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あるぜんちな丸とポルトアレグレ 2008.4.7 update
プロフィールにありますように、1962年5月11日サントス港着のあるぜんちな丸第12次航で681人の同船者仲間と共にブラジルにやってきました。東京都の農業移住者として10万2千円の渡航費の貸付を受けた雇用農の扱いでしたが、実はまだ早稲田大学の政経学部に在学中の“もぐり移住者”。大学の卒業の為に1964年、東京オリンピックの年に一時帰国、無事大学卒業と共に1965年に再移住しました。以来、今年(2008年)で在伯46年のマカコ・ヴェリオ(年寄りの猿。日本で云うところの「古狸」をブラジルではこう呼ぶ)です。

今回、お隣のアルゼンチンのヴェテラン特派員の相川知子さんのご紹介で「各国いまどき報告ブラジル」を担当させて頂くことになりました。ブラジルに置ける日本移民100周年の年でもあり、その関連記事も含め私の46年に渡るブラジル生活の中から、一移住者の目線でブラジルのいまどきを報告させて頂ければと張り切っておりますのでお付き合い下さい。

その第1回目にあたりますので、やはり自己紹介的な部分から入って行きたいと思います。私の住んでいるのは、もう一つのブラジルと言われるドイツ移民、イタリア移民が多いブラジル南部地方で、アルゼンチン、ウルグアイと国境を接するリオグランデドスール州(南大河州)の州都ポルトアレグレ(「愉快な港」の意)に40年近く住んでおります。

現在68歳ですが、ささやかな「さわやか商会」というファミリー会社を女房、娘3人、義妹の女性5人の出資者とやっており、現役で働いています。

現在、私が嵌まり込んでいるのが、着伯40年に始めた『私たちの40年!!』と云うホームページの管理運営、画像掲示板、関連BLOG等の更新作業です。ブラジル、アルゼンチン、ボリビアに入植した同船者仲間681人の移住受け入れ先国への定着の過程を通じて、戦後移住の歴史の一部を書き残そうとの趣旨で継続していますが、この3月13日に何と80万回のアクセスを記録、移民100周年の今年中に100万回アクセスが予定されています。

さて、ブラジルで最初に紹介する町は、矢張り我町、ポルトアレグレを選ばせて頂きます。南大河州の州都ポルトアレグレは、人口150万弱、近郊を含めたメトロポリタン圏では300万人に達する南部地域最大の都市、経済圏を形成しています。

南大河州は1千万人の人口を抱え、その30%がポルトアレグレ圏に住んでいます。ドイツ移民、イタリア移民を中心としたヨーロッパの影響を受け、ブラジルらしくないブラジルと言われており、ウルグアイ、アルゼンチンと国境を接し愛国心、独立心が強く、遠い昔にはブラジル中央帝政政府から1835年から1845年まで10年間リオグランデ共和国として独立していた時期がある。ブラジルに置ける歴史の中でもガウショーと呼ばれる州民は、特異な存在として新しい時代を切り開く転換期に大きく貢献してきました。

町のシンボルとして親しまれているラッサドールと呼ばれるカーボイは、最近立体交差の道路工事のため場所を700メーター移動させましたが、ポルトアレグレの町の入り口に鎮座しており、グアイーバ河に落ちる夕日と共に多くの訪問者に喜ばれている。

また、ポルトアレグレの飛行場に降り立つ時に車窓から見える景色は、丁度ニューヨークに良く似ているとの事で小マンハッタンとも呼ばれている。グアイーバ河に掛かるエレベータ式の橋も名物の一つです。

ブラジルの南の玄関と云おうか、お勝手口としてメルコスールの首都としての役割を果たし、近年その重要性をましている一方、ポルトアレグレ総領事館は、一昨年(2006年)閉鎖されク、リチーバの総領事館の出張駐在官事務所に格下げされた。州内の在留邦人は、1,194名、2世・3世の日系人が2,012名、内432名が日本で就労しているとの2007年11月の調査結果が最近発表されている。

それでも移民100周年の記念行事は、ポルトアレグレでも時期をずらして9月27日~28日に行われる予定になっているので、改めて紹介しましょう。

画像上右:1962年、あるぜんちな丸第12次航でブラジルに
画像上左:あるぜんちな丸
画像中右:リオグランデドスール州(南大河州)の州都ポルトアレグレ
画像中左:町のシンボルとして親しまれているラッサドールと呼ばれるカーボイ
画像下右上:グアイーバ河に落ちる夕日
画像下左上:グアイーバ河に掛かるエレベータ式の橋
画像下右下:あるぜんちな丸第12次航同船者仲間と記念撮影
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ポルトアレグレは、ニューヨークに良く似ているとの事で小マンハッタンとも呼ばれている