私たちの50年!!

1962年5月11日サントス着のあるぜんちな丸第12次航で着伯。681名の同船者の移住先国への定着の過程を戦後移住の歴史の一部として残して置く事を目的とした私たちの40年!!と云うホームページを開設してい居りその関連BLOGとして位置付けている。

2020年07月

≪W50年グループの居心地≫ 東海林さんのお便りです。

東海林です。

和田さんのお勧めで、W50

グループに参加させていただいて、2か月になります。その間、たくさんのメンバーの方たちの投稿を読ませていただき、また、私自身もいくつか投稿させていただきました。ところが、イマイチ居心地が良くない。それは、例えば、ある社交クラブに新たに入会した人間が、クラブハウスで、面識もなく、どこの誰かも解らない会員の人たちの間に囲まれて、話を聞き、発言するのと同じような、居心地の悪さです。そこで、もし、自分がクラブに入会したとしたら、先ずどうするだろうかと考えて見ました。先ずは、自己紹介でしょう。この2か月間で、皆さんの投稿を読ませていただいて、何となくお顔の一部が見えた方は、丸木さん、松栄さん、駒形さんの3名のみで、その他の方たちのお顔が全く見えません。プロフィールが少しでも解ると、接点が見つかり会話に興味が湧いてくる。もし、自分から経歴の自己紹介をすれば、多分、どこかで物理的または思想的な接点のあった人も見つかり、会話がより楽しめて、お互いに居心地が良くなるのではなかろうか、と思いました。「人生チャラ」という言葉があります。お互いが歩んだ人生に勝ち負けはない。死ぬときはみんな「チャラ」ですから、自らの人生を驕ることも、恥じることもないと思います。皆さんの投稿の片隅で、お顔が少しでも見えるようなコメントがあれば、もっとチャットが楽しくなると思います。僭越ながら、以下、私のプロフィールです。

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氏名:東海林(しょうじ)正和(まさかず)

生年月日:1942年1月1日

出身地:兵庫県神戸市東灘区

1957年 神戸市御影中学校卒業

3年生の時、兵庫県で国体が開催され、神戸高校の島田文治選手が、馬術の障害飛越で優勝。それを神戸新聞で見て、「神戸高校に進学、馬術部に入部、国体で優勝する」という目標をたてる。

1957年 兵庫県立神戸高校入学。馬術部に入部。

1958年 富山県国体、馬術部門に出場。

1959年 兵庫県馬術大会・団体優勝

インターハイ全国馬術大会・団体優勝

皇太子ご成婚記念全国馬術大会・個人優勝

東京都国体・馬術部門3位

1960年 4月、神戸高校卒業

7月、ルイス号にて神戸を出港、ブラジルに向かう。

1960年 サンパウロ市、城島商会入社。

倉庫勤務、事務所(輸入部)勤務を経て、営業部勤務。セールスマンとしてリオ以北マナウスまでの地域を担当。

1966年 城島商会リオ支店開設と共に、初代支店長に就任。

1969年 ユダヤ系大手百貨店、ルツ・フェランド社、ハッソン社長にヘッドハントされて転職。

営業部長を経て専務取締役に就任。

1971年 ルツ・フェランド社長、ハッソン氏急逝により退社。

1972年 独立して、パトリニオ保険代理店を開設。

顧客接待のために、ゴルフを始める。

1973年 マッケンジー大学経営学部入学。

1974年 パトリモニオ旅行社を併設。

進出企業駐在員家族を対象とした国内旅行を専門とした。

仕事が忙しくなり、やむなくマッケンジー大学を中退。

1977年 レストラン本丸を買収。清水建設に改装を依頼して再オープンする。

1982年 パウリスタ区アラメーダ・サントス街にレストランを移転。

1990年 折から「出稼ぎブーム」勃発。1960年の来伯時に、邦字新聞の存在に感動し、新聞を通じてブラジルに関する知識を吸収したことを回顧。出稼ぎ日系人のために、日本でポルトガル語新聞を発行することを決意する。

1991年 レストラン本丸を売却して日本に帰国。

1992年 東京都文京区に、Japan Brazil CommunicationJBC)社を開設。読売新聞社の協力を得て、ポルトガル語新聞 “JORNAL TUDO BEM”を発刊。

1992年 サンパウロに、JBC社の支社を開設。

1995年 日本情報雑誌 MADE IN JAPAN”を発刊。日本とブラジル同時発売する。

2000年 Fernando Cardoso ブラジル大統領来日の際、日伯文化交流への貢献を評価され「リオ・ブランコ勲章」および「コメンダドール章」を授与される。

2001年 出稼ぎを対象とした就職情報誌 GANBARE を発行。

2003年 インターネットの普及により、新聞発行の役目を終えて、ブラジルに戻る。

ブラジルJBC出版社は、「日本文化をブラジルに広める」ことをコンセプトに出版事業を拡大し、雑誌 MADE IN JAPAN”の他に、日本文化に関わる書籍(料理、折り紙、生け花など)をポルトガル語で刊行。

2004年 日本のマンガを初めてブラジルに導入し、ポルトガル語に翻訳して刊行。

その後、マンガ・ビジネスは、JBC出版社の主要事業となり、今日に至る。

2008年 移民100周年を記念して、「ブラジルの日本移民史」を刊行。

2011年 ブラジル・シニア・ゴルフツアー(ABGS)で年度優勝。

2013年 ブラジル・シニア・ゴルフツアー(ABGS)で2度目の年度優勝。

2015年 二人の娘にJBC出版社の後を託して、リタイアーする。

2018年 ブラジル全国日系人ゴルフ大会、スクラッチ部門(シニア)で優勝。

2019年 アルジャー・ゴルフクラブ、年度クラブ・チャンピオン(シニア)。

2020年 現在に至る。


≪伯国日本移民の草分け≫  鈴木貞次郎著作 (その2)

https://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=2017

日本移民の草分け鈴木青年の日本公使館の人々がその2です。リオ州のぺトロポリスに置かれていた公使館の人々に付いて描写している。今も時々お世話になるポルトガル語辞書を編纂した大武和三郎の話も出て来て面白い。出石さんが送って呉れた写真の1枚にその1に出て来た鈴木貞次郎の根岸時代の先輩河東碧悟桐氏に書いて頂いたという伯国日本移民の草分 鈴木貞次郎箸を使わせて貰う事にしました。

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日本公使館の人々

          一
リオ・デ・ジャネーロの炎暑を体験した人には、ペトロポリスの渓谷は意外に涼しかった。
翠緑に覆われた山々は近く眉に迫って、曲折した渓谷には清流が潔い音をたてて走っていた。
日本公使館は公園から少し右へ入って、山を後ろに余り見栄えのしない、旧式な建物であった。
杉村公使は決して新しい型の外交官ではなかった。体格からして、相撲取りなら十両取り位な値打ちの充分にふめる太った肉付きで、身長もそれに応じて高かった。あまり物数は言わない。どこかに陰気な影のほのめきながらどっしりと落ち着いて如何にも長者らしい風格があった。むろん外国語も堪能でなかったろうし、外交官のなかに打ち混じって折衝するが如きは、すこぶる不得手であったらしいが、黙々として行わんとする死を眼中に置かなかった態度は、その象のように柔和な目に鋭く閃いていた。暫時対座しているうちにも、流石に三浦公使の下に朝鮮王妃を葬ったあの劇的シーンが思い浮かべられて、誰にも『杉村さんは志士だわい』とうなずかれる所があった。
公使令夫人もよく肥満した方で、いかにも古い家庭に人となったらしい面影を多量に持っていた。こうした保守的な気分は令夫人の心にもありありとレフクソされていたモダーンな堀口令夫人と余りそりが合わなかったのも無理のないことである。
館員としてはただ一人三浦荒次郎氏が居った。三浦氏は日本人としては申し分のない、丈の高い人で、杉村公使にも負けない位に肥えて太っていた。平面な大きい顔には心持ち細い目が光って、くるっと巻いた余り多くもない髭は例え様もない愛嬌があった。スペインに遊学した最初の人であったという程、スペイン語が得意で、フランス語に対する造詣も外務省中一、二の指を屈する程であったと仄聞している。しかも非常に開放的な書生肌の人であった。スペイン人を妻のように愛しておった位だから、寄席などへ入った時、カスタニヨーラの踊りにつれて歌う、あの南国的な情緒に満ちた艶な小唄などを聞くと、あれはこう、あれは・・と言う風によく説明してくれた。それ程ある方面の文芸的趣味も豊富らしく見えた。
生まれは埼玉であったと思う。石川という杉村公使が朝鮮時代の部下であった役人の遺児で、その死に臨んで後見を託されたという様なことを聞いた。二十二か三位の青年が家庭労働をしていた。よく白い服を着ている顔の長い、才気の勝った青年であった。早く父を失ったこの不幸な人は何事にもひがみなしには居られなかったらしく、色々な不平は口癖になっていた。
お梅さんという体格のよい、色白な女中がいた。訳もなし、下町風な感じのする女で、早く性的に目覚めたこの女に、何所となしコケテルな魅惑を持っていた。
館員ではないが、太平善太郎という海外練習生が寄宿していた。丈のすらりとした美男子で杉村公使令夫人第一のお気に入りを鼻にかけている風は、如何にも高慢らしく、きざな感じを与えた。
十二、三才と七、八才に見える公使令嬢がいた。姉さんの方は才ばしった方で、妹さんはまだほんの無邪気一方であった。

          二
もう一人秋葉という爺さんがいた。ハワイから英国船に乗ってサントスに上陸し、転々として遂にペトロポリスに来た。つい先頃迄公使館の料理人をしていたのであるが、その頃は頭の上にお菓子箱を載せて、チャルメラのような音を立てる笛を吹きながら、大道を売って歩いていた。丈の低い頑健なこの爺さんは一日も女なしにはいられない、しかも若いほど夢中になると言うのだから面白い。この秋葉さんと軽業師の萬治さんがブラジルにおける日本人の先祖である。
秋葉さんははっきりと自分の年も知らないし、ブラジルに何年おるかも知っていない、この点は軽業師の萬治さんも似ている。藤崎商店が聖市に開業した翌年であったが、萬治さんがひょっこり店に入って来て、如何にも苦しいような、たどたどしい口ぶりで、
「テンノーヘイカはまだ生きておいでですか?」
と聞いていた。それは何か遠い大昔のことでも思い出す様な風であった。けれども萬治さんも流石に日本人である。何よりも先ず天皇陛下のご安否を聞く所に争われない血がある。イタリア人を妻としたこの人は、もう現生にはいない。今、田舎廻りをして歩く「シルコ・インペリアール」の「Manje Irmaes」と言うのはその子供達である。話は一寸わき道へそれたが、これも在留民最初のページになくてはならぬ一人である。
秋葉さんは働いて貯めた金はいつの間にか若い女に何の執着もなくつぎ込んでしまう。生まれ故郷の千葉県では相当な家で、その子は陸軍佐官であると言う様なことで、しきりに帰国をうながして来るが、
「日本に戻ったら、こんなにして若い女と遊んでおれんからな」
と言って笑った。実際秋葉さんの全ては『若い女』に尽きていた。若い女の蠱惑的な熱い血のうちにのみ、人間としての世界があった。それが彼の故郷でもあり、妻子でもあり、彼自身でもあった。そこに何の悔恨もなければ、哀愁もなかった。移植民の歴史は輝いた方面よりもむしろこうした陰惨な暗い側に、人間的情味の捨てがたい深さとみじめさがある。
 これ等の人々が当時のブラジル日本公使館員であり、在留民の全てであった。即ち男六人、女四人合計十人という数になる。
      ×   ×   ×
 その頃は最早ブラジルには在留していなかったが、日本の対伯文化事跡の上から忘れることの出来ない人がある。それは葡和、和葡両事典の著者大武和三郎である。
 大武さんの渡伯したのはおそらく軽業師の萬治さんの次で、或いは秋葉爺さんより早かったのではないかと思う。いずれにせよこの三人は渡伯先駆者の三尊である。
 大武さんの生家は横浜で船舶に関係する商売をしていたので、海外への念をそそる汽笛の音に早くから少なからず憧憬を持っていた。明治23年ブラジル国軍艦アルミランテ・バローゾ号がドン・オウグウスト殿下を乗せて横浜に入港した時、大武さんは英語に通達していると言うので、しばしばオウグウスト殿下の通弁として随伴した結果、ブラジル行を勧誘されたのである。今でこそ大武さんの頭は白くなっているが、童顔にして漆黒な頭髪にインテリな目を輝かせていた十八才の青年は何んで、この絶好な機会を逃せよう。直ちに渡伯の決心をしたが、近親者の猛烈な反対にあって、ついに果たさず、アルミランテ・バローゾ号は錨を上げて長崎へ出港してしまったのである。
 しかしながら運命は君のために必ずしも絶望ではなかった。熱心なる願望はついに両親の許す所となり、長崎に急行してようやくバローゾ艦上の人となることが出来た。
 インド洋の航海もようやく終わってから、バタビヤ、アデン間に於いて一大暴風に遭遇し、アデン島に難を避けたが、ここでブラジルに革命が起こって勝利を得たという飛電を受け取った。伯爵が共和国の宣言をしたのは1889年11月15日の暁明であったから、大武さん達のアデン港に着いたのはおそらく12月前後であった事が推定される。ドン・オウグウスト殿下は当然亡命しなければならなかった。船艦はクストーゾ・メロ将軍によって司令されることになったが、ドン・オウグウスト殿下と離別を余儀なくされた大武さんは尚ブラジルに行く意思を捨てなかった。
 もし1889年の革命がなく、ブラジル王国に平和な日が続いたとしたなら、大武さんの運命も自ら違った展開があり、日伯関係によほど興味ある将来が期待されたであろうと思う。
 リオ・デ・ジャネロ市に着いてから、英語が役立って大武さんはシップ・チャンドレをしていたメンデス商会(今日も実在)に入って働いた。大変重宝がられて相当収入もあったが、いつまでそんなことをしておっても仕様がなかろうと、メロ将軍はじめ同航海の青年士官たちに勧められて海軍兵学校生徒となった。しかし数奇な運命はここにも君を待ち受けていた。
 それは君の保護者であった、クストーゾ・メロ将軍によって海軍のレボルソンが企てられたためで、大武さんも他の多くの海軍兵学校生徒と共に軍艦に収容されて、大砲の洗礼を受けなければならなかったからである。
 しかしながら遂に海軍側に恵まれず、勝利の見込みが全然なくなって、陸地から包囲攻撃を受けた時、大武さんは
「君は日本人だから逃げてくれ。我々と一緒に苦難を受けさせるのは気に毒だ。」
 と同僚や先輩から口説かれて、余儀なく暗夜に乗じ船艦を脱して再びメンデス商会に舞い戻った。それから船会社に入り機関手となったが、後に勧められてやっぱりメンデス商会関係のサン・パウロ州リベロン・プレト市近くのシュンブー(駅名は大武氏の直話なるも、現在の何駅に当たるや判明せず)の珈琲園に働いた。仕事はベネヒツシオ・デ・カツヘイ(コーヒー精選工場)の機関部を担当したのであったが、居ること半年日清戦争勃発の報に接し、急に帰心を起こし、遂に英国荷物船のボーイとなりオーストラリアに去ったのは1894年であった。
 爾来大武さんは日本の対伯関係のあらゆる運動に陰の人として活躍している。

          三
 公使館に着いて、暫時休憩すると、水野さんはホテルへ案内された。私へは、ホテルなどに宿って、無用の入費をかけるなと言って、公使は館の裏家の一室に寝床を作らせてくれた。世慣れない私は、仕様事なしに事務室の掃除などを手伝った。
 杉村公使は黙々として石像の如く見えた。三浦通訳官はさとす様な口調で、時々ブラジルの事情など話してくれた。私は妙に気になる口髭を見つめながら
「親切な人だな」
 と思った。石川君はコッペーロの他に令嬢たちに家庭教師らしい任務を負担していた。
「日本から来る時は、家庭教師という約束だったんだが」
 とこぼしながら声を落として
「鈴木君、あの生意気な大平が悪いんだよ。彼奴が善いこと悪いこと、何でも告げ口をしやがるんだからナ、彼奴が来てから段々私の立場が悪くなったんだ。君も彼奴に気をつけんととんだ目に合うぜ」
 石川君は如何にも口惜しそうに拳を握って力んだ。しかし石川君は何といっても一個の雇人にしか過ぎない。これに反して大平君は令夫人を笠に着るお客人である。石川君に勝味がない丈、腹いせは散々な蔭口となった。暗闘はよその見る目にも随分はげしかった。
 公使令夫人は親切な人であった。私のような青年にさえ、只一人でご案内のそぞろ歩きの労をいとわなかった程思いやりのよいお方であった。いわんやお気に入りの大平君には、かなり親切な世話をしていた。その親切が一種の誤解を招くような事がなかったとも限らない。いやな噂話は誰の口からとなしに漏れた。妙な暗いアトモスフーラが公使館内に醸されていた。

         四
 日本語の解らない外人コックの目より外ない公使館の家庭は石川君とお梅さんとのロマンスの晴れやかな舞台であった。突然飛び込んだ私の内気なおぼこ心を見抜いた石川君は、別に遠慮もなしにふざけて見せた。時には秋葉爺さんもからんだ三角関係は、紅葉の(※尾崎)「夏木立」などにもられたユーモアな劇的場面もあった。令嬢達の遊び相手に飼われていた白い山羊が、時折り
「ウメー、ウメー」
頓狂な声をふり上げて、なんだか、ものを風刺でもする様な興味をそそった。
気取った青年大平君と私とが令嬢達の希望とあって、一人一脚の競争などあって、あわただしいペトロポリスの十日間は過ぎ去った。三浦通訳官の先導でいよいよサンパウロ州に出発する日が来た。
お別れのお茶には、私の好きなバンデローが、山の様に出ていた。
「お菓子なら、鈴木君はいくらでも食べるよ」
 水野さんは私に食べさせたい老婆心か、そんなことを言って笑った。それでも私の遠慮がちな性質は、思うままにそのバンデローをほおばる勇気が出なかった。私はそっと杉村公使を見上げた。私には是非公使に言っておきたいことがある筈だ。
「公使」
 私は自分の声の小さいのに驚いた。
「私はご承知のようにペルーから水野さんの金で、こちらに来ましたが、もしできることならば三浦さんのお骨折りでサンパウロ州から七ポンドの補助金を受け取って、それを水野さんに上げたいと思っています」
 やや震えを帯びた、私の声が終わりもしない内に、杉村公使はアハハハハと高笑した。
「君そんな心配は無用じゃ。移民会社は君に対して、日本からの旅費も手当も出すのが正当だぞ。一移民を聖州に送ったと言って、その旅費を請求する様な、そんなけちな考えで移民契約が出来るものじゃない」
 私は充分不服であったが、杉村公使の厳然たる声は、重石のように私の心を抑えたので、黙ってしまった。
 公使はわざわざ玄関口まで送って来た。三浦さんと何か打合せらしい会話をしていたが、私へは
「日本移民のため。しっかりやってくれ」
 命令するものの様な、重い響きがあった。私は黙って頭を下げた。
 馬車に乗らんとして一寸後ろを振り向くと、公使は端然として、まだ元の位置に立っていた。私の目には一種の感激の涙があふれ出た。
「公使、ご安心なさってください。私は私の最善をつくします」
 私の心のどこやらで、こんな叫びを発するのを聞いた。
  
          大いなる 山黒々と そびえつつ 萬家の灯 谷々に満つ
   コパカバナ 波打つ際を そぞろ行く 月夜の吾にも 女あれかし
   ガービアの 山の狭霧の 晴るゝまゝ 椰子の並木に 来鳴く鳥あり
   蘭の花の うす紫を 見上ぐれば 木がくれにして 山そびえたつ
   水色の どすの幕の 下りたれば 椰子の並木に 星一つ見ゆ

中島宏著『クリスト・レイ』第21話  ニッケイ新聞WEB版より

「ところで教会の話ですけど、いったいこれは、どういう教会なのですか。町にあるキリスト教の普通のカトリックの教会とは大分違うと思いますが」 「そうそう、その話を今日はするはずだったわね。話が横道に逸れてしまって、ごめんなさい。でも、最初にこういうことを、つまり日本語のことを説明して置くことは必要だと、私は思っていますから、悪く思わないでね。
 そうね、あの教会の話は、どこから始めていったらいいものかちょっと迷うけど、まず、その背景から説明しましょうか。詳しく話すとこれは、本当に時間がかかるし、マルコスにも簡単には分かってもらえないと思うから、大ざっぱに話すわね。
 あの教会は、名前をクリスト・レイといって、この近辺に住む、日本から移民としてやって来た日本人たちによって建てられたの。もう二十年以上も前の話ね。生活にもまったく余裕のない人たちばかりだったから、あれを最初建てるには、随分大変だったみたいね。木造立ての、今から見るとけっして立派とはいえない教会だけど、でも、あそこには、最初ここに入った人たちの開拓精神のようなものが刻まれていた感じがするわ」 「僕は、あの今までの教会にはどことなく素朴で、そして純粋な雰囲気というものを感じました。最初見たとき、あれはまだ完成していない教会だとも思いました。外側の仕上がりがまだできていないのだと、僕は考えました」 「そうね、私も詳しいことは分からないけど、あれが、あの時代の人たちにできた限度だったのじゃないかしら。あり合わせの材料で、とにかく自分たちの教会を造ろうという意気込みに支えられて完成したという感じね」 「僕が最初にあの教会を見て感じたのは、その建物の形式が個性的なことだったということですね。あのような形の教会は、今まで見たことはありませんでした。あれは、日本から持ち込まれたものなんですか」 「そうです、あの教会の形は、日本から持って来たもので、だから、ああいうスタイルのものはブラジルには、他にないでしょうね。
 でも、元々はキリスト教という同じ宗教のものだから、基本的にはそんなに違いがあるというものでもないわ。今、建設中の新しいクリスト・レイ教会も、その元になるところは、ちゃんとローマ・カトリック教会に繋がっていますから、日本から持って来た形といっても、キリスト教であることに変わりはありません」 「そうなんです、そこに僕も最初疑問を持ったのですが、この地区にやって来た日本からの人たちが、みんなキリスト教の信者だということがとても不思議に思えます。まあ、僕はあまり他の宗教のことは詳しくないですが、それでも日本とか中国などの東洋の国々では、仏教が大半であるということぐらいは、一応、知識として持っています。
 だから、ここに住む日本人の人たちがすべて、仏教信者だといわれても、僕は別に不思議とも思いません。しかし、ここの場合はそうではなくすべてがキリスト教信者です。これはいったいどういうことなのだと考えてしまいます。  アヤもそうでしょうけど、このブラジルへ来たからキリスト教の信者になったのではなく、日本にいるときからもう、キリスト教信者だったわけでしょう」

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”今の状況”を変えかねない、米国大統領選  ニッケイ新聞WEB版より

ボウソナロ大統領の命運を握るトランプ大統領(Alan Santos/PR)

ボウソナロ大統領の命運を握るトランプ大統領(Alan Santos/PR)

 先週、大手週刊誌「ヴェージャ」が、「今、大統領選が行われたらボウソナロ氏が当選する」という調査結果を発表して多少話題となった。それに対し、「コロナ対策であれだけ失政をしておきながら、なぜ」と憤る人も少なくなかった。だが、「”今の状況”ならそうだろう」とコラム子は思った。
 というのは、その調査を行った団体が「パラナ・ペスキーザ」という、かねてから保守寄りの調査結果を出すことで有名なところだったこともある。加えて、現時点で明確な形で世間に22年の大統領選のアピールをしているのがボウソナロ氏ただひとり、というのが大きいはずだ。
 となれば、叩かれてもなおも支持する30%くらいの国民は彼の名前をもちろんあげるはずであり、そうでない人は明確な対立候補もわからないのにすぐに名前もあがるはずはない。
 あと、ボウソナロ氏の場合、右翼側に他に有力な候補がいないことも大きい。ボウソナロ氏が万が一いなくなったとしたと仮定した場合に、その代わりを誰に託して良いのかわからない。「代わりがいない」ということは大きい。以前だったらセルジオ・モロ氏だったが、対立して大臣を辞めた身ではボウソナロ派はつかないし、ジョアン・ドリア、ジョアン・アモエド氏といったところもそれは同様。

 一方、左派側は政治家や国民の反ボウソナロの意識が強まり、活性化してはいるものの、群雄割拠の状況で、勢力をひとりで牽引する存在がいない。その意味で、左派側からどんなに批判されようが、ボウソナロ氏が右派基盤のみで逃げ切れる状況があるのだ。
 だが、これはあくまで、冒頭で書いたように“今の状況”での話だ。それをコロッと変えかねないほどのひとつの大きな関門がボウソナロ氏には迫っている。それが、米国の大統領選だ。ボウソナロ氏が現在の優勢を保つには、トランプ氏の再選が絶対条件となる。
 それは、そもそもの「ボウソナロ氏の台頭」そのものがトランプ氏の産物であるためだ。「世間一般からしたら保守的で非常識かもしれないが、それが許される世の中になった」。2016年のトランプ氏の大統領選はそうした価値観の転換を世界中に促したし、それは長年の労働者党政権に対して欲求不満をつのらせていたブラジルでは特に効いた。それこそがボウソナロ氏を生み出したのだ。

 だから、ボウソナロ氏がたとえ国際舞台で、環境問題やコロナ対策、中国関連の問題で国際的に不人気な言動を行なっても、「それは自分ひとりだけではない」とばかりに、トランプ氏が防波堤となっていた。
 だが、いざトランプ氏が大統領選で敗れてしまうと、そうした後ろ盾を国際社会で失い、孤立しかねない。そうなると、「今の社会は極右がトレンド」とばかりに思っていた人たちも「これは”新しい常識”ではなかったのか」と、夢から覚めたように気づいてしまいかねない。これはボウソナロ氏本人もわかっているような気がするのだ。
 だが、その前にすでにホワイトハウスが、「ボウソナロ氏は我が国の大統領選にはかかわらないで欲しい」との意思を持っていることが報じられた。今や、トランプ氏自身の言動さえ上回るようになった「国民に飽きられはじめた過激言動」のボウソナロ氏にはトランプ氏の応援をしてほしくないということだ。結果はまだわからないが、ボウソナロ氏にとっては、良い兆候とは言えない。(陽)

特別寄稿=文豪の闘病から生まれた傑作=正面から病と向き合う生き方=サンパウロ市ヴィラカロン区在住  毛利律子  ニッケイ新聞WEB版より

 コロナ禍で、互いの「繫がり」を切らないように助け合う知恵を交換するネットワークが急速に普及し、大きな助け合いとなっている。
 しかし、少し時代を遡れば、病気や災害による相互扶助の手段は、限定的、限域的なことであった。「近代医療・医薬」が堰を切ったように始められたのは1950年代からだと言われている。
 日本の国民病とも言われた結核のような疫病の場合は、医療も薬も情報も十分病床に届けられることはなく、むしろ本人も家族も外部に知られないように隔離生活の中で生きることを強いられた。
 一般的に、一旦病気になると外部との接触を避け、ひたすら病と向き合う闘病生活より他になかったのである。
 しかし、そのような苛酷な病との戦いの日々から、文豪たちは多くの優れた文学作品を世に送ったのであった。その一部を病名とともに復読する。

結核

 結核は太古の昔からその正体を知られないままに、人類の起原とほとんど同じくして見られたものらしい。その病跡を残したミイラが新石器時代や、紀元前1000年前のエジプト第21王朝の墓から発見されている。
 この病はわずか150年前、1882年、ドイツ人医師・コッホが結核菌を発見するまで、遺伝であるとの伝説が尤もらしく広がり、患者を抱えた家族は悲惨な運命をたどった。患者は、日に日に両肺を蝕ばまれ、消耗し、痩せこけて死に至った。
 そして、欧米、日本でも産業革命の劇的な社会変化とともに、地方から集められた工業労働者に蔓延した。1900(明治33)年7万人を超えた統計上の結核による死亡者数は、1930(昭和5)年12万人、1940(昭和15)年には15万人を超えた。
 死亡者の圧倒的多数は、繊維産業を支えた10代の少女たちであった。1925年(大正14年)、改造社より刊行された細井和喜蔵のルポルタージュ『女工哀史』は、著者自らの紡績職工としての体験と見聞を交えて描かれた。
 『あゝ野麦峠』、副題「ある製糸工女哀史」(山本茂実、1968年ノンフィクション文学)から、労働条件の過酷さが痛ましい。
 当時、結核が感染症であり死に至る病であることは樋口一葉や石川啄木の短い生涯からも知ることができるが、たとえば、この病への社会的偏見は厳しく、農村では納屋に隔離したり、都会でもその家の前をハンカチを鼻と口にあて、息をせず急いで通り抜けるというような風潮が一般的であった。伝染病の障害者となった場合の介護は、ごく限られた身内や友人の手に委ねられた。

歌人 正岡 子規(1867年―1902年)

歌人の正岡子規(Unknown author/Public domain)

 その35年の生涯の後半生は、まさに結核との闘いであった。彼は23歳のとき、結核により喀血した。子規と号したのも、血を吐いて死ぬ時鳥に我が身をなぞらえてのことであるという。子規は明治28年に日清戦争に従軍し、帰路の船中で吐血した。
 1901(明治34)年9月2日から書き始めた『病床六尺』には、その日の食事内容と飲んだ薬について書かれた。
 薬は1900年当時、治療薬としてはクレオソートがかなり用いられていた。これは特異な刺激臭を持つ油で、強い防腐、殺菌、局所麻酔、虫歯に詰めて鎮痛に用いたりするもので、結核には効力はなかった。
 服用すると、息がタール臭くなるが、当時の医師も患者もそれが、結核菌と戦っているように思えたのであろう。
 子規の結核は脊椎を侵し、症状悪化に伴い、31歳のとき腰部の手術をうけたが好転せず、34歳の頃、人力車で外出したのを最後に臥床生活に入る。
 徐々に進行していく疾病とそれによる患部の苦痛を併せもちながら、『病牀六尺』に象徴される狭い六尺(1.8メートル)の床の上での重度障害者としての生活を送ることになる。それを子規は次のように記述している。
 「病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。僅かに手を延ばして畳に触れる事はあるが、蒲団の外へまで足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。甚だしい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けない事がある」
 病状が日に日に悪化する状況は、「足あり、仁王の足の如し。足あり、他人の足の如し。足あり、大磐石の如し。僅かに指頭を以てこの脚頭に触るれば天地震動、草木号叫」
「たまらんたまらんどうしようどうしよう」と連呼し、「自殺熱はむらむらと起こってきた」「誰かこの苦を助けてくれるものはあるまいか、誰かこの苦を助けてくれるものはあるまいか」と絶叫する

家族と友人との障害者相互受容

 母や妹は食事やトイレなど日常的な介助に献身し、漱石や虚子らは口述筆記して『墨汁一滴』や『病牀六尺』を新聞「日本」に連載した。多くの知人や弟子たちが、感染症である結核を危惧しながらも、珍しい土産物などを持参してたびたび見舞いに訪れている。
 病床周辺も配慮された。伊藤左千夫により石炭ストーブがとりつけられ、高浜虚子の配慮により病室の障子をガラス戸にした。
 特にガラス戸にしたことにより、庭とそこに咲く草花の世界が開けたのであり、自殺をも考えた苦痛から庭から見える草花の生命力や四季によるうつろいを凝視し、それが、病気を受け入れ精神を昇華していく一因となる。
 『病床六尺』の最終回が新聞に載った日、1902(明治35)年9月18日の朝、「体すきなしという拷問を受けた。まことに話にならぬ苦しさ」と述べ、翌19日、脊椎カリエス結核との闘いを終え、永眠した。
 子規は、病気による苦痛とそれによる障害を受容しながらも、死に至るまで意欲的に創作活動を続け、『墨汁一滴』『仰臥漫録』『病牀六尺』などの随筆を口述筆記などにより新聞に発表し、また歌を詠み(『子規歌集』)、さらに仰臥した状態で『草花帖』などの写生画も遺したのである。

樋口 一葉(1872年―1896年)

樋口一葉(Unknown author/Public domain)

 子規より6年早く、1896(明治29)年11月23日、24歳で樋口一葉が肺結核で世を去る。小説家としての活動は、わずか14カ月であった。11月27日付けの主治医三浦省軒からの領収書に炭酸クレオソートの記載がある。
 代表作「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」。

 

 

 

 

 

 

 

堀 辰雄(1904年―1953年)

堀辰雄(Unknown author/Public domain)

 堀辰雄の『美しい村』は1933(昭和8)年の夏に軽井沢で書かれたが、その時出会った少女、矢野綾子はすでに肺結核に侵されていた。
 「風立ちぬ、いざ生きめやも」は有名な詩句となって知られているが、堀辰雄自身も、喀血、入院、療養を繰り返しつつ、清冽な作品を世に送り続け、1953(昭和28)年5月28日、49年の一生を終えている。
 代表作『風立ちぬ』『かげろふの日記』『大和路・信濃路』

 

 

 

 

芥川 龍之介(1892ー1927年)

芥川 龍之介(Unknown author/Public domain)

 1900年前後、海外に渡航する日本人は大きく2つに分けられた。一つは移民で日本郵船の太平洋航路は日本移民で溢れかえり、もう一つはヨーロッパへの留学生であった。
 そして、第一次世界大戦後の1920年頃には欧米では海外旅行ブームが起き、日本人の中にもその傾向が見られたが、健康面で多くの問題があった。
 芥川は1915年、東京大学英文学部に在学中に『羅生門』を発表し、文学界にデビューした。卒業後に大阪毎日新聞の嘱託記者として1921年3月、中国を旅行するが、体調はすこぶる悪く、上海の里見診療所に入院し、診断の結果、肺結核であることを宣告される。
 新聞社からの催促もあり、体調不良の中、南京、抗州、蘇州、楊州、漢口、洛陽、北京、天津を訪問し、7月に帰国する。帰国後の過労は、心身両面を蝕み、帰国から6年後の1927年7月服毒自殺に至る。35歳であった。
 その作品の多くは短編小説である。また、『芋粥』『藪の中』『地獄変』など、『今昔物語集』『宇治拾遺物語』といった古典から題材をとったものが多い。『蜘蛛の糸』『杜子春』といった児童向けの作品も書いている。

竹久 夢二(1884年―1934年)

竹久夢二(三省堂「画報日本近代の歴史8」より)

 画家で詩人の夢二は1931年5月、横浜から日本郵船の豪華客船・秩父丸でアメリカに渡航するが、サンフランシスコに到着してすぐに結核が再燃した。
 ロスアンジェルスでの展覧会で得た収益で、ハンブルグ、パリ、スイス、オーストリアを経由して、ベルリンに半年滞在して、現地の美術学校などで日本画の講義などをするが、結核の症状は改善せず、帰国し、1934年9月、長野県信州富士見診療所で死去する。代表作『宵待ち草』

 

 

 

 

佐伯 祐三(1898年―1928年)とその娘の結核

佐伯 祐三(日本語: 撮影者不詳 English: unknown/Public domain)

 画家・佐伯祐三は芥川や竹久と同じように結核により30歳で死去した。1924年、初めてパリの土を踏む。6年足らずの短い活動期間の画家生活の大部分をパリのモンパルナス等で過ごした。
 佐伯はパリに長く滞在することを望んでいたが、佐伯の健康を案じた家族らの説得に応じいったん日本へ帰国した。それから間もなく2度目の滞仏をはじめたが、佐伯はその後ふたたび日本の土を踏むことはなかった。
 当時パリには300人を超える日本人画家が活動していたが、佐伯はそうした画家たちとの絵画談議には参加しなかった。それは彼自身が「結核」という病に侵され、あまり余命のないことを自覚していたからかもしれない。
 佐伯は旺盛に制作を続けていたが、持病の結核が悪化したほか、精神面でも不安定となった。
 自殺未遂を経て、セーヌ県立ヴィル・エヴラール精神病院に入院。一切の食事を拒み、妻に看取られることなく、最初の渡仏から4年後の1928年8月16日、衰弱死した。6歳の一人娘も、同年同月30日に結核で死亡した。
 結核は、社会の欠陥が生む病気ともいわれ、過酷な労働、非衛生的な生活、栄養不足によって蔓延した。たしかに、ストレプトマイシン、イソニアジドの発明は結核の絶滅に貢献したが、今日でも年間数万人の患者数を出し続けている。

大自然、人体には、悪も毒も共存する

 今回の疫病騒動で最も腑に落ちたのは、「自然のことは分からない。ウィルスの正体は掴めない」と言う言葉の意味であった。
 「ウイルスvirus」の言葉の由来は「毒液」または「粘液」を意味するラテン語で、古代ギリシアの医師ヒポクラテス(紀元前460年ごろ – 370年ごろ)は、「病気を引き起こす毒」という意味でこの言葉を用いたと伝えられている。
 すなわち、人間の体には、善も悪も、ウィルスも細菌もすべてが共生し、互いが無限に作用し合う。自然界には、一方を排除して片方だけで成立しないこと。全てが繋がり、連鎖し、共存関係にあることを再確認した。
 むしろ、文豪たちの傑作が、疫病との闘いの中から生まれたことに、万感こもごも至るのである。
【参考文献】『薬の話』山崎幹雄 中央公論1991年

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