第49回県連ふるさと巡り⑯ サンパウロ新聞WEB版より

イメージ 1入植100周年記念碑「拓魂之聖塔」と山田さん

100周年を超したA・リンパ植民地

 1915年に入植が始まったアグア・リンパ植民地(旧ビリグイ植民地)は、2015年で入植100周年を迎え、盛大な記念式典が挙行された。記念式典には、来賓や同地に縁にある人ら総勢約300人が出席した。同地には、旧アグア・リンパ日本人会館敷地内に、入植100周年記念碑「拓魂之聖塔」が建立されている。
 同地で生まれ育った山田英一さん(84、3世)は、同地の繁栄に、同日本人会と日本語学校の存在が欠かせなかったと振り返る。同日本人会は、入植開始当初から存在したそうで、入植者の集い場として、同地居住者の交流促進に役立ったという。戦後になり、1952年に同日本人会会館が建立されている。
 日本語学校は、入植開始から4年後の19年に建設され、初代教師に高橋麟太郎(りんたろう)氏(ノロエステ連合日伯文化協会元会長)が就任している。戦前の間、多くの子弟が日本語を学び、戦時中に日本語禁止令が出されている間は、昼間に住宅まで教師が通い、生徒の指導に当たっていたそうだ。
 戦後、日本語学校校舎は49年にブラジルの私立学校「グルーポ・エスコーラ・ゴメス・カストロ」に土地を提供し、廃校となった。52年からは、同会館で日本語教室が始まったが、翌年に教師がいなくなり、山田さんら青年がその後数年間にわたり教鞭を執っていたという。さらに、山田さんは「戦後はここでも、勝ち組と負け組の抗争に敏感になっていた。アグア・リンパでも多少の揉め事はあったけど、近くの地域では、命をとることも。アグア・リンパはみんな注意を払っていた」と当時の状況を証言する。
 また、同地は芝居劇が盛んで、戦前から居住者の楽しみの一つだった。55年に同地最後の芝居が行われる際には、山田さんも登壇し、演技を披露したという。
 63年、山田さんら有志が集まり、同地で最初となる慰霊碑を建てた。2年毎に、9月7日に慰霊祭を開催し、先人を弔うことも欠かしていない。山田さんは「開拓に苦労した人に世話になったから、先祖を大切にしたい」と何度も口にしていた。
 現在は慰霊碑の隣りに100周年記念碑もあるため、2つの碑の前で慰霊祭を行っている。今年は同地出身者の家族ら含む135人が集まったそうだ。居住者が少なくなろうと、同地の先祖への想いを持った人はまだまだいるようだ。(戸)(つづく)
2018年10月25日付