「熟年日記 第16話 武士道精神」 古谷さんからのお便りです。

丸木さ~ん
  古谷です
 
「熟年日記 第16話 武士道精神」をお送りします。
 
日露戦争時、陸軍第参軍を率いた乃木希典大将は露軍旅順要塞攻略作戦で甚大な犠牲を払った末に、漸く要塞を陥落させました。大将の長男勝典を南山の戦いで、次いで次男保典を203高地攻略戦で、失っています。以下は、Wikipedia からの抜粋です。
 

水師営の会見

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師営会見 中央二人が乃木将軍とステッセ将軍(後列左4人目松平英夫

旅順要塞を陥落させた後の明治38年(1905年)15、乃木は要塞司令官ステッセルと会見した。この会見は水師営において行われたので、水師営の会見といわれる。会見に先立ち、明治天皇は、山縣有朋を通じ、乃木に対し、ステッセルが祖国のため力を尽くしたことを讃え、武人としての名誉を確保するよう命じた。
これを受けて、乃木は、ステッセルに対し、極めて紳士的に接した。すなわち、通常、降伏する際に帯剣することは許されないにもかかわらず、乃木はステッセルに帯剣を許し、酒を酌み交わして打ち解けた。また、乃木は従軍記者たちの再三の要求にもかかわらず会見写真は一枚しか撮影させずに、ステッセルらロシア軍人の武人としての名誉を重んじた。
敵将(ステッセル)に失礼ではないか後々まで恥を残すような写真を撮らせることは日本の武士道が許さぬ
 
ステッセル将軍が帰国後軍法会議で旅順要塞喪失の責めを負い死刑の判決受けたのを聞き及んだ乃木大将は外交筋を通じて、助命を嘆願しました。嘆願の結果、刑は10年の禁固刑(シベリア流刑)に減刑されました。刑が解けた後、ステッセルは僧院で余生を送りました。
 
明治天皇崩御を追って、乃木大将は夫人と共に自決した事を聞き及んだステッセルが、一僧侶として将軍の留守宅にお悔やみ状と香典を送った話は有名です。
 
他方、第二次大戦で、日本軍の敗れた時、第25軍司令官だった山下奉文中将と第14軍司令官の本間雅晴中将が、マッカーサー総司令官によってマニラで死刑に処せられました。本間中将は、マッカーサーがマニラを追われた相手でしたが、まだしも軍服着用の銃殺刑でした。山下中将の場合は、囚人服で絞首刑に処せられ、しかも、開戦直後の星港攻防の相手だったパーシバル英司令官を死刑の場に立ち会わせる非常に酷い事を行っています。
 
生来、肉食人種は斯くも怨念に凝り固まり、残酷なのでしょうか? 丸木さん。