【農大生の海外移住者】カリフォルニア在住の卒業生村松 義夫

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カリフォルニアにお住みの村松義夫さんが、「和田さんの600万回のホームランに向かって」との副題を付けて送ってくれた昨今の日本の大学数、特に大学受験生の18歳人口が近い将来には、90万人割れすることから大学の統廃合が起こると警鐘を鳴らしておられます。ご出身の東京農大が1955年に杉野忠夫先生を学科長にして「農業拓殖学科」が開設され1960年に5期生として入学し薫陶を受けられた。各国別の卒業生の詳細も明記しておられブラジルには総勢195名(故人52名)がおられ杉野先生の「農業拓殖学科」を農大の財産と位置づけ、少なくなって行く1世の後を継ぐ2世、3世に期待を寄せておられる。写真は、村松さんが送って呉れた母校の写真です。

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和田さん、皆さん
 私事で恐縮ですが、先日の「松栄さん」の投稿の中に「東京農大はどの様な大学なのか」について「教育ジャーナリスト中山まち子女史」の記載がありました。この中に現在の大学のそれぞれの学部の教育内容や研究成果が解説されていました。現在の日本が抱える大きな問題とされている少子高齢化の中での大学の数が問題になっています、『1950年大学数:201校、短大数:149校』、『2019年大学数:786校、短大数:326校』と統計が出ています、この大学数は2015年を最高数であり現在減少に転じて来た、将来2035年の推測では18歳に達する人口減少によりその数は「大学・短大合わせて500~600校」にまで減少すると言われている。現在各大学は生き残りをかけて如何なる方向に向かうかが問われている。国立大学も更なる閉鎖や縮小そして合併が促進される、私立大学でも生き残りをかけて専門学科を主体とした縮小や合併に移行する、また海外特に途上国からの留学生に依存する大学と変化していくと予測している。

 そこで東京農大であるが我々が入学した当時は東京都世田谷区の本校と茂原分校があり、農学科、畜産学科、林学科、農業工学科、農業拓殖学科、栄養学科等であった、しかし現在は『世田谷本校:大学院、応用生物科学部、生命科学部、地域環境科学部、国際食料情報学部』、『厚木キャンパス:大学院、農学部』、『北海道オホーツクキャンパス:大学院、生物産業部』、の3カ所になり、『高等学校:世田谷に農大一校、群馬県に農大二校』を所有している、学生数は高等学校を除き、『大学・大学院の生徒数は:12,145人』である。

 大東亜戦争の終戦まで満洲国、台湾は日本の領土として繁栄し、特に食料不足の日本に於いて満洲国は穀物、畜産、綿花基地、台湾は砂糖、熱帯果樹基地として母国への大きな食料貢献を果していた、この農業生産のために戦前の「農大の植民部」卒業の多くの先輩諸氏が関わっていた、然し1945年の終戦によって満州はソ連軍によって不法侵攻され多くの開拓団地の日本人(農大性も含)が殺害され満洲国は日本領土を失った、その後日本国内はGHQ占領下により「植民・拓殖」の教育は廃止となっていた、然し戦後外地からの大勢の引き上げ者の国内での滞在と生活に問題が生じ、政府は海外移住事業を戦後初めて再開し米国、カナダを始め中米、南米各国と交渉し移住先国を確保し、希望者を募り送り出しを国策として開始していった、中でも移民希望者の多くはラジル国へ渡った。

 1955年農大は農業の高等教育を習得した青年男女が、移住先で現地住民と共存し共栄の社会を創設するを目的に、新設学科『農業拓殖学科』の申請を政府に提出、担当の文部省は学科新設許可は「杉野忠夫」を学科長に任命する事で認可された(杉野教授は石黒農政の下、満蒙開拓企画者の主幹)。翌年1956年第1期生が茂原分校に入学し三年時には南米や北米に現地実習として渡航して行った、杉野忠夫教授自らが南米に飛び卒業生の受け入れ先を確保し、学生を送り出した、初年度は受け入れ先での実習訓練で卒業単位を取り農学士の卒業証書が郵送された。
 
 1960年我々は第5期生として100名が『農業拓殖学科』に入学した、特に戦前満蒙開拓や支那へ派遣された親の子孫、杉野忠夫教授の出版本「海外拓殖秘史」を高校で解読した者、大学案内を見て海外雄飛を希望した者等が全国から上京した、当時は入学試験の筆記試験はあったが面接で殆どが合格した(現在の農大合格率は5.65%倍だそうで驚きである)。その後1975年頃になると移民政策も終焉を迎えて行った、大学内も学科編成が大きく変化し、「農業拓殖学科」は「国際食料情報学部」に組み入れられた、そして海外移住に変わって国策による開発途上国のアフリカ諸国、東南アジア諸国、中南米諸国への農業関係指導・支援の為の「国際農業開発学科」に変化して行った。

 農大には農業拓殖学科新設前から世田谷の本校内の他学科や「海外移住研究部」が存在しており、1950年〜1975年迄が南米への移住が盛んであった、その大半はブラジル、アルゼンチン、パラグアイであり一部は北米のカナダと米国であった、その後1975年以降は開発途上国への農業関連指導員「海外青年協力隊」として二年間をアフリカ諸国、東南アジア諸国、中南米諸国に派遣されて行った、帰国後の一部は南米へ移住したり、現地へ再派遣されたりした。

 現在まで卒業生は『カナダ:47名(内故人4名)』『米国:48名(内故人4名)』『メキシコ:7名』『コスタリカ:3名』『ペルー:3名』『コロンビア:1名』『ブラジル・南伯:152名(内故人48名)、ブラジル・北伯:43名(内故人14名)』『チリー:3名』『アルゼンチン:38名(内故人9名』となっている、その他東南アジア地区のインドネシア、ラオス、タイ(拓殖5期生1名)等である、年齢的にも既に還暦を過ぎ最高齢は90歳、そして大半は80歳、70歳代であるが二世、三世の時代に変化し移住先国家の市民として活躍している、一世は次第にその数が減少している。

 最初に記した「教育ジャーナリストの中山まち子女史」の農大に関する投稿の中で忘れてはいけない事は、多くの海を渡って行った学生達が現地に永住し、日本の伝統文化を受け継いだ子孫が次世代で活躍している姿、その基礎を作った「農業拓殖学科」という農大の財産を忘れないで欲しいと申し上げたい、” 夏草や兵どもの夢の跡 ”    村さん-CA

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