日本とペルーの架け橋「ペルー最後の侍」㊤ サンパウロ新聞WEB版より


イメージ 1津村社長

株式会社ミッキーツアー 代表取締役社長 津村 光之
 「外務大臣表彰がどういうものか良く知らなかった。それが個人の実績、自分のやってきた仕事に対する評価であることを知り、嬉しかった。一つの節目になる」――。6月29日、ペルー・リマ市に住む津村光之(つむら・みつゆき、65歳)が日本政府から外務大臣表彰を受章した。ペルーは、ブラジルのように戦後、日本人移住者を計画的に受け入れておらず、戦後移住の1世はごくわずか。同世代は20人ほどしかいないという。「ペルーで最後の侍」と呼ばれる津村に話を聞いた。

◆観光、経済交流に高評価
 津村の受章功績は「日秘商工会議所の観光委員会委員長として両国の観光資源を通して人物交流及び文化交流に貢献。また、日本企業進出時に情報提供を行うなど両国の経済関係強化に尽力したこと。さらに、旅行代理店経営者として日本大使館の査証代理申請業者となりペルー人の窓口になってペルー政府関係者やアジア地域の外交団長への日本事情の説明者としての活躍」とある。まさに、ペルーと日本の架け橋として努力してきたことが報われた。
 日秘商工会議所(会頭・堤 儀秀=ペルー三菱社長)は、在ペルー日本大使館と協力し、日秘間の経済連携を深めてきた。日系企業の加盟数は約60社(うち日本からの進出企業は35社)。津村は観光委員長兼理事として、日本企業進出時の情報提供を行っており、ビザの取り方などの手続き関連、人脈作りをサポートするほか、対ペルー人向けのビジネスについてもアドバイスをしている。ペルーに進出してくる日本企業にとって、津村がペルー混乱の時代を生き抜いてきた教訓から得るものは大きい。

◆日本大使館占拠事件で人質に
 津村がリマ市に渡った当時は、軍事政権・テロの時代で、拳銃強盗が頻発するなど、現地の治安は深刻な状態だった。96年12月、世界中を驚かせた在ペルー日本大使公邸襲撃事件で人質になる経験もした。「10日間近く、真夏の中で水も電気も止められ、劣悪な環境の中、400人ほどが人質となり、ぎゅうぎゅう詰めで押し込められていた。刑務所に入ったのと同じだと思った」と当時を振り返る。人質となった10日間で、「極限の人間模様を見た」という。ペルーに来て約20年が経過し、混乱に巻き込まれることを幾度か経験し、現地で生きる免疫を持っていた津村でさえ、動揺を抑えきれない体験だった。
 人質生活の最中、ある記憶が蘇った。80年代に刑務所の反乱で看守の虐殺映像が全国ネットで生中継されたことだった。「もし死ぬことになっても、周囲に無残な最期だけは見せられない」と覚悟を決めていた。人質が押し込められた部屋では、恐怖のあまり感情をコントロールできる状態ではなく、成す術なく涙を流す人や、放心状態に陥り言葉を発しない人、解放後にも精神異常を起こす人が多数出るなど、今年で事件から20年になるが、日系社会に残る記憶は今も大きい。

◆日本人観光客増加に一役
 観光委員長として、日秘間の観光促進に与えた影響は大きい。2009年に津村が主導し、在ペルー日本大使館と協力して進めた出入国カード・税務申告書の日本語版導入がペルー当局との調整を経て、10年に日秘間の経済連携協定締結を機に南米で初めて実現した。日本人観光客のネックとなっていた横文字の読み書き、語学の壁を和らげることに成功し、観光・渡航促進に大きく貢献した。時を同じくして日本人観光客数は増加し、ミッキーツアーも13年度に最盛期を迎えた。
 13年には東京で開催された、ペルー大使館主催の南部ルートセミナーにて講師を務めた。日本の旅行会社、報道関係者向けにペルーの観光案内を行い、ペルー国内でも在ペルー日本大使館で、ペルー人を対象に日本の紹介・観光案内を行う公演を実施し、両国間の観光促進を牽引している。また、昨年、リマ市で開催されたAPEC(アジア太平洋経済協力)では日本代表団の後方支援として、車・ホテルの手配、交渉、会議のセッティングを大使館の委託を受けて行った。(敬称略、つづく)
2017年7月25日付