私たちの50年!!

1962年5月11日サントス着のあるぜんちな丸第12次航で着伯。681名の同船者の移住先国への定着の過程を戦後移住の歴史の一部として残して置く事を目的とした私たちの40年!!と云うホームページを開設してい居りその関連BLOGとして位置付けている。

2020年11月

特別寄稿=中南米に生きて60年=移民の動機と最初の生業—キノコ栽培への挑戦=元JAIDO及びJICA農水産専門家 野澤弘司=(下) ニッケイ新聞WEB版より

寄港地で臨機応変に観光バイト

 なけなしの携行資金U$80と、出港間際に親戚や知友からの餞別を合わせただけの所持金では、移民船で2カ月間航海する間、これから10か所余りの寄港地での飲食代、交通費や土産物を賄うには厳しいという現実に直面しました。
 そこで対処策を考えた結果、本船の寄港地はロレンソマルケスがポルトガル語以外は英語圏なので、移住者を対象に英文の観光案内パンフレットを参考にして、にわか観光ガイドで小遣いを稼ぎながら乗船中の諸経費を賄い、各寄港地では持ち前の放浪癖を遺憾なく発揮し 堪能する事が出来ました。

 北海道の炭鉱離職者の方々は退職金をしこたま携行しているので、どの寄港地でも大盤振る舞いで気前良く観光しました。
 香港ではシンガポールまで乗船する見ず知らずの金満家一族と知合い、豪勢な広東料理をご馳走になり、虎の絵で有名なタイガーバーム軟膏の発祥地にも招待されるなどの厚遇を受けました。
 マーレシアのペナンでは日本海外漁業(株)の現地責任者だった、故赤崎健一先輩を卒業生名簿を頼りに事務所を訪ね、生まれて初めての鱶鰭が主菜のペナン料理で、後輩の行く末を案じられ、私どもの門出を祝福してくれました。
 先日、日本船籍のタンカー若潮丸が座礁したインド洋のモウリシャスにも寄港しました。イギリス帝国がヘンリ−4世の統治以来久しく世界の覇権国として繁栄を維持できた背景には、インドやアラビアとの交易船を狙った海賊からの財宝の献上が不可欠で、往時の海賊の本拠地だったモウリシャスを偲ぶ海賊由来の銃砲や、財宝などを陳列した博物館や、処刑場や勇猛な海賊のキャプテンの墓地などの史跡が保存されていました。
 アフリカ沿岸の港湾都市の銀行や商店の多くはターバンを巻いた、いかついインド人の守衛が銃を肩に店頭に佇んでいました。港湾労働者の現地人は着用するシャツも靴も無くジュートの麻袋の底には頭のサイズの穴、両面には腕が通る穴を開けこの袋をかぶりシャツの代用としていました。
 道行く人の殆どは素足で、ゴム草履1足と30kgほど入った袋一杯のオレンジと交換できるなど貧しさを露呈していました。ダーバンでは街の柔道愛好家に誘われ親善試合をしましたが、先方には有段者が多く、当方は学生時代や青年団で少々たしなんだ程度の素人の寄せ集めで完敗しました。
 ケープタウンの港では南極観測船の「宗谷」が毎年末には最後の補給地として寄港するとの事でした。テーブルマウンテン行きや市内バスは前後に仕切られ、有色人は後部から乗降しました。日本人は「WHITE」の部類でしたが、たまたま香港で求めた鳥打ち帽にサングラス、ゴム草履の出で立ちで外出した移住者は黒人扱いされたと仕切りに憤慨していました。
 歩道際や公園のベンチの背もたれやトイレには「EUROPEAN ONLY」と明記されたサインが掲げられ、厳しい人種差別が浮き彫りにされていました。アフリカ沿岸の寄港先での本船は、農機具、鉱物のインゴット、穀類、家具を積み降ろしながら、港によっては早朝に接岸して荷役を終え、夕刻には出港したり、3日も停泊するなど万事貨物の荷役優先の運行でした。

橋本吾郎先生との日頃の親睦に対し、先生の生涯の植物分類の集大成『ブラジル産薬用植物事典』をご寄贈いただき祝杯


憧れの南米大陸に上陸

 いよいよ最終寄港地のリオでは、山頂に建立された巨大なキリスト像が両手を広げ我々を迎えてくれ、長途の旅をねぎらってくれているかの様でした。
 タラップから埠頭に降りた南米大陸への第一歩は、長年抱いてきた抱負の達成感と、これからどうするかの使命感と期待感が交差し、感無量の余り傍らの鉄の塊の係船柱にしばし呆然と寄り添い感涙にむせびました。
 正午までの上陸が許可されたので市内を見物しました。これまで寄港して来た英国の植民地とは異なり、市民の体躯や顔立ちは中肉中背で、彫りも浅く中間色で我々に似た印象でした。目と目が合い微笑んだので友好の証かと笑い返すと、我々の草履を指さしながら笑いこけました。
 当時のブラジルにはゴム草履が未だなかったので、日本人は牛の扁平なベタ足の様な履物を履いてると大笑いした、そんな大らかな時代でした。

 目的地のサントス港には横浜から予定通りの60日目の10月10日の早朝、38番ゲートに着岸しました。移民の入国査証と携行荷物の書類審査の為、下船は午後からとなり荷物の準備をし、まず横浜出航以来冷蔵庫に日本食材等を保管してくれた航海士にはそれなりの謝礼をし、航海の無事を共に悦び合いました。
 種菌には黄色い水滴が散見されましたが、心配したほど老化してないので充分使えると思いました。南アフリカで求めた原住民ズール族のウゴンマダンスの民芸品の木彫りと種菌は一緒に包み妻が抱え、船倉扱いの荷物を積んだ台車は人夫が引っ張り我々の後に続きました。税官吏は荷物よりも我々を垣間見るなり通関許可書に認証スタンプを押してくれ、携行品は無事に通関しました。
 サントスでの下船時の所持金は、各寄港先でのにわか観光ガイドで稼いだので、未だU$28が残っていました。税関前には鹿児島県出身の長老と同行の数人が出迎えてくれました。
 私の呼び寄せ人は、金魚の養殖を専業としていましたが、私が支援を期待することは不可能な状態だったので、独立独歩、我が道を往くことにしました。
 また、当面の生活費は日本から携行した海産物や日用品を処分し金策しました。その後ブラジル二世の花嫁を両親に顔見せに日本に一時帰国して、ブラジルに戻る再渡航の移民船で知合った大野夫妻の厚情に甘え、サンパウロ市内のご自宅に居候しました。
 運良く、寄寓先でブラジルに進出した日本企業の社長の知己を得、引き続き60km程離れたモジ・ダス・クルーゼスに工場のある社長宅に居候する幸運に恵まれ、心ある先達の温情と慈悲を甘受しながら転々と居候しました。


「キノコ移民」に転身

 そして社長から近隣で、柿、ぶどう、かんぴょう等を栽培の傍ら、長らくマッシュルーム栽培に挑み試行錯誤していた旧制鳥取高等農林学校出身の篤農家、瓜生知助を紹介されました。
 これにて私は日本仕込みのマッシュルームのノウハウと種菌を瓜生に提供して、共同研究する事になりました。
 早速、原菌から種菌を拡大培養したり、キノコを発生させる菌床材料を手配し、3カ月後には 待望の愛くるしいマシュルームの子実体が発茸し、瓜生との共同試験栽培は見事成功しました。

日本産の種菌からブラジルで発茸した幻の分身、純白可憐なブラジル二世のマッシュルーム

 日本から導入した確実な種菌と、僅か6カ月の体験からの頼り無いノウハウでしたが発茸した、ブラジル生まれの二世のマッシュルームの純白な子実体は自分の分身とも思われ感無量でした。
 見ず知らずの異国にあって、ブラジルだからこそ巡り会えた、心ある同胞先達の人間味溢れる善意に満ちた相互扶助と相次ぐ奇遇とが相まって、成功をもたらしてくれた試験栽培から、自信と歓びで仕事に弾みがつきました。
 更にブラジル生まれのマッシュルームの組織から培養した原菌をもとに拡大純粋培養して、種菌の販売事業も順調に伸展しました。
 ブラジルに於けるマッシュルーム栽培は1940年頃から始まり、当時はヨーロッパからの有産階級の移民が、望郷の念にかられ高級食材を夢見て本国から種菌や菌床を取り寄せては、僅かばかりのキノコの発生に一喜一憂しました。
 同時に、様々な篤農家が人工栽培に挑戦しましたが、菌に関する有識者が少なく、また粗雑な培養種菌での試行錯誤では、商業的な栽培には至りませんでした。
 私は日本でキノコとの初めての出会いの川越先輩や、栽培ノウハウの伝授や種菌を横浜まで届けてくれた工場長、そしてブラジルで関連した同胞先達との、小説を地でいくかのような相次ぐご縁と奇遇により、水産志向だった一介の移民の余りの赤貧さと無謀さなどなどの相乗連鎖が運命の分岐点となり、キノコ移民への変身を余儀なくされ、ブラジルでの「たかがキノコ、されどキノコ」の商業的栽培の幕開けに微力ながら関与できた事は幸いでした。

台湾移民と協力してキノコ村創立

 一方、キノコ業界の更なる発展を目指して、当時の台湾は政情不安な社会情勢から有産階級はアメリカやカナダに、庶民はブラジルとパラグアイへの移民が脚光を浴び始め、また台湾は既に日本同様のキノコ栽培の技術を駆使していたので労力確保と技術移転に着眼しました。
 これより台湾系の友人の実弟が営む台北の松山空港の近くでの薬局の片隅に、ブラジル移民斡旋所を開設して3カ月で約40家族を誘致し、サンパウロ近郊にキノコ村を創設しました。
 この企画はブラジルと台湾とは国交が樹立されて無いのが幸して、公的機関の関与も支援も一切受けずに、我々だけで約1年で成就する事ができました。これよりキノコの増産体制は確保され、ブラジルのキノコ産業は質量共々近代化へと歩み始める事が出来ました。
 しかし、当時の多くのキノコ栽培者には未だ揺籃期で、資本力もなかったので菌舎の空調設備が装備できず、菌舎内部温度が23℃を越す夏場は、子実体が雑菌に汚染され奇形、着色等の為に商品にならず夏場の栽培は回避し冬場の年間一作でした。

ブラジルの茸栽培の先駆者古本さん(左)と野澤さん。タピライのサンタモニカ農園にて

 それで夏場の高温での栽培可能な自生のキノコを求め山野を探し廻った結果、1963年の夏にブラジルのキノコ栽培の先駆者で、旧制宮崎高等農林専門学校出身の古本隆寿が、サンパウロ近郊の山野で名もないキノコを発見しました。
 その後、当時の日本での菌類では権威ある岩出菌学研究所に、古本は名もないキノコの同定(植物分類上の所属や種名を決定する事)を依頼しましたが叶わず、2年後にベルギーの植物学者ハイネマンによりAgaricus blazei murrillと同定されました。
 しかし、岩出研究所は三重大学や日本癌学会により、アガリクスの制癌作用が認定されるや、ブラジルから極秘にアガリクスを日本に取り寄せ拡大培養の結果、アガリクスとは異種異質の「岩出101号菌株」を生生したとし、さらには発茸したキノコの商品名を独自に「姫松茸」と命名して商標特許出願しました。
 このような某国にも匹敵する、あるまじき商業道徳を日本の菌類最高機関が敢えて実践し、同民族のしがないブラジル移民を同士討ちした事は誠に由々しく、見者の古本は怒り心頭に発しました。
 しかし法的に「姫松茸」の特許出願を無効にすべく立件しても、頼りになる弁護士も不在で、結局は経費倒れに終わるのが落と断念しました。
 その後、アガリクスの人工栽培法も確立され、生産と流通は約30年間もの長期に及んで順調に継続して進展し、日本を始めアメリカ、EU圏の健食業界を席巻し、年商600億円とブラジルのアガリクス栽培者と日本の流通業者に大きな経済効果をもたらし、我が世の春を謳歌しました。

日本に輸出する乾燥アガリクスを抱え、ご満悦の野澤さん

アガリスクが見せた天国と地獄

 しかしアガリクスの余りにも突出した販売拡大に、将来への危機感を抱いた日本の医薬業界と関係省庁が結託して、2006年2月13日、厚労省はキリンウエルフーズ社のアガリクス商品から発癌性物質が検出されたと告示しました。
 しかし、この会社は中国産のアガリクスを販売していたので、産地表示に厳しい厚労省にもかかわらず、中国産アガリクスの検体から検出した事は故意に明言せず、恰もブラジル産のアガリクスも含む、アガリクス全般に発癌性物質が検出される疑いがあるとの危惧感が吹聴され、風評被害を拡大扇動する結果となりました。
 恐らく往時の中国野菜の如く、キノコへの化学肥料や殺虫剤の重金属が付着した検体から故意に発癌剤を検出したものと思われます。日本癌学会が認定し30年間も流通販売を容認していながら、突如として制癌剤が一転して発癌剤に豹変させた電撃告知は、食に敏感な日本の社会の津々浦々にまで伝播し、根強い風評被害がもろに醸成されたので、アガリクスの生産と流通の30年に及ぶ栄華の歴史は敢え無く終焉を迎えました。
 これに伴い、約4000人の従事者が失職、転職、破産、日本へのデカセギを余儀なくされました。そして案の定、2年後に厚労省はアガリクスからの発癌物資の検出は事実無根であったと告示し、医薬業界と厚労省が画策した同士討ちを露呈しました。
 その後のアガリクスの生産は、台湾系栽培者が僅かに再帰して現在に至っています。かかる不祥事を立件しても、勝ち目はないので泣き寝入りしました。
 私は移民後の仕事の信条は、一定の場所に定着し、或る生業の利潤追求を生涯の目的とするのではなく、ほどほどの生活ができれば、余力は折角ブラジルに居を構えたので、中南米をくまなく徘徊して各地の赤裸々な地誌を広く深く体得する、と同時に人脈を構築する事でした。
 その為には日本政府の在外公的機関に奉職し、各国の公的機関とも同等の立場から接触する事が良策と考えました。
 それで当時揺籃期にあったアガリクスやプロポリス事業での仕掛け人としての責務を果した後、1989年に創設された官民フアンドのJAIDO(日本国際開発機構—外務省と経団連の合弁企業で途上国開発支援機関)で、業務委託農水産専門家として2002年まで非常勤で奉職して後、JICAに同様の職種の第三国専門家として移籍しました。
 今後もし機会あらばJAIDO及びJICAで体験した、中南米各国での行状記を寄稿させて頂きたく思います。(10月20日記)

東京・上野の野澤農園産のアガリクスの直売店

《ブラジル》全国市長選の結果予測=サンパウロ市はコーヴァス逃げ切りか=リオ市はパエス返り咲き有力 ニッケイ新聞WEB版より

コーヴァス氏とボウロス氏(Twitter)

 29日の市長選決選投票を目前に控え、注目の都市での世論調査が出た。サンパウロ市では現職のブルーノ・コーヴァス氏(民主社会党・PSDB)がギリェルメ・ボウロス氏(社会主義自由党・PSOL)を僅差でリードのまま当日を迎える。27日付現地紙、サイトが報じている。
 ダッタフォーリャは26日、市長選の注目の市の投票日直前の世論調査を発表した。
 サンパウロ市ではコーヴァス氏が47%、ボウロス氏が40%の支持。23日の調査ではコーヴァス氏48%、ボウロス氏40%だったのでほとんど変化なし。有効投票のみの集計だと、コーヴァス氏54%。ボウロス氏46%の計算だ。
 差こそ詰めているものの、回答者のうちで「投票日まで意思を変えない」と答えている人が、コーヴァス氏支持者で83%、ボウロス氏側も87%いる。このままだと、コーヴァス氏が僅差で逃げ切ることになりそうだ。

 リオ市では、エドゥアルド・パエス氏(民主党・DEM)が55%、現職のマルセロ・クリヴェラ氏(共和者・RP)が23%。有効票では70%対30%でクリヴェラ氏が圧勝の見込みだ。回答者のうち9割が、「投票日も意思を変えない」と表明しているだけに、パエス氏の市長返り咲きが有力だ。

 昨日付で封じた、フェイクニュース騒動のあったペルナンブッコ州レシフェでは、マリリア・アラエス氏(労働者党・PT)が43%、ジョアン・カンポス氏(ブラジル社会党・PSB)が40%でマリリア氏がリードをわずかに保った。前日に発表されたイボッピ(ブラジル世論調査・統計機関)の調査では逆転されていた。
 カンポス陣営から「マリリア氏はキリスト教徒を迫害しようとしている」などのフェイクニュースを流されたマリリア氏は26日、選挙放送時間にこの情報が間違いであることを弁明するための放送を行うことを選挙裁判所から認められた。弁明のための選挙放送はグローボ、レデ局で18回ずつ、TVジョルナル、TVクルーベなど3局で17回ずつ、エスタソン局で15回の放送が認められる。
 セアラー州フォルタレーザでは、グローボ局のサイト「G1」のロゴを悪用した世論調査の誤報が流れるトラブルが発生した。その誤報では、カピトン・ヴァギネル氏(社会秩序共和党・PROS)がサルト氏(民主労働党・PDT)に勝っていることになっていた。だが、イボッピが23日付で発表した世論調査ではサルト氏がヴァギネル氏を53%対35%で大きくリードしており、25日発表のダッタフォーリャ調査でも62%対38%となっている。
 リオ・グランデ・ド・スウ州ポルト・アレグレでは、25日発表のイボッピ調査で、セバスチアン・メロ氏(民主運動・MDB)がマヌエラ・ダヴィラ氏(ブラジル共産党・PCDoB)を49%対42%でリードしている。

南東軍総司令官が日本館訪問=「友情と友愛の絆を深めた」 ニッケイ新聞WEB版より

「印象深かった」という記念碑の前で記念撮影

「印象深かった」という記念碑の前で記念撮影

 「歴史ある日本館で、日系コミュニティーと共に過ごし、友情と友愛の絆を深められました」――17日にサンパウロ市イビラプエラ公園内の日本館を訪れたブラジル陸軍南東司令部の総司令官エドゥアルド・アントニオ・フェルナンデス大将は、そう乾杯の音頭をとった。同館を見た同大将は、「イビラプエラ公園の歴史ある日本館で過ごせる事は非常に誇らしく嬉しく思います」と顔を綻ばせた。
 ほかにブラジル南東軍の第2軍管区司令官ジョアン・チャレラ・ジュニオール陸軍中将、第2陸軍師団司令官エドソン・ディール・リポリ陸軍中将、サンパウロ軍事サークルクラブ会長ジョアン・ディニズ中将、第11歩兵旅団司令部中隊司令官エドソン・マサユキ・ヒロシ陸軍少将など錚々たる将官らが同館を訪問した。

日本館を見学する南東陸軍一同

日本館を見学する南東陸軍一同

 南東軍の訪問には日本館を運営するブラジル日本文化福祉協会の石川レナト会長のほか、管理委員会の栗田クラウジオ委員長、山室エルベルト信(まこと)企画担当理事、中島エドアルド剛(ごう)事務局長のほか、西尾ロベルト義弘宮坂国人財団理事長が迎え、和やかな雰囲気の中、敷地内を見学した。
 石川会長は南東陸軍一同の訪問へ感謝を述べると共に、ブラジル国内唯一の純日本式建築である同館は日本の中島工務店(本社・岐阜)が修復を手がけていることを説明。日系コミュニティーを代表する文協が、今年で65周年を迎えることも付け加えた。
 イビラプエラ公園には度々足を運ぶというフェルナンデス大将だが、日本館に入るのは初めてだという。家族も連れて訪問し、日本文化にふれて「さらに刺激をうけた」と好感触を示した。特に印象が残った場所は「天皇・皇后両陛下が植えた松の木」と「イペーと桜の間に建つ記念碑」が印象的だったと振り返った。

特別寄稿=中南米に生きて60年=移民の動機と最初の生業—キノコ栽培への挑戦=元JAIDO及びJICA農水産専門家 野澤弘司=(上) ニッケイ新聞WEB版より

栃木の寒村で鉄道員の家に生まれて

 今なお世界を震撼させ、終息がおぼつかない世紀のパンデミック、新型コロナウイルス禍に遭遇して、日暮し在宅自粛を余儀なくされ無為に過ごすのも心許ないので、中南米に生きた60年を追憶し、私がブラジルに移民した拙い動機や初期の生き様を寄稿させて頂きます。
 私の生れは栃木県鹿沼市に近い寒村で父親は鉄道員でした。村の目抜きと言っても日光街道沿いのまばらな家並みで、鉄道駅に隣接した社宅から半丁場(約2km)ほど続く田圃の中程にある墓地の前を通るのが怖くて、とても一人では出かけられず、遊び友達はいませんでした。

 その為、学齢期に達する前から気軽に電車に乗っては、東京浅草までの一時間半の一人旅を楽しんでいました。時折の車内検札では車掌たちは駅長の息子と周知していたので、幼児の無賃乗車でも咎められる事無く、運転手の直ぐ後ろの窓越しに自分が運転手気取で立っていたのが想い出されます。
 また父親は職業柄転勤が多く、義務教育が終わるまでに7回も転校するなど、自ずと周辺環境や友人仲間との順応性、そして放浪癖が培われ、三つ子の魂百までと、これが尾を引き後遺症となり、後日ブラジル移民に至ったのかも知れません。
 しかし兄弟6人の大家族は貧しく、更には病弱な父親は1年間の休職を余儀なくされたので、中学3年当時の日曜は、近くの進駐軍の演習場に隣接したゴルフ場でキャディーとして働き、中学生の体躯で バックを担いでの18ホールは厳しいので、常連のアメリカ陸軍大佐は、必要なクラブだけを選び軽量化してくれるなど気遣ってくれました。
 高校は4年制の都立高校の夜間部に入学し、昼はゴルフ場で知り合った大佐の紹介で、東京市ヶ谷の元アメリカ極東軍総司令部(現防衛省)で下働きのメッセンジャーとして働きました。


米軍市ヶ谷基地の下働きで垣間見たアメリカ

 多感な年頃の私は日々アメリカ人と接触し、彼らの生活様式を目の当たりにするにつれ、当時の敗戦国日本の貧しい生活様式とは雲泥の差である、アメリカの物質文明への憧憬の念は嵩ずるばかりでした。同時に将来は何とか日本から脱出したい社会逃避の手段を模索しました。
 当時の日本からアメリカへの移民枠は年間380名程でしたが、アメリカ在住日系人の近親呼び寄せだけで定員の殆どは占められました。それで大学だけは卒業しておくべきと大学と専攻学科を詮索しているうちに、抱いていた将来のアメリカ移民の志望は色褪せてきました。

 それは軍人社会という特殊な集団ではありますが、日々職場で垣間見る殆どのアメリカ人の脳裏の奥に潜んでいると思われる、人種差別からの、有色人種に対する偏見と差別への先入観でした。将来アメリカに住み着いても、自分にはこの差別や偏見に耐え偲ぶ事ができるかの疑問が付きまといました。
 今まで羨望の的となっていた物や金による豊かな物質文明は、考え方によれば個人的な欲望に伴う一過性のものに過ぎず、人種的な偏見はアメリカに住む限り生涯付き纏い払拭できない宿命と悟りました。
 後日談ですがブラジルに移住し7年ほど経った頃、所用で日本に一時帰国した折ニューヨークを経由したので観光しました。タイムズスクエアの街角を始め訪れた先々で、日系二世と思しき複数の若者に道を尋ねた時の彼らの態度や言葉使いは、一律に恰もアメリカ社会から虐げられ、そのはけ口を敗戦国民として見下した同族の日本人に投げかけているかのようで、大変後味の悪い思いをしました。
 もしもサンパウロのど真ん中で、ブラジル生まれと思しき日系人に道を尋ねたとしたら、「おじさん、こっちこっち」とばかりややオーバーな身振り手振りで始まる差別を知らない素朴で大らかな対応がされるだろうと思い較べ、過ぎ去った当時の抱負が蘇り、ブラジルに移住したのは正解だったと自問自答した事が想い出されます。


鹿児島大学に進学、さらに南のブラジルへ

 話は戻り、丁度その頃、鹿児島県坊津出身の池田某の、ブラジル在住鹿児島県人の功成り財成りの成功者の伝記を収録した著書を何度も貪り読むほどに、異口同音に経済的な格差はあるけれど各民族が融合し、人種差別など全く抱かない温厚で赤裸々な国民性、領土の約半分を占める、広大で肥沃な農牧地、熱帯と温帯を共有し、台風や地震など皆無の恵まれた大自然などなど、日本では想像だにできない実態を日本と対比し伺い知る程に、自分は鹿児島大学に進学した後、ブラジルに移住して水産業に携わるとの抱負を固めました。
 しかし高校の学業成績は仕事柄、英語は5点採点方式で4と5の評価でしたが、他の科目はとても国立大学を受験できるレベルではありませんでした。

 それで一念発起して昼はアメリカ軍施設で継続して働きながら受験勉強に専念した結果、2浪にして念願が叶い合格しました。当時私は東京に住んで居たので生来の放浪癖からほとばしる遠く、そしてより遠い彼方への羨望や妄想は現実味を帯びて来ました。
 日本列島南の果ての鹿児島の大学に進学し、さらには地球の果てのブラジルくんだりまで南下して、自由奔放に生きる安住の地とする想いは馳せました。在学中の夏休みは東京の実家に帰省しました。
 当時の国鉄は学生には50%の割引運賃での乗車券を発売していました。私の放浪癖は誰憚る事もなく鹿児島、山陰、北陸、函館、宗谷の各本線を経て、北海道最北端の稚内経由の東京都区内行き周遊券を求めたので、駅員は遠距離賃金表を取り寄せ、時間をかけての計算には当惑気味でした。
 しかし蒸気機関車が吐き出す黒煙で延べ一週間も燻蒸された容貌は、得難い想い出となりました。在学中は日本学生海外移住連盟に入会し、他校との移住情報の共有しながら、ブラジル移住手続きは完了し、大学も人並みに卒業できました。 


乗船前に偶然キノコ栽培の修行

 ここまでの移民に至る動機の経緯を要約しますと、先ず父親が鉄道員で転勤が多く7回も転校したので、頻繁に変わる友達、周辺環境、境遇への同調や馴致の習慣が自ずと身に付いた反面、定着性や自主性が疎くなり常に新しく遠く次なるものを求める放浪癖が培われた事、そして大家族で貧しく高校は夜間部で昼は駐留軍の施設で働いた事による、当時のアメリカと日本の生活水準の格差からの物質文明への憧憬と人種差別を知り、宿命的な貧困から逃避への願望志向が根強い等の、相乗的因果に起因した結果がブラジル移民の動機になったと思われます。
 当時の横浜出航の移民傭船は東航パナマ経由の大阪商船と、西航ケープタウン経由のオランダのインターオーシャンラインズの貨客兼移民傭船とが隔月就航しました。

 ブラジルまでの所要日数は東航の大阪商船が40日、西航のオランダ船が60日と20日程余計になりますが、持ち前の放浪癖からアフリカ経由は千載一遇の機会とばかり、何の迷いも考える事もなく即決し、西航オランダ船でのケープタウン経由を選びました。
 本船の移民乗船者定員は300名程で、神戸、那覇、香港からの乗船者もいるので、私の乗船は8月出航のルイス号と決まりました。
 しかし卒業して8月までの半年間を同伴する伴侶と実家に居候するのは近所への世間体もあり、両親にも申し訳ないので、千葉県の習志野缶詰(株)で移民船が出港する迄の約束で雇用してもらいました。
 当工場は東京湾で獲れる貝類と、自社栽培のマッシュルームの缶詰加工品をアメリカに輸出していました。缶詰加工は大学の専門課程で、理論と工場実習を受講しているので異業種のマッシュルーム栽培を志願しました。
 とにかくキノコの生活史に於いて子実体の形態が日々刻々と変わる姿形に魅せられ、乗船迄の6カ月間でマッシュルームの栽培過程での原菌培養、種菌拡大培養、堆肥発酵、菌床造成、植菌、覆土、菌床と菌舎の空調管理等を体験する事が出来ました。


ブラジルまでの携行資金わずか80ドル

 いよいよ県庁の移住斡旋課から渡航準備の為、出航一週間前に横浜の移住斡旋所に入所すべく連絡がありました。斡旋所では面接による身上調査、身体検査、ブラジル語と現地事情の講座など充実した日々が過ぎました。
 出航前日、当時の東京銀行から渡航者の携行資金の両替業務が斡旋所内で行われました。私の順番になり、ブラジルで当面必要と思われる日本食や日用品、それに世話になる人への土産物等を購入した残りの、手許総額2万9千円を差し出しました。

 受け取った行員は、「これだけですか??」と不審そうな目付きで念を押し、顔をしかめました。当時のドルのレートは日々の変動制では無く一律に360円だったので、パスポートの最終ページの所定の携行資金記載欄にU$80と記帳し、両替担当者の捺印をしてから100円玉で釣り銭をくれました。
 恐らく後にも先にも日本からブラジルへの移民携行資金U$80は、最低の貧乏所帯だったに違いないと“自負”しています。
 然し「ブラジルに行ったら何とかなるさ」との無謀な若気の至りで、携行資金についてはとかく憂慮しませんでした。私は両親や家族の反対を押し切っての、半ば勘当同然のブラジル移民なので、今更、財産分与を無心できる立場ではありませんでした。


当時の野澤さんのパスポートには携行資金が80ドルと明記されている。大学卒業した年、餞別が3万円だった。1ドルが360円だったので80ドル。当時、初任給は1万5千円程度の時代だった

食べてばかりいた移民船の2カ月間

かすれた音色の蛍の光が哀愁をさそいながらこだまし、色とりどりの別れの紙テープが乱舞する様子。出港前の見送りで賑わう、横浜港山下桟橋の埠頭

 横浜港の山下桟橋には、アムステルダム船籍の貨客兼移民傭船ルイス号、1万5千トンが昼下がりの出航を前に接岸し、船上も埠頭も人また人でゴッタ返していました。埠頭で見送る親族や友人と甲板の欄かんに身を乗り出した乗船者とが、互いに引っ張り合っている色とりどりのテープは交差して閃き、辺りには古びた拡声器から漏れてくるカスレタ音色の蛍の光が何度となく繰り返されては響き渡り、さらなる哀愁に誘われました。
 埠頭には私のブラジル移民をどこで知ったのか、予想外に多くの親戚や友人が見送りに来てくれ、出港間際の群集の中に、計らずもマッシュルーム栽培を体験した工場長が駆けつけてくれ、ブラジルに行ったら役に立つかも知れないと、餞別代わりにキノコ栽培者にはバイブル的存在だった岩出亥之助三重大教授の専門書『食用菌蕈類と其の培養』と白色と褐色(ボヘミアン)のマッシュルームの種菌を、千葉から山下桟橋まで電車を何度も乗り継ぎ、往時の鹿屋の海軍特攻隊上がりの上司は最後まで気遣ってくれました。
 未だ響き渡っていた蛍の光に割り込むかのように、船員が出航合図の枠に吊るした銅鑼をバチで打鳴らしながら甲板を廻り始め見送人は下船しました。
 「頑張れよー!」「長生きしろよー!」「お袋は心配するなよー!」「金さ貯めて早く帰って来いよー!」などなど、粗野だがむき出しな思い思いの情感溢れる歓呼の声に送られながら、移民傭船ルイス号は2隻のタグボートに曳航されながら、夕闇迫る山下桟橋を後にしました。
 本船には100人余りの北海道炭鉱離職者移民、呼び寄せ家族移民、単身者移民、ロシア系難民が数家族乗船しました。最上甲板に特設された移民居住区では、隣との間仕切りや天井を帆布で囲い覆われた個室が当てがわれ、部屋には鉄パイプで出来た蚕棚式の二段ベッドが一脚と寝具が準備されただけの簡素なものでした。
 2カ月間の船上生活に必要な身辺の必需品を入れたダンボール箱は部屋に入れ、他の携行荷物は船倉預かりとしました。我々の個室には冷蔵庫も空調設備も無いので、お土産のうなぎ、明太子や種菌は乗船するや、いち早く言葉を交わした、オランダのアムステルダムの商船学校を出て間もない、青年三等航海士の冷蔵庫とクーラー付きの部屋に保管を依頼しました。

移民用個室には空調も冷蔵庫もないので、お土産の鰻、明太子、種菌類の保管を三等航海士の個室に依頼した(中央が野澤さん)

 横浜を出港して南半球に入るまでは盛夏で、空調の無い部屋は昼間は蒸風呂なので、甲板の日陰で終日麻雀や無責任な車座放談に興じ、時折催される運動会や演芸会や赤道祭りに参会しました。
 一般船員の殆どは英国旅券を所持する香港で雇われた広東人で占められ、片言の英語を理解し、移住者への食事は沖縄から乗船した料理人が担当しました。船会社は日本食ならどこでも同じ料理と味付けと思ったようで、当初は初めて味わう沖縄料理には戸惑いましたが、その内に独特の食味にも慣れ殆ど完食しました。
 朝昼晩の食事以外にも3度の間食があり、食べてばかりいたので運動不足での肥満対策として毎朝晩、動物園のクマよろしく甲板を行ったり来たり船内を徘徊しました。
 とにかく2カ月間の船内生活はどの移住者に取っても、今後の移住先で遭遇するかも知れない不祥事などおくびにも予想だにしない天下泰平の日々を満喫しながら過ごしていました。
 本船は日本列島を後に神戸、那覇、南シナ海の香港、マラッカ海峡のシンガポール、ペナン、インド洋のモウリシャス、ロレンソマルケス、ダーバン、ポートエリザベス、大西洋のケープタウン、リオの順で寄港し、途中インド洋での低気圧、サイクロンにも遭遇する事無く至極平穏な航海を続けました。(つづく、文中敬称略)

決選投票注目の若き左派トリオ  ニッケイ新聞WEB版より

左よりボウロス、マリリア、マヌエラ氏(Twitter) https://twitter.com/DCM_online/status/1329139673759961088

左よりボウロス、マリリア、マヌエラ氏(Twitter)
https://twitter.com/DCM_online/status/1329139673759961088

 29日に全国市長選の決選投票が行われているが、そこに3人の若い左派候補者が残っていることに注目が集まっている。
 その3人とは、サンパウロ市のギリェルメ・ボウロス氏(社会主義自由党・PSOL)、南大河州ポルト・アレグレのマヌエラ・ダヴィラ氏(ブラジル共産党・PCDoB)、そしてペルナンブッコ州レシフェのマリリア・アラエス氏(労働者党・PT)だ。ボウロス氏38歳、マヌエラ氏39歳、マリリア氏36歳。いずれも国を代表する大都市の決選投票に、ここまで若い市長候補者が残っていることはかなり珍しい。


 3人が健闘しているのは、それぞれ知名度を高める話題が以前にあったためだ。ボウロス氏は18年大統領選への出馬、マヌエラ氏は同大統領選でのフェルナンド・ハダジ氏(PT)の副候補。そしてマリリア氏は、ペルナンブッコ州一の政治一家でブラジル社会党(PSB)の創始者ミゲル・アラエス元知事の孫で、14年大統領選中に飛行機事故死して話題となったエドゥアルド・カンポス氏のいとこ。
 しかも、同選挙の対立候補であるジョアン・カンポス氏は同元知事のひ孫であり、同じ一族による骨肉の争いだ。
 マリリア氏はカンポス氏の政治姿勢を見て「これはもはや左派ではない」と反目し、PSBを離党しPTに移籍。自らの政治信条のために政治家一族を抜けたその反骨精神は、地元では大いに話題を呼び、高く評価された。
 今回の市長選でこの3人は、いずれも2位となっているが、しぶとく決選投票まで残った。だが、左派支持者を見ていると、それでもかなり満足度は高そうに見える。なぜか。
 それは、2016年のPT政権崩壊後、久しぶりに将来有望な話題が出来たためだ。彼ら3人くらいの若さなら、2022年の大統領選ではまだ時期尚早でも、26年、30年の選挙でも、まだ40代。今のうちから、大都市の市長選で健闘しているほどだ。2030年代にはかなり期待できる存在にもなりうる。
 それは「ボルソナロ大統領の親衛隊」のような社会自由党(PSL)の議員たちと対照的イメージにもなっている。大統領三男エドゥアルド氏やカルラ・ザンベッリ氏なども年齢的には若く、18年の下議当選後はそれなりに期待も注目もされたはず。
 だが、やっていることがフェイクニュースの拡散や民主主義に対する暴力行為で大統領の足を引っ張る存在となっている。
 それとは対照的にボウロス氏ら左派の若手は、世間の注目がボルソナロ政権に向いているあいだに、女性、有色人種、LGBT、貧困者といった社会的弱者の保護を訴えるという、彼らの政治信条の基本に則り、草の根的に支持を広げ、「若きカリスマ」になりつつある。
 こうした存在は現状で中道勢力にもいない。長い目で見て注目したい存在だ。(陽)

↑このページのトップヘ