私たちの50年!!

1962年5月11日サントス着のあるぜんちな丸第12次航で着伯。681名の同船者の移住先国への定着の過程を戦後移住の歴史の一部として残して置く事を目的とした私たちの40年!!と云うホームページを開設してい居りその関連BLOGとして位置付けている。

2021年02月

浅海さんの連載記事転載その38です。

皆さんへ 第160回 江崎道朗著「コミンテルンの謀略と日本の敗戦」(PHP新書 1108)

と説明すると、公爵は顔色を直して、井上さん、私は実はそうなんです、それで困っているんです。と淡白に認めた。私は、この人は何と言う正直な人だろうと感心しました。大抵の者なら、君はそういうが、私は決して云々、とすぐ反ぱくするところである。近衛総理については色々と調べたが、この近衛二重人格説が最も真実に近いのではないかと私は思っているし、この文章にこそ戦前の日本のエリート達の苦悩が見事に描かれていると思う。というのも、之まで本書で指摘してきたように、日本の魂と社会主義という二つの相矛盾する価値観を抱えて、どうしていいのか分らなかった二重人格は、近衛だけではなかったからだ。其れは当時のエリート達全体のなやみであった。歴史と伝統から切り離され、近代化という名の欧米化を推進した戦前のエリート達の多くは、日本の政治的伝統、つまり聖徳太子から五箇条のご誓文、大日本帝国憲法に至る保守自由主義に対する確信を見失っていた。そんな時昭和恐慌に直面し貧困に喘ぐ同胞達を救う為には議会制民主主義や資本主義では駄目だ、統制経済と全体主義でしか日本を救えないと言うコミンテルンの宣伝に乗ってしまったのが近衛総理であり、左右の全体主義者達だったのだ。幸い私は戦前、戦中に苦闘された多くの先生方から、この構図をおしえていただく機会を得た。この構図が見えなければ、昭和史の真実は見えてこない。そしてコミンテルンの謀略を議論しないわが国の歴史学の限界もここにある。ところで、日召と近衛総理が意気投合したのは、当時の政治家達が昭和天皇の御心を軽んじる傾向にあったことに対して、同じ憂慮を抱いていたからであった.日召はこう述べている。私が最も敬服したことは、近衛公は決して噓を言わぬ人だ、ということであった。

其の当時までの日本の政治は、所謂報告政治であって、政府は思うままに政治を行って、あとから、陛下に適当に報告申し上げる。そこには作り事が沢山あった。陛下はもとより平和主義者であらせられ、近衛公もそうだったから、君臣の間が全く緊密で、だからこの近衛内閣の間は戦争回避が出来ていた。東條でも誰でも、皆自分の都合のよいように、陛下に対して嘘をついたが、近衛公には其れが全くなかった。昭和天皇に自分の都合のいいように、適当に報告申し上げる報告政治が戦前、戦中まかり通っていたのである。

 浅海 拝  411頁 

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特別寄稿=福島からドミニカ、ブラジルへ=起死回生の人生で日本人魂磨く=戦後移民が誇る名経営者中桐廣文(続編)=カンノエージェンシー代表 菅野英明 ニッケイ新聞WEB版より

CCM DO BRASIL CEOの中桐廣文社長

 創業以来、48期48年間、連続黒字決算を誇る不敗の会社を築いたCCM do Brasil社と創業者の中桐廣文。先週の特別寄稿の続編となる本稿では、創業経営者としての姿と同時に、ブラジル中桐家の移住史、人生信条など、農業だけではない日系経営者がいることを伝えたい。

中桐と会社が評価される6つの理由

 ブラジル全土の会社の中でも同社が評価され信用される要因として次の6点が挙げられる。創業経営者・中桐廣文が社員とともに築いた功績である。
★部品を含めて8万点に及ぶ農業機器商品を販売するトータルソリューション会社として、全伯農業生産者のあらゆる商品ニーズに応えている。
★全伯27州に築いた1万社を超える販売のネットワークと2500社のアフターサービス店で完璧な販売態勢を築いている。
★生産工場を持たないメーカーとしてコスト削減と経営合理化の徹底。
★ブラジルのあらゆる経済変化に即応できる全天候型の経営態勢を築いている。
★先見性に裏打ちされた情報収集力と無借金経営及び社員の少数精鋭主義
★取引先から評価される「儲けと信用」という経営信条と中桐の人間的魅力
 次に事業家としての歩みを振り返ってみよう。
 1972年12月に会社DIPAMA社(DISTRIBUIDORA PARANAENSE DE MAQUINAS AGRICOLAS -パラナ州農業機器販売代理店)をパラナ州シアノルテ市に設立、農業用機器と農業用小型トラクターの販売店。
 1980年1月9日、パラナ州ロンドリーナ市にて、COMERCIAL TECNICA DE MOTOSSERAS LTDA (称通MOTOLON社)で会社設立、商業販売代理店、チエーンソー、メンテナンス、整備店などを行う。
 1982年2月1日、クリチバ市にCENTRO COMERCIAL DE MOTOSSERAS社を設立。1989年7月にロンドリーナ市の(MOTOLON)社を経営管理、
 1991年10月にCIA. COMERCIAL DE MAQUINAS CCM LTDA社に社名を変える。
 2008年11月21日、CIA COMERCIAL DE MAQUINAS CCM LTDA社はCCM MAQUINAS E MOTORES LTDA社に社名を変え、CCM do Brasil社で現在に至っている。

クリチバ市民としての中桐廣文とは

 1947年6月27日生まれで日本国福岡県出身。
 1972年9月16日に科子(しなこ)と結婚。
 1982年4月20日に日本国籍からブラジル国籍に切り替えた。
 現在、パラナ日伯商工会議所の副会頭として大切な貿易相手国である日本との友好と商業の発展のために尽力している。
 またブラジル日本文化科学研究所の会頭として、パラナ州の経済発展のために貢献、日本企業とブラジル企業との協力関係を築き、両国中小企業の発展のために率先して活動してきた。
 2000年には、ブラジル発見500年記念祝いで、ブラジルの発展に貢献した事業家500名の1人として Empresas e Empresarios 社より表彰状を受賞。
 2001年3月29日、クリチバ市が308年誕生創立式に、クリチバ市議会より「クリチバ市賞」を受賞。
 2013年6月18日、ブラジリア連邦議会議員グループの会派ブラジル日本連邦議員連盟より表彰状と感謝プレートを受け取る。多年にわたり日本とブラジル両国の友好親善などに尽力し多大な成果を収め、その功績は顕著なものであると認められ表彰された。
 2013年6月24日パラナ州議会から日本人移民105周年を祝い、パラナ州日系社会への貢献から州議員の万場一致で表彰される。
 2017年 クリチバ名誉市民賞を受賞
 2018年 外務大臣賞を受賞
 2020年 叙勲 旭日単光章を受賞

両親の教育と商売の原点

 1947年に福岡県で父・虎二(とらじ)と母・行子(ゆくこ)の間に3人兄妹の2番目として生まれた。
 両親の教育方針で、もの心がついた幼少年期から日本の伝統的な教育方針に沿って育てられた廣文少年は、話し言葉、人との挨拶、相手をおもいやるつき合い方、日常の身だしなみ、日常生活などを、近所や居住地域でも名の知れた模範的な優等生で過ごしている。
 これが青年期以降の仕事や生活に繋がる原点になっている。そこには血の通った家庭を大切にする両親の愛情があった。
 里心がつく1957年11月に家族でドミニカ移民として、10歳から15歳までの5年間、多感な少年期をこの移住地で過ごした。
 その少年期を回顧してみよう。日本の国策による移住者1300人に与えられた配耕地は、大部分が石ころだらけの荒地で、その後、国を相手に訴訟し勝訴したほどだった。それほど農作業には適さない土地だった。
 しかし子供の将来のために新天地を求めて海外移住を決断した中桐家は、移住しても子供にひもじい思いをさせてはならないと子供第一の家庭生活を優先させている。両親の教育方針で、貧しくても卑屈にならない。
 長男らしく、家長らしく、日本の心を持った、自主独往で挑戦心が旺盛な、未来志向の精神文化を、この期間に「人生の生き方考え方」として自分のものにしている。
 そして、一時帰国した1年後の16歳になった1963年4月に、中桐家はブラジルに再移住することになった。最初の移住地はブラジル最南端にあるリオ・グランデ・ド・スル州だった。一家で農作業に従事、翌年に隣のサンタカタリーナ州に移転し米作に精を出した。
 さらに農地の適作地を求めて、パラナ州に再度移住した。ちなみにこの南部3州は、経済力とともに、人々の民度と道徳意識が高く、いまでもブラジルの先進地域であり、ヨーロッパ系移民が多く住むブラジルのヨーロッパともいわれる地域だ。
 このパラナ生活が中桐廣文と中桐家にとって移住生活にピリオドを打った人生の出発点になった。いわば16歳からの新たな人生行路を築く船出になった土地だった。

 父の農作業を助けながら「世のため、人にためになる仕事」を探していた中桐は、自分の農業経験を通して肉体労働者の農作業負担を軽くして、なおかつ生産性向上に繋がる農業機器の販売業にたどり着いた。
 これが人生の転機であり節目になった。農機具販売店勤務での営業を通して、農業機器の専門知識を身につけ、お客様が何を求めているのかという市場ニーズも学んだ。同時にお客様とは信頼関係が第一、そのためにはお互いが儲かることが商売繁盛の原点となった。
*     *
 18歳から25歳までの8年間は会社を立ち上げるための準備期間でもあったが、親孝行第一の中桐は、同世代とは異なり遊び事もせずに仕事一筋に没頭し、この間も家計を助け続けた生真面目な青年だった。
 これ以降もいまも、少年期からブラジルで暮らす中桐廣文にとって、自分の故郷とは生まれ育った時から日本と父と母であり、家族を持った時からもブラジルと家族そのものが故郷となっている。それゆえに中桐の家族愛と人間愛は人並み外れたものがあり、それが人徳にある人間性重視の経営者・中桐廣文を誕生させた。
 1972年に科子との結婚と境に会社を立ち上げて、いままで働いた農業と農機具分野の経験を生かし、農業機器販売の経営者として生きる決断をした。大学に行けるような家庭の余裕はなかったが、この間、独学でブラジルの商法、税法、労働法を習得した。
 以来、実務経営にも強い経営者といわれる由縁になった出来事だった。

科子(しなこ)夫人と中桐家の家族

本社ビル前で中桐と科子夫人

 創業以来、いまも同社の財務経理担当最高責任者として中桐を支え続けているのが1972年に結婚した科子夫人である。同社のトップブランドである『ナカシ』は中桐科子から名付けたもので、妻に対する「思いやりと長年苦労をかけ続けてきた感謝の気持ち」が込められている。
 夫婦愛の強い絆でブラジル中桐家とCCM・ド・ブラジル社を二人三脚で育ててきた。
 科子夫人は妻として、母として、そして会社の経営陣として、結婚以来,中桐を渾身的に支え続けてきた肝っ玉母さんである。科子の父は戦前に京都帝国大学を卒業、その後いくつかの大学の先生を務めた。
 祖父は三井物産勤務のエリートサラリーマンだった。戦後、北海道、長野県で生活し、科子の名は長野県蓼科湖の科の文字をとって命名した。その後、人生の一大決意をして家族でブラジルに移住し傑物人生を貫いた。

 子供は長男が誠治(せいじ)、次男が建二(けんじ)、長女は広美(ひろみ)、次女が真理子(まりこ)、と4人の子供と孫7人に恵まれた。
 この中でも長男の誠治は96年にFAE大学を卒業、03年にはPositivo工科大学を卒業後、12年にはアメリカのハーバード大学に留学し卒業。現在同社の開発本部長として活躍しており、対中国取引の責任者として同社発展に貢献している。
 現在取扱商品のかなりの部分が中国関連製品で占められており、安くて品質力が良くなっている点からお客様ニーズは高い。誠治は父に代わって数年前から中国を担当してきた。その実績は社内外関係者から評価されている。
 同時に誠治は、コーヒー園の丘稜地帯でコーヒー収穫ができる、画期的な大型手袋型タイプの手動式自動収穫機を開発しヒット商品を世に出した。コーヒー農家からは作業効率が大きく向上したとして喜ばれている製品で、事業収益源の1部門に発展させ大きな結果を残している。
 次期社長候補の本命として周囲が納得するような数々の実績を積み重ねている。次男の建二は同社のコンピュータ部門を担当し会社のIT化と実務面で貢献している。
*      *
 中桐をよく知る地元クリチバの経営者の1人は次のようにその功績を讃えている。
 「中桐さんは、勇敢さ、進取の精神で、開拓者としての使命感に支えられ、たくましさと底力を発揮して地域の発展に尽力されている。このことに対し感謝と尊敬の念は計り知れないものがある」。

科子夫人とともに、背景は地域貢献、経済交流など数多くの表彰状と感謝状

激動の人生から育まれた「情」「理」「知」

 中桐とは『情』と『理』、そして『知』を併せ持つ名経営者である。
 『情』は少年時代に経験し、5年間過ごしたドミニカ移民経験と16歳からブラジルに再移住したことが、名経営者・中桐廣文の原点だった。
 苦労続きで働き尽くしだった父と母からの愛情を精一杯受けて育ったことが中桐の人格を形成した。若くして人一倍の仕事人生を体験し、その苦労を知り尽くした上で、人生とは何か、をこの年頃に習得している。
 同時に人間性重視の経営はこの時期に磨かれた。相手が何を考えているのか、相手が何を望んでいるのか、人を思いやる心を第一にした生き方考え方は74歳になったいまも変わらない。
 『理』は経営に私情を持ち込まない、人事の公正化、私心がないこと。経営に関してはその経営合理化による採算性と収益性の徹底、対象事案を客観的に分析していること、全てにわたって世界基準で物事を見て決断する経営を行っていること。
 『知』はものの見方や考え方などの社会常識が普遍的であり、ブラジル特有の賄賂や汚職文化に毒されていない正常な知性を持っていることだ。バランスある知的な見識で人との会話を貫いていること。経営に欠かせない総合的な情報分析を基本にした探求心と挑戦心を持った事業家イズムは人一倍旺盛などが列挙でき、さらに抜きんでた「現状分析、先見性、決断力、実行力」が加わっている。
 創業48周年を迎えた同社の歴史は、ブラジルが繁栄と衰退を繰り返す激変と激動の歴史の中で、会社が存続していること自体が奇跡的と言われる。しかもこの間、創業以来48年間にわたり黒字決算を継続し、1度も赤字決算になったことがない輝かしい社歴を誇っている。
 座右の名は「実るほど 頭を垂れる 稲穂かな」(伝統的な日本精神が込められている)。前回の取材と同様に、地元クリチバはもちろん、全伯のお客様から、全伯の代理店から、世界中の取引先から、社員から、経営者として高い信頼と評価を受けている。
 その中桐廣文とは、前垂れ精神で士魂商才を貫いているブラジル日系人であるとともに、大和魂を持った日本人以上の日本人なのである。(文責=カンノエージェンシー代表 菅野英明)


趣味のクルーザーに込められた父との約束

 クリチバから大西洋の海に向かって100キロ、ブラジル第2の貿易港であるパラナグアに沿って代表的なビーチと隣接するカイオーバヨットクラブがある。日系人の会員は中桐1人である。
 ここに中桐が所有する62フィートの大型クルーザー『第7虎丸』が停泊している。前回の取材では60フィートで第6虎丸だった。船体も一回り大きくなっている。
 船名になぜ虎の文字が入っているのか。父の名が「虎二」だからだ。父は生前に「経営者で成功したお前の姿を目の前にしてから死にたい」と話したことである。中桐はこれを支えに妻の科子とともに事業発展に向けて邁進した。
 その結果、小型船だった第1虎丸から数えて現在の船が7代目。会社の成長と並行するように船も次第に大型化していった。そして光り輝く大西洋の船上から「親父との約束を果たしている証明が船になった。この船に乗っているといつも親父が傍にいるようだ」と誇らしげに顔が輝いた。

静岡文化芸術大学=オンラインで青少年派遣事業=浜松からサンパウロにプレゼン=市の魅力を存分にアピール ニッケイ新聞WEB版より

左から通訳担当の宮城さん、発表した山下さん、南部、佐野さん、竹内さんの5人

左から通訳担当の宮城さん、発表した山下さん、南部、佐野さん、竹内さんの5人

 「発表を終えた時のParabéns!の文字は忘れられません」――静岡文化芸術大学(静岡県浜松所在)の2年生でポルトガル語を学ぶ山下夏実さんは、浜松から聖市のジャパン・ハウスに向けてオンライン発表を行った達成感を、そう綴った。2月22日に日本外務省、静岡県庁、ブラジル静岡県人会が連携する「ブラジル青少年派遣事業」による意見交換会として、同大学の学生4人による発表が8時から10時半にかけてオンライン会議システムを通じて行われた。 

 佐野美咲(さの・みさき、国際文化学科3年)さん、南部知沙(なんぶ・ちさ、国際文化学科3年)さん、竹内唯(たけうち・ゆい、デザイン学科3年)さん、山下夏実(やました・なつみ、国際文化学科2年)さんの4人が発表した。
 19年に同事業のインターシップに参加して来伯した宮城モニカ・ユカリ(国際文化学科4年)さんは今回通訳を務めた。

2月16日のリハの様子。

2月16日のリハの様子。

 本来なら学生が数週間ほど来伯し、ジャパンハウスでの研修や静岡県人会との交流を行っていたが、今年はコロナ禍によりオンラインの勉強会とプレゼンテーションという形になった。
 発表のテーマは、ジャパン・ハウス(エリック・クルッグ館長)から提示された『JHにおける新たなイベント・企画をビジネス・学術・観光の視点から提案する』で、「新(innovation)」「古(tradition)」「改(fusion)」を切り口に浜松の魅力を語った。
 『新』では浜松市内に本社を置くスズキやヤマハの革新的な事業展開を、『古』では鳥居をはじめ神社、浜松市内の伝統的な凧揚げ行事を紹介。『改』では他文化を日本風に変化させる事によって受容してきた事や、昨今の日本での生活様式の変化などがまとめられた。
 発表後に質疑応答となり、続々と質問が寄せられた。「ビジネス観光で訪れた人が現地での観光は可能ですか?」との質問には、宿泊施設が集まる浜松城周辺や、浜松駅内にある誰でも弾けるピアノなどを紹介した。
 国際文化交流に興味があり、海外に日本の魅力を伝える分野で活躍したいという佐野さんは「想定より多くの質問やコメントを頂き、現地の方が求めるプレゼンテーションが出来たように感じました」との手応えを感じた様子。
 ブラジル静岡県人会の原永門会長は、「今年はコロナ禍で学生達がブラジルに来られず残念でしたが、発表は非常に素晴らしい内容でした。文化や知識の交換は非常に重要です」と事業の継続と展開を期待すると供に、関係者に感謝を述べた。
 クルッグ館長は同大学や県庁、同館スタッフへ感謝の言葉を送り「この発表は、同じく日本を発信しているJHにも重要」とうなずき、「静岡県だけでも非常に要素が多い。日本はまだまだ多くの面白い要素があると実感。学ぶべき事がたくさんある」とコメントを寄せた。
 同館にとっても「今の日本を生きる若者」の意見を取り入れる機会となり、「企画中のプロジェクトにある盲点や将来的なプロジェクトの参考にもなった」と黒川ジエゴ渉外担当が説明した。
 池上重弘教授は、オンラインのみの参加や浜松市内に限定した調査となったものの「浜松市の魅力をブラジルの皆様にお伝えする事が出来た。日本にいたことで追加調査ができ発表の質も高まった」と多くの制限下での活動ながらプラスに転じた様子。さらに「今後もJHとの交流を続けることができれば嬉しい」と交流継続に期待を寄せた。


大耳小耳 関連コラム
    ◎
 通訳として参加した宮城モニカ・ユカリさんは2019年にブラジル青少年派遣事業で来伯。サンパウロ総合大学(USP)にも留学経験を持つ。通訳として参加し「改めて学ぶことが多かった」そう。「浜松市の魅力を発信する発表にも、知らなかった事が多く新たな発見がありました」と振り返り「プロジェクトが修了しても今後も繋がりがあると良いと思いました」とコメントを寄せた。

アジア系コミュニティの今(4)=サンパウロ市で奮闘する新来移民=大浦智子=韓国編〈12・終〉 移住スタイルに垣間見る民族性 ニッケイ新聞WEB版より

海外の移民に関する著書『歳月』を手にする鄭夏源さん

海外の移民に関する著書『歳月』を手にする鄭夏源さん

50歳過ぎからの語学習得は難易度が高い

 韓国で社会的地位を築いてきた鄭さんが、ブラジルに移民したのは51歳。「やはり50歳過ぎてから新しい言語を覚えるのは難しいです」と、今にいたるまでブラジル生活で一番困難を感じているのはポルトガル語だと話す。
 01年からは韓国の中央日報ブラジル支社へ毎週コラムを投稿するなど、韓国語での文筆を中心に生活している。韓国やブラジルで経験してきたことを次世代へ伝えておきたいという気持ちも人一倍の鄭さんだ。

 日本語会話はできないが、韓国にいた時もブラジルに来てからも隣国の日本、隣のコミュニティの日本を常に意識しながら過ごしてきた。言葉の壁があり、日本人や日系人の友人もいないが、深い洞察力で日系社会や韓国系社会を観察してきた。アジアの諸事についても、朝鮮半島の視点からとブラジルや南米からの視点で、韓国語が分かれば鄭さんから貴重な意見や証言を得ることができる。
 「韓国から来るメディア関係者は、様々な個人の話をじっくり聞かず、関係機関ばかりを訪問して資料だけを集め、それをコピーして発表するだけ。とても物足りない」と残念な表情を浮かべる。

鄭夏源さんの海外の移民に関する著書『歳月』

鄭夏源さんの海外の移民に関する著書『歳月』


根を張る日本人、移動する韓国人

 鄭さんは執筆活動に専念するため、サンパウロを離れてブラジル各地に移動し、数カ月間を異なる土地で過ごすことがある。
 以前、サンパウロ市近郊のコチアからイビウーナ一帯をじっくりと観察する機会があった。そこで印象的だったのが、日本人移民が長年同じ土地に定住し続け、農業だけでなくスーパーなども経営して、黙々とコミュニティを維持していることだった。
 日本人移民が1908年に最初に公式な到着して以来、日本人は農業移民が多く、幾多の試練を乗り越えてブラジルでの生活を地道に築きあげてきた。
 他方、半世紀ちょっとの歴史を有する韓国人移民は、初期は富裕層が資金を持参して移民し、ブラジルでも商売を短期で成功させてひと儲けし、その後、財産を持って米国やカナダに移住する人々も珍しくなかった。
 中には新しい移住先でせっかく築いた財産を失い、またブラジルに戻ってくるような人もいた。
 この約10年間の不景気とパンデミックによるビジネス環境の悪さで、ブラジルを離れる韓国人は珍しくない。日本人と韓国人では移住することに対する認識やスタイルも趣を異にするといえそうだ。

鄭夏源さんと韓国語通訳の栗木圭子さん

鄭夏源さんと韓国語通訳の栗木圭子さん

 「心配なのは、You Tubeを観ていたら、今の日本の田舎には数十万の空き家があり、過疎化による衰退が進んでいると。戦後、米国によりまずは日本が、そしてそれを模倣して韓国や中国が発展して豊かになりました。しかし、今後は日本の後を追って韓国でも衰退の足音が忍び寄るのではないかということです」と、海外にいるからこそアジアを俯瞰し、常に郷里を思う鄭さん。
 遠くにある祖国やアジアを、じっと目を凝らして真剣に見つめるその後ろ姿は、日本人移民の先人と大差ないと痛感した。(終/韓国語通訳協力:栗木圭子)

浅海さんの連載記事転載その37です。

皆さんへ 第159回 江崎道朗著「コミンテルンの謀略と日本の敗戦」(PHP新書 1108)

私は以前、岸信介政権から福田赳夫政権にかけて対インドネシア秘密交渉を担当していた中島慎三郎に、近衛総理の事を伺った事がある。すると、それは玉井顕治先生に聞いたらよいとご紹介いただいた。玉井は戦前、戯曲、出家と其の弟子で有名な作家、倉田百三の私塾、生きんとての会にかよい、作家の林房雄や亀井勝一郎らとも交流があった。其の関係で敗戦直後の1946年、昭和21年井上日召の自伝を書く仕事を引き受けた玉井は、日召から直接話を聞き、それをまとめて1947年、昭和22年、日本週報社から日召伝として刊行していた。青年時代に中国大陸において日本軍の秘密諜報員をしていた井上日召は、1932年、昭和7年に起った血盟団事件の中心人物であった。テロに直接関与したわけではなく、連座する形で実刑判決を受け、8年間、在獄した。仮出獄後、自由民権運動団体、玄洋社の頭山満と政友会長老の小川平吉の勧めで近衛文麿総理と会うことになった。1941年、昭和16年3月近衛文麿と会談したところ意気投合し、その後、日召は近衛総理の私邸にに泊り込み相談役を務めるようになった。日米戦争前のあの混乱期に、近衛総理の最も身近にい

た一人がこの日召なのだ。私が玉井にお目にかかって、近衛総理はどういう人物だったのですかとお尋ねしたところ、日召伝の復刻版を取り出され、近衛さんは二重人格者であり、勇気がなかったとおっしゃり、本の一節を示された。そこには、日召が近衛総理の私邸、萩外荘にて近衛総理と初めて会ったときの様子が描かれていた。初めての会見だったが、私は極めて率直に無遠慮に意見を述べた。たとえば、公爵、貴方は二重人格ですねと言うと、近衛公は一瞬不味い顔をして、其れはなぜですかと聞いた。そこでわたしは、 貴方は、京大学生時代から河上肇などの社会主義理論を植え付けられておられるので、今日までも理智的には社会主義を肯定する傾向がおありでしょう。かとおもうと、一方では先祖の天児屋命以来伝承して、貴方の血液の中に脈打っている日本的な魂の直感する非社会主義的な傾向もある。つまり、貴方は理智と直感の分裂で、事毎にふらふら迷っておられる。其れを私は二重人格だと言うのですよ。     
浅海 拝  409頁


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