私たちの50年!!

1962年5月11日サントス着のあるぜんちな丸第12次航で着伯。681名の同船者の移住先国への定着の過程を戦後移住の歴史の一部として残して置く事を目的とした私たちの40年!!と云うホームページを開設してい居りその関連BLOGとして位置付けている。

2021年09月

《ブラジル》弁護士がプレベンチ実態暴露「医師にクロロキン処方強制」=影の委員会に擦り寄る役員  ニッケイ新聞WEB版より

CPIでのモラート弁護士(Edilson Rodrigues/Agência Senado)

 28日、上院のコロナ禍の議会調査委員会(CPI)に、クロロキンを含む早期治療用キットの医薬品の不正治験や死亡記録改ざんの疑惑で揺れる高齢者向けの大手保険会社「プレベンチ・セニオル」を告発した医師らの弁護士、ブルーナ・モラート氏が召喚された。モラート氏はかねてから報じられていた、プレベンチの医師へのクロロキンなどの処方強要の実態や、死亡記録の改ざんなどについて証言した。28、29日付現地紙、サイトが報じている。
 モラート氏は、プレベンチによる不正治験や死亡記録改ざん疑惑に関する書類を作成し、CPIに提出した元・現職の医師12人の弁護を務めている。同弁護士は告発文書の作成自体に関わっており、医師らを代弁して証言を行う意向を表明し、この日の証言となった。
 同氏はこの証言に先立ち、プレベンチによる医師たちに対する威嚇疑惑をメディアに告発しただけでなく、自らの事務所も何者かに荒らされるという被害を受けており、この日の証言には諸方面からの注目が集まっていた。
 モラート氏は冒頭から、「今日ここで話すことによって自分の命が危険にさらされるかと不安だ」と、報復を恐れる発言を行った。そのため、ランドルフ・ロドリゲス副委員長が連邦警察に依頼し、彼女の警備を強化させた。
 モラート氏はかねてから噂されていた、コロナへの効用が立証されないヒドロキシクロロキンを含む「Kit-Covid」が、コロナウイルス感染症への処方セットとして強制的に配布された上、慢性病(基礎疾患)を抱える患者に対してまでそれらの医薬品を処方することを強要されたと証言した。また、同社のモットーは「従順と忠誠」で、先日証言を行った同社役員のペドロ・バチスタ・ジュニオル氏もその言葉を語っていた。

 「医薬品を処方する際は必須のはずの事前の心電図テストなども行われていなかった」とモラート氏は証言し、「医師たちはKit-Covidのマニュアルと共に処方を指示され、それに従わないと担当の患者数を減らされたりしており、最悪の場合は解任された」とも語っている。ペドロ氏は先日、医師は自分の判断で薬を処方していると語ったが、モラート氏は「医師には自由はなかった」と語っている。
 同弁護士はさらに、コロナ入院患者には、前立腺がんの治療薬のような、キット以外の医薬品も処方されていたとし、「高齢の患者たちはわらをもつかむ思いのため、これこれの薬を飲むようにと言われても、素直に了承するだけで、自分が治験に使われているとは考えもしなかった」とも語った。

 モラート氏はプレベンチと「影の委員会」の関係についても語り、「ペドロ・バチスタ役員はパンデミック勃発時からルイス・エンリケ・マンデッタ保健相(当時)に近づこうとしていたが、結局、連邦政府、それも経済省に近い医師たちに近づいた」とし、そこでパオロ・ザノット、ニーゼ・ヤマグチ医師らと「影の委員会」につながったと語っている。
 連邦政府や経済省はロックダウンなどによる経済停滞を懸念しており、早期治療によって外出規制などの影響を避けたいと考えていたという。
 また、プレベンチ内では右翼的傾向が強い社風があり、2015~17年には会社のイベントの際、胸に手を当てて「守護者の歌」という社歌を斉唱することを医師たちに義務付けていたという。
 モラート氏はさらに、大統領派の企業家ルシアノ・ハン氏の母親で、今年2月にコロナ感染症で治療中だったサンパウロ市サンクタ・マジオーレ病院で亡くなったレジーナ氏に関しても、「院内でコロナが悪化し、Kit-Covidを処方された末に亡くなった」とし、「彼女の死亡記録は改ざんされた」とハン氏のこれまでの主張と異なる証言を行っている。


★2021年9月28日《ブラジル》CPI延期してプレベンチ・セニオル捜査続行=入院者の22%、4千人死亡=異常な数字とANS疑問視=サンパウロ州議会も解明に乗り出す

★2021年9月25日《ブラジル》サンパウロ州検察局がプレベンチ・セニオル捜査へ=許可なし治験で死因偽証=マンデッタは昨年3月に警鐘=疑惑指摘も解任された原因?
★2021年9月24日《ブラジル》未承認コロナ治療薬治験に死因改ざん=告発医師に口止め発覚=経営責任者がCPI証言=疑惑噴出で集中砲火
★2021年9月18日《ブラジル》患者でクロロキン人体実験?=7人死亡を隠蔽と内部告発=国内史上最悪の医療スキャンダルか


人マチ点描=「岸田さんは広島県人の誇り!」 ニッケイ新聞WEB版より

東京広島県人会70周年時に記念写真。左から2人目が村上ことじさん、岸田さん、佳和さん

東京広島県人会70周年時に記念写真。左から2人目が村上ことじさん、岸田さん、佳和さん

 岸田家は広島の一族ということもあり、1993年に旧広島1区から出馬し初当選した。ブラジル広島県人会の村上佳和、ことじ夫妻も応援エールを送った。
 同夫妻は、2016年に行われた東京広島県人会70周年記念懇談会で岸田氏と面識を持つ。
 佳和さんは、「今回の総裁選は勝ってほしいと願っていたので本当に嬉しいです! と熱く語る。また、ことじさんは「初めて会って握手した時から温厚で感じの良い人でした! しかも、政治家として言う時は言う、やる時はやる人なので世界にも対応できると思います。今回の総裁選出には心のそこから喜んでいます!」と笑顔で述べている。

アジア系コミュニティの今(5)=コミュニティーの顔『美洲時報』=台湾編〈7〉 ニッケイ新聞WEB版より

美洲時報の資料室で創刊年の新聞のとじ込み版を持つカタリーナさん

美洲時報の資料室で創刊年の新聞のとじ込み版を持つカタリーナさん

女の細腕が救った新聞社閉鎖の危機!

 「新聞が大好き。デジタル化された読み物にはなじめない高齢者のためにも、新聞社の営業再開を決めました」。太陽のように輝く笑顔で周囲を魅了するのが、『美洲時報(Chinês América Times)』代表の斯碧瑤さん(スー・ピーヤオ、以下通称カタリーナさんと記す)だ。
 聖市リベルダーデ地区にある事務所を訪ねると、カタリーナさんが最初に連れて行ってくれたのが、過去の新聞が所蔵された資料室だ。

 創刊年1983年の新聞のとじ込み版を開く。創刊号に続き、10月4日の第一号がきれいに収められている。白黒印刷が基本でありながら、『美洲時報』の前身である新聞名『美洲華報』の赤字印刷は、今も華やぎが色あせない。
 『美洲時報』は2017年11月1日に発行をスタートさせた。その2カ月前に、諸事情から『美洲華報』が閉鎖され、代表をはじめ、従業員も解雇されることになった。
 『美洲華報』は台湾系コミュニティの顔として、38年前から台湾や香港、広東からの繁体字の中国語を読める読者を中心に愛読されてきた。コミュニティの情報やブラジルのニュースを繁体字で読みたい一世移民がまだ存在する中、新星の『美洲時報』の代表として白羽の矢を立てられたのがカタリーナさんだった。


アスンシオンを経てサンパウロに

 カタリーナさんは1950年に台北で生まれた。1978年、28歳の時に2歳年上のご主人と2人で日本に渡航し、ブラジルの観光ビザを取得した。日本移民の間でもよく知られたリベルダーデ地区のホテル・バロン・ルーのオーナーが、カタリーナさんの姑の兄弟で、その妻は日本人だった。
 当時は台湾人もブラジルのビザは日本で取得する必要があり、ビザを取得するまでの1カ月半は東京に滞在し、ルー氏の親戚にも助けられた。渡伯前からサンパウロにいた親戚を通じてブラジルの情報は聞いていたが、本当に食べていけるかは未知数だった。
 「舅と姑に、『もし食べていけなかったら困るので、2人の子どもは私たちに預け、最初は夫婦だけで南米に行き、生活できなければ戻ってきなさい』と送り出されました」とかつてを振り返る。今年100歳の姑は今も台北で暮らし、日本語が第一言語である。
 ビザの有効期限内はサンパウロで過ごし、その後、永住ビザを取得するため、一旦パラグアイに移住した。約5年間のアスンシオンでの生活は、最初はレストランとペンションを経営し、その後、雑貨の卸販売を始めた。
 当時はブラジル人やアルゼンチン人の観光客でにぎわい、昼食を食べる暇もないほど商売は繁盛した。台湾を発ってから1年後、4歳の息子と1歳半の娘を呼び寄せた。
 「任天堂のファミコンが飛ぶように売れました。私はゲームができないので、5歳の息子がお客さんに、様々なカセットを取り換えて色々なゲームして見せ、セールスしてくれましたよ」と微笑んで懐かしむ。
 商売に忙しく落ち込む暇もなかったが、パラグアイ生活は、家族4人の生活で、親せきや友人もおらず、特にスペイン語には最初は苦労した。お客さんに会計を意味する「ラ・クエンタ」と言われた時、清涼飲料水の「ファンタ」に聞こえ、レジカウンターまでファンタを持ってきたこと等、今となっては笑い話がたえない。(大浦智子記者、続く)

イベント参加にワクチンパスポート=どこで、どうやって登録?=サンパウロ市でも1日から開始  ニッケイ新聞WEB版より

英語でも表示されるワクチンパスポート

英語でも表示されるワクチンパスポート

 9月1日(水)からサンパウロ市でも500人以上の観客がいるコンサートや見本市、会議、イベント等への参加、一部の施設等でワクチンパスポートの提示が必要となった。
 この「ワクチンパスポート」はセルラー利用者で各ワクチンを接種完了した人が、保健省の公式アプリケーション「Conecte SUS」から、ワクチンパスポートか予防接種証明書を発行できるというもの。
 携帯アプリをダウンロードして使うことに慣れた人ならすんなりできるが、それに自信がない人は子や孫、慣れた若者などに頼んで設定してもらった方がよさそうだ。
 「Conecte SUS」は保健省が提供する無料アプリで、アンドロイドとIOS(アップル)スマートフォンの両者に対応したアプリケーションがあり、アンドロイドならPlay store(プレイストア)、IOSならApp store(アップストア)から無料でダウンロードできる。
 アプリ版を使用するには、まず連邦政府サイトgov.br(https://gov.br/)での登録が必要。CPFやQRコードのほか銀行やクラウドサービスの登録情報など登録方法を選べる。
 ここでは一番一般的であろうCPFでの登録方法を紹介してゆく。自身のCPFや電話番号を入力し、ログインに必要なパスワードを数字と英字、記号を用いた8文字以上で作成する。

ConecteSUS「Carteira de Vacinação Digital」では印刷用の書類も

ConecteSUS「Carteira de Vacinação Digital」では印刷用の書類も

 gov.br登録後にConecte SUSアプリをひらき、「Vacinas」の部分をタップするとまた、下部に接種情報が標示される。
 接種日とワクチンの種類、接種会場などが確認できる。なお、1回以上の接種が必要なワクチンでまだ1回目のみ接種している場合でも1回目の情報が表示される。

 その下の「Carteira de Vacinação Digital」と書かれた青いボタンをクリックすると、QRコードが付いたデジタル証明書とA4の紙に印刷できるようPDFもダウンロードが可能だ。証明書類の有効期間は12カ月間。
 ワクチンを規定回数接種した人には「certificado de vacinação(予防接種証明書)」が発行される。文書には市民情報と、ポ語のほか英語、スペイン語で利用できるQRコードが記載される。
 英語やスペイン語で証明書を発行する事もでき、ページ上部にある国旗と国の頭文字をクリックすることで自動的に選択言語に切り替わる。
 23日時点でのリカルド・ヌネス市長の発表によると、サンパウロ市内での「ワクチンパスポート(passaporte da vacina)」の提示はレストラン、ショッピング・モールでは提示が任意だが、イベントが開催されている場合には提示が必須。
 聖市内での提示であれば市役所のアプリ「e-saude SP」も有効だ。こちらもサイト版とアンドロイド、IOS版のアプリが存在する。登録もCPFや電話番号、名前などの入力で登録が可能だ。

≪アメリカ便り「アフガニスタンとの縁」≫ 富田さんからのお便りです。


 
 和田さん&W50年の皆さん、お元気ですか。20年前の911同時多発テロ事件を契機に始まったアフガン侵攻は、去る816日、首都カブールが陥落してタリバンの勝利で終わりました。アフガニスタンのニュースを見るにつけて、私は学生時代から何かと縁があった、アフガニスタンの人たちを懐かしく思い出しました。そこで、今回は不思議な縁で結ばれた、四人のアフガニスタンの人たちとのエピソードを皆さんにレポートすることにしました。

題して、アメリカ便り「アフガニスタンとの縁」。

自分で言うのもおこがましいのですが、二人の大使、一人の医師、そして一人のお祖父ちゃんとの出会いは、意外性に富んでいて、「小話」のようなオチまである、面白い読み物だと思っています。騙されたと思って、下記のブログを訪ねて頂ければ、幸いです。

https://iron3919.livedoor.blog/archives/11548381.html

富田眞三  Shinzo Tomita

アメリカ便り青グラデーション


 アフガニスタンとの縁 

01.nikkei.com


        写真:(https://nikkei.com)

【蛇足的まえがき】「アフガニスタンとの縁」と題したが、同地に行ったことはない。会ったことがあるアフガニスタン人は一人いるが、今では名前も覚えていない。私はメキシコ、アメリカは永年住んでいたし、母国日本にも30年以上住んでいるので、当然この三国には多くの家族、友人、知人がいる。だが、アフガニスタンには知人もいない。ところが、アフガニスタンとは何かと縁があったのである。

学生時代から4回も「アフガニスタンとの縁」があったことを思い出したのは、8月以降、アフガニスタンのガニ政権が崩壊し、米軍もアフガニスタンを撤収し、再びタリバンがアフガニスタンを制圧した、との報道でアフガニスタンの名を聞く機会が増えたからだった。

そこで、今日は縁もゆかりもない、アフガニスタンとテキサス無宿の4回の出会いを書こうと思う。付き合って頂ければさいわいである。(テキサス無宿記) 

             第1話 駐アフガニスタン日本大使 

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                                    写真:(https://www.dailynewsagency.com)

学生時代の1950年代後半、私は日本学生海外移住連盟(学移連)の一員として、新橋にあった外務省の外郭団体である、海協連(現JICA)の事務所によく出入していた。夏休みには、仲間たちと「海外移住の経済的効果」、「海外移住と国内開拓」等のレポートを海協連の依頼で制作したものだった。そして、海協連に顔を出すうちに理事長だった、仲内憲治氏にコーヒーをご馳走になりながら、外交官だった同氏の話を聞くようになった。

 仲内氏はアフガニスタン大使だったころの想い出話をよく語ってくれた。首都カブールは道路事情が悪かったので、大使の公用車はジープだった、と大使は笑っていた。 

 あるとき、仲内大使と近づきになった、と外務官僚の叔父に話したところ、「眞三くん、あんな人と付き合ってはいけない」と注意された。「彼はノンキャリアだよ」。
叔父は一高東大出のキャリアだったので、エリート意識が高かったのだが、これには驚いた。後年、Wikiで仲内氏の経歴を調べたところ、同氏は大使になる前、千葉県から衆議院選に立候補して、自由党(後の自民党)所属の議員となり、外務委員長を務めたことを知った。なるほど、並みの官僚とは違う雰囲気を持つ素晴らしい人物だった。
 

            第2話 駐米アフガニスタン大使

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   写真:(https//marriot.co.jp)

 これは私がメキシコ市に住んでいたころの話である。確か1980年だったと思う。亡妻と私は初めてのヨーロッパ旅行を終えて、帰国の途中、ニューヨーク市(NYC)に寄り道したのである。それは当時、二人の従弟がNY市勤務だったからだ。空港には日本領事の従弟が迎えにきてくれた。

従弟が予約してくれた、ダウンタウンのセントレジス・ホテルでチェックインを済ますと、そばに置いたはずの、写真フィルムやスーベニールを入れた、ローラー付きのバッグが無くなっていた。5☆ホテルだから盗まれた、とは考え難い。多分、その時間、チェックアウトするお客もいたので、間違って持って行った可能性がある、というのが大男のセキュリティー係の弁解だった。 

何しろ、日本領事が交渉に当たってくれたので、ホテル側の対応は丁重だった。一応、無くなった品々のリストを作ってくれ、と言われたので作ったところ、200ドルだった。金の問題ではなく、旅の写真が無くなったことのショックは大きかった。

 失意の中でのニューヨーク観光は楽しくもなかった。二日目、部屋に戻ると、電話機のメッセージ・ランプが点滅していた。何と、チェックアウトしたお客の運転手が間違って、私のバッグを車のトランクに入れてしまったのだ。ボストンに着いた、その方は違うバッグが紛れ込んでいるのに気づき、ホテルに通知してくれたのだ。翌日、バッグは無事私の手元に届けられた。ホテルのセキュリティー担当によると、そのお客さんたちは、駐米アフガニスタン大使ご夫妻だった。 

           第3話 東大医学部卒のアフガニスタン医師 

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       写真:(https://www.coarchitects.com)

 1990年頃だったと思う。訪日中に受けた人間ドックで、大腸にポリープらしきものがあるので、大腸カメラで検査するようにと医師に言われた。当時メキシコ市在住だったが、サンディエゴに所用があったので、ついでにサンディエゴで検査を受けることにした。下手な医者にかかると、酷い目に会うと友人たちに脅かされたので、メキシコでの検査は避けたのである。

 うまい具合にサンディエゴの日系二世の友人が、東大医学部出身のアフガニスタン人医師を紹介してくれた。

 数日後、医院を訪ねると、最初にアテンドしてくれたのは、英語しか話せない、アメリカ人の看護師だったのであてが外れたが、これは米国の習慣で、患者の体温、血圧、既往症等々のデータを取るのは、看護師の役目なのである。ドクターはこれらのデータを基に患者の診察を行うのである。

肝心のドクターはアラブ風のナイスガイで、完璧な日本語を話し、カメラの操作も上手いもので、まったく痛みはなかった。映像を見たドクターは、「きれいですよ。ポリープ等はありません」と診断してくれた。

 彼は東大医学部を出たあと、付属病院を初め日本で10年間修業を積んだ、と話してくれた。なかなか、親切な先生なので、サンディエゴ在住の日本人に信頼されているのももっともだと思った。サンディエゴで東大出のアフガニスタン生れのお医者さんに出会うとは、これも何かの縁なのですね。

               第4話 アメリカの祖父母の日 

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         写真:筆者撮影

 米国は9月の第二日曜日が祖父母の日となっている。要するに日本の敬老の日である。

私は「祖父母の日」(Grandparents Day)という呼び方の方が好きである。私の4人の孫たちが学んだ学校は、毎年9月の第三金曜日に祖父母の日のお祝いパーティーを開催している。この日、朝10時から幼稚園児たちから始まって、中学3年生まで10学年の生徒たちが、学年ごとにグループを作って、アメリカン民謡を歌ったり、ダンスしたりしてくれる。アメリカ人は陽気だから、歌に合わせて独りで踊っている、お祖母ちゃんまでいて、中々楽しい集いなのである。

私も数回、招待されて参加したが、昼休みには生徒はお祖父ちゃん、お祖母ちゃん、お父さん、お母さんと一緒のテーブルに座って、昼食を摂る習慣になっている。

 さて、これも毎年恒例になっているのだが、昼食を食べている、お爺さん、お婆さんに向かって、今日のお祝いに「遠くからいらした方はいますか?」と校長先生が質問するのだ。すると、カリフォルニアとかニューヨークとか、少し遠いところではメキシコとかカナダから来ました、という返事が返ってくる。私が「Tokyo, Japan」と怒鳴ると、たいてい一番遠方から来たお祖父ちゃんの称号を貰うのである。

 二、三年前、同じ質問に「Tokyo, Japan」と答えると、今度は「カブール」と怒鳴ったお祖父ちゃんがいた。すると校長先生が、「カブールってどこの国ですか?」と訊くと「アフガニスタンの首府ですよ」とそのお祖父ちゃんは答えた。

 私はカブールと東京のどっちがサンアントニオからより遠いかは分からなかったが、校長先生も会場のお祖父ちゃん、お祖母ちゃん一も斉に「Tokyoが一番遠い!」と私を応援してくれた。

この年は珍しく、「最も遠方から来たお祖父ちゃん」への賞品として、学校のスクール・カラーの真っ赤なひざ掛けをプレゼントしてくれた。ここでも、アフガニスタンの人とご縁があったのである。家に帰って、ネットで調べたところ、サンアントニオからは、カブールの方が東京よりずーっと遠いことが分かった。

           第5話 5番目は悪くない(スペインのことわざ)

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         写真:(https://www.indianexpress.com)
「何事においても良いことは最後に起こる」から早々と諦めてはいけない、の意味である。

このことわざはスペインの闘牛に起源している。土曜の午後、開催される闘牛は3人の闘牛士が各々順番に2頭の雄牛の相手をするのが決まりである。昔はトータル6頭の闘牛用雄牛を提供する、飼育業者が競技に出す猛牛の登場する順番を決めたものだった。その際、彼らは5番目に最強の雄牛を選んだのである。

その訳は、闘牛場の観客は5頭目がとどめを刺されると、6頭目を見ないで帰ってしまう人が多かったのだ。そこで、主催者は「5番目の牛は悪くないよ(最高だよ)」と言って最強の猛牛を5番目に用意して、観客の期待に応えたことが、このことわざの由来と言われている。

 従って、何年後かに起こり得る、第5話には何かとても「良いこと」、たとえば絶世のアフガニスタン美女との出会とかがあるかも知れない。いや、それはどうも…。こちとら80も半ばですから、「遅かりし由良之助」ですな。(終わり)


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