私たちの50年!!

1962年5月11日サントス着のあるぜんちな丸第12次航で着伯。681名の同船者の移住先国への定着の過程を戦後移住の歴史の一部として残して置く事を目的とした私たちの40年!!と云うホームページを開設してい居りその関連BLOGとして位置付けている。

2022年01月

《ブラジル》子供の感染=1月だけで2年分の倍?=集中治療室使用率も上昇=教育現場での不安も拡大 ブラジル日報WEB版より

 オミクロン株感染が加速する中、一部の州や一部の私立校では既に授業が再開されているが、子供への新型コロナ感染は前例を見ない勢いで拡大し、教育現場が対応に苦慮していると27~28日付現地紙、サイトが報じている。
 子供への感染が急増している事を示す一例は、リオ市で確認された子供の感染者数だ。
 同市では26日までに9歳以下の子供1万47人の感染を確認。この数は20~21年の5235人の約2倍だ。このままなら1月の累計は倍を超す。
 同市では10~19歳でも、2年間の計1万1317人を22%上回る1万3875人の感染者が出ている。
 同市での大人も含めた今年の感染者は22万8129人で、20年総計の21万8033人を超えた。21年の29万3334人超えも時間の問題だ。
 同市にとっての救いは、感染者の急増ぶりに比べ、死者が増えていないことだ。20年の死者総数は1万8971人で、人口10万人あたりの死亡率は284・8だったのに対し、今年は今のところ135人で、人口10万人あたりの死亡率は2となっている。
 サンパウロ市の場合、市立病院の子供用集中治療室(UTI)入院者は年末比で1千%増えており、東部の病院は病床が満杯だ。同市保健局によると、患者の大半は9歳以下で、25床を55床に増やしても1日で埋まったという。

 子供のUTI入院者増は他の州都でも同様で、12月は使用率55%だったゴイアニアは26日現在で76%に、フォルタレーザでは45%が64%に上昇。年末は90%だったサルバドールは満杯となっている。
 同様の傾向は私立病院でも見られ、小児科病棟では特別な配慮が必要なため、経験者不足でこれ以上のUTI増設は無理と語る病院も出ている。
 ブラジル小児科学会のレナト・コフォウリ免疫化部門長は、子供も重症化し得るから、接種可能な年齢の子供には速やかに接種を受けさせるよう勧めている。
 教育現場でも子供の感染例や入院例の急増は心配の種で、教職員への接種や補強接種を完了させると共に、防疫対策徹底を再確認。
 予防接種を受けていない子供の授業参加は禁止こそしないが、接種は児童・青年憲章でも義務付けているため、コロナ以外の予防接種も含めた接種状況を届けさせ、未接種のものがある子供や親に警告後、一定期間を経ても接種を受けなければ児童相談所に通告する予定の学校や、2月中に接種証明の提出を義務付ける意向の州もある。
 児童・青年憲章を理由とする接種義務は最高裁も検察に監視を命じた項目で、遵守しない親は一時的に親権を失う可能性もある。

 同市にとっての救いは、感染者の急増ぶりに比べ、死者が増えていないことだ。20年の死者総数は1万8971人で、人口10万人あたりの死亡率は284・8だったのに対し、今年は今のところ135人で、人口10万人あたりの死亡率は2となっている。
 サンパウロ市の場合、市立病院の子供用集中治療室(UTI)入院者は年末比で1千%増えており、東部の病院は病床が満杯だ。同市保健局によると、患者の大半は9歳以下で、25床を55床に増やしても1日で埋まったという。

 子供のUTI入院者増は他の州都でも同様で、12月は使用率55%だったゴイアニアは26日現在で76%に、フォルタレーザでは45%が64%に上昇。年末は90%だったサルバドールは満杯となっている。
 同様の傾向は私立病院でも見られ、小児科病棟では特別な配慮が必要なため、経験者不足でこれ以上のUTI増設は無理と語る病院も出ている。
 ブラジル小児科学会のレナト・コフォウリ免疫化部門長は、子供も重症化し得るから、接種可能な年齢の子供には速やかに接種を受けさせるよう勧めている。
 教育現場でも子供の感染例や入院例の急増は心配の種で、教職員への接種や補強接種を完了させると共に、防疫対策徹底を再確認。
 予防接種を受けていない子供の授業参加は禁止こそしないが、接種は児童・青年憲章でも義務付けているため、コロナ以外の予防接種も含めた接種状況を届けさせ、未接種のものがある子供や親に警告後、一定期間を経ても接種を受けなければ児童相談所に通告する予定の学校や、2月中に接種証明の提出を義務付ける意向の州もある。
 児童・青年憲章を理由とする接種義務は最高裁も検察に監視を命じた項目で、遵守しない親は一時的に親権を失う可能性もある。

《ブラジル》OECD加盟審査を開始=ボルソナロ自信見せるも=税制改革と環境問題が課題  ブラジル日報WEB版より

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    OECDの加盟国地図(公式サイト)

 連邦政府は25日、経済協力開発機構(OECD)から加盟の誘いを受けたと発表した。国際経済全般を協議するOECDは、一般的に「先進国クラブ」とみなされており、ボルソナロ大統領も加盟承認に自信を見せているが、課題は少なくないとみられている。26~28日付現地紙、サイトが報じている。
 OECDは25日、ブラジル、アルゼンチン、ブルガリア、クロアチア、ペルー、ルーマニアの6国の「加盟を協議する段階に入った」と発表した。
 加盟審査には時間を要し、すぐに承認されるわけではない。だが、ボルソナロ大統領は26日、OECDに感謝の意を示し、「2017年4月に加盟を申請していたOECDへの加盟に関し、私には何の迷いもない。ブラジルが審査を通過するのに十分な状況にあることを保証する」と語った。
 ボルソナロ氏はさらに、「ブラジルは世界経済の成長に貢献できるし、そのために貧困を終わらせることも可能だ」と語り、昨年11月に行われた第26回国連気候変動枠組条約締約国会議(COP26)での「2050年までに温室効果ガスの排出ゼロ」との目標についても、「果たすように努める」と語った。
 ボルソナロ氏は大統領就任後初の訪米となった2019年3月に、トランプ大統領(当時)から「ブラジルのOECD加盟を推薦する」と言われ、大喜びした経緯がある。
 OECDには全世界38カ国が加盟しており、南米諸国でも、チリが2010年、コロンビアも2020年に加盟を果たしている。
 26日は、ボルソナロ大統領の他、シロ・ノゲイラ官房長官も、「我々はOECD入りの用意が出来ている」と発言した。だが、大統領や官房長官の言葉とは裏腹に、「OECDの審査は決して容易ではない」と見る向きが目立っている。

 最大の障壁の一つと見られているのがブラジルの複雑な租税システムで、これがブラジルがOECD入りできなかった理由とみられている。国際商業会議所(ICC)ブラジル代表のガブリエラ・ドーリアッチ氏は、「税制改革が行われない限り、ブラジルのOECD入りはありえない」と語っている。
 連邦政府側はOECDが連邦議会での税制改革の法案審議を急がせると信じており、上院でも2月から審議に取り掛かる意向だが、選挙年に国民への負担が増えかねない法案を議員たちが審議したがるかという大きな問題が残っている。
 加えて、環境問題への協力を強く求めるOECDに対し、国際社会からの森林伐採増批判には「干渉するな」と開き直り、COP26にも参加しなかったボルソナロ大統領が、国際的な約束を順守できるのかを疑問視する声も強い。
 大統領選候補のシロ・ゴメス氏(民主労働党・PDT)、アレッサンドロ・ヴィエイラ氏(シダダニア)、フェリペ・ダヴィラ氏(ノーヴォ)はこぞって、否定的な見方をしている。
 またルーラ政権時代の外相だったセウソ・アモリン氏(労働者党・PT)は、「OECDに入ったところでブラジルへの益は少ない」と分析している。

特別寄稿=相川知子さんと「ニッケイ新聞」と私=小説家 水村美苗 ブラジル日報WEB版より

 私は日本に住み日本語で書く日本人の小説家である。
 アルゼンチンの出版社アドリアナ・イダルゴが、ありがたいことだが、今までに二冊私の小説のスペイン語訳を出してくれた。相川知子さんはその二冊目、『母の遺産―新聞小説』の翻訳者であり、ことあるごとにそのスペイン語訳「La herencia de la Madre」を精力的に宣伝して下さっている。海の向こうでの私の本の宣伝係でもある。ご自身がアルゼンチンに渡ってから30年近いというその相川さんが、このたび、90年前にアルゼンチンに渡った一人の女の人の聞き語りを文章にされた。異国で老いていった日本女性の生の声が聞こえ、当時の状況が目の前に立ち上がる素朴な素晴らしい文章である。また、日本では忘れられがちな日本人の歴史の大切な資料でもある。そのような文章が、あわや廃刊の憂き目にあいそうになった「ニッケイ新聞」を救って引き継ぐ「ブラジル日報」という日本語の新しい新聞に掲載されることになった。
 私にとってもなんだか嬉しい話である。
 実は私は12歳のときに父親の仕事の関係で家族ごとニューヨークに移ったという過去をもつ。32歳のときに日本に戻ってきた。20年間「駐在員の娘」という意識で過ごしていたが、自分でも知らないあいだに私自身変化を遂げていたものと思える。アメリカ滞在も最後になったころ、日本から来た人に、「水村さんて、悪いけど、ちょっと、ブラジルに行った日系人みたい」と言われた。「悪いけど」という表現が狭量な日本社会の偏見のすべてを語っているようだった。それと同時に、はっと思った。真実に直面したときの衝撃があった。たしかに私は日系人のほうに心情的に近くなっていた。私が日本を恋う心はふつうの日本人が「日本食、食べたいなあ」などというのとは質がちがい、魂全体であこがれるようなものであった。飛行機代が安くなった今の駐在員の子どもとちがって、私がアメリカに渡ったころ日本はとてつもなく遠く、日本に戻る日を夢見て思春期をずっと過ごしたせいにちがいなかった。
 今連載を始めた小説(編集部注:月刊新潮『大使とその妻』)は後半でブラジルに舞台が移り、日系ブラジル人たちが登場する。日本を思っていた私自身の気持を日系ブラジル人を通してさらに深いものにして語ろうと考えてのことである。リアリズムの小説というよりも、幻想的な小説で、実際にはありえない世界が日本でもブラジルでも展開される。語り手はブラジルに足を踏み入れたことがない人物として設定されているが、著者の私自身がブラジルを一度も訪れていないのはいくら幻想的な小説だといっても良くないのではないか。そう考え、2020年の夏はしばらくサンパウロに滞在するつもりであった。そこへコロナウィルスが蔓延するという事態になった。
 そんななかで私にとってのもっとも貴重な情報源は「ニッケイ新聞」であった。数年前の記事でもどんどんと奥に入って読めるのがいかにありがたかったか。廃刊になるというニュースがいかに悲しかったか。それが奇跡的に「ブラジル日報」として生まれ変わるのを知ってどんなに嬉しかったか。「ニッケイ新聞」の最終刊で編集長の深沢正雪氏が、救世主が突然現れたことを、「『移民の生活体験を書き残すという邦字紙の使命を、もっとしっかり全うせよ』とむちうたれた」ようだと書かれていたのに心を打たれたのは、私だけではないであろう。私が書こうとしているのは小説だから所詮「絵空事」である。だがそのような「絵空事」を書くための想像力を可能にしてくれるのは、実際に生きた人たちの記憶が文字になって残っていてのことである。
 相川知子さんにも「ニッケイ新聞」にも感謝する。そして「ブラジル日報」が永らく栄えることを海の向こうから祈っている。

追伸

 このレベルの新聞はそうはないのではないかと思いました。編集のかたがたの努力がそのまま伝わってきます。「国際派日本人養成講座」もたいへん面白く拝読しました。いくつかの記事にはルビがついているのがとても親切です。私自身12歳でアメリカに行ってから、ルビつきの日本語を読むことによって日本語を学ぶことができました。



筆者略歴
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 1951年東京出身。
 父親の仕事の関係で12歳で渡米。イェール大学でフランス文学博士課程を修了した。プリンストン大学で教鞭を執る傍ら日本語で小説を書き始める。
 1990年、夏目漱石の未完作品『明暗』の続きを描いた『續明暗』で文化庁芸術選奨新人賞を受賞。その後、『私小説 from left to right』で野間文芸新人賞、『本格小説』で読売文学賞、『日本語が亡びるとき』で小林秀雄賞、『新聞小説 母の遺産』で大佛次郎賞を受賞した。
 月刊新潮にて『大使とその妻』を連載中。新潮社サイト(https://www.shinchosha.co.jp/shincho/tachiyomi/taishitosonotsuma/)で第一回が無料公開されている。

《ブラジル》工業信頼感指数=20年7月以降で最低に=6カ月連続低下で100P切る ブラジル日報WEB版より

特別寄稿=探検家 フランシス・バートン卿=英国人領事のブラジル高地大冒険=聖市ビラ・カロン在住 毛利律子  ブラジル日報WEB版より
2022年1月28日

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フランシス・バートン卿(フレデリック・レイトン、第1男爵レイトン, Public domain, via Wikimedia Commons)

 イギリスの歴史家は、ブラジルにとっての19世紀を「英国の時代」と呼んだ。鉄道敷設などの経済開発や人道的な奴隷解放などが文明国イギリス主導で進んでいたからである。
 その時代に一人の英国人でサントスの領事として着任したリチャード・フランシス・バートン卿(1821年~1890年)がいた。

 おや!リチャード・バートン?否!20世紀1960年代にイギリスのシェークスピア俳優で、ハリウッド往年の大女優エリザベス・テーラーの夫だったリチャード・バートンではない。同姓同名であるが、その100年前のバートン卿は実に奇才・稀有な探検家、19世紀の最も魅力的な人物の一人として名を遺している。

「千一夜物語」を英語に訳した人

 バートン卿がどのような人物かというと、イングランド南西部デヴォン州の港町トーキーで陸軍大佐の長男として生まれ、外交官としての最後の地イタリア・トリエステで69歳のときに亡くなった。
 彼は、19世紀の大英帝国ビクトリア朝を代表する冒険家であり、約30の言語を話し、40以上の方言を駆使したため、スパイの嫌疑がかけられるほどであった。軍人であり、探検家、歴史家、外交官、翻訳者、民族学者、地理学者、詩人…と稀にみる天賦の才に恵まれ、その才能を以て神がかった八面六臂の活躍をした人物であった。
 一般的には、アラビアの『千夜一夜物語』を英語に翻訳した人というのが、最もよく知られるところであろう。
 芥川龍之介は、バートン卿と『千夜一夜物語』について、次のように記している。
「リチヤアド・バアトンの訳した「千一夜物語」――アラビヤン・ナイツは、今日まで出てゐる英訳中で先づ一番完全に近いものであるとせられてゐる。勿論、バアトン以前に出た訳本も数かずあつて、一々挙げる遑も無い程であるが、先づ「千一夜物語」を欧羅巴に紹介した最初の訳本は一七〇四年に出たアントアン・ガラン(Antoine Galland)教授の仏訳本である。
…ガラン教授から一世紀の後―(中略)バアトンは本文を、一話一話に分けないで、原文通り一夜一夜に別けてゐる。又、韻文は散文とせずに韻文に訳出してゐる。之を以て観てもバアトンが如何に原文に忠実であつたかは推察出来ると思ふ。」(「筑摩全集類聚 芥川龍之介全集第四巻」筑摩書房・インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/))

その頃のサントス

 サントス領事着任前にはすでにアフリカやアジアで多くの未知の地域を探検して英国本土に報告していた。アフリカ探検ではソマリア土着民の襲撃を受け、顔に刺さった槍は左頬から右耳の当りまで貫通する重傷を負い、左頬に大きな傷が残った。親友ジョン・スピークとの間に起きたナイル河源流の認定をめぐる悲劇的な論争などで精神的苦悩を抱えながらも、波乱万丈な経験を重ねていた。
 しかし、それらの実地調査による功績によって、英国では有数のアフリカや外地の専門家の一人になっていた。
 バートン卿がサントス領事としてブラジルに滞在したのは、1865年から1868年の3年間である。
 赴任から2カ月遅れでサントス入りしたイザベル夫人は、その地を次のように述べた。
「そこはマングローブの沼地に囲まれた小さな町で、気候は不快極まりない。悪臭、ノミやシラミ、食べ物の悪さ、黒人たちの捉えどころの無さ。歩道はひどく、一方はマングローブの湿地に膝まではまり、もう一方は歩行者めがけてハエが群がる。どこもかしこも虫だらけで、熱病も多い…」
 イザベルは精神錯乱状態になり、バートン卿は、高度800メートルのサンパウロに移ることにした。サンパウロからサントスへは馬で2日かかった。ここも町は整ってはいないが、眺めの良い僧院を見つけ、住居にした。
 サンパウロはマラリアも少なく、夫人の健康も回復してきた。庭は広く、建物も広すぎるほどで、バートン卿は10メートル四方の旧食堂を書斎にし、夫人は礼拝堂をきれいに塗り替えて、地域の人に利用することを勧めた。
 バートン卿はポルトガル語にも堪能で、サンパウロ滞在中に現地語のトゥピ・グアラニ語の習得に取り組み、その文法を編纂したが出版には至らなかった。
 同時期に、16世紀のポルトガルの詩人、ルイス・デ・カモンイスについて発見、彼の『ウズ・ルジアダス』(Os Lusíadas)の全訳を始めながら、11世紀のインドの古典説話集や、サンスクリット語で書かれた『カターサリットサーガラ』の翻訳も手掛けていたが、それらの原稿は倉庫の火事で焼失したという。
 バートン卿という人は、南米において、人生でようやく腰を落ち着け、夫人と共にのんびりとした結婚生活を過ごし、領事職を務める、といった平凡な性格の人ではなかった。彼は少しも家にとどまらず、領事の仕事とは関係なく、絶えず有給休暇をとって、ブラジルの政治、経済、文化、さまざまな天然資源物の鉱脈など、正確な情報収集の旅をした。
 そして、3カ月の休暇を取って、ミナス・ジェライス地方に出かけ、鉱脈の探査と鉄道敷設の可能性を調べた。それは英国の一外交官として、この未開の大国を世に知らせ、本国の植民地外交政策に役立てようという強い自負によるものであった。
 夫妻は時折、リオ・デ・ジャネイロのペトロポリスに出かけて、ドン・ペドロ二世に謁見した。国の安定と発展に尽くしたこの王は、教養があり、アラビア語もサンスクリット語にも通じていたので、両者はすぐに意気投合し、手続きを経ずに直接王のもとに出入りが許された。
 イザベル夫人は王妃からダイアの指輪を頂いたりしたので、他の外交官仲間から妬まれ、夫婦の行動は不当に本国に報告されたという。

国家統合の川サンフランシスコをカヌー探検

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バートン卿の人生最後の大冒険の集大成『ブラジルの高地』(Explorations of the Highlands of the Brasil・Classic reprint series、毛利さん提供)

サンフランシスコ川とは、南米およびブラジル全体で4番目(アマゾン、パラナ、マデイラに次ぐ)に長い川で、南東部ミナス・ジェライス州を源流として5州に跨がり、大西洋に至る全長3160㎞の大河である。
 ブラジルにとって重要なこの川は、国の多様な気候と地域、特に南東部と北東部を結びつけるため、「国家統合の川」と呼ばれている。上流部は鉄鉱など鉱産資源に富む。急流、滝が多いが、古くから交通に利用され、近年電力開発が進んでいる。先住民族はそれを「ヴェーリョ・シッコ」と呼ぶ。
 1867年6月から11月まで、リオ・デ・ジャネイロからミナス・ジェライス州を経由してサバラに至る陸路を辿り、ベルハス川源流からサンフランシスコ河まで移動し、バイーア州のパウロアフォンソ滝に到達して、海に続く行程を記録したのが『ブラジルの高地』(Explorations of the Highlands of the Brasil・Classic reprint series)である。これはバートン卿の人生最後の大冒険の集大成であった。
 バートン卿は、1867年8月7日の黄昏時、3人の現地人乗組員を伴い、二隻の大型カヌー『エリザ』号に乗り込み、文明に別れを告げ、約5カ月間の未踏の地探検に出た。47歳のときであった。その時の心境を「親しい人たちの顔が遠くにかすんで、言いようのない孤独を感じていた…」と白状している。
 これまでのアジアやアフリカにおける探検経験で積んだ知的訓練をもとに、事前に徹底した先住民の調査をして臨んだ旅だった。そして実際に川沿いの人々の生活習慣を注意深く観察した。
 出版された『ブラジルの高地』そのものは「単なる見聞の寄せ集め」と不評であったが、序文は評価された。しかし批評家を喜ばせたこの序文は実は、バートン卿の文章をイザベル夫人が書き直したものであった。
 なぜならカトリック教に熱心でない夫の文章には、神聖な教会をこき下ろす表現が散在していたからである。例えば、「ブラジルの教会学校は、世界から50年遅れている」とあるのはまだしも、「教会は近親相姦を認めている」。重婚についても触れていて、熱心なカトリック信者のイザベル夫人は、「われらの聖ローマカトリック教会がゆがめられて示されている…若い国の、人口を保つための手段としての知識を知らないものに提供されてはいけない」という理由からであった。
 読者に対しては、「これらの人類学上の砂洲、暗礁を避け、上手に舵を取りながら読むように」と締めくくっている。後にこのことを知ったバートン卿はショックを受けたであろうが、どう処理したかについては伝わっていない。


「ブラジルは可能性に充ち満ちた未来の大国」

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『ブラジルの高地』の扉絵(毛利さん提供)

 『ブラジルの高地』には、将来の移住者のために、この高原を知る外交的経済的関心と、人間、社会、文化、自然についての体系的な観察を混ぜ合わせ、本国政府に対しては、未来の国ブラジルの位置づけを確定するための提言が本全体を貫いている。
 報告には、ブラジルの民族的、社会的、政治的統一のためのサンフランシスコ川渓谷開発の重要性が強調される。現地は未開であり野蛮であるが、この地域一帯は高品質の綿花栽培などにも最適である。その文明化のためには、英国政府主導による商業開発を促進して一帯の近代化を図ることや、国の将来への希望など、バートン卿の未来構想が綴られる。
 この本は、英国の政治家であり人類学の学者であるスタンリー卿(1866年から1868年までの首相)に捧げられているが、その中に、ブラジルにおける植民地政策成功のための提案が次のように述べられている。
 ブラジルの文明化プロセスの前進は、鉄道であろうと河川航路であろうと、商業と通信の発展は英国の資金調達によって進められなければならない。
 自然の恵みが非常に豊富で、多くの潜在的な可能性に満ち、それらは進歩を熱望している。我が名誉あるイギリス帝国の先進的能力をもってブラジルと交易すれば、ともに繁栄することは間違いない、ブラジルは格好の貿易相手である、と位置付けている。
 同時に、英国の政治的圧力で奴隷貿易を封じ込めるという政治的方策のいくつかに疑問を呈し、廃止はヨーロッパの移民を条件とするべきであると述べる。
 地質学者などへは、鉱物の種類の多さや埋蔵量の豊富さが語られ、人類学者を対象とした記述には、黒人、先住民を劣等として分類し、彼ら自身を文明化するためには、洗練された階級の指導と影響力が必要とされることを示唆している。
 当時、すでに解放されていた黒人奴隷の子孫についての描写がある。彼らはほとんど混血で、わずかに髪の毛などにアフリカの血が流れているが、ほとんどはすでに黒ではなく褐色であること。彼らは重要な人的資源であるため、文明国の教育指導、監督が必要であること。 
先行して入国したヨーロッパ人、フンボルトやダーウィンに対しては、彼らの報告や対話から、明らかに懸念されることについては、より精巧な方法で体系的な観察をし、情報源を明確にし、科学的正当性を立証してテキストを作成して残すべし、としている。
 つまり、バートン卿の説明は、単に専門的な視野だけでなく、歴史、地理、民族学に及ぶ鳥の目線を重宝していることが分かる。
 バートン卿は詩人でもあったので、川下りの途中で目にしたブラジルの原風景を絵画のように随所に描いているが、その中から一つを切り取って紹介したい。
 《深く濃い緑色の肉厚の葉の向こうに、まるでこの大地を縁取る額のように青く光り輝く大空が広がっている……川面に遊ぶ少し大きめのハチドリは、赤いくちばしと宝石のような緑色の羽を持ち、水面の近くまで垂れ下がった枝先の細い先端に腰掛けたり、空中で止まったまま羽ばたいていた。尾の羽を上下に揺らながら、見知らぬ人をじっと見つめていた》(筆者訳)

ブラジルの高地は移民の定住地になる

 この体験で得たバートン卿の確信は、ブラジルの高地が将来、南アメリカへの移民の定住地になる可能性があるということであった。海岸とセルトン(北と南)の間の流通手段として、サンフランシスコ川渓谷の開発の重要性についての展望は、後の歴史学者、地理学者にインパクトを与え、強い支持を受けて、この河川の開発が、ブラジルの民族的、社会的、政治的統一の象徴として受け継がれることになった。

サンフランシスコ流域の文化を守れ

 同時に、バートン卿が懸念したことの一つに、近代化に伴って消滅する危険のある流域文化の保護であった。サンフランシスコ渓谷に可及的速やかな、経済的および社会的全体の開発が必要であることは言うまでもないが同時に、一帯は、特異で、多様で、貴重な文化の混在する宝庫であった。
「川の危険性が増すにつれて、目に見えないものへの信念も増した」との記述が残されているように、古い歴史的な教会などの建造物、流域に伝わる先住民起源の方言、迷信、奇跡の物語、舞踊、儀式、祭りなどは消滅させてはならない。保護し、伝承しなければならない。
 そのためには、経済発展と、特有の文化保護を両輪にして本国に伝えねばならない。それなくしては、経済発展と文化保護が相互作用して、本当の国家繁栄を築くことはできない、とバートン卿は力説した。
 およそ半年を経て、サンフランシスコ川の探検から戻ったバートン卿はやせ細り、「肝臓と肺の炎症」を患っていた。この病は、まだ50代前の体には回復する力はあったものの、彼の心に挫折感を植え付けた。医師やイザベル夫人の粘り強い勧めを受けて、病気の転地療養のためにブエノスアイレスに移ったが、1868年と1869年にはパラグアイ戦争地帯を2度戦場視察した。

パラグアイの戦線に立つ

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アラブのテントの形をしたバートンの墓標(Rgclegg, via Wikimedia Commons)

 この戦争はもともとブラジルが小国パラグアイを攻めたことから始まった。パラグアイの独裁者フランシスコ・ロペスは、ブラジルを南東から脅かすため、軍隊をアルゼンチンに進めたところ、ウルグアイも同じ侵略が自国に及ぶことを危惧して、二国はブラジルにつきパラグアイに宣戦布告した。戦争は悲惨を極め、パラグアイ140万人が1870年には22万人にまで減少したという。
 まだ体力も回復しない中、前線に二週間留まって、作戦の詳細を記録した。この戦争は、アラビアやアフリカの隣接部落侵略とはスケールが大違いであった。
 ブラジル領事の立場から、パラグアイの戦闘方式を推測して、この地域のイエズス会の「恐るべき専制布教」にまで言及して記録した。イザベル夫人が読んだら仰天するであろうという内容であった。これは「バラグアイの戦場からの手紙」(1870年)と題して発表された。
 その後も、体力を取り戻しつつある病気休暇中にもかかわらず、アンデス山、リマを気ままに訪問した。ロンドンに戻ると、新外相に面談して新しい任地を依頼した。大英帝国の新アジア政策には、バートン卿の情勢報告に示される知識と行動力は余人をもってかえられないものだったのであろう。
 こうしてバートン卿は緑に囲まれたブラジルから、新しい任地、シリアの首都ダマスカスに向かった。
 ここでは、ブラジル領事バートン卿のブラジルでの最後の冒険に焦点を絞って紹介した。死の床に臥すまでの後半の苦渋の人生、死後のイザベル夫人による夫の遺品の後始末、ビクトリア朝大英帝国政府が与えた特別待遇など、バートン卿にまつわる話は、死んでも、死んだ後も、興味は尽きることがない。
 奇想天外の生涯を送ったバートン卿はブラジルの原風景に圧倒され、魅せられた。詩人バートン卿の魂は、その感動を絵画のように美しく書き残した。そして、この魅力が色あせない限り、この国は発展を続けるだろうと予測した。それから150年経た今に向かって、バートン卿はどのような言葉を準備しているだろうか。
【参考文献】
Explorations of the Highlands of the Brazil by Richard Francis Burton.
Classic Reprint Series, www.ForgottenBooks.com
ESTUDIOS HISTORICOS – CDHRPyB- Año VI – Julio 2014 – Nº 12 – ISSN: 1688 – 5317. Uruguay
CANOEING DOWN: O sertão do rio São Francisco sob o olhar do estudioso-aventureiro Richard Burton1, Antônio Fernando de Araújo Sá
『探検家リチャードバートン』新潮叢書昭和61年(1986)藤野幸雄

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