私たちの50年!!

1962年5月11日サントス着のあるぜんちな丸第12次航で着伯。681名の同船者の移住先国への定着の過程を戦後移住の歴史の一部として残して置く事を目的とした私たちの40年!!と云うホームページを開設してい居りその関連BLOGとして位置付けている。

2020年09月

《記者コラム》百戦錬磨のマガルー、攻めのマーケティング ニッケイ新聞WEB版より

文協で挨拶をしたルイザ・ヘレナ・トラジャノさん

 ブラジル女性で一番の資産家にして、最もやり手経営者が、昨年6月の「国際日系デー」を祝う文協イベントに出席していたことを覚えているだろうか。
 このパンデミック期間中もネット販売を拡大するなど、最も勢いのある巨大スーパー網「マガジネ・ルイザ」(以後、マガルーと略)経営審議会議長のルイザ・ヘレナ・トラジャノさん(68歳)だ。

 先々週の9月19日にマガルーは「2021年のトレイニー(研修生)募集は黒人に限定」との広告をだして、「逆差別ではないか」とSNS上で大波紋を呼んだ。26日午前現在で、リツイートは2800、コメントは1500、2万1200回も「いいね」ボタンが押されている。
 黒人とパルド(混血)層は、人口の半分以上を占めるにもかかわらず、企業幹部には30%以下しかいない現実がある。コロナ罹患者や死者、失業者、低所得者の中に、黒人とパルドの比率が高いことは、繰り返し報じられている。
 憲法上、本来なら「人種平等」が建前だ。だが司法関係者の中ですら「歴史的に蓄積されてきた格差を解消するには、黒人限定のアファーマティブ・アクション(特定優遇処置)は有効」と考える人もいる。

波紋を呼んだマガジネ・ルイザの黒人限定のトレイニー募集のツイッター

 マガルーは「我が社の社員の53%は黒人とパルドだが、幹部には16%しかない。それを改善するための対策だ」と説明している。パンデミックでさらに格差が拡大するブラジルにおいて、マガルーの試みは興味深いが、思想的な面で実にポレミックな方向性を持っている。
 続いて先週は、11月の統一地方選挙では黒人候補にしか選挙資金援助しないとの声明も発表され、「逆差別論争」という火に油を注いだ。

 マスコミが盛んにこの話題を取り上げることで、結果的にマガルーは広告費を払わずに、宣伝してもらった部分がある。しかも話題になりかたが、同社の主要顧客である黒人、パルド(混血)層に強い好感を呼ぶ方向にある。
 この思い切った社内人種格差縮小策は、当然のこと左派的なニオイが漂う。そこにボウソナロ支持者らはかみつき始めている。
 BBCブラジル23日付け(https://www.bbc.com/portuguese/brasil-54252093)「マガジネ・ルイザが黒人にだけ募集をかけるのは〝逆差別〟か」によれば、ボウソナロ派連邦下議カルロス・ジョルジ氏(PSL)とダニエル・シルベイラ(同)は、人種差別を犯しているとして反対行動を起こすと言っている。
 SNS上でも、労働専門の裁判官アナ・ルイザ・フィッシャー・テイシェイラ・デ・ソウサ・メンドンザ氏は「肌の色を理由にした雇用契約の差別は承認しがたい」とのコメントを出した。
 選挙前というタイミングもあり、ボウソナロVS左派という構図を背景に、まだ波紋が広がりそうな気配がある。かなり、政治的に攻めたマーケティングだ。

ブラジル8位の金持ち

 トラジャノさんは今年のForbs誌ランキングで、ブラジル8位だった。昨年は24位だから大躍進といえる。この1年間で181%も資産を増やし、240億レアル(約4554億円)と推計されている。
 ちなみに日本のフォーブス誌リストでは、7位の重田康光さん(55歳)の資産が5030億円だから、近い感じだ。1988年に資本金100万円で、OA機器やオフィス電話等の販売やリース業をする「光通信」を設立し、携帯電話販売代理店を全国に展開して急成長を遂げ、創業から僅か12年後の99年には、当時としては史上最年少の34歳で東証一部上場を果たした人物だ。
 ブラジル通貨レアルが今年40%も下落したことを考えれば、本来なら日本5位の高原豪久氏(59歳、6320億円)クラスかもしれない。高原氏は、ユニ・チャーム創業者の高原慶一朗の長男で、同社代表取締役社長。
 トラジャノさんは当然、ブラジルのトップクラスの経営者が講演する経済フォーラムのメインスピーカーになってもおかしくない。その場合なら、彼女のために個室の控え室が用意されることもあるだろう。

最初はずっと来賓スペースに普通に座っていた、青いハッピをきたルイザ・ヘレナさん

 でも彼女は昨年6月25日の文協のイベントでは、大講堂の普通の客席にちょこんと座っていた。コラム子は取材に行った折り、舞台前を通ったときに気づき、最初は「本物か?」と目を疑った。
 しかもその彼女は最初の鏡割りで紹介されたが、文協の舞台の上に呼ばれず、2時間ほどのイベントの間中、ずっと普通の来賓席に窮屈そうに座っていた。
 最後にようやく舞台から呼ばれて階段をあがり、5分ほどしゃべっただけだったが、コラム子には来賓席に座っている姿が強い印象として残った。
 トラジャノさんはマイクを握ると、「日本には2回行った。文化の美しさを痛感し、勤勉さを学んだ。皆が小声で話をしており、教育レベルの高さを感じた。私もブラジルで真似しようとしたが1カ月と持たず、すぐに声を張り上げた」と会場を笑わせた。
 「日伯は文化的に対極にある存在だが、共感しあえる部分がある。日系人が謙虚で控えめであることを尊敬している。ブラジル人は日本文化を愛している」と宣言した。
 彼女がわざわざ出席したのは、親友であるブルー・ツリー・ホテル経営者の青木智恵子さんの講演に花を添えるためだった思われる。だが、青木さんは当日昼に突然体調不良となり、急きょ白石テルマシェフが代役を務めた。当然連絡は行っていただろうが、それにも関わらずトラジャノさんは出席した。義理堅い人物のようだ。

ただの小贈答品店から

 マガルーは1957年、聖州フランカ市で創立した。創業者はルイザ・トラジャノ・ドナト、ペレグリノ・ジョゼ・ドナト夫婦だ。マガジネ・ルイザの「ルイザ」は創業夫婦の妻の名前から来ている。
 現在では18州に1千店舗を展開しているが、それは一部だ。ネット販売の方にこそ圧倒的な強みがある。
 だが、最初はどこにでもあるような小さな商店だった。創業者の姪が、ネット販売を急激に進めた革新的経営者ルイザ・ヘレナ・トラジャノさんであり、2016年には当時43歳だった息子のフレデリッコ・トラジャーノに社長の座を譲っている。
 2017年には同社の過去最高の売り上げ144億レアルを記録した。このときの利益は3億8900万レアルで、前年比300%増だった。

 創業者のペリグリノさんは元々、行商を生業とし、妻ルイザさんはただの販売店員だった。最初は小さな贈答品店を手に入れたことから始まった。店名は「Cristaleira」だった。やり手のドナ・ルイザが地元ラジオ局に新店名募集企画を持ち込み、応募作の中から現在の「マガジネ・ルイザ」を選んだ。
 その過程で、ローカルな知名度が一気に上昇し、ドナ・ルイザの店頭対応が人気を呼んで話題の店になり始めた。
 業種をスーパーにし、近隣市に支店を開業し、20年後の1974年には30店舗を数えるようになり、最初の大規模店(5千平米)を開店した。
 この頃、当時12歳だった創業者の姪っ子ルイザ・ヘレナ・トラジャノさんは、学校の休みの時に仕事を手伝い始めた。18歳で実質的に入社し、全部署の仕事を順々に体験して、1991年、40歳にして経営部門に就いた。
 そんなトラジャノさんが最初に経営の才覚を見せたのは1993年1月の傷物や店頭見本品の特売キャンペーンだった。新年の最初の営業日を選び、最大70%割引で販売したのだ。これは話題をよび、消費者は各店の店頭に長い行列を作るようになった。これは、のちに他店に最もコピーされた商法となった。
 また2005年から「Dia de Ouro(黄金の日)」キャンペーンを始めた。同社顧客のリピート層に限定して特価販売を行うもので、特別限定品やプレミアムを用意して話題になった。
 2008年には創業50周年を記念して聖市に44店を同時オープンした。


デジタル販売の先駆者

 マガルーが最も特色とするのはネット販売だ。取り組みは早く、1992年からデジタル販売の試行錯誤を始めていた。
 商品を画面に映し出す電子端末(terminais eletrônicos)を各店舗に設置した。在庫をおいていない商品をその電子端末で紹介し、販売員が具体的に説明を加えることによって客に決断を催し、購入が決まったら48時間以内に配達するというコンセプトは、基本的に現在にいたるまで変わっていない。

 その方向性がスマートフォーン普及によって、サイトで購入できるようになり、デジタル販売の勢いが一気に拡大した。
 サイト販売を進めたのがルイザ・ヘレナの息子で、現社長のフレデリッコだ。2001年に入社し、デジタル・オペレーション部門を統括し、電子商取引(e-commerce)化を進めた。
 2003年には早くもアバター「Lu」を立ち上げた。コンピューターアニメのキャラクターで、マガルーの販売員のシンボルになっている。

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マガルーのユーチューブチャンネルには227万人もの顧客がぶら下がっている

 この社交的なLuというキャラクターが主人公のユーチューブチャンネル「Canal da Lu – Magalu」(https://www.youtube.com/channel/UCeaQ72LrN6K3f9a8JkFV98w)には、登録者数が227万人もいる。
 とんでもない自社メディアを持っている。そこでは、Luがおもしろおかしく、新商品の紹介をしてくれ、それで気に入れば購入する段取りになる。

 もっと強力なのはマガルーのフェイスブックhttps://www.facebook.com/magazineluiza)だ。フォロアー数(登録者数)はなんと1426万人! ブラジルの大人の10人にほぼ1人は、ここに登録している。ここに自社広告を出すだけで、大きな宣伝ができる。
 2016年から自社サイトとアプリを使って、他社200社の商品も販売するマーケットプレイスを始めた。現在では50万アイテムの商品がそこでは売られている。

マガルーのフェイスブックのフォロアーは1426万人!

 これらの努力により2017年時点で、ネット販売部門は前年比47%増、同社売り上げの30%を占めるまでに拡大していた。

パンデミックで大当たり

 そのような基盤があったから、このパンデミックの外出自粛で一気に大あたりした。
 ジアリオ・ド・コメルシオ紙6月8日付け電子版(https://dcomercio.com.br/categoria/negocios/entenda-como-o-magazine-luiza-consegue-crescer-em-meio-a-pandemia)によれば、5月20日までの売り上げは、前年同期比の46%増を記録した。
 店舗閉鎖によって、一度は実店舗が大打撃を受けた。だがこの記事の時点で1100店舗中の500店舗は再開をはじめ、しかもバーチャル店舗での売り上げが激増したことで、損失を補ってあまりある利益をもたらした。
 これが先見の明なのか、偶然なのかは分からない。だが、結果としてパンデミックで焼け太ることができた数少ない企業だ。
 グローボTV局などで流れるCMで、Luというキャラクターだけを見て「ダサい」と思っていた人もいるかもしれない。だが、マーケティングの冴えと先見性は尋常ではなく、むしろ、そこにこそブラジルの先端があるのだと感じる。(深)

サンパウロ市長選が開始!=選挙放送時間で有利な現職=注目されるSNS戦略や虚報対策  ニッケイ新聞WEB版より

コーヴァス市長(Rovena Rosa/Agencia Brasil)

 11月15日の投票日に向け、26日に全国市長選の出馬登録が締め切られ、翌27日から選挙運動が幕を切った。サンパウロ市では、10月9日から始まる選挙放送では全時間の4割を現職市長が占有して有利と見られる。だが、選挙運動期間が短いために前評判1位のセウソ・ルッソマノ候補が息切れする前に投票日となる可能性や、SNSで強みを持つ右翼ユーチューバー候補やギリェルメ・ボウロス氏らも侮れないと見られており、最後まで目が離せない市長選になりそうだ。
 全国市長選は4年に一度、通常なら10月第1週の日曜日に行われる。一次投票で50%以上の得票者が出なかった市は10月第4週に上位2候補による決選投票が行われる。ただし今年は新型コロナウイルスの影響で、一次投票が11月15日、決選投票が11月29日にずれこんでいる。

 実際の選挙運動は27日にはじまっており、各候補者には「市長選に関する具体的な発言」や「ネットでの宣伝活動」、「街頭での宣伝」などが認められる。テレビやラジオでの選挙放送は10月9日からとなっており、これが11月12日まで続けられる。
 選挙放送は、放送時間の長短が勝敗に大きく左右するとされている。16日付フォーリャ紙がサンパウロ市市長選に関して行ったシミュレーションによると、現職のブルーノ・コーヴァス市長(民主社会党・PSDB)は、民主運動(MDB)、民主党(DEM)、進歩党(PP)といった大型党をはじめ9党との連立にこぎつけたため、全体の4割近い、39・9%の放送時間を占有できる状態だという。

 元サンパウロ州知事で18年知事選でも次点だったマルシオ・フランサ氏(ブラジル社会党・PSB)は、15・6%で2番手につけた。
 世論調査の支持率は共に1~2%と低いながらも、政党の持ち時間の基準となる下院議員選の結果の良かった労働者党(PT)のジルマール・タット氏、社会自由党(PSL)のジョイセ・ハッセルマン氏は、各々、10・7%、10・1%の時間を持つ。
 過去2度の選挙で投票日前までの支持率は1位だったものの、選挙放送の時間の短さに泣かされてきたセウソ・ルッソマノ氏(共和者・RP)は7・7%で、5番手の時間を持つ。同氏はボウソナロ大統領(所属政党なし)の支持が有力視されるが、以前に所属したPSLがジョイセ氏の出馬を取り消さない限りはこのままだ。企業家に影響力の強いアンドレア・マタラゾ氏(社会民主党・PSD)が6・6%で後に続く。
 現在、世論調査で3位につけているギリェルメ・ボウロス氏(社会主義自由党・PSOL)や、右翼ユーチューバーとして知名度があり、18年の聖州議選で高得票を記録したアルトゥール・ド・ヴァル氏(パトリオッタ)は共に1・9%、2・3%と放送時間はほとんど望めない。だが、両者は18年の統一選で話題になったネットでの強みを持つ。SNSでの支持者数は、共に100万人を超えている。
 また、選挙高裁は、18年統一選の際に社会問題化した、ワッツアップなどを介した、対立候補に対するフェイクニュース攻撃に対する取り締まりの厳重化などの対処にも追われている。

【日本移民112周年記念】サクラ中矢食品創業80周年=醤油を国民的調味料に=カンノエージェンシー代表 菅野英明 ニッケイ新聞WEB版より

世界企業に育てた中矢レナト健二社長

 『サクラ(Sakura)』ブランドの醤油は、中産階級の60%以上が食卓必需品と認める。そんなブラジルを代表する食品会社を親子2代で育てたのが日系二世の中矢レナト健二だ。現在75歳。40歳で社長に就任し、以来、ブラジル醤油業界近代化のリーダーとして、先頭に立って市場創出と発展に励んでいる。来月10月にサクラ中矢食品(本社・サンパウロ)は創業80周年記念を迎える。米国に次ぐ累計で440万人以上(9月17日現在)のコロナ感染者を出している経済最悪期のブラジルで、サクラはコロナ以前の業績及び醤油生産と販売量を維持しており、その経営力が改めて評価されている。   
 こうした市場環境の中で市場占有率75%を占めるのがサクラ中矢食品だ。社長の中矢レナト健二は、二世ながら父・末吉の跡を継ぎ、創業型社長として業界のトップメーカーに同社を躍進させた。

 さらに輸出でも三十数カ国と取引しており、同時にキッコーマンが強い北欧(例えばスウェーデン) 地域でも市場拡大が続いている。
 いまでは農機具メーカーのジャクト農機と並ぶブラジル日系社会を代表する世界企業として知られている。ブランドのサクラがイコール醤油といわれるほどブラジル国民に浸透しており、醤油文化を通して日本の食文化をブラジル国民に定着させた功績は極めて大きい。
 日本からの移民の歴史は112年になるが、日本の伝統的な調味料である醤油文化を、80年かけてブラジルに定着させたサクラ中矢食品と中矢の取材を通して、ブラジルで多文化共生社会を生きる新しい日本人像が誕生していることを伝えたい。


中産階級の60%が台所に醤油を

 大豆ととうもろこしという100%ブラジル国産の原料から作られたサクラ醤油は、大豆と小麦を原料とした日本の醤油と大きな違いがある。ブラジル産醤油は、とうもろこしの甘みとまろやかさが特徴だ。これに比べると日本産醤油は塩味が強い。
 ブラジルでは南欧系のイタリアとポルトガル系の移民が人口の約70%を占めており、サクラ醤油の味覚はこの南欧系の調味料文化との適合性をもっている。サラダ、焼きそば、肉料理、魚料理、パスタ料理、さらにシュラスコ料理などにもよくなじむ。ブラジルの国民的な調味料になっている。だから、ミドル層以上の60%の家庭の台所にサクラ醤油が入っているといわれる。
 1930年代、日本移民による醤油文化の萌芽期に、小麦がなくとうもろこしという代用品を使ったことが結果的にブラジル国民に受け入れられた。
 中矢が日本への醤油留学を通して得た結論も「ブラジルにはブラジルの醤油があってよい」だった。ここは中矢の先見性と慧眼にただうなずくしかあるまい。移民の国ブラジルでサクラは80年かけて、醤油文化をブラジル全土で市場化させたリーダーとしての功績は絶大なものがある。
 米国と並ぶ世界的な移民大国ブラジルの歴史は、独立後わずか198年しか経っていない。2年後の2022年には独立200年を迎える。まだ青年期のような若々しい国だ。
 日本からの移民は今年で112年になる。ブラジルの醤油誕生は1930年前後でサンパウロから500km離れた南西部のプレジデンテ・プルデンテから始まったといわれ、その歴史は100年に満たない。
 1990年頃まではどこの日本料理店に行ってもテーブルの上には必ずと言ってよいほど3、4社の醤油瓶が置かれていた。乱立する醤油業界の中でいち早く醤油近代化に着手したのが「サクラブランド」を販売するサクラ中矢食品だった。

中興の祖、改革担ったレナト現社長

 しかもその改革のリーダーは創業者・中矢末吉の次男でブラジル生まれの現社長であるレナト健二だった。6歳になった頃から家業の手伝いをしており、醤油業界の申し子的な存在だった。大学も醤油の品質向上に繋がる化学部発酵科を専攻し卒業している。
 71年の入社前から醤油をブラジル人に広く利用してもらうことを考えていたが、その目的の一つは日系人が経営する醤油市場で勝ち残り市場の覇者になることだった。
 その理由と実態は古い因習にとらわれた量り売り中心で、家族経営による商店商売だった。中矢は20代の後半から40代にかけて、日本の最先端技術を持つ醤油製造法や品質向上策、さらに販売方法やマーケティング、組織経営などを学ぶために、日本に頻繁に醤油留学をしている 。
 1985年に父の急逝に伴い40歳で社長に就任した中矢は、いままで温存していた醤油改革計画を次々と実行していった。瓶からプラスチックボトルに、家庭向けに3タイプ(500ml、300ml、150ml)の小サイズに。
 さらに商品ラベルの工夫、近代的な機械化による生産態勢と量産化、近代的な配送システムの構築、ブラジル全土をカバーする営業販売態勢のシステムとネットワーク、社員の人材育成、ち密なストラテジー方針に沿ったマーケティングの構築、会社経営の組織化、合併による業界の集約化など、醤油業界で誰も手がけていなかった未開の領域を業界の先頭に立って改革してきた。
 同時に日本への醤油留学で辿りついた結論が、原材料を大豆とトウモロコシにする『ブ
ラジルにはブラジルの醤油があってよい』だった。この確信のもとに醤油改革と近代化、そして業界の集約化に邁進した。
 同時にブラジル人には馴染みのなかった醤油市場を創出するために、長年にわたり醤油キャンペーンを定期的にサンパウロ中心にブラジル各地で行った。

圧倒的な市場占有率75%

ブラジル醤油市場の75%を占める醤油工場の内部

 キッコーマン社員でブラジル駐在経験もある元OB社員は「サクラはブラジル人の嗜好と市場を熟知している。世界同一品質基準の我々には手が出ない領域だ」と当時、白旗を掲げて日本に帰国したほどサクラの存在は大きかった。
 そしていま、醤油最大の消費国である中国の業者がブラジルに本格的に参入している。「中国産の醤油も最近では徐々に品質が向上し低価格で勝負している。特にレストランや食堂など業務用にそれが言える」と業界関係者は語っている。
 ブラジル醤油市場の75%(ニールセン調査)を占めるサクラ醤油。特に家庭用分野ではひときわブランド力が輝きを増す。ブラジル中の最高級ホテルや一流レストランでは、必ずといっていいほど、サクラブランドの最高品質を誇る『サクラPremium』が使われている。ブラジル人の味覚に適合した製品品質力と営業力の凄さが市場を通してよくわかる。
 さらにサクラ醤油が一般消費者から信頼されている理由の一つに「安全・安心・清潔・品質」に支えられた商品づくりがある。広告でも使用されている
 「醤油原料が100%天然の大豆とトウモロコシの特殊発酵技術の蓄積、遺伝子組換え農産物の不使用、癌の原因にもなるグルテンの不使用」と、安全の確かさがサクラに対する信用力を増しており、国内でもヨーロッパ市場でもその評価と信頼は極めて高い。

経営資源の一極集中化で抜け出す

 戦後の日伯関係は、日本からの移民とともに、1960年代から始まった日本の官民によるブラジルへの投資ブームだった。それが70年代後半まで続き、これに伴いこの15年間の間にサンパウロやリオを中心に日本料理店が次々と開店していった。
 和食イコール醤油は日本の食文化の原点である。1970年代半ばころから日系人や日本人に対する差別的な見方が消失し、イコールパートナーとしてブラジル人の間に急速に和食の浸透とともに醤油が普及していった。
 中矢は自分の体験をこう語る。「公私ともに転機と思ったのは1974年に結婚した時だ。それまでは私を含めて日系人はブラジルで目に見えない差別を受けて苦労してきた。この頃を転機にしてブラジル人の日本や日系人に対する評価が大きく変わってきた」、同時に「寿司や刺身などが美容と健康に良いということで日本食文化がブラジルで開花していく時代に入った」と醤油業界にも追い風が吹き始めた時期でもあった。
 中矢はこのタイミングを自社のマーケティングに取り入れて、ストラテジー経営(経営資源の一極集中化)を積極的に加速させていった。どんぐりの背比べ状態だったブラジルの醤油業界から一気に抜け出したのがサクラ醤油だった。
 同業の、日の本、東山(とうざん)などはサクラのマーケティング力と営業力についていけなかった。こうした格差が出たのは中矢が社長に就任した1985年が節目だった。10年後の1995年頃になるとブラジル国内の市場占有率は90%を超えていた。

経営者・中矢レナト健二との一問一答

 中矢社長らしさは日常どのような所で分かるかー「私はわが社のどこに行っても常に周りにいる誰とでも会い挨拶したいと思っている」「人は気持ちが大事!」「みなさんの顔を知ることだ」。
 サクラ中矢食品は今年10月に創業80周年を迎える。その感想を聞きたいー「社長として私は、消費者、ユーザー、および関係者に対して、サクラ中矢食品の誠実な食品生産が社会的な価値と使命を果たし、世の中に貢献するだけでなく、(醤油など調味料の生産を通して)ブラジルと世界の食生活の向上と進歩に貢献してきた。この80年かけて築いてきた遺産と信頼を、今後さらに高めていきたい」。
 100年企業に向けてこれから20年の超長期ビジョンを聞きたいー「起業家精神は、(将来も継続する)環境問題を解決し、同時にスピードと変化対応のデジタル世界も視野に、健康的な有機食品を生産していくことをはっきりさせている」
 業界のリーダーとして頑張っている中矢社長の強さを聞きたいー「今後、先例の無い様々な困難が出てくると思う。我々は神を信頼している! ブラジルは恵みの豊かな国であり更に大西洋が助けてくれる」

家族と少年時代

 父・中矢末吉のブラジル移住年は1932年で、2年後にはブラジル中矢家移住90周年を迎える。ブラジル中矢家と愛媛県松山市の中矢家本家とは88年たった今でも親族として親密な交流が続いている。長い年月を超えて一族が結ばれているシンボル的な存在だ。
生年月日=1944年生まれ
妻の名前=マリーザ、1974年に結婚
夫人の内助の功について=毎日がありがとうと感謝の日々
長女=ミワ・プリシラ 
長男=エンリ・ヒサシ(サクラ中矢食品の最高財務責任者)
次男=ジュン・レジス(リハビリの医者だが和牛農場の経営者)
次女=エミ・メリン
孫の人数―4人

 親の手伝いを始めたのは何歳の時からー6歳から手伝っていた。大豆とトウモロコシの選別作業から始めた。当時は家の近所の子供たちは皆小さい時から親の手伝いをしていた。小さい時に親から教えられたことは、父(末吉)―親の背中を見て育った(父は醤油製造の経験がなくもともとは素人だった)。日本を出た時は大原流生け花の先生だった母(千代子)は、愛媛県で看護婦をしていた。

100年企業への道

 日系人移住の歴史は112年を迎えた。この日系人が創業した会社は、日本の伝統的な食品調味料である醤油を80年かけてブラジル人の国民的な調味料に浸透させた。その功績は絶大なものがある。日伯相互理解と文化交流の極めつけの話でもある。
 サクラ中矢食品が80年にわたり、波乱と激動のブラジルの歴史を勝ち抜いてきたことは、ブラジルの会社興亡史から言っても大いに賞賛すべきことだろう。
 こうした意味でも日系人社会が生んだ名門企業といってよい。ブラジル醤油業界近代化のパイオニアであり、いまでも変革の旗手であり続けている。同時にブラジルで生産した自社の醤油を、中南米各地はもちろん北米、ヨーロッパ、日本、アジア、中近東、アフリカなど、地球規模で世界30数ヵ国に輸出している。
 サクラ中矢食品にとっては、いままでの80年と100年企業を目指すこれからの20年間は会社勝ち残りの試金石になりそうだ。中国系やキッコーマンの新たな市場参入で競争が一層激しさを増し、同時に経営面でも世界的なIT時代によるスピードと変化の速さが一段と加速する。
 『サクラブランド』にとって、21世紀は『環境の時代』といわれるように、地球環境への配慮と優しさを会社としてどう取り組んでいくか、新たな経営課題も生まれている。 (文責 カンノエージェンシー代表 菅野英明)


画期的新商品『OURO』

今年4月から新発売した画期的な醤油『金』(Ouro)

 サクラのイメージが一変する画期的な新商品で、醤油としての透明性が極めて高い『金』(オーロ)を4月から発売している。全てブラジル産の原材料で醤油を製品化独自のR&D(研究開発)で100%天然の大豆とトウモロコシの特殊発酵技術の蓄積、遺伝子組換え農産物の不使用、癌の原因にもなるグルテンの不使用」と安全の確かさがサクラに対する信用力に繋がっている。国内でもヨーロッパ市場でもその評価と信頼は極めて高い


中矢の経営者としての凄さ

 ここまで同社を発展させたのが2代目創業型経営者で二世の中矢レナト健二だ。2代目が創業者である父の中矢末吉を凌いで会社を成長させ事業規模を拡大させた。その凄さの片鱗は次の事実から伺われる。
★84年に40歳で社長就任以来、絶えず価値造成型の積極経営を貫いていること
★経営に欠かせない探求心と事業家イズムは人一倍旺盛
★私心が全くないこと、物事を公平に見れること
★人間性重視の経営、全てにわたって世界基準で物事を見て決断する経営を行っていること
★これらを社長就任時から現在に至るまで36年間にわたり一貫して継続していること。


際立つマーケティングパワー

 従来型の考え方や販売方法を抜本的に改革し醤油業界近代化を達成したパイオニアといわれるのが中矢なのだ。尊父の急死により1984年40歳で2代目社長に就任。
 サクラは1940年の創業以来80年の歴史を誇るジャクト農機と並ぶ日系社会の名門会社だ。
 80年たったいまでも、絶えざる改革と改良、そして最新技術の導入と新商品の提供でお客様満足度の高い価値創造型のブランド力を守り貫いている。
 常に最新の経営テクノロジー、最新のマーケティング、最新の生産技術、優れた人材の確保などを通して時代を先取りした経営を展開している。
 中でも驚くのは、10年以上前からサクラは、会社としての15年先・20年先の会社のあるべき像を描いた超長期ビジョン計画を持ってきたことだ。

日本移民と邦字紙の絆=日系メディア百年史(14) ニッケイ新聞WEB版より

戦前、サンパウロ市ファグンデス街にあったころのブラジル時報社屋(この建物は2020年現在も建っている、『在伯同胞活動実況写真帳』」(1938年 竹下写真館)

戦前、サンパウロ市ファグンデス街にあったころのブラジル時報社屋(この建物は2020年現在も建っている、『在伯同胞活動実況写真帳』」(1938年 竹下写真館)

 日本国内からの移民送出圧力が高まる中、米国への流れを途絶されたわけだ。困った日本政府は1924(大正13)年からブラジル渡航の移民全員に船賃支給をするなどの国策を開始したため、この流れは本格的にブラジルに向くようになった。
 日本のラジオ放送は1925年3月に約5000世帯の受信者から始まったが、1928年には50万世帯、1931年には100万世帯とわずかな間に急激に普及していった。
 これは都市や山間の農村などの場所を問わず、経済階層も身分も超えて平等に無差別に影響を与える最初の媒体「国民メディア」であり、これ以降、同じ時代を生きているという同時性の意識が養われていった。

 移民収容所のあった神戸港を抱える関西の大阪中央放送局は、1933(昭和8)年7月25日からラジオ番組「夏季ブラジル語講座」を週3回、7週間にわたって放送した。ブラジル行き希望者向けのポルトガル語ラジオ講座は全国でこれが初めてだった。
 このような経緯により1926年から1935年までが日本移民の流入全盛期となった。この間だけで実に13万人、戦後をあわせた全移民25万人の半分以上が流入した〝移民の団塊世代〟を形成した。昭和恐慌中の1933年、1934年は特に年間2万人を超えるピークを記録した。この世代が日本から持ってきた軍国教育、日本人観、皇室観、思考傾向が、その後の同胞社会のあらゆる思想風潮を決定付けたといって過言ではない。
 『四十年史』に「大正十三年(1924年)から激増した日本移民は農村出が少なく、思想的には初期移民よりもはるかに進歩的であり、教育の程度も全般的に高くなっていた」(303頁)とあるように読者層の志向を大きく変えた。
 1924年以来、「大量入国が移民入国制限法が出るまで約十年間つづいたが、これら新移民にとっては「ブラジル時報」は興味のない時代おくれの新聞であった。したがってハツラツたる「日伯新聞」の購読者は年毎に増加して、後には邦字紙中最大の日刊紙となった」(『四十年史』303頁)という影響を与えた。
 笠戸丸以降の初期の日本移民はモジアナ線のコーヒー大農園に配耕されたが、その後、受け入れ先がノロエステ方面に変わっていた。1914年にボリビア国境まで開通したノロエステ線鉄道は、1910年代から1930年代までの間、外国移民の最大の受け入れ先となった。
 1925年から始まる日本移民の大量流入は急激な読者膨脹を意味し、1930年代が邦字メディアの戦前の全盛期となる。邦字紙は拡大・多様化し、雑誌も生まれて日本語メディアの選択肢が広がった。
 この時代の同胞社会の集団意識は、人の一生に例えれば、ヨチヨチ歩きをはじめたばかりの「幼年期」のような時代だった。各地に日本人会が結成され、さらに中央日本人会という全伯組織にまで発展するなど、大量移住に後押しされて移民社会には組織化の波が起った。(敬称略、つづく、深沢正雪記者)

≪コロナウイリス最新情報 9月28日≫ リオの山下さんからの報告です。


山下リオ@日本です              

 

9/28COVID-19の世界累計感染数33304666人、

死亡者数1002389人。100万人突破。

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上位3国の、日の新規感染者数グラフ()と同死亡者数グラフ()

をみる。(累計ではない、増減は対先週)

 

<米国> 

山は超えたが毎日感染者増4万人が続く。

ハワイ州で第二波だが地方の暴走はない。

日の死者数はピークの2693人から半分以下の水準で,重症感染者の

対処はできている。

現時点の入院感染者数2550510人(924人増)、重症感染者数(ICU)14020人(110人増)。

 

<インド>

日の新規感染者数増は8万人だが山を越えた感、日の死亡者数も1100人程度で横ばいか。

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現時点の入院感染者数1005053人(40646人減)、重症感染者数(ICU)8944人。

 

<ブラジル> 

日の新規感染者増は山を越えた。

日の死亡者は1000人で低下傾向。地方の暴走兆候はない。

現時点の入院感染者数556507人(26062人減)、重症感染者数(ICU)8318人。

 

対数グラフにすると傾向が図示できて比較も可能になる。

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<グラフ解説>

カーブが水平に移行すると増加の止まりを意味する。

インド、アルゼンチン、フランス、パラグアイが増加中。

欧州のフランス、スペイン、オランダ、デンマークなどで

感染第二波が発生しているが、死者は増えていない。弱毒性か。

 

<日本>

現時点の入院感染者数6127人(589人減)、重症感染者数(ICU)159人(1人増)


<チェコ>

第二波増加中、死亡者数も急増中。

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現時点の入院感染者数32723人、重症感染者数(ICU)181人。

 

<中国>制圧と報道されているが、感染警戒が続いている。

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<参>警戒レベル1級:特に重大、2級:重大

出所Jetro短信などより要約。最近の数字が出ないのは各地大水害の影響か。

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