私たちの50年!!

1962年5月11日サントス着のあるぜんちな丸第12次航で着伯。681名の同船者の移住先国への定着の過程を戦後移住の歴史の一部として残して置く事を目的とした私たちの40年!!と云うホームページを開設してい居りその関連BLOGとして位置付けている。

2020年01月

一笑一若・メキシコ小話「家には時計がない…」 富田さんからのお便りです。

   和田さん&W50年の皆さん、お元気ですか?今週は一笑一若・メキシコ小話「家には時計がない」をお送りします。数年前、メキシコの世界遺産・サンミゲル・アジェンデの郊外のホテルに泊まったところ、明け方「コケコッコー」の鳴き声で目を覚ましたことがありました。今日の小話の主役のカウボーイは「家には時計がない」ので、コケコッコーを時計代わりにしています。そんな時代遅れの大男の大活劇(?)が傑作ですよ。ご用とお急ぎでないお方は下記のブログをお訪ねのうえ、一笑一若・メキシコ小話「家には時計がない」をE N J O Y !!!

(http://iron3919.livedoor.blog/archives/5666906.html)


富田眞三

  Shinzo Tomita

メキシコ小話OK

              「家には時計がない…」
chickasawcountry.com

                   写真:(www.ktvq.com)

【蛇足的まえがき】
 5年前、息子と二人でデイビー・クロケットの住んだ3軒の家をめぐって、テネシーの田舎を旅したときのことだった。博物館になっているクロケットの最後の住まいはクリスマス休暇なのか、無人だった。息子が市役所に掛け合ってくれたところ、近くの中学校の用務員さんが合いカギで博物館を開けてくれた。しっかり見学した後、彼にカメラを渡して写真を撮ってくれと頼むと、「カメラを手にしたことはない」と言う。そこで、携帯を渡して、これで撮ってくれと頼むと、「使い方を知らない」と言って断られてしまい、米国にもこんな人がいるのか、と驚いたことがあった。
従って、メキシコのカウボーイの家に時計がない、ことは十分にあり得るのである。米国でも、メキシコでもカウボーイは最早絶滅品種的職業だが、牧畜には必要不可欠な職種である。なぜなら、彼らの一番大事な任務は、生まれて直ぐ放牧される、子牛たちに「水飲み場」の位置を教えることなのである。こればかりは、機械には任せられないからだ。ところで、この小話の主人公はアメリカ人だと思えてきた。メキシコではアメリカ人には不潔でバカが多い、というのが通説になっているほどなので、この小話は一種のアメリカ人への「ヘイトスピーチ」かも知れない。でも、こんな風に憂さを晴らすのも面白いやり方ですなぁ。何しろメキシコ人は常にJokeでバカにされていますからね。(以上)

              メキシコ小話「家には時計がない…」

 具合の悪い妻を医院に連れていった大男のカウボーイに、医師は薬の使用法を指示した。
「いいかい、この丸薬と座薬は、決まった時間に間違いなく奥さんに与えて下さいね。」

「先生、家には時計はないのですが…。」とカウボーイは言った。

「問題ないですよ。明け方鶏が鳴いたら、丸薬をのませなさい。座薬は牛乳配達が来たら、肛門に入れて下さい。」と医師は指示した。

翌日、医師は訪ねてきたカウボーイに「私が言った通りにしましたか?」と訊いた。

カウボーイは「はい、先生。雄鶏に丸薬を飲ませるのは少し手間取りましたが、問題なかったです。
ですが、牛乳配達に座薬を入れる時は大騒動になりました。止むを得ず彼を縛りつけて、無理やり座薬を入れざるを得ませんでしたよ。」と答えた。

お後がよろしいようで…。



≪Nova Odessaの珍しい植物園=続き≫ 砂古さんからのお便りです。


写真を追加します。一枚の後ろには白いススキが見えます。傍で
見ると薄桃色で、とてもきれいでした。 手前の、穂がススキに似た低い方は葉がもっと濃ゆいエビ茶色で、珍しかったので撮りましたが、色が薄くでました。他にもいろいろ撮ったのですが、動画に間違って

セットしてあったので、揺れが激しく、提供できません。

別信の模造の逆立ち2本脚の股間に男性の厄介なモノがあるの、気づかれましたか?  手前に人体の頭も浮いています。   

奥の邸宅前の広い芝の上には、想像製作と思われる15メートルほどの克明な模様の鱗を描いた、全面赤色の蛇が大きな口を開いてのさばっていました。ご丁寧に蛇の、それらしき呼称名をポルトガル語で書いてありました。

出会うと止まって目を据えて見つめるとその内に退却するが、逃げたり動くと噛みつき、即死を招くと、丁寧な説明と忠告が、大きな白い板に書いてありました。

所有のオーナーは余程チャメケのある人のようです。

広い森林も見学行程に含まれていましたが、僕の脚の能力では不可能で、見送りました。確か、月曜日と火曜日は休園と書いてありました。

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≪Nova Odessaの珍しい植物園≫ 砂古さんからのお便りです。

29日に、長男がカンピーナスより230キロ西のNova Odessaに用事があるついでに

珍しい植物園があるから、一緒に行こうと誘われ、家内と3人でいきました。

広大な、手入れの最高に行き届いた、しかもそれが個人の所有と言うので驚き

でした。パンタナルやアマゾンで見られる大鬼蓮があり、幸い咲くと2日しか

持たない花が咲いていました。この根の部は食べられるので、この植物園のレストランの昼食にスパゲッチに混ぜて出るそうですが、時間が早すぎたので、昼食は街でしました。写真を添付します。


1)一枚は、我々二人が植物園の池の前で、
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2)踊り子の像の下に咲く大鬼蓮の花、
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3)逆立ちする模造の2本脚、
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4)原産Cabo Frioの複雑な幹とびっしりの葉群の下に家内、
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5)shopping choppを飲む私

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《ブラジル》コロナウイルス=国内で9人に感染疑い=高まり迫る感染の脅威=中国滞在者の声拾うマスコミ ニッケイ新聞WEB版より

マンデッタ保健相(Agencia Brasil)

 【既報関連】現在、全世界で猛威を振るっているコロナ・ウイルスに関し、ブラジル保健省が29日の夕方4時に発表したところでは、感染の疑いのある患者は9人に増えた。9人の内訳は、ミナス、リオ、パラナ、セアラー各州で1人ずつ、サンパウロ州で3人、サンタカタリーナ州で2人だ。保健省によると、33人が症状を訴えるも、20人が検査の必要もなくコロナ・ウイルスではないと診断。残る13人の内4人が検査の結果コロナ・ウイルスではないとされ、9人が検査待ちだ。感染の脅威が高まる中、ブラジルのマスコミは懸命に中国滞在者の証言を拾っている。


 ミナス州の女性の場合は、症状は風邪のような状況で安定はしているというが、コロナ・ウイルスと共通した症状があることから、現在、入院中の専門病院で隔離された状況にある。
 南大河州の人物は40歳の英語の教師をしている男性だ。同氏は武漢から1500キロ離れた昆明で普段は生活しており、24日に伯国に帰国。その際に発熱を訴えていた。現在、病院で隔離された状態にある。
 なお、クリチバの人物に関しては、詳細は明らかにされていない。ただし、フォーリャプレス29日配信記事よれば、パラナ州保健局は同日午前付の発表で、「コロナ・ウイルスではなかった」と公式発表した。
 ルイス・エンリケ・マンデッタ保健相は28日、「私たちは、不測の事態にも対応できる計画を持っており、それを更新することもできる」として、コロナ・ウイルスの対応に自信を持っているとの考えを示した。
 同相は「保健省には7千件を超える感染の噂が飛び交い、約120人もの人が検査を希望している」と語り、現在、伯人が同ウイルスに関してかなり神経質になっていることをうかがわせた。
 マンデッタ保健相は当面の予防対策として、「しばらくの間は、できる限り中国への渡航は行なわない方がいい」との見解を示している。
 発生地となった武漢の位置する湖北省には、伯人の一家が70世帯ほどいるとの報道もある。
 G1サイト28日電子版記事では、武漢にマンダリンを勉強に行った学生、エルナンデス・ドス・サントス・ミゲルさん(23)に取材し、「ボクが来たときの喧騒とは別世界。大通りに誰も人がいない。まるで映画に出てくる『世界の終わり』の一場面のようになっている」とのコメントを掲載した。サンパウロ州サンジョゼ・ド・リオ・プレット出身で、4カ月前から大学に留学し、国際学生寮に住む。
 「極力外出しないように指導されている。唯一賑わっているのは病院と市場。ボクも市場に行ったが野菜も水もなかった。中国人の大部分はパニックに陥っており、皆が買い込んでいるようだ」と同サイトの取材に証言した。
 エスタード紙29日付も中国に滞在するブラジル人3人の声を掲載した。その一人、北京在住のデニーゼ・メロさん(25)に「中国に親戚がいるブラジル人の皆さん、パニックにならないで。決して悲劇的な状況ではないから」と語らせて締めくくっている。

『ブラジル戦後移民』 57年の記録  旧ホームページの保存(54)

https://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=1960

昨年は、6月13日に私たちの40年!!あるぜんちな丸同船者寄稿集が540万回アクセスを記録し、109日後の10月1日に縁起の良い5555555回と5が7桁続くキリバンが出て急いでホームページを書き換えました。2020年1月29日夜9時に569万9423回をきろくしており残り577回で570万回を記録する事から1月30日付けでホームページのTOP PAGEの一部を書き換える事にしますので旧ホームページを保存しておく事にしました。丁度4ヵ月、122日で14万4445回のアクセスがあったことになり1日平均1183回のアクセスがあったことになります。この平均回数をキープすると川越しゅくこさんがお祝いの文を用意して呉れる600万回は、253日後の10月10日に達成する事になります。いずれにしても令和2年中に600万回を達成する事は、間違いないと思います。有難いことです。せっせと更新して行く事にしましょう。
2002年5月11日に開設、公開して実に17年8ヵ月が経過、その間、570万回のアクセスを記録、1日平均884回のアクセスがあったことになります。令和2年中に600万回を達成する事になり、お祝いの文を川越しゅくこさんが書いて呉れる事になっており、10月か11月には実現しそうです。
何時も掲載写真に困るのですが、5人の男ばかりの孫がいますが、成長を見守ってやれない1歳と8ヶ月の直樹君と撮った80歳のお爺ちゃんとの写真を残して置く事にします。何時の日かこの写真を見てオジーちゃんを思い出す縁になればと望んでいます。

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『ブラジル戦後移民』 57年の記録
私たち、あるぜんちな丸第12次航(1962年5月11日サントス港下船)の同船者681名は、平成14年5月11日で40年を迎えました。当時のあるぜんちな丸第12次航の船内新聞「さくら」の編集責任者をしていた私と船内ニュース班の仲間として手伝って呉れた編集員が中心になり船内新聞の40年後の特別号、号外の形で戦後移民40年の移住史の一部を皆で書き残そうとの企画が持ち上がり、出来れば印刷、出版もと考えていましたが、時間的な問題、資金面の問題もありせめて寄稿して頂いた貴重な記録、原稿を大事にし、書き物にして後世に残して置きたいとの切なる願いから、当時のガリ版刷りの船内新聞の一部、黄色くなった名簿、懐かしい写真等を文明の利器PCを使い資料のDIGITAL化による保存を考えついた次第です。これらの無形に近い数多くの資料、写真等を我々同船者全員の資産として共有し、後世に残して行く事、民族の移動、移民、移住問題、個人の人生の選択等に関心を寄せる人達、特に海外に夢を馳せる若い人達に読んで頂ければとの気持ちでこのホームページを開設しました。 

平成14年5月にこのHPを正式公開し既に17年4ヶ月の歳月が過ぎました。この57年に及ぶ戦後移住者の定着の過程、移住者としての記録を書き残すという作業は、編集者の私の力不足、時間的制約等に起因して思うような成果が挙がっていませんが、2008年は、日本移民100周年を日本とブラジルの両国で盛大に祝い日伯、特にブラジル社会で日本移民の100年に渡る歴史を認識して頂き、マスコミにも大いに喧伝されました。これからのブラジルに置ける我々日本移民は、200年に向かいどのように生きて行けば良いか問い掛けられる立場にあります。特に2009年にはアマゾン移民の80周年の節目の年に当たり、トメアスー、べレン、マナウスに置いて9月に盛大な式典が行われ在伯県人会主催の『第32回移民のふるさと巡り』の慶祝団232名の一員として参加させて頂き北伯に入られた同船者の皆さんと共にお祝いできたことはブラジルに住む者として大変幸せに思いました。
また、2011年は、南伯リオグランデドスール州の戦後移民55周年に当たり8月20日に初めてリオグランデ港に降り立った23人の内、州内に健在の9名の先駆者に州議会よりメダルを送られる式典を日本文化祭に実施しました。2013年7月19日には、戦後移住者の60周年記念式典がブラジル日本都道府県人会連合会主催の日本祭りの会場で盛大に開催されました。我々戦後移住者は、『有難うブラジル!!』の気持ちを持ち続けて行く事が大切と感じました。
又2015年は、日本ブラジル外交関係樹立120周年に当たりRS州でも4月7日に梅田邦夫駐伯日本大使、池田クリチ―バ総領事をお迎えしてIVO SARTORI州知事主催のオープニング セレモニーが州知事公邸のピラチニ宮で行われました。
2016年の8月31日と9月1日の両日、FIERGS(RS州工業連盟)に置いて日伯経済協力合同委員会が開催され日本より130名近い企業家がポルトアレグレを訪問され歴史始まって以来の日本人の訪問で賑わいました。RS州内でも日本ブラジル外交関係樹立120周年関係の行事で賑わいました。
2017年8月19日、20日の両日ポルトアレグレ『第6回日本祭り』が開催され8万に近い入場者が集まり、特にポルトアレグレ市と金沢市の姉妹都市提携50周年に当たる記念の年として金沢市より兼六園のことじ灯篭のレプリカが友好のシンボルとして贈られ日本祭りの前日に金沢市から慶祝団として細田副市長を団長とする15名の訪問があり盛大な贈呈式が行われました。2012年に始まった地元日系団体共催の日本祭りは、市議会が日本移民の日として8月18日を制定、州議会が日本祭りを州の年中行事の一つとして州議会で制定した事により毎年開催が義務付けられており、滋賀県との姉妹県提携、金沢市との姉妹都市提携を結んでいる日本の地方行政庁とも連絡を取り合い南伯に置ける日本文化の発信、発露の場として今後も大いに賑わって行く事でしょう。
ブラジル日本移民110周年に当たる2018年は、7月18日にリオにご到着された眞子内親王さまを迎えて11日間で5州14都市を訪問されブラジル全国の110周年記念式典に参加される。今回は、リオ、パラナ州、サンパウロの式典だけでなく60年振りとなるサンパウロ州奥地の移民の発祥の地も訪問された。
此処ポルトアレグレでも第7回の日本祭りのメインテーマとして日本移民110周年記念を8月18日、19日に山田大使、木村クリチーバ総領事をお迎えして盛大に祝いました。
令和元年6月13日540万回のアクセスを記録し本日10月1日に何と5555555の5が7桁揃うと云う珍しいキリバンを記録したのを記念してこの40年のHPのTOP PAGEの一部を書き換える事にしました。同船者仲間、ブラジルの領域を大きく超えて現在では、世界200ヶ国以上の国々からのアクセスが記録されています。17年4ヶ月で555万回のアクセスを記録、ブラジル総合サイトとして育って来ており、その管理運営にも大袈裟に云えば社会的な責任も伴うのではないかと身が引締まる思いがしております。
日本移民110周年記念事業の一部として110周年実行員会で110人に笠戸丸賞を授け各分野で顕著な功績を遺した人達を顕彰しました。このホームページの管理運営も含め私も栄誉ある笠戸丸賞を頂けたことは、移住史の丁度半分と2年、57年間このブラジルに生きて来た者の一人として生きた証を残せた思いが強く、非常に嬉しく思っています。残された時間、生かされている間は、この寄稿集を継続していきたいとの思いを強くしています。

555万回と云うアクセスを記録しましたが、アクセス数がどんなに増えようが基本的には同船者681名の戦後移住者としての生き様を書き残して行くという大要は変わりませんが今後はあるぜんちな丸で着伯した多くの仲間(合計11,102人)、ひいては戦後移住者全員、移住と直接関係の無い日本企業短期派遣社員、留学生、研修生、旅行者と幾らかでもブラジルと繋がりの出来た多くの方にブラジルを語って頂きインタネットを通じて少しでもブラジルに関心を持ちブラジルを知りたいとのお気持ちを持たれた時には『私たちの40年!!』にアクセスすればその目的が果たせると云った総合『ブラジル学?』のサイトとして育って行けばと念願しております。更に私達の同船者が入ったボリビア、パラグアイ、アルゼンチンの仲間の様子、それらの国以外の移民の歴史(明治初期のメキシコ榎本移民、ハワイ移民、ペルー移民、戦後のドミニカ移民等)についても記録を集めて行きたいと思います。
私たちのあるぜんちな丸第12次航は、今年5月11日に着伯57年を迎えましたが、今後は、あるぜんちな丸第12次航に限らずあるぜんちな丸の40就航でブラジルに移住して来た全あるぜんちな丸渡航者で『あるぜんちな丸有難う‼』の感謝の気持ちを込めた大同船者会が実現すると嬉しいですね。その母体にこの『私たちの40年!!』が役立つことを念願し何時の日か皆で集まりたいと思っています。
アマゾン移民90周年を祝う県連主催の第51回ふるさと巡り(参加者182名)に加わり9月11日から、トメアス、ベレン、マナオスの式典に参加してきました。多分100周年には、参加出来ないと思いますが、北伯で活躍されておられる皆さんに敬意を表します。



『私たちの40年!!』は、そのコンセプト、表現手段を日本語を基本としたホームページとして公開しましたが、私達の同船者681名の内、3分の1に当たる200数拾名が57年前にサントス港に着いた当時15歳未満でした。これらの仲間は、当然ポルトガル語又はスペイン語の方が日本語より使い易く、更に当地で生まれた二世、三世の我々の後継者は、当然現地の言葉が中心となります。従いこれらの仲間、私達の子供、孫達を対象にしたポルトガル語のHPの必要性を感じ『私たちの40年!!』HP公開1周年を記念してポルトガル語のHPを開設しました。日本語のHPから直接ポルトガル語ページに移れるしその反対にポルトガル語のページからも日本語ページに飛べるようにしております。ポルトガル語のHPは、日本語版の翻訳版ではなく同じ目的、主旨による兄弟HPではありますが、表現手段が変わる事により同じ寄稿文でも幾分そのニュアンスも違ってくるし、考え方、物の捉え方、解釈も変わってくる事から同じ文を取り上げても逐語訳等の方法を取らず意訳、説明的な文と成る事から日本語の資料を基にしたポルトガル語の文章となります。その編集、更新作業は当然こちら生まれの二世、三世の皆さんにお願いする事になりますが、先ず始めるに当たり身近な存在として私の長女、和田弥生エリーゼ(リオグランデドスール州連邦大学新聞学部新聞学科卒業後2年間日本のポルトガル語新聞社でポルトガル語新聞と雑誌の編集、記者として日本で勤務2003年3月に帰国)に手伝って貰う事にしました。開設16年4ヶ月で112万3907回のアクセスを記録しております。管理運営を任せている弥生の趣向が強く出て来ていますが、時間の許す限り日本に住むブラジルからの出稼ぎ者の生活、日本でポルトガル語新聞の記者生活をしていた頃の経験等を積極的に取上げ紹介しております。2006年以来、最近の更新が見られず気になっていますが、その内、親父が遣りたかった仕事、遣り残した仕事として将来に又更新を始めて呉れるかも知れないと期待しており無理強いしないで見守っています。今後は、我々の後継者で手伝って呉れる仲間が現れれば、継続して行って貰えるかも知れないと願っています。

本来の『私たちの40年!!』HPは、戦後移住者としての我々の移住先の国々での定着の過程、生き様を我々の子孫に語り伝え自分達の祖先、ルーツを辿る資料として残して置きたいとの気持ちで始めたものでありそれを近い将来同船者の現地移住国で教育を受けた準2世の仲間、私たちの子供達が引き継ぎポルトガル語、スペイン語で私たちの歴史を書き継いで行って欲しいと念願しており、今回のポルトガル語版は、その気持のあらわれです。従い私たちが日本語で書き残す記録が何時の日か我々の子孫がそのルーツとしておじいちゃんたちが残してくれた財産として引き継いで呉れる事を期待しています。
あるぜんちな丸第12次航の681名の同船者がブラジル、ボリビア、パラグアイ、アルゼンチンの4ヶ国に入植しました。志し半ばで亡くなられた方、家庭の事情で帰国せざるを得なかった方、移住国に拠点を置きながらも現在も日本に働きに出かけている方、57年4ヶ月、最初の入植地に居座り営農に従事している方、国内移動、国外への転住者、それぞれの皆さんの57年4ヶ月の歴史があります。各個人、各家庭、各移住地の歴史を一人一人が書き残す事により戦後移民57年の歴史が浮き彫りになって来るのではないでしょうか。 同船者皆が語り、書き残していく『私たちの40年!!』も多くの同じあるぜんちな丸で移住して来られた人達、戦後色々な形態で移住して来られた人達、移住とは直接関係のない短期駐在員、留学生、研修生、旅行者、果てはまだブラジルの土を踏んだ事のない多くの人達からの寄稿、暖かい書込み、励ましを受けており、我々同船者だけでなく多くの日本の皆さんにブラジルと日本を繋ぐ絆としてまた祖国日本を遠く離れた地球の反対側に住む私達の戦後移民57年の歴史を通じての赤裸々な生き様を知って頂く手段としての『私達の40年!!』HPは貴重な存在となって来ております。

『私たちの40年!!』の映像化も、コロニアの著名な記録映像作家の岡村 淳さんの協力を得て2002年に『40年目のビデオレター』北伯編としてベレンで下船された三一名の同船者の皆さんを訪ね、ビデオレターを届けて頂いております。又その続編として『41年目のビデオレター グアタパラ編』が2003年11月末に完成し日本でその完成記念上映会が実施されました。この続編を見せて頂きましたが、私の関係した北伯編と比べて数段の向上、出来栄えでグアタパラ移住地に現在も住んでいる小島さん夫妻を軸にした時空を感じさせる力作で短期日の同船者訪問では描き切れないものを移住者の目線で撮っておられる岡村さんの技量に感心しました。
去る2012年5月11日には着伯50年を迎えましたが、残念ながら岡村さんは、訪日中で式典の様子を記録に残す事ができませんでした。
去る2015年の7月には、ボリビアのサンタクルス市郊外のサンファン移住地に入植された同船者の皆さんを訪ね立派に成功された同船者仲間との交流を楽しむ事が出来ました。これからも同船者の皆さんが御元気なうちに直接訪ねて半世紀以上の生き様をお聞きして書き残す事が出来ればと願っています。
2002年、5月12日に開いた着伯40年後の同船者会とこの『私たちの40年!!』HPが私達のあるぜんちな丸第12次航の同船者681名の団結のシンボルとなっており大事に守って行きたいと願っておりますが、毎年櫛の歯が抜けて行くようにその数を減らして来ております。その現象を印象付ける出来事として私たちが46年前にサントス港に到着した2008年の5月11日に船内新聞編集を手伝ってくれていた龍川 いく子さん(藤間流の藤間芳嘉師匠)が亡くなられました。40年祭から17年4ヶ月、数多くの同船者が他界、私たちより先に逝ってしまいました。幸い681名の3分の1が当時15歳未満でしたが既に壮年期を過ぎる70歳に達しています。生きている我々が先に逝った皆さんを偲び慰霊して行く必要があると思います。
『私たちの40年!!』の公開10周年に当たる2012年の5月11日(金)には着伯50周年記念事業の第1日目としてボリビア、パラグアイ、アメリカ、日本初めブラジル各地から参集された同船者の皆さんと前夜祭をサンパウロの松原ホテルで祝いました。着伯50周年記念の式典は5月12日(土)の10時から同じく松原ホテルの地下大広間「東京」を会場にして盛大に挙行しました。多分この50周年が『私たちの40年!!』の最後の大きな集まりとなるのではないかと思います。5月13日(日)には同船者で旅行社を経営しておられた吉田栄一さんの企画でバスでサントスへの日帰り旅行を実施、あるぜんちな丸が到着したサントス港の埠頭を船から眺める50年の時の移りを皆さんと共有する事が出来ました。3日間の着伯50周年記念祭をブラジルのサンパウロで近隣国、パラグアイ、ボリビアに入られた方達、帰国された方、10年間に渡り直接、間接に『私たちの40年!!』HP、メーリングリスト、BLOGを通じてご支援頂いた皆さんにも御一緒に参列頂き3日間の参加者のべ150数名のお祝いを実施する事が出来ました。このHPを通じて御支援、参加頂いた皆さんにお礼を述べさせて頂きたいと思います。
この50年の集いは、10年間の月日を長い助走期間として準備して来た集大成とも位置付けてこの着伯50周年は移住史に残る立派な50年祭として皆さんと共に祝う事が出来た事を嬉しく思っています。諸事情で参加頂けなかった同船者の皆さんのご多幸をこの場を借りて祈りたいと思います。
『私たちの40年!!』は、5月の50年祭終了後も名称は、『私たちの50年!!』に変更することなく『私たちの40年!!』として継続して行くことにしましたので今後とも『私たちの40年!!』として御愛顧下さい。
『私達の40年!!』HP編集責任者としての私の人生観、趣味、好み、居住地等による編集趣向に個人的な偏り等も随所に見られると思いますが、今後も同船者の一人を通じての戦後移住者の記録を、一人一人にこの57年4ヶ月がどうであったのか聞き出し記録していく作業を地道に続けて行きたいと思います。このHPの根底に流れる私の気持ちは同じ船で移住してきた仲間が一人でも多く『移住という選択』が間違っていなかったとこの57年4ヶ月を肯定できる人生を過ごしてこられた事を願いその過程を知りたいというものであることは間違いなく、その基本的な考え方は頑なに守って行きたいと思います。

『私たちの40年!!』HP開設当初は、どうすれば皆さんにアクセスして頂けるかに心を配り、各種MLに参加したり、多くの日本の皆さんのHPの掲示板等にも書き込み、『バーチャル座談会』の企画を実施したりそれなりのPR、努力をして来ましたがYAHOOのブラジル関係欄にも紹介して貰ったり、2004年7月から始めた『私たちの40年!!』MLも大いに寄与しているようです。このMLは、YAHOOのMLサービス廃止に伴い10年続き4万通近い書き込みがあったMLが2014年5月で終了してしまいました。愛着のあったYAHOOのメーリングリストの廃止は一つの歴史のページが消えてしまったようで大変寂しく感じています。YAHOOのメーリングと共にお世話になっていたYAHOOのBLOGも8月末でサービスを終了してしまいました。
新しく2014年2月17日よりFREEMLのサービスを導入し現在381名のメンバー間で活発な意見交換が交わされています。既に4万8千通の交信が記録されておりYAHOOからFREEMLへの移行は上手く行ったと喜んでいましたが、FREEMLのサービスも今年の12月に廃止になるとの事でALLSEVERへの移行を実施中です。また2009年に公開された国立国会図書館の電子展示会「ブラジル移民の100年」にもリンク集に掲載頂いております。

2002年の11月に設置した画像掲示板も写真の貼り付けも可能な事から皆さんに喜んで使って頂いておりましたが、最近は、迷惑書き込みが増発、使用不能状態になっておりキャンセルせざるを得ない状態に陥っており正常化させるかキャンセルにするか決める必要が出て来ていますが契約期間が残っており、もう少し様子を見たいと思っています。寄稿集のPR等にも利用しており古い貴重な写真の保存にも役立っており正常化を目指す積りです。通常の掲示板は、最近使用頻度が落ちていますがそれでも捨て難い魅力があります。膨大な寄稿集、画像掲示板、掲示板、写真集、リンク集ですがお時間の許す時に少しずつでも読み継いで頂ければ幸いです。寄稿集は、読みやすくする意味で活字サイズを大きくしたり、更に話題別目次欄を設けました。項目別に好きな話題、読みたい話題を纏めて見て頂けるようにしました。
2006年10月に始めたYAHOOの 『私たちの40年!!』関連BLOG1は、大きな写真(2メガまで)が何枚も一度に貼り付けられることから写真集として重宝しており、MLが文章で表現するのと一味違う写真を中心とした簡単な説明だけの報告書的な性格が気に入っておりほぼ毎日更新(写真の貼り付け)を実施しており既に13年目に入っています。しかしながらこのYAHOO BLOGも8月末にサービスを終了してしまい9月からは、LIVEDOORとアメブロにお世話になっています。
ブラジルの国花イペーの花を日本で咲かそうと耐寒性克服に挑戦している『花咲爺の会』『花談議』関係BLOGをベースにして2017年4月、『花咲爺の会』のホームページを兄弟サイトとして開設しました。是非ご愛顧下さい。URLは下記ですhttp://hanasakajijiinokai.com.br/index.php  

令和元年10月1日 『私たちの40年!!』HP公開17年4ヶ月、5555555回アクセス記録の日に書換え更新。                      

『私たちの40年!!』HP編集管理責任者
     和田 好司




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