≪バカボンド放浪記≫ 丸木さんの放浪記連載 その10

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マンパワーで紹介してくれた仕事は洗濯屋でのアイロンかけ。エクゼクテイブの仕事を探すと云って断ると、手当ては出さないと移民官に怒鳴れ「移民から成り立つカナダは、誰もが貧民から身を起すのだよ!」と諭された。
図書館でウオールストリートジャーナルの求人情報で、セントルイスのモーリンクロット・ケミカル・ワークスという名門製薬会社が日本に進出し、第一製薬との合弁企業の責任者募集に応募したら航空券を送ってきた。トロント空港で登乗手続をしたけどアメリカ入国拒否されて米加国境のウインザーまでしか飛べなかった。国境
に架かる橋を渡ろうとしたが渡れば刑務所行きと米国国境警備隊員に告げられ、カナダに引き返すしかなかった。
 
デトロイトの対岸のウインザーのYMCAに親切な日本女性が居て、農場の仕事を世話してくれた。ロナルド・フレンチ農場では豚の世話をさせられたが、重い袋が担げないので首になった。ニューヨークの松屋でも米俵を担げなかったことを思い出し、力仕事は無理とあきらめた。GM(ゼネラルモータース)の工員が自宅を下宿にしており、しばらくは移民局から貰う手当てでデトロイトのスカイスクレーパーやデトロイトリバーを行き来する貨物船を眺めながら暮らしていた。
 
春になりセントルイス行きの未使用航空券の残りでカナダ最大の都市モントリオールに行った。マンパワーではカナダの公用語であるフランス語を習う移民には25ドルの手当を出すとのことで、マクギル大学の傍に部屋を借り地下鉄アトワーテルでスク                            
ールバスに乗り通学した。リッツカールトン・ホテルに滞在中のアルバータ州政府の農務長官が、在日事務所長を募集しているので面接に来いと連絡があったが、学校を欠席すると部屋代が払えなくなるため断念せざるを得なかった。
 
郵便局の窓口で何語を話してるのかと言われるぐらいフランス語が上達せず、鼻をつまんで話したら、ようやくフランス語が通じたの                            
か切手が買えた。それでも、後年フランスに出張したり旅行で行った時には、以外にもフランス語で用を足すことが出来て助かった。

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講師の女性教師は若い美人ぞろいで、大きなキッスマークの首筋を見せつけるような胸を大きく広げたドレスで教えていた。オーデイオ機器を使う講義は楽しかったが、サンドイッチに挟むハムの買えないワイは、バターも塗ってないパンを2枚だけの昼飯を手で隠しながら食べた。チリーからの難民やポルトガル移民なんかは、学校で禁止されてるビールを持ってきて午後の授業には赤い顔で受講していた。カナダの納税者が、この事実を知れば、難民手当の無駄費いと連邦議会で政府与党を追及するだろうが、税金も払えない身のワイは、唯々羨ましかっただけ。

小柄な日本人の妙子さんは、クラスの人気者でドイツ語を話すイラン人のアリが運転する高級乗用車トリーノで通っていて、どこまで出来てたかは知らんけど夫婦気取り。レスビアンとゆう彼女、夜はヌードダンサーをしており、近くの目抜き通りのデラックス・アパートにドイツ女性のブラウンさんと部屋をシェアーしていた。アリはリッツカールトンでウエイターをしており、二人ともかなりのチップを稼いでいたが、さすがに眠いのか教室では舟を漕いでいた。
 
大平首相が外相時代に秘書をしていたと云う小山さんは、卓球選手で休み時間を利用しての卓球の試合では、そのシュマッシュの強さに誰も太刀打ちできなかったが、レバノン人のヤクーが一度勝った。小山さんによれば、彼の体臭に耐え切れず気分が悪くなって敗れたとか。ヤクーはトリニダードトバゴから来た黒人女性で美人のレジーナと肩を抱き合って意気揚々と出て行った。小山さんの自宅を一度訪ねた。ご主人の洋一郎氏は建築家と云っておられた。                           
 
モントリオールでも就職の見込みは立たず、カナダの首都オタワに移動し都心のホリデーインでアシスタント・スチュワードになった。厨房を取り仕切るチーフ・スチュワードのビンス・ジョドワンは名門ホテル・シャトーロリエールのチーフを長年勤めスカウトされたばかり。
 
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都心から少し外れたハイウエイ近くにあるタクシー運転手の家で、階段の踊り場に仮設された部屋が朝食付き15ドルで安かったが、                           
3食勤務先で食べるので10ドルにしてくれた。年頃の娘さんも居る陽気で親切なイタリア系のデノフレオ一家には下宿人が6人居た。
夏のオタワは気候がいいので半時間の距離を歩いて通勤した。首都だけに政府機関ばかりの街で、国防省付近に制服の軍人が目についた。
 
ワイの仕事は、コックさん達が直ぐ調理にかかれるように、調理用具や設備の準備とメンテナンスで、巨大な器械を使ってやる皿洗いは流れ作業だが、鍋の洗い場がすぐ汚れるので、それが溜まらないように段取り良くやらせる必要があるのだが、一緒に働く仲間はカナダに来たばかりの移民が多く、ワイも含めて、まともな英語や公用語のフランス語を話せないので、意思の疎通に手間取った。

しかも、この種の労働者は怠け者が多く、今まで誰がやっても続いた者は居なかったと聞かされたワイは尊敬するアドミラル・山本五十六の手法「やってみて、やらせてみせて、誉めてやらねば人は動かぬ」を試みた。シェフ(コック長)のムッシュー・マレーが驚いたのはワイが洗い場の上に登り磨き上げた各種の鍋類をジャスト・イン・タイムで調理人の目の前に届ける陣容を、初日から成功させたワイの手腕。だらだら怠けていた移民のぐうたらが、見違える様に元気に能率よく働き出した。
 
2人のスー・シェフ(コック長補佐)のミシェールとエリオットからワイのことを伝え聞いたインキーパー(総支配人)のニック・トンプソンウッドとアシスタント・インキーパー(支配人)のシュワルツと経理コントローラーのチャールトンが、ワイを最上階のラロンド(回転レストラン)に呼んで、マネジメント・プログラムに加入要請された。そのプログラムは見込みのある人材をホテルの各部所に配置し経験させ将来の幹部を養成する制度のことだ。幹部候補に指名され、ボーナスを貰ったのでクレジットカードを取得し、FTD(電報花屋)の最低料金8ドルで花をブラジルで待つリーナに配達したら、なんと55本の赤いバラが届いたそうで、百万本のバラを貰った気分になり嬉しかったとのこと。

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その頃の為替レートでは、カナダドルはアメリカドルより高く、ブラジルの貨幣価値が益々低下していたのだった。                            
 

一方、仕事のほうでは先ず最初にフード&ベバレッジ部門のプロデュース在庫管理をやらされた。野菜果物食肉等の食品の入荷必要額算出は、学生アルバイトの経験が役立った。次にルームサービス部門に回されたが、ヘッドウエイターのギリシャ人の横柄な態度に腹が立ち辞めてもたった。ホテル業界のマネジメントなんかはワイの目的の邪魔になるだけで、カナダに進出したシカゴのテルコ(テクニカル・エクィップメント・リーシング・コーポレーション)に応募し採用となったのでマーケテイング・アナリストとして3年ぶりで背広を着るホワイトカラー生活に戻った。                                                                                                               

 
汽車に乗りオタワの厚生省をはじめ、ニューブランズイック、ノバスコシア、ケベック、オンタリオ、マニトバに出張し、各州の州庁衛生部を訪問し市場性分析したが、ウイニペグでは猛吹雪に見舞われ凍死しそうになった。オタワでは電話帳の魅惑的な広告に電話しフレンチカナディアンのエスコート娘をパークレーン・ホテルに呼び、見事な肢体の学生アルバイトとメイク・ラブを楽しんだ。
 
医療電子機器と検査分析機器専門のリース事業は医療公営制の各州規制で認可されておらず、ごまかすより手がないことがわかり、会社がカナダから撤退する前に退職しモントリオールに引越し、妙子さんの居たアパートを訪ねたが帰国された後だったので、その部屋に入居した。ペントハウスの室内プールからは全市内が見渡され快適な失業生活を満喫した。東芝を辞め日本を去って以来、ワイは転職のたびに、なんともいえない開放感に浸れ、自由の身の有り難さが身にしみる様になっていた。セクシーなフレンチカナディアンと付き合ったモントリオールでは、体臭が強くてかなわんかったけど濃厚なフランス系女性の楽しい愛情表現を満喫堪能した。
 
その後しばらくして、ニューヨークタイムスの求人欄に応募し面接のためニューヨークに行った。当時の入国禁止期間の3年は既に経過していたので空港に着いた時は、さすがに感無量だった。