私たちの50年!!

1962年5月11日サントス着のあるぜんちな丸第12次航で着伯。681名の同船者の移住先国への定着の過程を戦後移住の歴史の一部として残して置く事を目的とした私たちの40年!!と云うホームページを開設してい居りその関連BLOGとして位置付けている。

2020年10月

2年前の熱狂どこへ? 市長選苦戦のPSL ニッケイ新聞WEB版より

ジョイセ氏(Jose Cruz/Agencia Brasil)

ジョイセ氏(Jose Cruz/Agencia Brasil)

 あと2週間と少し経てば、いよいよ全国市長選だ。サンパウロ市はもちろん気になるが、2年後の大統領選、連邦議員選挙を占う意味で、全国的な動きがコラム子的には気になるところ。
 そこで「少なくとも各州都くらいは」と思い、グローボのニュースで報じられている情報をもとに傾向を分析してみたのだが、一つの大きな事実に気がついた。


 それは、政権与党のはずの社会自由党(PSL)から、ひとりも州都の市長が生まれそうにないことだ。2018年の下院議員選の前までは、議員のほとんどいなかった零細党PSL。ボルソナロ氏ひとりのカリスマだけで、労働者党(PT)とほぼ同数の下院最多党となったのだ。
 それだけではない。各州で圧倒的得票数を獲得してトップ当選したのもPSLの議員だった。
 その政党が、いくらボルソナロ氏が離党したからといって、州都の当落線上にある候補がだれもいないという事実には驚かずにはいられない。
 同党はその下院議員選挙の結果、選挙放送の時間も豊富にあるはずなのだが、それも全く功を奏していなさそうなのだ。
 仮に、ボルソナロ大統領が立ち上げた新政党「ブラジル同盟」が今回の選挙に間に合っていれば、当選者はそれなりに出ていたような気がする。いずれにせよ、ボルソナロ氏がいないと成立しないということに代わりはない。
 だが、そのようなものが果たして本当に「政治勢力」と言えるのだろうか。
 一国の大統領や首相が所属するような政党というものは、党内に「その気になれば大きな自治体を治められる」くらいの実力の人たちがぞろぞろいて、まずは党内で競い合って、のし上がった実力者が候補になるもの。そういう政党を今後、ボルソナロ氏や彼の支持者が築き上げていけるのか。そこに大きな疑問が残る。
 もう一つ思うのは、18年の選挙の際に大流行した、「新しいタイプ」の政治参入者が早速ふるわないことだ。聖市市長選でアルトゥール・ド・ヴァル氏(パトリオッタ)は4%の支持率で5位、ジョイセ・ハッセルマン氏(PSL)は3%で7位。ともに反ジウマ政権のデモと自身のユーチューブの番組で台頭し、前者は聖州議、後者は下議に高得票数で当選。
 コラム子も「サンパウロ州知事にはドリアじゃなくてジョイセがなればいい」という熱狂がネット上であったことを覚えている。それから考えれば、わずか2年で現実は残酷だ。
 こうなった背景には、活動家から転身してボルソナロ派の政治家になった人たちへの失望があるからではないだろうか。「不正と戦う」などとデモでかっこいいことを言っておきながら、いざ当選したら大統領の腰巾着に過ぎなくなった。
 遂には軍事独裁政権を求める言動を行うようになり、ネット上でフェイクニュースを拡散したとして捜査の対象にまでなってしまう。奇しくもそうした新しいタイプの政治家のほとんどがPSLの議員。国民はもうすでに答えを出しはじめている。(陽)

知っておきたい日本の歴史=徳力啓三=(18) ニッケイ新聞WEB版より


日米関係とワシントン会議

 日露戦争の勝利によって、日本は東アジアにおける大国となった。フィリピンを領有したアメリカにとって、日本は極東政策の競争相手となった。
 日米間では、日露戦争直後の 1906年頃から、人種差別問題が起こった。アメリカ西部諸州には、ハワイに移民した日本人が、カリフォルニア州へ再移住していたが、勤勉で優秀な日本人移民が、白人労働者の仕事を奪うとして、日本人を排斥する運動が起こった。
 1913年になるとカリフォルニア州で排日土地法が制定され、日本人の土地の購入は出来なくなった。
 1921年、海軍軍縮と中国における各国の権益に関するワシントン会議がアメリカによって提案され、日本を含む9ヵ国が集った。目的は利害を調整し、この地域に安定した秩序を作り出すことであった。
 またこの会議で、米英日の海軍主力艦の保有率は5対5対3とすることが決った。日本は国際協調外交の精神で軍縮を推進した。しかし海軍の中にはそれでは国を守れないとする意見も根強かった。それとは別に20年間も続いた日英同盟をアメリカの強い意向で破棄されることとなり、日本は頼りになる同盟国を失った。

排日移民法に抗議するデモ。1924年8月、在日アメリカ大使館前(Bundesarchiv, Bild 102-00598 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 DE , via Wikimedia Commons)

 1924年アメリカは日本人の受け入れを全面的に禁止する排日移民法を国会で議決した。これに対し、日本の世論は沸騰し、反米感情が進んだ。
 1923年9月関東大震災が起き、東京や横浜で発生した火事で、民家、重要建造物、文化施設など多数が消失、死者・行方不明者が10万人を超えた。
 この関東大震災の結果、日本の経済は大きな打撃を受けたが、近代都市の設計の基準づくりや防災の研究が始まった。幹線道路網や都市公園緑地帯の整備に努め、建物は鉄筋コンクリート造りに変わっていった。


《資料》ワシントン会議

 1921年12月にはワシントンで、5大国の日米英仏伊の他、ベルギー、オランダ、ポルトガル、中国が参加して開かれた。
 米英日の海軍主力艦の制限保有量は52・5万トン対52・5万トン対31・5万トン。航空母艦は5隻対5隻対3隻と決められた。
 日英同盟は、日本にとって安全保障の要であった。これが無くなり、日本は単独でアメリカの軍事力に対抗しなければならなくなった。


《資料》アメリカのアジアへの進出

 アメリカは南北戦争(1865年)以降アジアへの進出を企て、着々と植民地を増やしていた。南太平洋関係の進出年と場所は①1867年・アリューシャン列島、②1867年・ミッドウエー諸島、③1898年・フィリピン、④1898年・ハワイ諸島、⑤1898年・ジョンストーン島、⑥1898年・グアム島、⑦1899年・サモア、⑧1899年・ウェーク島、⑨1912年・パルミラ島の9ヵ所に及んだ。


文化の大衆化と都市の生活

黒船屋。大正時代の流行画家、竹久夢二の作品。1919年(大正9年、Source:Takehisa Yumeji Ikaho Memorial Museum、public domain)

 大正時代には、中等・高等教育が普及、女子教育も充実して、向学心が高まった。
 学問では、柳田国男が激しい西洋化の中で、日本古来の風俗や民間伝承などを記録する民俗学を創始した。
 文学では人道主義を掲げた志賀直哉、武者小路実篤等の白樺派作家が活躍した。耽美的な作品を残した谷崎潤一郎、理知的作風の芥川龍之介らも活発に活動した。
 この頃、共産主義思想が日本に入ったことが特筆される。
 日本文化の大衆化が進んだのも大正時代のこの頃の大きな出来事であった。
 新聞や雑誌など大衆の読み物が流行り、100万部を超えるものが出た。文学全集や主婦向け雑誌、低価格本など多くの種類の本が発刊された。
 ラジオ放送も始まりマスメディアが発達、情報の伝達が速く、一度に広く大量に伝えることが出来るようになった。
 それがまた大衆の政治参加を促し、社会や政治の動きに影響を及ぼすようになった。
 活動写真(無声映画)にトーキー(有声映画)が登場し、レコードで音楽が聴けるようになった。
 大衆小説、歌謡曲、宝塚歌劇、6大学野球などのスポーツなど大衆娯楽、童謡、玩具、遊園地、動物園など子供向けの文化も大いに普及した。
 同じ頃、大都市での生活ががらりと変わった。都市の中心部と郊外が電車で結ばれ、乗合自動車(バス)路線が拡充、日本最初の地下鉄(東京の上野~浅草間)が開通(1927年)した。
 鉄筋コンクリートのビルが建ち、住宅では井戸から水道へ、ランプから電燈へ、かまどからガスコンロへという変化が始まった。
 富裕層の住宅には、ガラス窓のついた洋風の応接間や子供部屋が造られた。
 町も食生活も変わり、日本の都市生活の原型が出来上がっていった。デパートが開店し、商品の種類が増えた。
 カレーライスやコロッケ、トンカツなどの洋食が食べられようになり、キャラメル、ビスケットなどの洋菓子も流行った。
 新しい職業も増え、女性の働く場も次々に開発された。バスガール、電話交換手などの職業、女学生の制服、洋装をする女性(モダンガール)が増えたのもこの頃である。

第2節 第二次世界大戦と日本

世界恐慌とその影響

 大正から昭和へ

 1926年、大正天皇は12月26日に崩御された。摂政を勤めておられた皇太子裕仁親王が皇位を継承し、昭和と改元された。
 世界恐慌と昭和恐慌・第1次世界大戦の後、世界一の経済大国となったアメリカで1929年10月、ニューヨークの株式市場で株価の大暴落が起きた。
 世界的な恐慌が始まり、多数の会社が倒産し、労働者の4人に1人が職を失い、失業者が町に溢れた。

1936年3月にドロシア・ラングがカリフォルニアにおいて撮影した『移民の母』。7人の子供を抱えて極貧生活を送っていた32歳の母親(Dorothea Lange, Public domain, via Wikimedia Commons)

 不況は世界に広がり世界恐慌となった。アメリカへの輸出に頼る日本の経済も大きな打撃を受け、企業の倒産・休業が相次ぎ、大量の失業者を出した(昭和恐慌)。
 農村では1930年の豊作で、農産物の価格が暴落し、農家の収入は激減した。翌年、今度は冷害による大凶作が北海道と東北を襲った。食事をとれない子供たち、娘の身売りが相次いだ。
 世界恐慌に対して、各国は様々な対応をした。世界各地に広大な植民地を持つイギリスやフランスは、本国と植民地との経済圏で重要な商品の自給自足を図りつつ、外国の商品には高い関税をかけ国内の市場から締め出す政策を採った(ブロック経済)。
 アメリカも自国の産業保護に走り、関税を高くし、世界不況を更に深刻にした。ルーズベルト大統領は失業者を救うために国家予算で多くのダムを造るなど大規模な公共事業を行った。しかし、アメリカ経済はなかなか回復しなかった。
 1930年、ロンドンで海軍の補助艦(戦艦、巡洋艦、航空母艦以外の海軍艦船)の制限を議題とする国際会議が開かれた(ロンドン軍縮会議)。
 日本ではこの会議で海軍に不利な協定を受け入れたとして、一部軍人や野党は政府を激しく非難、攻撃した。浜口首相は暴漢に襲われ重傷を負い、内閣は倒れた。
 軍人が政治に口出しすることは、軍人勅諭で禁じられていたが、農村の窮状を目にした若手将校は、その原因を政財界の無能力と腐敗にあると考え、独自に政策を論じるグループが現れた。
 国民も、不況による社会不安の中で、財界と癒着し、政争に明け暮れる政党政治に失望し、次第に軍部に期待を寄せるようになった。


《資料》ブロック経済と日本

 イギリス、フランス、オランダなどのヨーロッパ諸国は広大な植民地を持ち、豊かな資源をもつアメリカは一国だけでも、自給自足が可能だった。
 こうした「持てる国」は、植民地や領土をブロック化し、外部の商品には高い関税をかけて締め出した。
 他方、国内に資源の無い「持たざる国」である日本は原料を購入し、それを製品に加工して輸出することで経済が成り立っていた。
 ブロックによる巨大な関税の壁によって締め出され、日本の製品は輸出先がなくなった。日本は欧米の手法を真似して、東アジアに独自の経済圏(大東亜経済圏)を作ろうとした。


《資料》軍人勅諭

 天皇の言葉として軍人の心構えを説いた文章。1882年に出された。軍人はウソをつくことと勝手に行動することを固く禁じられていた。軍人には政治に参加するための選挙権は与えられていなかった。


共産主義とファシズムの台頭

スターリン(U.S. Signal Corps photo., Public domain, via Wikimedia Commons)

 二つの全体主義がヨーロッパで生まれた。この二つの政治思想が1920年代から1930年にかけて世界に広まった。
 その一つはマルクスの思想に始まり、ロシア革命を引き起こした共産主義である。もう一つはドイツとイタリアに現れたファシズムである。
 どちらも国家や民族全体の目的の実現を最優先し、個人の自由を否定する思想を核心としているので、全体主義と呼ばれた。
 全体主義は各地に革命運動を生み出し、成功したところでは一党独裁と、国家の上に党を置く独特の政治体制を作り上げ、20世紀の人類の歴史に大きな悲劇をもたらした。
 ロシアにおいては、独裁者スターリン(1879-1953)が、ソビエットの指導者となり、多くの反対者を処刑し死ぬまで独裁者として君臨した。

ヒトラー(Bundesarchiv, Bild 183-H1216-0500-002 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 DE , via Wikimedia Commons)

 ドイツでは、独裁者ヒトラー(1889-1945)が、ドイツの民族主義に目覚め、巧みな演説で国民を熱狂させ、ナチス党を大きくし、戦争を始めた。
 共産主義の考えでは、労働者が団結して、資本家を倒し、計画的に経済を運営して、階級による差別のない社会を作ることを理想とした。それを実現するための手段が一党独裁体制であるとした。
 スターリンは重工業を重視し、農業の集団化を進める一方、秘密警察や強制収容所を用いて膨大な数の反対者を処刑した。
 コミンテルンとは、国際共産党の英語の略称で、ソ連は1919年に、世界中に共産主義を広めるための拠点を作った。
 ソ連の本部は、1989年に解散したが、日本の共産党は、1922年に「コミンテルン日本支部日本共産党」を立ち上げ、今も現存する。
 日本政府は、1925年に日本国内に破壊行動や君主制の廃止や私有財産制の否定などの暴力行為が及ぶことを恐れ、治安維持法を制定し、暴動を防いだ。
 イタリアでは、1922年にムッソリーニのファシスト党が熱狂的な国民の支持を得て政権を掌握、やがて独裁政治を始めた。
 ドイツでは、第一次大戦後、巨額の賠償金を背負わされ、激しい物価の高騰に国民の不満が高まった。ヒトラーがナチス党を率いて、民族の栄光回復と雇用の拡大をスローガンに掲げて活動を始めた。
 1932年には国会の第1党に躍進、政権を握った。首相に就任するや、ヒトラーは暴力や警察を使いたちまち独裁体制を作り、共産党の弾圧と再軍備を始めた。
 ナチスは民族の純潔を守ることを理念に掲げ、ドイツ国内のユダヤ人を迫害した。ヒトラーはソ連のやり方をそのまま真似をして、秘密警察、強制収容の手法で大量処刑を行なった。
 ナチスとは国家社会主義労働党の略称で、ヒトラーが支配した時代のドイツ国の政党名。ナチスは強制収容所にユダヤ人を集め、数百万人といわれるユダヤ人を虐殺した。


《資料》各国の共産党設立年

①ロシア・1898年、②コミンテルン本部・1919年、③スペイン・1918年、④ドイツ・1919年、⑤中国・1921年、⑥フランス・1921年、⑦日本・1922、⑧べトナム・1930年、⑨朝鮮・1945年。

特別寄稿=ミツバチの神秘=驚くべき能力と有益な食品=国立アスンシオン大学農学部元教授 在アスンシオン 花野 富夫(はなのとみお) ニッケイ新聞WEB版より

セイヨウミツバチ(Phonon.b, CC BY-SA 4.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0>, via Wikimedia Commons)

 地球上には約95万種の昆虫が存在するといわれています。その中でもミツバチほど神秘な生態をもつ昆虫は少ないと思います。
 私たちは、子供のころから有益動物といえば、先ず牛や馬、ニワトリなどと教えられてきました。しかし、牛やニワトリがミルクや卵を私たちに与えてくれるためには、草地の牧草や飼料となる穀物を食べます。
 一方、ミツバチの餌は山林や野に咲く花や、栽培されているいろんな植物の花の蜜と花粉です。他の動物には餌を与えなくてはなりませんが、ミツバチは山野から蜂蜜や花粉などの食べ物を自分で調達し、その余剰分を私たちに与えてくれますので、ミツバチは人間にとって本当に有益な動物であると思います。

 さらに、またミツバチは生態系に一切害を与えずに、むしろ農作物の生産性を上げることに寄与しながら、蜂蜜やローヤルゼリー、プロポリスなどの素晴らしい栄養源を私たちに与えてくれます。
 ミツバチの生態には数知れないほど不思議な側面がありますが、その一部をここに紹介します。

たった1尾の女王蜂から

 ミツバチは1尾の女王バチを中心に、多い時には数万尾の働きバチと数千尾の雄バチによって構成される「群」を単位として生きる社会的動物であります。
 この群を統率するのは女王蜂であり、蜂蜜を集めたり、育児に携わったりするのは働きバチであり、両方とも雌であるので女性上位の社会のように見えます。
 ここで興味を引く点は、ミツバチの性別は染色体の数によって決定するということです。女王バチが雄バチと交尾して受精すると、オス・メスがそれぞれ持ち寄る染色体によって2倍体の受精卵となり、これからはメスの蜂、すなわち女王バチと働きバチが生まれます。
 一方、ミツバチは単為生殖といって、交尾をしなくても雌は卵を産める性質を持っています。雄バチと交尾せずに生むのは、当然、すべてが無精卵であるため、染色体の数は半分であり、たとえ女王バチがいくら卵を産んでも、それからは雄バチしか生まれず、新しい働きバチが生まれてきません。
 食料を調達する働きバチがいなくなると、その群はやがて滅亡することになります。従って、ミツバチが群を維持し、繁殖していくためには雄バチの生殖の働きが不可欠なのであります。

驚くべきミツバチの能力

蜂の巣(Merdal at Turkish Wikipedia, CC BY-SA 3.0 <http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/>, via Wikimedia Commons)

 ミツバチはハトやサケと同じように、優れた帰巣本能を備えています。蜜を集めるために巣箱から出たミツバチは、間違うことなく自分の巣に戻ります。余程のことがない限り、必ず自分の巣に戻ってきます。
 驚くほど精密な自然のGPSを備えているのです。人為的に巣箱の位置を少し移動させると、巣からでたミツバチは必ず元の場所に行きます。また、ミツバチは自分の巣箱と花、太陽の位置を三角測量で結び、訪れた蜜源植物の位置を記憶します。
 さらに、その位置を他の働きバチに伝える能力も備えています。蜜源となる花を見つけた働きバチは、巣に戻ると円や8の字を描くダンスをして他の働きバチに花のある場所を正確に伝えます。
 ここで、太陽が見えない曇りの日は?という疑問が生じますが、大丈夫です。私たちには見えない曇りの日の太陽も、紫外線が可視域にあるミツバチには、雲を通して太陽がはっきりと見えています。
 このようなミツバチの生態を科学的に詳しく調べた人は、ドイツの研究者K・V・フリッシュ博士です。博士はその研究成果を纏めて「ミツバチの言葉」という本を出版し、1973年にノーベル文学賞を受賞しました。
 人間とミツバチの関りは太古の昔から続いています。スペインのバレンシア地方にあるアラーニャ洞窟には1万年以上も前の壁画があり、そこには蜂蜜を採収している人の姿が描かれています。
 その後、ミバチは人間に飼育されるようになり、古代文明が栄えたメソポタミアやエジプト、ギリシアなどの時代にも、ミツバチの飼養が盛んにおこなわれてきました。
 20世紀の初めにエジプトで発掘されたツタンカーメン王の墓からは、多くの副葬品の中から、陶器の壺に入った蜂蜜が出土しており、紀元前14世紀頃には養蜂が盛んにおこなわれ、高貴なファラオなどは蜂蜜を食していたことがわかりました。
 ナイル川の上流には果樹が少なく、ワインなどをつくることはできませんでしたが、ムギなどの穀類が栽培されていたことから、穀物に蜂蜜を加えて発酵させて酒類をつくっていたと考えられています。
 エジプトでは、強い統率力を持つ女王バチが、ファラオの力を象徴する生き物として崇められてきました。それは、女王バチが雄の王蜂だと考えられていたからです。
 この考えは長く続きましたが、17世紀にオランダのスワンメルダムが女王バチを解剖し、卵巣の存在を認めたことから、昔から雄の王バチだと考えられてきたものは、本当は、雌の女王バチであることが確認されました。

女王蜂専用のローヤルゼリー

 「蜂蜜」は、ミツバチが花から持ち帰った花蜜を濃縮させたものであり、単糖類である果糖とブドウ糖が主成分であり、その他にも各種ミネラルや酵素、ビタミン、花粉粒などが多く含まれる優れたエネルギー源の栄養食品であります。
 また「ローヤルゼリー」という素晴らしい養蜂生産物もあります。ローヤルゼリーはミツバチが分泌するミルクのようなものです。ミツバチの卵が孵化すると幼虫になり、3日間はローヤルゼリーが与えられます。
 しかし4日目以降は食べるものが違ってきます。働き蜂となる幼虫には花粉と蜂蜜が与えられますが、同じ雌の幼虫でも女王蜂となる幼虫にはローヤルゼリーが与え続けられます。
 この餌の違いによって、花粉と蜂蜜だけを食べた幼虫は、卵が生みつけられてから21日目に働蜂として生まれます。
 一方、ローヤルゼリーを食べ続けた幼虫は16日後には女王バチとして生まれます。また、ハチミツと花粉を食べる働きバチの寿命は2カ月から、長くても半年程度ですが、ローヤルゼリーを食べ続ける女王バチは5年近くも生き続けることができます。
 ローヤルゼリーを一日中食べ続ける女王バチは、一日に3000個近い卵を産みます。まさに卵を産む機械であり、一日で産む卵の重量は女王バチの体重の二倍になります。 このことからも、いかにローヤルゼリーが優れた栄養源であることが明らかです。

ナゾの「R物質」

ローヤルゼリーに囲まれた成長中の女王蜂の幼虫(Waugsberg, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, via Wikimedia Commons)

 一方、ローヤルゼリーには化学的には解明されていない不思議な「R物質」と呼ばれる未知の部分があります。化学的には、自然のものと同じ成分の人工のローヤルゼリーをつくったとしても、未知の要素である「R物質」をつくることができません。人工ローヤルゼリーを作り出して雌の幼虫に与えても、女王バチにはならないことが、それを裏付けています。
 このローヤルゼリーの存在が世界的に知れ渡るようになったのは、ピオ12世ローマ法王が肺炎を患って危篤状態に陥ったときです。イタリアの養蜂家がローヤルゼリーを献上し、これを飲んだ法王が奇跡的に助かり、そのお礼としてローマで開催された世界養蜂会議に法王が出席し、ローヤルゼリーに命を助けられたと、公の場でお礼を述べたことから、ローヤルゼリーの名が世界的に知れ渡るところとなりました。
 次に、比較的に新しく普及したプロポリスがあります。プロポリスは草木の新芽から出る樹液をミツバチが集めた物質であります。非常に強い殺菌力を持つことから、各種疾病の治療に使われています。
 プロポリスは、もともとミツバチが巣箱の隙間を塞いだり、巣内に侵入して死んだ外敵などを密閉して腐敗を防いだりするために使用していました。しかし、今ではその優れた殺菌効果から、外用、内服用など各種の製剤が作られるようになり、世界中で消費されるようになっています。
 この他にも、蜜蝋やミネラルとビタミンが豊富な花粉粒、蜂毒などがあります。特に、刺されると痛いのはこの蜂毒ですが、最近ではアピセラピーとして、リューマチや関節炎などの治療に使われています。
 このように、人々の健康に貢献する生産物が多いミツバチですが、その中でも、もっとも重要な役割は、農作物の受粉を助け、収穫物の品質の向上や増収に役立っていることです。
 野菜などのハウス栽培では、受粉を助ける野生種の昆虫がハウス内に入れませんが、ミツバチが導入されると、その受粉効果によって形の良いキュウリやイチゴなどの収穫を可能にます。
 さらに、数多くの作物の収量が大きく増えるのもミツバチなどの受粉作用によるものであり、ミツバチの受粉効果による農作物の増収は、ハチミツなど養蜂生産物の販売による直接の経済効果よりも、20倍近くも大きい間接的な経済効果があるとする研究者もいます。
 このように、素晴らしい働きをするミツバチを飼養する仕事、すなわち養蜂業も経済活動として興味深い面があります。養蜂のためには広い土地を必要としません。ミツバチは何千ヘクタールもの面積の土地を自由に飛び回り、花蜜を集めてきますのいで、養蜂家は土地がなくても、それだけの面積を利用できるのです。

養蜂に有望な南米

 南米大陸は養蜂に適した自然条件を備えていることから、19世紀頃からアルゼンチンを筆頭に、重要な経済産業として育ってきました。
 しかし60年ほど前にアフリカから導入された凶暴なアフリカバチのために蜂群の管理が困難になり、一時的に衰微してしまいました。
 その後、各国で養蜂技術が開発、改良され、これに伴って復興の道をたどり、現在ではブラジルやチリなどでもアルゼンチンのように養蜂が盛んになってきています。
 大きなポテンシャルを持つ南米の養蜂ですが、特に自然が多く残っている、ブラジルとパラグアイに跨るパンタナル地域やパラグアイのローアチャコ地域の広大な湿原などは、有機養蜂を展開するための大きなポテンシャルを抱えている地域であると思います。

《ブラジル観光省》観光業支援に20億レアル解放=零細・小企業に巨額融資 ニッケイ新聞WEB版より

海岸への人出も増えてはいるが(Fernando Frazao/Agencia Brasil)

 新型コロナウイルスの感染拡大で最も影響が大きかった業界の一つ観光業界を支援するため、観光省が2万6千を超える零細・小企業向けの融資資金として20億レアルを解放する事を決めた。
 この支援金は、一般観光基金(Fungetur)に参加している金融機関を通じて利用される。今回解放された金額は、2018年に提供されたクレジット総額(2億8640万レアル)の約7倍にあたる。同基金にはこれ以外にも、観光業界支援のための資金が30億レアル用意されている。
 連邦政府は今年、同基金以外のルートでも利用できるクレジットとして、観光サービス業界用に109億レアルを提供してきた。企業家の口座に振り込まれてきた資金は、ブラジル銀行や連邦貯蓄銀行、社会経済開発銀行(BNDES)、ノルデステ銀行、アマゾニア銀行が解放したものだ。

 昨年来、一般観光基金や公立銀行を通じて提供されたクレジットの内、観光業界の支援や後押しのために連邦政府が提供してきた金額は200億レアルを超えている。この80%は既に企業家達の口座に振り込まれており、残りの20%も、観光業界からの要請があり次第、払い出せるように準備されている。
 新型コロナのパンデミックが始まった事で、観光業界は億単位の損失を被って来た。3月の場合、観光業界の収益は昨年同月より16・7%減少した。これは、同月だけで22億レアルの減収だった事を意味する。
 全国財・サービス・観光商業連合(CNC)によると、観光業界では3~8月に、大小合わせて4万9900社が閉店、営業停止などに追い込まれた。CNCによると、3~9月の減収額は2078億5千万レアルに上るという。(5日、28日付アジェンシア・ブラジルより)

巨人 連覇で38度目V コロナ禍の異例のシーズン 原監督「私もよく頑張りました」 デイリースポーツWEB版より

 優勝ペナントを手にファンの声援に応える(右から)原監督、菅野、丸、坂本、岡本(撮影・堀内翔)
 優勝ペナント手に声援に応える丸(中央)。左から岡本、坂本(1人置いて)菅野、原監督(撮影・堀内翔)
 優勝を決め原監督と抱き合う戸郷(撮影・三好信也)
3枚

 「巨人3-3ヤクルト」(30日、東京ドーム)

 巨人が2年連続38度目(1リーグ時代を含めて47度目)のリーグ優勝を決めた。

 新型コロナ禍で迎えた異例のシーズン。開幕は6月までずれこみ、当初は無観客。観客数は徐々に増えたが、まだ本来の姿には戻りきっていない。

 原監督は優勝監督インタビューで「ジャイアンツの選手ももちろんですけど、12球団の選手、こういう状況でもここまでいいコンディションを作って戦ってきた野球選手は誇りある人たちだとあらためて敬意を表します」と球界全体でコロナ禍に立ち向かったことに対する思いを口にした。

 非常事態に頑張った選手、関係者へのねぎらいの言葉を求められると「6月19日に開幕を迎える事ができましたが、選手たち、そしてコーチスタッフ…」と話した後で「もうちょっと言うなら私もよく頑張りました」と自らの率直な思いも口にした。

 「野球界は非常に苦しいスタートを切りまして。しかしこうやってお客様も応援出来るようになって、どんどんお客様も増えてくると思います。世の中は明るい、いい方向になっていると思います。私たちも野球界が中心になって、前に突き進みたいと思います」。まだ収束が見えないコロナ禍に、一丸となって継続して立ち向かう思いだ。

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