和田さん&W50年の皆さん、厳しい残暑が続きますが、お元気ですか?先週は突然の安倍総理の辞任表明のニュースが日本はもちろん、世界中でトップニュースとなりました。安倍氏は安倍外交と呼ばれる、トップダウン型首脳外交を地球規模で展開し、世界的リーダーとしての存在感を示した。安倍氏の志半ばでの退陣は残念ですが、今は一日も早い持病の回復をお祈りいたします。さて、今週のアメリカ便りは「嫌われるメキシコの中国人」と題して、何故中国人が嫌われるのかをレポートします。これはあくまでも私自身が経験した、実話を基に書きました。外国暮らしの長い筆者は、外国、外国人を「日本人の物差し」で測ってはならない、と考えます。根本的に尺度が違うからです。三つの私自身の中国人に関する信じられない出来事から、いかに彼らが異質なのか、を感じて頂ければ幸いです。下記のブログをお訪ねの上、アメリカ便り「嫌われるメキシコの中国人」をお読み頂ければ幸いです。
http://iron3919.livedoor.blog/archives/7268229.html
富田眞三 Shinzo
Tomita
嫌われるメキシコの中国人

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メキシコに渡った半世紀以上昔の話である。
ある日、メキシコシティ最大のプエルト・デ・リベルプール(リバプール港)というデパートに行ったとき、女店員から「あなたはどこの国の人?」と聞かれた。「日本人だよ」と答えると、「皆な、ちょっと来て!」と同僚に声を掛けた。集まってきた、5,6人に「この人は日本人だって」と紹介(?)された。すると、動物園の猿を眺めるように観察された。腹が立ったが、彼女たちにとって、私が最初に見る日本人だった、と知った。
そんな訳で珍しい存在だった、日本人はよく中国人に間違えられた。そのことを、私はあまり気にしなかったが、ある日一世のご老人が「チーノ(中国人)」と言われて、激怒している現場に居合わせた。新参者の私は後で説明を受けて、「なるほど」と納得した。
メキシコ人は中国人をChinoと書いて、チーノと発音する。その場合チーノに「コチーノ」を加えて呼ぶことが多い。コチーノとは豚のことだが、「汚い、卑劣、ずるい」の意味もあり、いかにメキシコでチーノが蛇蝎のごとく嫌われているかが分かる、というものである。
なお、国を現わす言葉は、China(チーナ)である。これは差別語ではないが、「軽蔑感」を加味したいときは、チーナ・コチーナを使う。要するに、「豚のように汚いの意」を込めて使うのである。当然、チーノと言われた日本人は、「俺は日本人だ」と言って怒る。すると、怒られたメキシコ人は例外なく「失礼しました」と謝るから面白い。メキシコの日本人は少数だが、自営業、医師、歯科医師、会計士等が多く、社会的に尊敬を受けている人々が多いのである。なお、メキシコの日本人には金物店と文房具店の経営者が多い。
メキシコに住む我が同胞は知らない人からドクターと呼びかけられることが多い。メキシコの二世社会内の医師と歯科医師の密度が非常に高いのは、つとに有名なので、メキシコ人は日本人と見ると、「ドクトル」と呼びかけるのである。それほど日本人医師、取り分け歯科医師は多い。
チーノと日本人の評価の差
メキシコに於いて、何故中国人と日本人にこれ程大きい評価の差が生まれたのだろうか。
中国人、即ちスペイン語のチーノがメキシコに入ったのは、19世紀後半だった。当時、開始されたメキシコ中部から米国国境のメヒカリ市への鉄道建設の作業員として、多数のチーノが入国した。それ以前から中国人は、米国大陸横断・鉄道建設の作業員として、大量に米国に移民してきた。特に大陸横断鉄道の終点であった、カリフォルニア州には、中国人の方が白人より多い、と言われたほど中国人が集結していた。異様な髪型の弁髪の中国人はその奇妙な習慣と相まって、1848年に米国領になったばかりのカリフォルニアの米国人から「ここは米国かそれとも中国か?」と誕生したばかりの国家のアイデンティティが問題視されて、黄禍論がほうはいと巻き起こり、1904年には中国人移民は禁止された。なお1924年の移民法成立によって日本移民も禁止になった。
20世紀初頭、米国移民が不可能になった中国人は、メキシコ北部の米墨国境地帯へ入国して、米国へ密入国するチャンスを狙うようになった。こうして、メキシコ北部、特にバハ・カリフォルニア半島に中国人が集結して行った。彼らのほとんどは無学文盲だったのが特徴だったが、当時のヨーロッパからの移民の多くも同様に無学文盲が多かった。
一方、メキシコへの日本移民の先駆けは、1897年にメキシコ国最南部のチャパス州に入植した榎本武揚が企画した、榎本移民の36名の男性だった。彼らの大部分は元武士だったため、スパイン語こそ出来なかったが読書きソロバンは出来た。その後、日本から少数ながら7回集団移民が入植したが、彼らの多くは旧制中学卒だった。
そして戦前、歯科医師不足に悩んでいたメキシコは、日本を含む諸外国の歯科医師免許を承認したため、かなりの数の日本人歯科医師がメキシコへ渡った、と思われる。
私はそのうち二人の「日本の歯医者さん」と付合いがあった。一人は日本で歯医者をしていたが、婿養子であったため、酷い婿いびりに耐えかねて、ロサンジェルスへ移住した北条ドクターだった。ところが1920年代の米国は「禁酒時代」だったため、大酒飲みの同氏は、歯科医師として働け、しかも酒が飲めるメキシコへ移住したのである。同氏は後に日墨協会の会長及び名誉日本領事を務めた。
もう一人の西村ドクターは同時期、日本力行会を通じて、メキシコ湾岸沿いのタンピコ市に移住して、歯科医院を開業した。タンピコ市近辺はメキシコの重要な石油地帯だった。そのため、日本海軍はタンピコ石油地帯の開発に意欲を示し、藤原銀次郎を団長とする、調査団を派遣したほどだった。第二次大戦が勃発すると、メキシコ政府は、西村ドクターを「スパイ」として、逮捕、太平洋上の三人マリア島刑務所(Islas 3 Marias)に収容した。同氏は島ただ一人の歯科医師として刑務所島で敬愛される存在だったが、戦後になって釈放された。
両氏のようなメキシコに於ける、日本人歯科医師のパイオニアたちは、日本から来た青年たちを書生として、自宅に住まわせて、歯科医師の資格を取らせた。こうして、徐々に日本人歯科医師が増えて行った。
とにかく、歯医者以外のメキシコの日本移民たちも、無学文盲で礼節もわきまえぬ中国人とは文字通り別人種とメキシコ人から見られている。
では、なぜメキシコで、チーノスが蛇蝎のように嫌われるのか実例を年代順に三つだけあげる。
(1) 中国人の長生き伝説
私の息子の小中学校の同級生の父親にガルシアさんという弁護士兼公認会計士がいた。彼が若いころ勤務した弁護士事務所は、メキシコ全域の中国社会の顧問をしていた。当時、中国人は非常に長命であるという都市伝説が広く信じられていた。100才はおろか120才の長寿を保つ人も数多くいる、と聞いていた。ところが、これはとんでもない、ペテンだった、と中国人専門の弁護士が私に語ってくれた。19世紀後半、鉄道建設作業員としてメキシコに入国した彼らは、正規の旅券を所有していた。当時の旅券は1次旅券と言って、母国を出国して帰国すると、返納することになっていた。そして外国に長期滞在している間、旅券を更新する必要はなかった。やがて、20世紀に入ると、中国人のメキシコ入国は禁じられてしまった。だが、メキシコ北部では、チャイナ・タウンが出来たほどチーノス(中国人)人口が増えていた。最盛期にはメヒカリ市だけでも200店のシナ料理店が営業していたため、多数の料理人の需要があった。そこで、本国からコックを不正入国させて、死亡した老移民の旅券を若いコックに売ったのである。こうして、若者が死者に成りすましたのだった。チーノスの顔はみな同じに見えたのでこんなインチキが出来た。従って、100才、120才のチーノが多数存在した、と言うから嘘のような本当の話だった。
彼らがチーノ・コチーノ(汚いシナ人)と言われる由来である。
(2) スニーカー事件
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40年ほど昔、メキシコの有力なスーパー・マーケット「コメルシアル・メヒカーナ」でこんな事件が起こった。私は同社に文具、事務用品を卸していた関係で、同社の仕入部長から聞いた実話である。80年代初頭、巨大な石油鉱脈が発見されて、石油ブームに沸くメキシコは束の間の我が世の春を謳歌していた。石油公社には世界中から原油の買付にビジネスマンが駆けつけ、スーパー・マーケットにも世界各地からセールスマンが同社を訪れた。ある中国の商社マンは一足2ドルのスニーカーを売りつけにきた。ただし、最低10万足買ってくれ、という条件を付けた。そして、話はまとまった。2ヵ月後、10万足のスニーカーが到着した。ところが、何と全部右足だけだった。
カンカンに怒ったバイヤーがチーノ(中国人)に抗議すると、彼は平然と、「10万足と言いました。Pair(1組)とは言わなかった」とほざいたのだった。
すったもんだの挙句、スーパーは左足10万足を1足10ドルで買わざるを得なかった。彼らがチーノ・コチーノ(汚いシナ人)と呼ばれる由来である。
(3) 一時期中国人はメキシコに入国禁止だった
50年ほど昔、私の義弟が日本で結婚した新妻を伴って、メキシコ空港に到着した。ところが待てど暮らせど、二人は出て来ない。やがて、入国管理官の使いが私を呼びに来た。義弟の新妻の国籍に問題があるので、義弟が私にSOSを頼んで来たのだった。話を聞くと、新妻の提出した入国審査の書類に「出生地:満州国・長春」と記載されていたため、日本旅券の所有者であるにも関わらず「彼女は中国国籍であり、チーノのメキシコ入国は禁じられている」として入国を拒否された。私は戦前、多くの日本人が居住していた長春は当時新京と呼ばれる、満州国の首都だったが、彼女の父は、日本の領事館に娘の出生届を出して、日本人としての戸籍が作られた等々を説明した。ついでに、当時の満州国は「出生地主義」ではなかったことも説明した挙句、入国管理官にそっと100ドル紙幣を渡した。すると、えへん、とか咳払いをした役人は黙ってスタンプを押してくれた。
要するに、50年前、チーノのメキシコ入国は禁止されていたのだ。長年にわたり、チーノはメキシコにとって招かれざる客だった。多分、中国からの不法入国者が多かったことと、犯罪に走るものが多かったからに違いない。こうして、チーノ・コチーノのあだ名はメキシコ社会に定着したのだった。現在、メキシコ入国の際、日本人はNo visaだが、中国人はヴィザとツーストカードの記入が必要である。
最後に中国にも評判が良いものが一つあることをお伝えして結びとしたい。シナ料理である。中にはメヒカリ市のシナ料理は世界一という食通もいる。80年代のメキシコ市の警視総監だった、ネグロ・デュラソは、専用機で時々メヒカリまで食べに行ったほどだった。チーノスは汚いから嫌いだが、シナ料理は別物というところが、如何にもメキシコ人のバランス感覚の見事さを表わしているではないか?
(終わり)