第49回県連ふるさと巡り⑮ サンパウロ新聞WEB版より

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山田さん夫婦

アラサツーバ管内最古の植民地へ

 午後2時頃から観光を終えてホテルに戻った一行は、同6時の集合まで自由時間に。記者は、本来旅程に組み込まれるはずだったアラサツーバ管内最古の移住地、アグア・リンパ植民地(旧ビリグイ植民地)に向かった。
 同移住地の起源は1912年に創設された、10人の出資者によるイギリス系移民の投資会社が同地を開拓する植民事業に乗り出したことに端を発する。14年の同社総会では、社名を「テラス・マデイラス&コロニザソン・デ・サンパウロ」と改めて、5万アルケールに及ぶ巨大面積分譲に踏み切った。
 13年頃には、鉄道ノロエステ線のバウルーから奥地までの工事も進み、その間に同社はコーヒー精製機や精米機など機材の調達など着々と事業を進めていたとされる。同年にはサンパウロ拠点の新聞社などに土地の分譲販売を広告として掲載し、移住者を集めた。
 15年には、宮崎八郎氏が同地日本人移住者のための通訳として雇われ、アラサツーバ管内、ビリグイ地域最初の植民地として入植が始まる。同年に大原恵吉、貝原義人、東島初一、川床栄吉、一ノ瀬勘助、鐘ヶ江藤太郎、宇治野順次、日野千太郎、千原元吉、阿蘇徳次、酒井徳太郎、浜逕敬太郎を家長とする12家族が草分けとして入植し、3年間で100家族以上の日本人が居住していた記録が残っている。その後、戦後の57年まで同地への入植は続いた。
 同地生まれの山田英一さん(84、3世)は、同地の浮き沈みを間近で見て来た。山田さんによると、同植民地の最盛期には、300家族以上が居住しており、植民地内は、所せましと家が並んでいたが、現在は4家族のみとなっている。
 山田さん夫婦は、90年頃からバナナ園を営んでおり、「バナナで生活できている。ここは影が無いから美味しくできる」と言い、続けて綿花や落花生など同地では過去に様々な作物が栽培されてきた歴史を話してくれた。
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安瀬商会のカフェ精製所跡
 入植当初、コーヒーが主産業だった同地では14年、グァタパラ耕地に入耕した実業家・安瀬盛次(あんぜ・もりじ)氏(=援協初代会長)が、翌15年にコーヒー農園を購入。安瀬氏がアラサツーバ市内に「安瀬商会」を設立し、同地の生産者を牽引した。同地には、現在はあまり使われていないものの、安瀬商会のカフェ精製所跡が残っており、精製機など機材も当時のものが残されている。(戸)(つづく)