私たちの50年!!

1962年5月11日サントス着のあるぜんちな丸第12次航で着伯。681名の同船者の移住先国への定着の過程を戦後移住の歴史の一部として残して置く事を目的とした私たちの40年!!と云うホームページを開設してい居りその関連BLOGとして位置付けている。

2022年08月

稲盛氏訃報に悲しみの声=ブラジルでも7度経営哲学講演 ブラジル日報WEB版より

 京都セラミック創業者の稲盛和夫氏が24日、老衰により亡くなった。行年90歳。稲盛氏は同氏の経営哲学を学ぶ「盛和塾ブラジル」の講演の為、7度ブラジルを訪れている。稲盛氏の訃報に際し、盛和塾ブラジルと後継団体「ブラジル経営哲学研究所」関係者から悲しみの声が寄せられた。

 稲盛氏は、京セラを創業し、一代で世界的な企業にまで成長させた。経営破綻した日本航空(JAL)の再建にも尽力し、同氏の経営哲学を学ぶ盛和塾は最盛期、日本国内に56支部、海外に48支部出来、全世界約1万4千人の経営者が学んだ。
 盛和塾ブラジルは、稲盛氏の経営哲学に感銘を受けた中井成夫さん(80歳、兵庫県神戸市出身、元日本学生海外移住連盟、アマゾン・フローリング社創業者)らが1993年に設立。2019年、稲盛氏の高齢を理由に日本の盛和塾が解散したことを受け、同塾も解散した。現在は盛和塾ブラジルメンバーが後継団体「ブラジル経営哲学研究所」を立ち上げ、稲盛氏の経営哲学を学んでいる。
 盛和塾ブラジル設立に携わり、稲盛氏を「アニキ」と慕う中井さんは、「盛和塾ブラジルの開塾に駆けつけてくれたアニキは、『如何に金儲けをするか』ではなく、『日本人の魂』を教えてくれた。アニキ有難う。安らかに」と語った。
 ブラジル経営哲学研究所代表世話人の板垣勝秀さん(74歳、北海道出身、パナメジカル・システマス創業者)は、「報道を聞いた時、胸が引き裂かれるような悲しみを覚えました。本当に悲しく残念ですが、塾長が残してくださった『人としての生き方』と『経営哲学』は一生の財産。これをさらに発展させるため、ブラジル経営哲学研究所で尽力したいです」と時折声を詰まらせながら語った。
 ミナス州で熱帯果実栽培を行うブラスニッカ社創業者の山田勇次さん(75歳、北海道出身)は、1996年に盛和塾ブラジルに入塾。同塾世話人代表も務め、盛和塾第12回全国大会で最優秀賞に輝いた。ブラスニッカ社は国内有数のバナナ生産量を誇り、山田さんは「バナナ王」としても知られている。
 山田さんは「稲盛さんが亡くなり本当に悲しいです。入塾当初は1回2時間の講義のために往復3日かけてサンパウロ市まで参加していました。会社を経営する上で稲盛哲学には多大な影響を受けました。これからも稲盛哲学をブラジルに伝えるよう貢献していきたいです」と語った。

《ブラジル》サル痘で死者2人目=飼い犬への感染例も=感染者数世界3位の約4700人 ブラジル日報WEB版より

 【既報関連】リオ州でブラジルでは2人目となるサル痘による死者が出たと29日付現地サイトが報じた。
 亡くなったのはリオ州カンポス・ドス・ゴイタカゼス市在住の33歳男性で、感染後に重症化し、19日に集中治療室に入ったが、25日に重篤化。最終的に命を落とした。
 同市ではこの他にも3人の感染者がいるが、全員が旅行後の感染判明で、市中感染は起きていないという。
 同市保健局は、男性は重度の基礎的疾患があって免疫力が低下していたため、重症化したと見ている。男性と接触した可能性のある濃厚接触者の経過も観察中で、29日現在では、感染が疑われる症状を呈した人は出ていないという。
 リオ州保健局は国内で2人目、同州では初の死者が出た事を確認後、29日現在の同州の感染者(確認済み)は611人で、検査の結果待ちの疑似症患者は61人と発表した。感染が疑われる人はそれ以外にも474人いるが、感染が否定された人も751人いるという。
 ブラジル初のサル痘による死者は7月28日に亡くなったミナス州在住で、基礎的疾患を持つ41歳男性だった。
 Our Worldo in Dataによると、ブラジルのサル痘感染者が4千人を超えたのは24日の4144人からで、26~28日4472人、29日4693人で、米国とスペインに次いで世界3位だ。
 28日現在の州別感染者はサンパウロが4桁台の2788人で、リオ578人、ミナス253人、ゴイアス189人、連邦直轄区168人、パラナ118人までが3桁台。サンタカタリーナ78人やリオ・グランデ・ド・スル77人、セアラ47人、バイア44人など11州が2桁台など、全国に広がっている。
 事態を重く見た国家衛生監督庁(Anvisa)は26日に治療薬やワクチンの緊急輸入を承認。29日には(国産反応薬は未承認だが)感染確認用の検査キット2万4千回分の緊急使用も認めた。
 国内のサル痘感染は人間だけにとどまらず、25日には月半ばにミナス州で報告された5カ月の飼い犬の症状が、飼い主からの感染例である事が正式に確認されている。

★2022年8月24日《ブラジル》サル痘感染者数が世界3位=疑似症患者も4千人余り=薬や予防接種の輸入は?
★2022年8月13日《ブラジル》サル痘感染者が2400人超に=保健省は緊急レベル3へ=無関係の猿殺害事件まで発生
★2022年8月11日《ブラジル》サル痘の特徴と予防法とは=感染症専門医・田中アーノルド・トヨカズ=サル痘患者2人を対応
★2022年7月30日《ブラジル》サル痘で初の死者=感染者も1千人の大台超す

アメリカ便り「メキシコ・ファーストをモットーとした日系人」 富田さんからのお便りが届きました。


  
和田さん&W50年の皆さん、お元気ですか?今週は猛暑も去り、秋の気配が感じられます。さて、今年はメキシコ榎本殖民125周年に当たります。そこで、今週のアメリカ便りは「メキシコ・ファーストをモットーとした日系人」をお届けします。榎本殖民の2世のベニト・メグロさんが85年前に製造、販売した学習帖には、ノートブックとしては珍しい、「メキシコ人としての心構え」を2ページにわたって書き記しています。古き良き時代のサムライ2世の心意気をご覧になって欲しいと思い、このレポートを書きました。アメリカ便り「メキシコ・ファーストをモットーとした日系人」をお訪ねください。

 

富田眞三  Shinzo Tomita

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メキシコ・ファーストをモットーとした日系人

 

    メキシコ榎本殖民125周年に際して

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       写真:(https://www.discovernikkei.org)

先日、雑然とした本棚を整理していると、茶色い表紙の学習帳が出てきた。

表紙にはスペイン語で「メキシコ・ファースト」と書かれていた。すっかり忘れていたが、この学習帳は1987年、高松宮憲仁殿下をお迎えしてメキシコ・シティーで開催された、「日本人メキシコ移住90周年記念」の際、配布されたもので、1897年(明治30年)メキシコに移住した、榎本殖民地の入植者の二世にあたるベニト・目黒氏経営の「La Paz-平和」(文具店)が販売していた、学習帳の復刻版だった。ちょうど今年は1897年から125年目の節目に当たることにも気が付いた。

明治30年は正岡子規の俳句雑誌「ホトトギス」とJapan Timesが創刊された年で、日露戦争が勃発したのは、その7年後だった。  

復刻版の由来によると、この学習帳が発売されたのは、1937年だった、と言うから、榎本移民の3世たちが使用していたことになる。

詳しい内容は後段でご紹介するが、この学習帳に記された考えは、将に戦前の古き良き時代の日本人そのものであるが、「メキシコ・ファースト」を唱えていたことは流石である。

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  写真:(www.history-o.com)

先ずは榎本殖民地について、ザーッとおさらいしよう。

榎本植民地を主導した、榎本はオランダに留学した経験がある。彼はオランダの先進技術を種々学んだが、17世紀にメイフラワー号に乗船してニューイングランドに移住した、100余名のイギリスの清教徒たちの逸話を聞いたはずである。榎本殖民と英国国教会の圧迫を受けて、先ずオランダへ亡命した、清教徒たちの殖民には大きな類似点と相違点がある。

類似点は、2世紀前のオランダ人が発明した、株式会社制度を榎本が取り入れたことだった。相違点は、清教徒たちは、彼らがニューイングランドと命名したように、移住地が本国の気候に似ていたことだったが、榎本が日本人を送った、メキシコのチアパスは彼らが経験したことのない、熱帯だったことである。気候が違えば農産物も異なるのだ。後年、日本移民はメキシコ中部の気候温暖な地域に入殖して成功している。

さて、1821年にスペイン帝国から独立を獲得したメキシコ政府は、改革の一環として、殖民政策を活発化させていた。当時のメキシコ国土の大部分は無人の過疎地だったため、外国移民を導入して耕地化する計画が進んでいた。榎本武揚は外務大臣就任以前から海外殖民に関心を抱いていたが、この情報を得た榎本は、在米公使にメキシコ殖民の可能性を調査させた。とともにラテンアメリカでは初の日本領事館をメキシコ・シティーに開設した。榎本は外務大臣辞任後の明治26年(1893年)殖民協会を設立。先ず、根本正(慶応、米国バーモント大卒、外務官僚、衆議院議員)をメキシコへ派遣し、コーヒー生産が期待できる、との報告を得た。

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     地図:(https://dondeesta.net/)

1894年には米国留学の経験がある、農業技師・橋口文蔵をメキシコ南部のチャパス州に派遣した。橋口は後に榎本殖民が入植する、タパチューラに近い、エスクイントラがコーヒーに最適である、と報告した。そこで、榎本はメキシコ政府とエスクイントラ国有地払下げ契約を締結、65,000ヘクタールの土地が日墨拓殖K.K.に払い下げられた。そして、1897年3月、この地へ向け36名の元武士が出稼ぎ移民ではなく、日墨拓殖の株主、自作農として、横浜を出港して行った。

榎本殖民はコーヒー栽培を目指したが、コーヒー栽培には熱帯の高度2000~3000メートルの高地が適している。チアパス州ではシエラマドレ山脈に位置する高地のソコヌスコ地方がコーヒーの一大産地だが、日本人が入植した、エスクイントラは北緯15度ではあるが海抜77㍍の低地なので、コーヒー栽培は不可能だった。

彼らは米、トウモロコシ、小麦も栽培したが、ものにならなかった。高温多湿の入植地はマラリア、黄熱病も蔓延したため、二年目に入ったところで榎本殖民地は解散に追い込まれた。約半数は日本へ帰国し、残りの半数は他州に移って行き、最後に残ったのは6名だけだった。だが、数年後、彼らは再びチアパスに戻ってきたのである。

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     写真:(https://relatoshistorias.mx)

 新大陸のアングロサクソン系の移住地には必ず新聞社と弁護士事務所が存在したものだ。スペイン人たちは金鉱探しに熱中するとともに教会を建てて原住民をカトリック教徒に改宗して行った。一方、日本人は学校を作った。タパチューラ市にも1930年代、日系2世によって学校が開校され、生徒の3,4世たちは、この学習帖を使用したのである。

 こうして、メキシコ最南端の地、チアパスには今でも、Sato,Suzuki,Tanakaといった日本の苗字を受け継ぐ、日系4,5世の人々が推定500人在住している。元侍たちは全員独身で渡墨したため、彼らのメキシコでの配偶者はすべてメキシコ女性だった。

では、以下に学習帖の復刻版に掲載された、メキシコ移住90周年記念事業団の挨拶文(翻訳版)を掲載しよう。

この度、日本メキシコ移住90年を記念し、チアパス州タパチューラ市にありました「ラ・パス文具店」で50年前販売されていました学習帳に邦文訳を添付し、復刻いたしました。復刻版製作の所以はチアパス州が日本人移民の最初の入殖地であったためであります。

学習帳の表紙に印刷されていた理想、不安等をみますと、当時の日本人移民が如何にメキシコの平和と将来を案じていたかがうかがわれます。

メキシコ・シティー 1987年5月吉日

(財)日本メキシコ移住90周年記念事業団

コンパニア・パぺレーラ・エスコラール株式会社贈呈

日本移民のイデオロギー

1987年当時の50年前即ち、1937年にメキシコ・タパチューラ市で製作、販売されていた学童用帳面の表紙と表紙裏に、ベニト・目黒氏が綴った、当時の日本人移民の「イデオロギー」ともいうべき文章の翻訳をごらん頂きたい。異国に生まれ育った、古き良き日本のSamuraiたちの2世の心意気の素晴らしさに私は「日本は良い国だなぁ」と思ったのでした。

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     日本語訳

メキシコ・ファースト

上質帳面

課目:_______

名前:_______

校名:_______

生産こそ我々に富をもたらす唯一の方法だ。資本なき農地は銃なき兵士に等しい。資本なき労働は水なき魚にも等しい。農地からは毎年生産物が得られ、いずれは尽きる金山よりも良い。有益な樹木は毎年1ペソに値する如く成長する。産業・生産の発展するところに労働者の利益あり。

自分がなにをしなければならないかを尊ぶ人は世界を天国に変え、自分の権利ばかりを主張する人は、世界を地獄に変える。自由は犠牲なくしては得られない。

         ___________________

            祖国は次のような人物を求めている。

1.     メキシコ人は、どうあるべきか、が理解できる人。

2.     いかに祖国を救うか、を考える人。

3.     メキシコ人をよく知り、何が不足しているかがよくわかる人。

4.     価値ある人間となり、平和を愛する人。

5.     神に信頼ある人。

6.     良心に基づき行動し、恥の心のある人。

7.     死を前に、正義を全うできる人。

8.     神に対するがごとく、道理に対しても従順な人。

我々の文化、産業そして人間性の名誉回復のため、中国、ドイツ、米国、そして英国の賢者から学ぼうではないか。

ラ・パス文具店 ベニト・E・目黒   タパチューラ 第8エスコべード通り 55

(私書箱33号)

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表紙裏に書かれた、目黒氏の「檄文」 (日本語訳)                                                                

    愛国者たちよ!

人生には「滅亡に至る広い道」と「生に至る狭い道」の二つがある。どちらを選ぶか。

我が国の田畑は、未開発や、農法が悪いため、あたかも砂漠同様であるが、やり方によっては、50年以内で農地が金山のように変貌することも可能である。これは先進諸国の例をみても分かる通りである。ここでやらなければならないことは、資本家と労働者が協調することであり、そうすれば経費を軽減することも出来る。経費が高ければ全て外国から買わざるを得ないのだ。ここに悪徳業者が介在すれば我々は餓死するかもしれないのだ。

考えようではないか、我々の農地から効率よい生産なくして決して平和はあり得ないのだ、ということを。

植えよう:杉、マホガニー、カスカロテ(豆科の灌木)、カカオ、ココナッツ、コーヒー、ヤシ、バナナ、とうごま、バニラ、綿花、アルファルファ、とうもろこし、米、小麦、たまねぎ、タピオカを。

育てよう:最新の飼育方法で、にわとり、牛、豚を。

代議士諸賢:産業の発展を妨害するようなことがあれば法規で防止し、産業育成を奨励することは、諸賢の根本的義務である。

愛国者となり、利己主義を排そう。

1961年に渡墨した私は、40年以上メキシコ・シティで暮らしたが、何かにつけ、「日本人であることによって」絶大なる信用を得ることができた。これは日系人先輩諸氏が長年にわたって築いてくださった、貴重な遺産だと、有難く思っている。メキシコに限らず、広く海外に新天地を求めた、先輩日本人は、世界中で信用という「遺産」を残してくれた。その一例がこのタパチューラのセニョール・メグロ氏の学習帖なのだ。最後まで付き合ってくださってありがとう!

なお、復刻版の現物に興味があるお方は、横浜JICA海外移住資料館にてご覧になれます。【請求番号は207727】 です。

(終わり)

英、伯、比の医療体制学ぶ=慶応医学部第45次派遣団 ブラジル日報WEB版より

 慶応義塾大学医学部国際医学研究会(IMA)の「第45次派遣団」が7月27日に来伯した。同派遣事業は、コロナ禍による中断を経て、3年ぶりの実施となる。今回は同大医学生3人が英国、ブラジル、フィリピンを訪れ、各国の医療システムを学ぶ。2日に編集部を訪れ、活動報告を行った。
 派遣団に参加したのは、同大6年生の橋本峻さん、渡邉夏実さん、中村凌輔さん。学生責任者を務める橋本さんは「高校生の頃から国際医学研究会に入ることが夢でした。コロナ禍で派遣団活動が無くなってしまうのではと心配していましたが、再開することが出来、ほっとしました」と語った。
 派遣団は13日までブラジルに滞在し、サンパウロ州ボトゥカトゥ市の州立大学(UNESP)医学部訪問や、サンパウロ市の医療統一システム(SUS)病院の見学、サンパウロ大学(USP)医学生との交流、南大河州ポルト・アレグレ市のカトリック総合大学(PUC)との交流を行った。
 渡邉さんはブラジルの医療事情を知る中で、「日本とは比べられないほどの貧富の差を目の当たりにして、医学生として6年間学んできたことの意味について改めて考えさせられました」と語った。
 派遣団は滞伯後、フィリピンへ渡り、首都マニラにある世界保健機関(WHO)西太平洋地域事務局で実習を行う。中村さんは「ブラジルではOBの方々を始めとする協力者の皆さんのおかげで、事業を無事成功させることが出来ました」と感謝を述べ、残る派遣事業への期待を大きくした。
 一行を引率した同医学部専任講師の松原健太郎教授は「医学部生は社会と触れ合う機会があまりなく、何も知らないで医者になる人たちも多くいます。派遣事業が彼らにとって良い社会勉強となり、多くのことを学ぶきっかけになればと思います」と話した。

アチバイア=花とイチゴの祭典2日から=第40回分の選りすぐり展示=甘味が強い新品種の試食会も ブラジル日報WEB版より

 アチバイア・オルトランジア協会(吉田ネルソン高男会長)は「第40回花とイチゴ祭り」を、9月2~25日の間の金、土、日曜日に加えて、独立記念日の7、8日の午前9時から午後6時まで、アチバイア市内エドムンド・ザノニ市立公園(Parque municipal Edmundo Zanoni, Av. Horacio Neto, 1030, Vila Loanda)で行う。3年ぶりの開催となる。
 来社した小野エミル市長は「6月に連邦議会が当市に対して『イチゴの都(Capital Nacional do Morango)』の称号を認め、大統領も認可して連邦官報に掲載された。生産者の皆さんと市が誇る伝統のイチゴ祭りのおかげ」と強調した。
 小野市長の父の小野敬雄(おの・たかお)氏は、同市議会議員を30年以上も務め、市長にもなった。「親子で市長を務めたのはアチバイアでは他にいない」と胸を張る。
 アチバイア近郊には350人のイチゴ農家がおり、州最大のイチゴ生産地として知られている。加えて同市は全伯の花卉類生産量の約25%を占めている。同イベントでは例年千台の観光バスが詰め掛け、10万人以上が来場する。
 吉田会長も「ドイツ移民やイタリア移民の子孫も花が大好きなようで、サンタカタリーナや南大河州からも団体バスで毎回詰めかけます。南伯でも花卉生産者は多いですが、足りないらしく、普段からたくさん南に送っています」という。

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たくさん並んだイチゴのスイーツ(2019年)

 今回の見どころは特別展示場。節目の40回ということで、過去の特別展で好評だった展示をまとめて再現する、いわば総集編のような特別展となる。吉田会長は「例年10万人ぐらいの来場だが、今年は12万人来るのではと期待しています」と語った。
 8月初旬に発表されたばかりの3種類のイチゴの交配新種の試食会も行われる。吉田会長は「従来は外国産の苗を使って生産してきたが、それだと値段も自分たちで決められない。国産の苗を作って広め、自分たちの裁量を広げたい」と意気込む。「食べてみてこれはイケると思った。新品種は甘味が強くて、長持ちする。絶対お薦めです」。
 会場では名産の花卉、イチゴなどの果物を格安で販売。イチゴを用いたパフェ、ケーキ、ジュースなどの定番料理がズラリ。アチバイア日伯文化体育協会の婦人会、ブラジル福島県人会が提供する日本食も楽しめる。衣服やアクセサリー、おもちゃを取り扱うバザリスタも約40店が並ぶ。
 特設ステージでは太鼓、盆踊り、リズム体操のショーが繰り広げられ、イタリア、ドイツ、ロシアなど世界各国の民族芸能も披露される。
 入場前売り券は特設サイト(https://floresemorangos.com.br/ingresso/)から購入でき、購入案内はWhatsApp(11・93328・0358)から受けることが出来る。前売り入場金額は金曜日20レアル、土日は40レ(学生と60歳以上は20レ)。10歳以下はいずれも無料。
 イベントの詳細は特設サイト、問い合わせは同祭担当(電話=0800・555・979/Eメール=contato@floresemorangos.com.br)まで。

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