私たちの50年!!

1962年5月11日サントス着のあるぜんちな丸第12次航で着伯。681名の同船者の移住先国への定着の過程を戦後移住の歴史の一部として残して置く事を目的とした私たちの40年!!と云うホームページを開設してい居りその関連BLOGとして位置付けている。

2021年10月

《特別寄稿》今、蘇るフェノロサの訓告=「奈良(日本)文化の保護保存の大任は、すなわち奈良(日本人)の人が尽くすべき義務であり栄誉である」=サンパウロ市ヴィラカロン在住 毛利律子 ニッケイ新聞WEB版より

今、フェノロサの訓告を再読する意義

アーネスト・フェノロサ(Unknown authorUnknown author, Public domain, via Wikimedia Commons)

 最近、「日本人であること」を再考することが多くなった。そもそも、外国人が日本という国に対して、多大な尊敬や憧れを抱くのは、なぜだろう。
 国の存在の根幹を為すところが変化することなく続いていること。神話の時代から続く皇統の存在があり、一つの言語が絶えることなく伝承され、学問・芸術は常に琢磨されて継承されている。
 それによって、「世界的に唯一無二の国」との価値が認められているからに他ならない。
 しかし今、フェノロサが危惧したように、日本人自身がそのことを理解せず、他国のなりふりを真似するようなことで、自国の文化を迂闊にしてはいないか。
 外国人が日本に抱く価値観を、フェノロサの訓告に学び直す必要を痛感している。
《願わくば、ヨーロッパ人の真似ばかりせずに、精神を高潔にし、日本人たることを嫌うような風潮が愚弄であることを世に知らせ、日本人として誇れる高い文化の創造を切望してやまないのであります》(『フェノロサの講演』より)
 この言葉は、明治21年(1888年)6月5日淨教寺(奈良県奈良市)の本堂にて、教え子で弟子の岡倉天心(本名・覚三。彼は後に『茶の本』The Book of Teaを英文で著した)の通訳により開催された講演の一節である。

明治期のお雇い外国人教師・3000人

 アーネスト・フェノロサ(Ernest F. Fenolosa 1853-1909)は、「お雇い外国人教師」として東京帝国大学の教壇に立った。
 若干25歳で、明治11~19年の間、東京大学で政治学、経済学、社会学、哲学、美術史などを教え日本美術の復興と再生に多大な貢献をした人物である。

 当時の日本は先進国の欧米に追いつく為に、学者・技術者・軍人などの多くの欧米人を「お雇い外国人」として高給で雇い入れ、ピーク時の明治7年(1874)は500人以上が招かれ、明治期全体では3千人にのぼった。
 フェノロサが来日した頃には、廃仏毀釈運動は収束しつつあったが、西洋文化を重んじるあまり、日本古来の文化を軽視する風潮は依然として続いていた。

岡倉天心(1863 – 1913)。日本の美術評論家(Unknown authorUnknown author, Public domain, via Wikimedia Commons)

 来日後すぐに、仏像や浮世絵など様々な日本美術の美しさに心を奪われたフェノロサは、古美術品の収集や研究を始めると同時に、鑑定法を習得、最も彼を魅了した奈良にたびたび出向き、飛鳥・天平の仏像調査に没頭した。岡倉天心が常に通訳として同行した。
 二人はともに、明治23年(1890)、東京美術学校(現・東京藝術大学)を設立し、日本の文化、芸術復興、古美術保護に尽力。

 フェノロサは同年帰国するが、その後もボストン美術館東洋部長などを歴任、日本美術の紹介に努め、明治41年(1908)、ロンドンの大英博物館で急死。享年56歳であった。
 遺体はロンドンで火葬され、未亡人の依頼により遺髪と、遺骨は遺言により分骨され、フェノロサが受戒した滋賀県大津市の三井寺(みいでら)法明院の墓地に葬られた。生前、仏教に改宗し法号を「諦信」と授けられていた。

日本人による日本文化の破壊を目の当たりしたフェノロサの衝撃

 当時の奈良は、明治元年(1868)に明治政府が出した神仏分離令をきっかけとして全国的に起きた、いわゆる廃仏毀釈で多くの仏教建築、仏像、仏画などが破壊され、奈良興福寺の五重塔も売りに出されて解体寸前であった。
 日本人による日本文化の粋である芸術、美術の蹂躙と破壊行為を目撃したフェノロサは、強い衝撃を受ける。

破壊された石仏。川崎市麻生区黒川(me, myself, via Wikimedia Commons)

廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)とは何だったのか

 廃仏毀釈とは、仏教寺院・仏像・経巻(経文の巻物)を破棄し、仏教を廃することを指す。「廃仏」は仏を廃(破壊)し、「毀釈」は、釈尊の教えを壊(毀)すという意味。
 江戸時代から儒学の興隆でしばしば起きるようになったが、とりわけ明治初期に神仏分離によって神道を押し進める風潮の中で、政策を拡大解釈し暴走した民衆をきっかけに引き起こされた。
 日本政府の神仏分離令や大教宣布はあくまでも神道と仏教の分離が目的であり、仏教排斥を意図したものではなかったが、結果として仏像・仏具の破壊といった廃仏毀釈運動(廃仏運動)が全国的に発生したのであった。
 その結果、伊勢(三重県)では、伊勢神宮のお膝元という事もあって、わずか4カ月間で、196の寺が廃寺となった。
 奈良興福寺でも、現在は国宝に指定され、『阿修羅像』で有名な奈良興福寺の場合、五重塔は2万5千円(現価)で売りに出され、薪にされようとしていた。寺領の没収と同時に120名の僧侶が神官に転職させられた。
 安徳天皇陵と平家を祀る塚を境内に持ち、「耳なし芳一」の舞台としても知られる阿弥陀寺も廃され、赤間神宮となり現在に至る。
 廃仏毀釈がもっとも徹底された薩摩藩では、藩内寺院1616寺すべてが消え、僧侶2964人すべてが還俗させられた。廃仏毀釈の主たる目的は、寺院の撞鐘、仏像、什器などから得られる金属から天保通宝を密かに偽造し軍備の拡充を図った。
 特に最悪の状況だったのが仏像・仏画で、日本古来の浮世絵や屏風は二束三文の扱いを受け、仏教に関するものは政府の圧力によってタダ同然で破棄された。
 全国の大寺院は寺領を没収され一気に経済的危機に陥り、生活の為に寺宝を叩き売るほど追い詰められた。
 このように廃仏毀釈は、日本人の手で日本文化を破壊した最悪の愚行であった。
 寺院や仏像、仏画他多くの美術品が破棄・破壊されていることに強い衝撃を受けたフェノロサは、日本美術の保護に立ち上がった。
 1880年、27歳のフェノロサは、文部省に掛け合って美術取調委員となり、岡倉天心を助手として京都・奈良で古美術の調査を開始した。
 明治政府から関西古社寺調査団の顧問に抜擢されたフェノロサは、文化財保護を強く訴え、数々の文化財を破壊から守った。そして、フェノロサの調査が基となって、1897(明治30)年には古社寺保存法(現在の文化財保護法)が制定されたのだった。

日本人の美意識覚醒に邁進したフェノロサ

 こうした活動を通してさらに日本美術の魅力の虜になった彼は、1881年、滅亡寸前の日本画の復興を決意し、日本画家たちに覚醒を求める講演を行なう。
 「日本画の簡潔さは『美』そのものである。手先の技巧に走った西洋画の混沌に優れて美しい」と力説した。
 1888年(35歳)、弟子岡倉天心は欧州の視察体験から、国立美術学校の必要性を痛感。そして日本初の芸術教育機関、東京美術学校(現・東京芸大)を設立し初代校長となり、フェノロサは副校長に就き、美術史講義を担当した。
 そして、その明治二十一年(1888)六月五日、奈良市淨教寺の本堂において、「奈良の諸君に告ぐ」と題した講演が、岡倉天心(覚三)の通訳により開催された。その一部をここに紹介したい。 

フェノロサの講演

 奈良は中央アジアの博物館である。わたくしは昨年、欧州の国々に遊び、とくにイタリアの都、ローマにおいて古物を調べてまいりました。
 この度は日本のローマである奈良にまいりまして、こうしてみなさんにお目にかかりましたこと、まことに奇遇、光栄、と喜んでいる次第であります。
 さて、美術と宗教に関しまして、奈良とローマは大変よく似ております。
 徳川時代、人々は、奈良にいかなるものがあるのか知らないまま、三百年を経過してきたのでありますが、昔の人の思想がいかなるものであったかも知らず、古物の価値も知られなかったありさまは、あたかもローマの古物が土中に埋もれたままであった時代と変わりありません。
 近来となって、古物が探求され、奈良というところも知られるようになりましたが、もしもあの正倉院の御物がなかったならば、日本の古代文化がいかなるものであったか、ほとんど知られないままだったのではないでしょうか。
 それら日本の美術は、ヨーロッパのものとすこしも劣るものではありません。つまりアジアの仏教美術は、この奈良において、完全なるものに仕上がったのだと、わたくしは信じて疑わないのであります。
 奈良は、宗教や美術のみならず、ほかにも多くのことで大陸と関係をもってきました。しかし、多くの国は滅亡し、あるいは戦乱を経て、もはや昔の面目を残していないのであります。当時の文物は、日本に存在するのみでありへます。
 奈良は、じつにじつに中央アジアの博物館と称してよいのであります。

高い文化の創造を切望

救世観音像(百済観音)は200年間公開されていなかった厳重な秘仏。フェノロサが長い交渉の末、法隆寺夢殿の厨子を開扉させて発見したといわれる(Wikimedia Commons)

 ですから、願わくば、ヨーロッパ人の真似ばかりせずに、精神を高潔にし、日本人たることを嫌うような風潮が愚弄であることを世に知らせ、日本人として誇れる高い文化の創造を切望してやまないのであります。
 美術の本義とは人の心にあるものを、外に表すもの。美術について申しますと、ただ器用さや精巧さのみを競わず、昔の人の高尚なる精神をとらえるよう努めるべきであります。
 美術の本義とはいかなるものか。大意を申しますと、人の心にあるものを外に表すものであります。
 もし人間世界に美術がなければ、人間は機械的となり、人情は野卑におち、蒸気機関と同じありさまとなりますことは、歴史に明らかであります。
 美術は、いついかなるときも文化世界にけっして欠かせないもの、文化の要であります。
 しからば日本人は、特有な高尚の思想を研磨し、もって世界に勝ちを制するべきだと思うのでありますが、しかし、完全に達するは、一朝一夕にしてなるものではありません。
 その機会を得るには、美術の教育にあります。しかし美術は機械ではありません。心の感得物であります。
 美術の妙味は、規則をもって教えられるものでなく、名作を多く見て、自然と感得するところにあります。それには、名人の遺作を多く蒐集する博物館を設ける必要があります。
 それには、模範なる古物が散逸しないよう、一か所に集めなくてはなりません。
 最後にわたくしが奈良のみなさまに望みますところは、ここでみなさまが奮発し、率先して、日本美術復古の唱導者となってほしいことであります。
 奈良の古物は、世界の得ることのできない貴重な宝。この奈良の古物は、ひとり奈良という一地方の宝であるのみならず、じつに日本の宝でもあります。
 いや、世界においても、もはや得ることのできない貴重な宝なのであります。ゆえにわたくしは、その義務はみなさまの大いなる栄誉でもあると思うのであります。
 この古物の保護保存を考えずして、いたずらに目の前の小利に惑わされてしまっていては、まことにまことに惜しいことであり、それではこの奈良の価値をまったく理解していないのと同じになってしまうのではないかと、わたくしはそう考えるのであります。(大津昌昭著「森川杜園の生涯」(フェノロサの講演要旨抜粋)

【参考文献】

★京都大学学術情報リポジトリ村形明子「美術真説」とフェノロサ遺稿1983 
★祈りの回廊2018年新関伸也http://inori.nara-kankou.or.jp/inori/special/17fenollosa/
★フェノロサ講演「奈良の諸君に告ぐ」(http://joukyouji.com/houwa0806.html

カエターノの健在はうれしいものの  ニッケイ新聞WEB版より

カエターノの最新作「メウ・ココ」(本人公式サイトより)

カエターノの最新作「メウ・ココ」(本人公式サイトより)

 ブラジル音楽界の大御所カエターノ・ヴェローゾが、21日に最新アルバム「メウ・ココ」を発表し話題となっている。
 カエターノといえば、1960年代後半にかのビートルズの影響を強く受けた反体制文化運動「トロピカリズモ」を牽引して以来、ブラジル音楽界を代表する存在であり続けている。ブラジルの伝統音楽と欧米の先端の音楽からの影響を融合し続ける音楽性は国際的な評価も高く、とりわけ日本のような国では「音楽通」とされる人たちから強く愛される傾向が顕著だ。

 カエターノは60歳をすぎてロック色を強めるなど、年齢を重ねるごとに音楽表現がより過激になることでも知られている。79歳で発表した9年ぶりのアルバムである今作でも、ロック色こそそこまで濃くはないが、衰え知らずの歌声で、もっとも売れていた70年代頃の彼の音楽性に再接近した若々しい作品で好評だ。
 この「カエターノの世代」がブラジル音楽のいわば黄金世代と目されることが少なくないが、この年代は元気な人が多い。ジルベルト・ジル79歳、シコ・ブアルキ77歳、ミルトン・ナシメント79歳、ガル・コスタ76歳、マリア・ベターニア75歳。いずれも現役で非常に元気で、パンデミックが明ければステージ活動も行うことが予想されている人たちばかりだ。彼らが貫禄をもって現役を続けていることが、「ブラジル音楽」に対して好印象を与え続けていることも事実だと思う。
 だが、ちょっと視点を変えてみると、不安も少なくない。いずれも75歳を超えた彼らが、もし、ある日いっせいに音楽活動をやめてしまったら…。そう思うと不安だ。それくらい今のブラジル音楽には、この世代に匹敵する後継者が育っていないからだ。彼らの世代以降で知名度が比較的あるとなると、せいぜいマリーザ・モンチやイヴェッチ・サンガーロがいる程度だ。
 それはすなわち、ブラジル音楽界の国際市場に向けた努力の欠如も同時に意味する。とりわけ90年代以降、ブラジル音楽の市場は内向きとなり、セルタネージャかファンキが二大人気音楽となったが、どちらも国内消費ばかりで世界発信がほとんど行われない。
 その一方で、コロンビアは、米国における中南米移民の急増を背景にスペイン語のままヒップホップ調のダンス・ミュージックで米国に進出。これがまんまと成功し非英語圏の国ではKポップの韓国につぐ一大勢力となっている。ブラジルもアニッタやパブロ・ヴィッタルなどがこの波に乗ろうとしているが、まだ成功したという話は聞いていない。
 カエターノの世代が去った後、果たしてブラジル音楽界は大丈夫か。その不安を解消してくれるだけの存在は、残念ながら、まだ見当たらない。(陽)

特別寄稿=移民国家で生き延びる処世術=母語と外国語では話す態度異なる=サンジョゼー・ドス・カンポス 小林音吉 ニッケイ新聞WEB版より

外国人の中では外国の流儀で発想し、振舞うのが処世術(acworksさん、写真ACサイトより)

 「今、ナナ・モースコーリの La Palomaを聞きながら、キャビアーをつまみにレミーマルタンをちびちび飲んでます」と言いたい所ですが、実は鰯の干物を齧りながらセアラー産のピンガ、イピオカをすすりこんでいます。
 ナナさんもう83歳になったそうです。なんだ俺と三つしか違わないじゃないか? 彼女の唄うララバイもお気に入りの唄です。彼女の声は天使のささやきと絶賛されています。

 40数年前、私がユダヤ人の経営するコンベアー(搬送装置)製造会社に勤務して居た頃、ナチ空軍メッサー・シュミットのパイロットだったドイツ人が入社してきました。
 いかにもドイツ人らしい風貌できつい目付きの人でした。彼が入社して一年過ぎたある日、社長のハンス・コーヘンが予告なしに彼を解雇したのです。
 同じ課で働いていた訳ではないので、解雇の確かな理由は解りませんでしたが、前日まで新しい企画の座長を務めていたのに・・・? しかもハンスとはとてもウマが合っているように見えました。
 退社の日グスタフさんはなんで自分が解雇されたのか見当がつかないといった放心したような表情で会社を去っていきました。口さがない連中は、ユダヤ人の仕返しではないかとしきりに噂をしていました。

 ユダヤ人が二千年前頃国を追われ、今日まで生き延びて現在の地位を獲得できたのは、幼い時からタルムードと呼ばれているユダヤ人として守らなければならない人生の指南書を、何世代にも渡って熟読してきたお陰です。
 その上、さらに居住する国の言語のみならず、数カ国語を成人するまでにマスターしていると、知人のクルツ(スイス人)さんは言っていました。
 大切な情報の大部分は、言葉で伝わって行きます。多くの外国語を話せれば、自国以外の国々で起きている出来事が解ります。単一言語しか話せない人々より有利な位置に立てるのです。
 ユダヤ人が生き延びていくために、多くの外国語を習得することは、あらゆる情報が他よりも早く手に入るので、特に商取引の世界で勝っていくための必須条件なのです。


外国語と母語では話している時の態度が異なる

 私達伯国に住む移住者は、ポ語を使って日常生活を送っています。そしてポ語を使っている時と、日本語を話している時の自分の心の動きの違いに気付きます。
 ポ語を話している時の自分はどちらかというと積極的で、態度にあいまいさが無いのに対して、母語の日本語の時はイエス・ノーをはっきり言わなかったり周りの空気等を読んで波風が立たないように気を使ったりしています。

 この経験から、多言語を話す人達は経験豊かな役者と同じで、話せる言語の数だけ人格も変わるのだと思っています。誤解されるのを承知で、あえて言うなら、「良い意味での多重人格者」とでも言うのでしょうか。
 長編ドラマの主人公がドラマ終了後、本当の自分に戻すのに時間がかると言うのを良く耳にします。それ程役柄に対して感情移入をしていたのでしょう。
 このことは多言語話者にも当てはまるのではないかと感じています。そこで日に何度かは本当の自分に戻らないと、自分の心のコントロールができなくなるのではないかと思っています。
 心の平穏さと言えば、我々と欧米人の休暇の過ごし方の違いについて観察してみたことがあります。我々は海岸に行くと着いて30分も立たない内に立ち上がって、そこらじゅうを歩きまわり貝などを探したりして落ち着きがありません。
 それに対して、欧米人は砂浜に寝そべりひたすら日光浴をするのです。何にもしないのが彼らの流儀なのです。
 このことは職場におけるストレスの強さと関係があるのではないかと思っています。日本のサラリーマンは仕事帰りに同僚達と居酒屋で上司の悪口を肴に軽く飲んで、その日の憂さを晴らす習慣があります。
 しかし彼らは仕事が終われば一目散に我が家へ直行です。したがって彼らのストレス発散の機会は、日本人よりは少ないのではないかと薄々感じていました。そして彼らのストレスへの強さは、恐らく日本人の何倍もあるのではないかと思っています。

 だから仕事を離れた場所では、ひたすら何もしないことでストレス解消をして心のバランスを保っているのではないかと思っています。


多言語話者の能力は諸刃の剣

 これはあくまで私個人の推測ですが、高名なユダヤ人心理学者が多いのと同じくらい、彼らの中には多くの精神異常者もいるのではないかと思っています。何故なら総ての多言語話者が本当の自分を常に取り戻しながら日常生活を送ることが出来たとは思えません。
 心の混乱の中で自分を見失っていった人達がいたとしても、少しも不思議ではないのです。その人の人格形成上、最も重要な部分として、母語が影響していることは、言うをまたないと思っています。
 そしてあえて言うならば、多言語を話すということは、もろ刃の剣なのかもしれません。使い方によっては大変便利かもしれませんが、一旦その使い方を誤れば自分自信を傷つけかねません。
 海外で生きる日本人の一人として、あらゆる場所・機会で二重基準的言動、行動を取らざるを得ない局面があります。
 例えば、あからさまな嘘をつくことは、どこかの国を除いては何処の国でも決して受け入れられません。ですが、本当のことを正直に言ったことで受ける損失は、自分が負わなければなりません。
 本来、自分が持っている人格・性格が話す言語によって、微妙に変化する不思議さに心を奪われることをしばしば体験してきました。
 日本のように一億数千万人が日本語を話し、ヨーロッパの言語に頼らずに科学技術用語を日本語で表現できる国は、世界でも十指にも満たないと言われています。
 日本人の英語力が、一部の人を除いて、世界では最下位だそうです。でもそれは、日本人の外国語習得能力の問題ではなく、覚える必要性が無いからです。
 ちなみにリベルダーデで商売を始める華僑の人達は、移住後数カ月もすれば商売に必要な言葉を覚え伯人達と堂々と渡り合っています。人は必要性を感じなければ、面倒な外国語など無理して覚えようとはしないものです。
 多民族複合国家の中で生き延びて行くには、否が応でも多重人格的にならざるを得ないものと思っています、そのことが「良い悪い」では無くて、そうせざるを得ない環境と捉えています。
 煮ても焼いても食えない連中と付き合うには、日本人的な和を尊ぶ等という考えはきれいさっぱり忘れて、ダブルスタンダード(二重基準)的思考に徹して、欧米人を始めとする外国人に対応することは不可欠なことだと思っています。
 いわゆる日本人特有の性善説をしばし忘れることではないでしょうか。但し、この場合の「二重基準」は「二枚舌」とは完全に一線を画しています。

 「二枚舌」とはあからさまに平気で嘘をつくことを言います。それに対して「二重基準」は、嘘は言ってないが、本当のことも言ってないという極めて微妙な違いが両者の間にあるのではないかと常々感じています。
 このことは多民族国家の中で生き延びて行く戦略であり、必須条件の一つではないかと感じているのです。
 知り合いの女性に数カ国語を話す人がいます。ある時、「ふだん何語で考えているの」と聞いたら、ポ語ですと言っていました。そして状況に応じて瞬時に他の外国語モードに切り替わるのだそうです。
 このことは言葉で説明ができないと言っていました。きっと彼女だけの世界があるのであろうと思っています。
 終わりに、短歌同好会に発表済の一首
「ジジババの 新潟弁を 我が子らは ポ語に訳して 我に伝える」
 お後が宜しいようで・・・・。
《参考書籍》『やっと自虐史観のアホらしさに気付いた日本人』ケント・ギルバート著

≪女性候補者はどこにいる? 政治を「働きやすい場」に≫ 丸木さんと村松さんのコメントです。

丸木で~

 

先月に総選挙で政権維持したカナダのトルドー首相は先週に内閣改造しました。女性閣僚が半数以上を占め、外務や財務はじめ主要閣僚は殆どが女性です。北欧各国同様、カナダでも政治家は女性の職業です。



 昨今日本でも政治家、企業の経営者や幹部職に女性の数が少ない事に不満を述べる人達が出て、それに輪をかけるように大手メデアやSNS報道関係者が外国の例を持ち出して煽り立てる為、すっかり女性達もその気になっている傾向が強い。

 

 確に経済的発展を遂げた欧米諸国の歴史からしても女性の活躍は目覚ましいものがある、しかし経済途上国や共産社会主義国においては女性はまだまだその活躍の場を得られていないのが現実である。

 

 そこで先進国と言われる日本ではどうして女性の活躍が限られているのか本当にそれが開発途上国や共産社会主義国と同類なのかと考えてみる必要があると思う。

 

 *歴史的に卑弥呼の時代から日本は男女差別なく平等を通して来ている、勿論女だてらにに対して男のくせに等の言葉が発せられる事がある全てこれは差別用語では無く敬愛や尊厳に近い言葉である。

 

 *男と女は肉体的に異なることは誰もが認める事実である、その為に肉体労働には女性は不向きでありそこには男の出番がある。肉体的に異なることは人々が集団で暮らし始め、個々が家庭を持ち子供を授かり始める過程で自然に男は食料を確保するために外に狩に出る、女は育児のために家庭内に留まる習慣ができていった。

 

 *外に出ていった男達は社会生活で規則が必要となり集落毎に話し合って長をたてて規則を作って行った、その間女性は個々に育児や食事や清掃で家を守ると言う習慣ができていった。そのうちに時代が過ぎて行き子供達の教育や集落の安全や規律が大切になり国家という組織隊ができ、そこに選ばれた男達が集い規則を作るという政治活動に発展していく。

 

 *経済的発展を遂げた日本の基礎は女性が子供を育て家を守り抜いてきた、男性は外で働き生活費を家にもたらす、という文業が自然に生まれて行った、我々世代はこの時代を男女が分担して生きてきた。日本のこの文化習慣はどこの国にも劣らないと確信している、そして時代は過ぎ1970年、80年には経済発展と共に女性の家庭内での仕事も電化され、子育ても託児所や幼年児教育施設が充実することで次第に女性の多くが義務教育を終えて大学や専門教育を受け、政治や企業、社会活動に参入する機会が増えていく事になる。

 

 *そして現在は男女問わず実力のある人材は社会的地位を得る事ができるまでに活躍の場が増えている、日本の長い歴史から男女の責任ある分担が日本文化習慣では決して差別ではなく、自然に行われて来たことを理解するべきであり、決して外国との比較する必要もない。

 

 *そしてこれからの時代はまさに我々世代が過ごしてきた男女の生活分担も無くなり、個人個人が主体性を持って進んでいける社会になるこれが日本の男女が歩んで来たそしてこれから進む道となっていくと確信する、男女の社会進出が数で表示される西洋の社会構造こそが異常であると思う次第です。村さん-CA

 

 写真:原始時代の男女の分担暮し、
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明治大正時代の女性ファッション、
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昭和の家庭電化時代、
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現代の女性の社会進出、
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⑤AI技術が全てに応用される未来 
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繁田一家の残党=ハナブサ アキラ=(3) ニッケイ新聞WEB版より

 話題は、もっぱら女の話で「おま××」と言う言葉が何回とび出すことやら。
 女子社員が聞いたら、おやじも我々寮生も馬鹿にはされなくても信頼されへんのんは明白や。
 ネクタイはじめ靴下や下着まで共有となり、同じ釜の飯を食う仲間の連帯感は高まったが、いんきんが寮中に蔓延し大騒ぎとなった。
 2階の個室でパーコレーターでコーヒを嗜む潔癖な永岡は、「肌着や靴下の共用だけは勘弁してください」と辞退しよった。
 こんな型破りの寮生活ゆえ、未成年の高校新卒者は独身でも入寮できない。
 工業学校を出て入社してきた船津は、会社では会議中に頬を肘立てて、ぽか~んとしてた。おやじに出身校を訊かれて返事は「デンパッ」、そのような質問には「福岡電波高校です」と答えるのが普通の男や。
「ありゃ、いかれぽんちやで」と、おやじに「ポンチ」と云う渾名をつけられよった。ポンチのやつ、女子社員に「その渾名を逆さまに読んで呼んでくれ」といわっしゃる。ほんに、まあ並みの男ではありまへんな。
 ポンチの同期の万善は「でんすけ」、高倉は「ジェットの鷹」何しろ手が早い、バーの女でも街で知り合った女でも、その日のうちにセックスしてしまう千人斬りが人生の目標。

「さわりの仁科」おさわり専門の色魔ではない、ラグビー試合でボールに触りに行くだけのプレー振り。
 仁科と同期入社の稲積は、運転中に前の車に衝突したので「おかま」。
 はんこを押すだけで仕事は何もせん支店長付の市村は「座頭市」、営業課長の石井は「はったりの石」、サービス課長の南川は「とらふぐ」、釘本は「達磨」、宮森は「もっともの宮」、ワイは「おとぼけのハナさん」。
 超ど級の一物を持つ大津は「巻き寿司」、風呂の長い室園は「ふんどしの川流れ」風呂の中でマスかくこと三こすり半。新入社員で遠慮勝ちに何時も茶の間の端に座る伊藤は「定位置」、運転手の関さんは「夜這いの正ちゃん」。
 くりっとした眼の可愛い島田幾代嬢は「はじき豆」、後でポンチの妻になる小柄の入江は「じゃこ」、女子高を出たばかり将来の美人・内野は「横綱」、助平の田中は「赤鼻」、チキンラーメンのコマーシャルそっくりの福富は「ラーメン」。
 四国でもサービス課長の井上さんは「蛍光灯」。いきなり笑い出すので、何かと思ったら「昨日のしゃれが今解りました」と、一人納得しとったらしい。

 おやじが一人静かに飲む西中洲の老舗バー「梟」のホステスの亭主が、長唄の師匠で寮生は毎週一回長唄を習わされ、ゆかた会で松の緑や小鍛冶の、おさらいをした。
 このバーのマスターは関取の後援をしており九州場所では、おやじが砂被りで観戦中テレビに映し出された。みんなで「おやじがテレビに映ってましたよ」と云ったら「なんじゃい、おまえらも仕事さぼってテレビ観てたんか」。
 親分さぼれば子分もさぼる、やぶ蛇どころかそれを隠さんのが繁田一家や。
 内勤の連中も、結びの一番だけは観戦してたらしい。少々のことは大目にみるところは、さすがおやじや。器が大きい。

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