いが届き、一度は期限が延長された。だがその期限が来年末に迫り、日系社会から批判の声が高まっている。
 現在の利用資格はJRグループによれば「日本国の旅券及び『在留期間が10年以上であることを確認できる書類で、在外公館で取得したもの等』を有する方」だが、21年からは「日本に短期滞在する外国人の方」に限定されている。
 サンパウロ市在住者からは、「夫婦で国籍が違うから困る」、「日本は観光業を振興しているのに、在外永住者が利用できないのは何故か」などの意見が上がっており、今後も抗議の声が上がると予想されている。

番外編=平野運平胸像、再設置後また盗まれる
 サンパウロ市カンブシ区エスタード大通り沿いの平野運平広場に建てられた同氏胸像が、「再び」盗難に遭った。
 広場の平野像は、平野植民地入植60周年(1975年)を記念して建立。しかし昨年10月に盗まれていたことが分かった。
 平野農村文化体育協会(山下薫ファビオ会長)とブラジル静岡県人会(原永門会長)は平野像の再設置に乗り出し、今年6月に平野 氏の没後100年を記念し、再び広場に設置。6月2日の除幕式には、平野植民地周辺の在住者もバスを借り切って駆けつけ、約90人で盛大に祝った。
 それが11月に入り、再び盗まれていることが判明した。
 平野氏は通訳5人男の一人として渡伯。笠戸丸移民62家族232人を引率してグァタパラ耕地で働き、コーヒー農園の賃労働では目標の稼ぎを得られないとし、日本人移住の初期に植民地開拓に乗り出した。日本移民の基礎を築いた人物の像が、再三にわたり盗まれたことに、平野植民地関係者らを中心に、悲しみの声が寄せられている。


藤瀬圭子プロ・INB=第25回ブラジル紅白歌合戦=紅組が11回目の優勝決める!=コロニア歌手が次々に名曲披露=藤瀬さん「日本の言葉と歌残したい」 ニッケイ新聞WEB版より

歌手と観客で会場が一体となって『蛍の光』を合唱し、紅白は幕を閉じた

 コロニアの一年を締めくくる歌謡祭「ブラジル紅白歌合戦」――藤瀬圭子プロダクション(藤瀬圭子代表)とブラジル日本アマチュア歌謡連盟(Instituto NAK do Brasil=INB / 北川ジューリア好美会長)は、「第25回ブラジル紅白歌合戦」を12月1日にサンパウロ市のブラジル日本文化福祉協会大講堂で開催した。企画、構成、演出は同プロダクション。コロニア歌手が数々の名曲を熱唱し、会場に歌声と拍手喝采が響きわたった。厳正な審査の結果、紅組が11回目の優勝に輝いた。

 当日は、舞台で熱唱する60組以上の歌手を、日系団体代表者ら約30人が審査し、紅組が優勝に輝いた。NHK寄贈の栄えある優勝旗とINBによるそれの2つが、北川INB会長から紅組代表に手渡された。対する白組の成績はこれまで13勝、1引き分けだ。
 全プログラム中で最高得点を獲得した歌手に贈られる「審査員最優秀賞(土本真澄賞)」には、母への思いが込められた『瞼の母』を股旅姿で披露した加藤テレザさんが選ばれた。

 当日は約1200人が来場し、歌手と観客の掛け合いや、「頑張れ!」「ブラボー!」と客席から歌手への声援も飛び、雰囲気をもりあげた。
 総合司会を藤瀬さん、紅組司会を田代勇子さんと西村まゆみさん、白組司会を高畑正二さんと川本豊さんが務め、藤瀬さんの歯切れ良く軽快な進行で、会場は終始笑いと感動に包まれた。

特別企画の豪華2本立て

援協創立60周年記念企画も行われた(前列左から足立弘子さん、足立操援協事務局長、菊地義治評議員会会長、与儀上原昭雄会長)

 サンパウロ日伯援護協会創立60周年を記念した特別企画「援協60年を省みて」、紅白歌合戦開催25回目を記念した北川朗久INB名誉会長考案の新企画「デュエットで競う紅白歌合戦」も実施された。
 援協の企画では、与儀上原昭雄援協会長、菊地義治評議員会会長、足立操事務局長と弘子夫人が登壇。援協のこれまでの歩みを振り返った。

 与儀会長は「援協は日系社会の大きな支援で成長してきた。今後も未来に向けて、皆さんの力を借りながら頑張っていきたい」と謝意を示した。
 1971、73年に日本の有名歌手・俳優14人が来伯し、援協主催でサンパウロ州・市や日系社会の福祉団体が協力して、日伯両国の福祉団体への慈善事業として「あゆみの箱チャリティショー」が開催された。
 高畑正二さん、早藤アレシャンドレさん、喜納光枝さん、栗本紀子さんが春日八郎、渡辺はま子らの名曲を披露。当時の熱気を思い出させた。援協からも感謝の意を表し、弘子さんが『瀬戸の花嫁』を朗々と歌った。
 89年には援協創立40周年を記念し、島津亜矢来伯慈善公演が行われ、収益が援協に寄付されたことにちなみ、桧垣サンドラさんが島津亜矢の『感謝状・母へのメッセージ』を歌い上げ、会場を盛り上げた。

 病気療養のため欠席した北川朗久INB名誉会長に向けて、出演者一同の思いを込めた花束が、藤瀬さんから北川INB会長に贈られた。足立弘子さんにも出演を感謝する花束が手渡された。
 デュエットの紅白戦では、紅白計6組の歌手による豪華共演に観客は聞き入った。
 平田ジョエさんと伊藤カレンさんが特別出演する歌謡ショーも行われ、セリーヌ・ディオンの代表曲『To Love You More』を平田さんがポ語、伊藤さんが日本語で見事に歌い上げた。
 野口泰在聖日本国総領事も登壇し、中島みゆきの『糸』を熱唱した。
 藤間流日本舞踊学校からも特別出演があり、優雅な舞いが観客の視線を集めた。

藤瀬さん「歌手、来場者に楽しんでもらえて良かった」

藤瀬圭子さんの司会進行で紅白を盛り上げた

 藤瀬さんは「日本の言葉と歌を残していきたい」と、紅白の全編を日本語で行うことにこだわっており、終演後は「今回も多くの歌手、来場者で楽しんでもらえて良かった」と一日を振り返った。
 菊地援協評議員会会長は「紅白が毎年続いていることは素晴らしい。歌は人々を嬉しくも寂しくもする。心に豊かさをもたらし、ひいては日系社会を元気にする」と紅白の意義を述べた。
 INBで歌唱を習い、「今日は先輩方の歌声を聞きに来た」という佐久間淑子さん(85、岐阜県)は、「懐かしい名曲ばかりで、思い出がよみがえり涙が出た」と感動を語った。
 開催にあたっては、援協への食料品の寄付が呼びかけられた。当日来場者が持参した米、パスタ麺などが藤瀬さん、北川INB会長らから、菊地援協評議員会会長らに贈られた。

第40回バーチャル座談会『新春放談、行く年来る年2019ー2020』その5

https://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=1954

丸木さんから始まったその5は、日本空軍?の話から後半6000字は、日産とゴーンさんの関連問題を中心に経営者の指針が如何に企業の管理運営に影響するか?カネボウ、山一証券、古谷さんの兼松江商社長迄飛び出し商談議が賑わいました。例年と違った雰囲気のバーチャル座談会が展開していますが、これも良いでしょう。新年の5日まで継続しますのでまだご発言の無い方は、そろそろ声を出して下さい。お待ちしています。写真は、当たり年だったトロントの斎藤さんの5回目ホールインワン、81歳のエイージシュート、クラブチャンピオンの3冠を収め爺の会ホームページ30万回をクリアーされた得意顔の斎藤さんの写真を残して置く事にしました。

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丸木で~す ブラジルの現政権は汚職禁止と言う前任未踏の成果をあげてるのは立派ですが、地球の裏の祖国日本では内閣府の副大臣が中国の博打屋から賄賂を貰ってたそうです。気をつけないと、裏ではブラジルにも中国の触手が既に入り込んでるかも。いよいよ、アメリカのCIAがイラン政府の転覆に動き出した様で、大統領も休暇先のフロリダの別荘から叩き起こされホワイトハウスにUターンするでしょうね。激動の世界に明け暮れる年末年始はホロ酔い気分が覚める令和2年になりそうです。

和田:丸木さんまたまたその5のトップバッターになりましたね。年内にリリーズされると思いますので暫くお待ちください。国際社会は、暗雲漂う令和2年になりそうですが元旦が誕生日の丸木さんに2日が誕生日の私も80歳になります。もう少しは、生かされているのでしょうかね。生かされている間は、ホームページとBLOGでも更改してALLSERVERで皆さんに流すことにします。先ずは、バーチャル座談会ですね。良きお年をお迎え下さい。

丸木で~す 韓国人のやってる和食レストランの個室に下記のレコードが壁に飾ってありました。日本には陸軍航空隊と海軍航空隊がありましたが、空軍はなかったと思います。それにしても、朝鮮人に日本の軍歌の好きな人が居るとは驚きです。

木村: 丸木さま、 韓国人の和食レストランはトロントにあるのですね。本国の韓国 で日本軍の写真など店に掲げようものなら袋たたきにあうでしょう。韓国人で軍歌が好きな人がいるんですね。驚きです。
丸木さんの言われる様に大日本帝国空軍はありませんでした。
チョット調べてみました。陸軍と海軍で「空軍は?」と思った人がいるだろう。戦闘機はあったけど、当時は空軍は存在せず、飛行機は陸軍か海軍に所属していた。
戦前の日本に軍種としての独立空軍は存在しなかったが、陸海軍が保有する航空戦力を指して日本空軍ということはあった。
大日本帝国陸軍飛行戦隊(ひこうせんたい、飛行戰隊)は、陸軍航空部隊こと大日本帝国陸軍の航空部隊における部隊編制単位の一つ。通称は戦隊。陸軍航空部隊(ほかに陸軍航空隊・陸空軍・空軍・陸鷲とも呼称)において中核となる実戦部隊編制単位であった。
「飛行戦隊」はあくまで「陸軍航空部隊」において基本となった「編制単位」であり、「陸軍航空部隊」自体にはほかにも独立飛行中隊といった
各「飛行部隊」が多数存在している。そのため、「帝国陸軍の航空戦力自体」を指し示す場合は「陸軍航空部隊」と呼称することが適当となる。

丸木で~す 日本空軍の解説有難く拝読しました。トロントでの第1回の懐かしのメロディーに際し「空の神兵」の裏話を僕か書き、アツコさんが朗読され昇ちゃんが唄ってくれました。後で昇ちゃんがカナダ人に怒られたと言ってました。そう言えばここは旧敵国なのだから、反日思想の人が居るのですね。昭和17年1月に帝国海軍落下傘部隊がセレベス島に降下し、同年2月には帝国陸軍落下傘部隊がスマトラ島パレンバンに降下し、シェル石油施設占領に成功しました。日本のおかげでインドネシアはオランダの圧制から解放され独立を果たしたので、国旗は白地に赤く日本に謝意を表し年号も皇紀を採用してます。年が明ければ皇紀2680年になります。古代インドネシアには空から神様が降臨し民を救う神話があるそうで、日本の落下傘部隊がその正夢です。独立五十周年にはセレベスに落下傘部隊長の記念碑が建立されてます。

広橋です 今日、日本の常識ある方達のYouTubeを見ていますが、日本の現状は酷いですね。
こんな偉い方達も大きな観点がなく、天皇制反対、反日、安倍落ちろ!、Etc's、Etc's・・・、等の案件に、細かく文句を長々と発言していますが、底に流れる、中国マネー、裏工作、が日本を侵食していると確信的な事を言わない(知らない?)のが残念です。これで、10年後、20年後、50年後、100年後日本は大丈夫なのでしょうか?2020年(令和2年)から、在日(中華も)の工作に占領されたメディア界、弁護士界、教育界、政界、防衛(隊員に中国系の可愛い嫁が猛スピードで増えている)を何とか取り戻してもらいたいと願います。鈍感(無頓着)な日本人達に心配しています。  遠いブラジルからだと、良く見えるのかな・・・・。

松栄:広橋さん 皆さん 広橋さん、言われる通りですね。
今、考えることが・・・ 我々以上の世代で、思うことですね。
思うのですが、自分では感じていないのですが、我々が昨日のように思っていることが、もう30年前だったり、50年も前のことだったりして、・・・自分の思いが、時代が、時間の前後全てが完全に混ざってしまって・・・
それが年を取る、ということなのかな、と最近 思います。
自分は若いつもりでも、もう60だったり、70を超えていたり80をすぎてしまったり、砂古さんでは90歳ですか。凄い!
しかしそれぞれのそんな 今 を思う感情は、みな同じようなものかな、ということですね。
自分の気持ちは、若い者と変わらない、と思っているのがこの我々世代かもしれません。これは古今東西、みな同じ、のような気がします。今頃の若い者は・・・、というのが共通語、みたいになっている。それで構わない、と思うわけですね・・・これが年とった証拠かもしれませんが。
しかし、確実に言えることは、戦争を経験された先輩方と、その経験がない世代(我々)では、まったく思いが違う、ように思います。そういう意味では、私のここ10年の思いは、日本にも徴兵を復活させた方が良いかもしれない、という思いです。
ここ10年で3回、複数犯の拳銃強盗に遭遇して、私自身の人生観が変ったんです。目の前(頭)に拳銃を突き付けられて、撃たれたらこれで人生終わる、という思いの、理屈を超えた恐怖心を味わうことがどれほどのものか、・・・それでも何とか助かっていますが。
軍隊と警察の違いは、ここにあるのかもしれません、軍隊に入る、ということは自分の命を投げ出す教育を受けるわけですから、戦前の軍隊と警察の違い、はそこにあって、軍人は別格だった、と思います。
戦時中、東南アジアでは、捕虜にした日本人を、軍人と一般人に完全に分けていた、軍人というのは命を捨てているので、本当の危険な存在で、アメリカ人も捕虜になった日本軍人に、恐怖心まで抱いていたという話があります。そういう環境に置かれる(安全という前提で)ことで、今の青年の考える深さが違ってくる、と思います。
今後10年、20年…50年後は日本はどうなっているのか、を考えたら今、気が付けば、今対処して、何とか良い方向に日本が進めるようにしなけれなならない、と思います。
そんなことを、早く日本に住んでいる日本人が気付いてほしいと思うのですが・・・
サンパウロを走っているイルミネーションバスの映像がこんな文章になってしまいました。皆様、ご容赦ください。
広橋さん、この問題、なかなか難しそうですね。

松栄:ネットの皆様 私たちの50年の皆様
年末の忙しい折、先日23日から休養にはいったところ逆に疲れが出たのか、何もする気力が減退してしまいかなり厳しい状況になりました。
それで、グダグダしながら、以前に記録していたニュース、評論が溜まっているので、少しづつ みていたら・・・
また日産を押し出されたカルロスゴーンさんの記事が目に入って読んでみたら、今の日産さんの状況が、20年前と酷似している
という事に気が付いたのです。
惜しくてならないのは、ゴーンさんが去ってなくて、現在も指揮をとっていたら、20年前と同じことをやったのではないか、と思います。
この短い文章ですが、これをやれるのはゴーンさん以外では、今の日本でも難しいと思います。
あれだけ短期間で世界中を飛び回っていた、と同じことをカリスマをもってやり切れる日本人がいるのか、と思いました。
ゴーンさんという貴重な人材を、押し出してしまった、という事が残念です。そんな20年前の回顧ニュースを下に添付させていただきます。
ゴーンさん、日産を立て直してから10年もしたら、会社を去ればよかったと思いますが、タラ はダメですね。
そして、人間の欲望など、足るを知らなければ、際限がなくなってしまうという仏教用語の証明かもしれませんね。
そんな事件だった、と思って読んでいました。
カルロス・ゴーンが日産を復活させた7つの方策まとめ
 日産は、我が国第2の自動車メーカーであり、1970年代初期には市場シェア33%を握っていた。トヨタに肉薄していたが、官僚主義的な企業風土と社内派閥の対立により経営は混乱し、次第に市場シェアを失っていた。
 バブル崩壊後の不況で日産の売上は1992年をピークに下がり始め、収益は悪化した。日産は、カルロス・ゴーンを斬った日産自動車「3人の侍」
・1992年、560億円の損失
・1993年、870億円の損失
・1994年、1660億円の損失
・1995年、880億円の損失
 を計上することになった。1996年には、一旦770億円の利益を計上したが、1997年から140億円、1998年には280億円の損失を計上し、再建の手がかりが見えない状況に陥っていた。
 メインバンクの富士、興銀の2行も、不良債権問題のため日産を支援する余裕はなく、海外の提携先との交渉を始めた。フォード、ダイムラー・クライスラーとの交渉が不調に終わった後、ルノーが提携相手に浮上し合意に至ったのであった。
 1999年3月、ルノーのCEOルイ・シュバイツァーは日産の再建を任せる人物として、当時45歳の上級副社長カルロス・ゴーンに白羽の矢を立てた。
 ゴーンは着任すると、あらゆる階層の従業員100人と対話を行った。取締役は以前の43名から9名へと削減され、そのうち3名はルノーから派遣された者となった。
 ゴーンは、事業の発展、購買、製造・物流、研究開発等の課題を検討するため、9つのクロスファンクショナル・チーム(CFT、部門をまたがるチームという意味)を組成した。メンバーは、異なる専門分野を持ち、十分な実績を兼ね備えたミドルマネジャーが選ばれた。
 CFTは3か月の検討を経て、400を超える提言を行った。これをベースとして出来上がったのが、日産リバイバル・プラン(NRP)である。ゴーンは、10月18日、東京モーターショー会期の前日にNRPを発表した。
 その内容は、2002年までに1兆円のコスト削減を行うとともに、負債を50%削減するという、きわめて大胆なものだった。ゴーンは、さらに2000年までに黒字を回復すること、2002年までに売上高営業利益率を4.5%にすることも約束した。
 ゴーンは、NRPをすぐさま実行に移す。ここが旧来の日産の経営陣と決定的に違うところだった。NRPの中で世間を最も驚かせたのが、購買コストの20%削減、サプライヤー数の50%削減であった。
 ゴーンは、購買コストの中で大きな比率を占める鉄鋼から進めるように指示を出した。これまで同じ芙蓉グループに属するということから、日産の鉄鋼のメインサプライヤーとなっていた日本鋼管(鉄鋼業界3位)は、購買量を大幅に削減されることになり、経営の屋台骨が揺らぐことになった。ついには、業界2位の川崎製鉄との合併を余儀なくされる。
 それ以外の分野の1100社以上のサプライヤーも、1社ごとに厳格な査定を受けることになった。系列企業に割り当てられていた発注も競争入札で調達されるようになった。こうして系列も解体されていくことになる。1999年6月時点で日産の系列企業は、67社あったが、それを25社まで減らすこととなった。
 メインバンクやサプライヤーとの株式持ち合いは1400社間で行われていたが、これも解消することとなった。2002年までに売却益として3000億円を計上した。ゴーンは、保有不動産も売却し2000億円の資金を得た。
 次に行ったのが、工場の閉鎖である。NRPによれば、3年間で国内の生産能力の30%、コスト300億円を削減することになっており、そのためには4000名以上の従業員を抱える5つの工場を閉鎖する必要があった。
 数年前の工場閉鎖で、日産では労組との大トラブルとなったことから、ゴーンは労働組合の幹部と面談し、閉鎖した工場の仕事は存続させる他の工場で引き継ぐ見込みであること、異動を希望する社員には仕事を保証するという条件で支援を要請した。
 結果的に、2001年3月までに3工場を閉鎖し、それから1年後に2工場を閉鎖することができ、異動を希望しなかった社員の18%は会社を去っていった。
 第3に行ったのが、販売組織の再編だ。全世界の販売組織が士気の低下に直面しており、その傾向は特に日本とアメリカで顕著であった。アメリカでは、日産車を売るためには、トヨタやホンダと比べて1000ドルの値引きが必要であると言われ、ディーラーの70%は赤字であったという。
 ゴーンは、国内では小規模な店舗を大規模店舗に統合し、そこに大規模な改装投資を行った。また、地域単位でバックオフィスを統合し、コスト削減を図った。ゴーンは、各ディーラーに年間のコミットメントとターゲットを与え、ディーラーの業績を事細かに監視するようにした。
 第4の施策は、グローバル組織の新設だった。6名のプログラム・ディレクターを任命し、各ディレクターはサイズや性質によって分類されたプラットフォームの一つ又は複数を担当した。彼らは自分の管理する車種について明確な利益責任を持たされた。
 さらに、ゴーンはグローバル事業展開を強化するため、グローバル日産という統括組織を作り、あらゆる地域、ファンクションから適切な情報やアイデアを収集できる体制を作った。
 第5に、商品開発力の強化を図り、2004年までに28の新モデルを市場投入すると発表した。グローバル化とともに、新製品開発にも、アメリカやヨーロッパからのインプットを重視するように変更した。また、国際的に有名なカーデザイナーの中村史郎をデザイン本部長として迎え、日産が特に劣っていたデザイン力の強化を図った。
 第6に、ゴーンは人事制度の改革を行った。年功序列と終身雇用を廃し、成果主義を導入した。コミットメントという概念を導入し、報酬と昇進はこのコミットメントの成果に連動させることにした。
 また、ターゲット目標を設定し、これを達成したマネジャーには年収の3分の1にも及ぶ報奨金を出すようにした。上位数百人のマネジャーにはストック・オプションも導入した。こうして年齢が若くても、能力と実績があれば、重要なポストへと昇進できるようにした。実際に任命された常務のうち何名かは40代だった。
 最後に、ルノーとの提携強化を図った。両社の間でグローバル・アライアンス・コミッティを創設し、その下に11のクロスカンパニー・チームを作った。製品企画、パワートレイン、車両エンジニアリング、購買、生産、ロジスティックスといった分野でシナジー効果を追求した。
 この成果は目覚ましく、2002年夏までに日産とルノーは部品の30%を共通のサプライヤーから調達するようになった。共同購買をさらに進めるために、両社は折半出資の購買組織を設立した。
 こうして2000年には6840億円の損失を計上していた日産が、翌2001年には3310億円の利益を出し、2002年には3720億円の利益を出すところまで立ち直った。日産は、ルノーとカルロス・ゴーンの力を借りて、瀕死の状態から瞬く間に再生したのである。
 以上、植田統氏の近刊『日米ビジネス30年史』(光文社)をもとに再構成しました。 この30年で日米のビジネスは完全に逆転してしまいました。その原因を明らかにします。

丸木で~す  終わり良ければすべて良し。終わりが悪過ぎます。

村さん: 松栄さん、丸木さん、真に正論です、確かに日産を復興させました、戦前生まれの年代の日本人の社長には2万人いやそれ以上の関連会社や下請けのリストラを決行できる薄情さのあるリーダーはいません、欧米企業では株主への還元ができない社長や役員は即クビとなり、平気でリストラが行われます、昔のように労組の強力な大手企業でも愛社精神を持っており経営陣との折衝では何とか乗り越えて来ています、日産もルノーに借りを作った為ゴーンがやって来てまさかあれ程のリストラや大改革をするとは思っていなかったでしょう、従業員も労組も愛社精神を失った事でしょう。
 ゴーンは友人のヤンキーを連れて来て一人味を占め懐を肥しやりたい放題、そしてとうとうバレて犯罪行為にまで達した事で日産を追われることになる、今日本でも若い経営者は投資ファンドが強力になり、欧米並みの企業形態に変化した事で昔流の愛社精神を持った企業リーダーが少なくなりトップの交代が即行われるように変化して居る、良いことか悪い事なのか全ては”金”で計算されて居るようで寂しさを覚える。

丸木で~す  ご指摘の通りです。東芝でも石坂さんは第一生命から、土光さんは石川島重工から来られた外部の人だから大改革出来たので、生え抜きの我々にはとても仲間の首切りは出来ないと東芝生え抜きの上司が言ってました。日本の社会の悪い面でもあり良い面でもあります。そうは言っても、世の中の進展について行けなくなれば生きていけない時代になって来てるのは間違い無い様ですね。

松栄: 丸木さーん 村松さーん   ありがとうございます。
私の知らない日本の近代経営者の原点、というのか日本人本来の社会文化、というか経営者の思い、というのでしょうか・・・わかるような気がします。ありがとうございます。
企業が存続する、ということの大変さを感じさせられています。
企業は、誰かが創始した仕事を、その他の人が集まって、その仕事を拡大生産してゆき、永続していって、仕事に関わる人たちの生活を維持してゆく組織、、ではないでしょうか。
その組織の運営は、やはりその企業のトップになった(なれた)人が方向性を決めてゆく、のが基本ですね。
そんな仕事が、その方向性や、外部からの影響によって危うくなる、ことは常に考えっれることだろうと思います。
ですから、企業トップ、というのは絶対的に時代、社会、状況に適合していなければ、どこかに齟齬が発生して、おかしくなるものと思います。
上手くゆけば儲けが上がり、拡大成長してゆきますが、方向性が間違っていれば、縮小して破綻してしまう、ということだろうと思います。トップがどちらの道を選ぶか、で決まってゆくのだろうと思います。
日産の場合もバブルで膨張して、その後バブルが消えて経済が縮小してモノが売れなくなったが、バブル期の社員、施設、その他すべてが残ってしまって、人件費、運営費だけが残って、生産すればするほど赤字になる組織だけが残ってしまった。
ほっといたら破綻する、という予想がついて、赤字がかさんで日本文化的考え方を維持しても、会社が永続できない、ということが分かってきてゴーンさんの登場になったと思います。
当時同じような問題を抱えたのがカネボーさんだった、という記述を読んだ覚えがあります。カネボーさんには、ゴーンさん的人物が現れなかったようで、破綻したのだそうです。
成程、ゴーンさんは10万人社員の半分を切ったのかもしれませんが半分は日産の仕事を続けられて、10年たったらまた元の規模の企業に戻れた、という観点もある、と思います。
カネボーは社員全てが、失業したか新しい企業に移っていったのではないでしょうか。
これは企業を考えるうえで、仕方のない事ではないか、と思うのですが。私は、半分の社員になっても企業を何とか盛り上げてゆく、という考え方の方が合理的ではないか、と考える次第です。
山一証券のように、トップがテレビの映像で慟哭したり、あの時代いろいろの事件がありましたが、企業トップ、というのはそういうものだろうと思います。
自分が適任ではない、とか、手に負えないと思えばすぐに手を引く勇気も必要と思います。それは、毎日経営状況を見てれば、わかるはずだ、とも思います。
このことは、昔から現在でも変わっていない、と思うのですが・・・如何でしょうか。
生意気なことを先輩に言ってしまって申し訳ありません。
そんなことは、わかっている、と言われそうで・・・
ちょっと逡巡しています。

古谷:松栄さん 貴信を拝読して、私が勤めていた会社の社長の言葉を思い出しました。
社長曰く、「同じ経営方針を三十年も続けていると、会社は間違いなく、潰れる」と。「決算は、半期毎に締めるが、業績を半期毎に問うのは酷としても、02-03年の単位で業績を問えば、それが市況に依るものか、経営手法に依るものかは、判然とする。後者の場合、その時点で然るべき手を打てば、業績の悪化は防げる。待っては駄目だ。経営も攻めるのだ」と。社の経営がおかしくなったので、請われて社長を職を引き受けたのですが、見事03年で業容を改善し惜しまれて社を去りました。
その社長、某大手商社の将来を嘱望された逸材でしたが、戦後のレッド・パージで爪弾きされ、私の勤め先に派遣されました。中南米に出張で来られた時に道中をお供しましたが、五尺三寸の小兵ながら、取引先の六尺を超す毛唐に面しても、眼光鋭く相手を威圧していて、六尺が五尺三寸に辞を低くしていたのには驚きました。人にはそれなりの器があるものだと感じた次第でした。
お供道中の終わりに、社長、私に礼を述べて曰く、「フルタニ君、君は未だ若い、精々本を読み給え」と。余り、本を読んでいませんが、この言葉が未だ耳朶から離れません。

和田: 松栄さん、丸木さん、村さん、古谷さん 皆さん! 日産とゴーンさんの関係を中心としたカネボウ、山一証券、兼松江商まで飛び出す、年末の商談議尽きませんね。またまた9000字突破、その5を終了させて頂きます。皆さんの参加を感謝します。まだまだ続きそうですので宜しくお願いします。


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