浅海さんの連載記事転載その5です。


皆さんへ 第127回 江崎道朗著「コミンテルンの謀略と日本の敗戦」(PHP新書 1108)

昭和研究会は表面上は解散したけれども、昭和研究会の意図するとおりに政策が歪められている。とくに、朝日新聞の笠信太郎が提唱した計画経済が近衛首相の声明に取り入れられている。更にその上、北進論、南進論という日本の国力を奪う議論ばかりが行なわれている。今日は専ら南進に国論一定したる如きも、南進はマルキスト当初の意図唱導せるところにして、いよいよ彼らの術中に陥り、シナ事変の解決なくして新に南方進出に身をやつす事とならざるを祈らざるべからざるに至れり。北進論か南進論かの議論は南進論に落ち着いたがそれは最初からマルキストが意図して主張していた事ではないか。彼らの術中にはまって、シナ事変を解決しないままこの上更に南方に進出することになって、日本が益々国力を弱らされて行く様な事にならなければいいのだが。これは繰り返すが、1941年、昭和16年11月大東亜戦争直前に出された文章である。尾崎、ゾルゲ事件がまだ報道されていない段階で、なおかつ戦後の研究がない時点で、小田村たちは日本と世界の動きをここま見通していたのである。

21-計画経済を批判した自由主義経済学者、山本勝市

計画経済を主張した笠信太郎の日本経済の再編成がマスコミにもてはやされてベストセラーとなり、近衛新体制の経済政策にも大きな影響を与えた事は之までに述べてきたとおりだ。この計画経済を経済学的に正面からきちんと批判した人物こそ、本章で幾度も言及した経済学者の山本勝市であった。日本近代史家の伊藤隆が山本勝市関係文書を網羅的に調べて、山本勝市についての覚書、付山本勝市日記から日本文化研究所紀要第一号から第三号にまとめている。これらに沿って先ず山本の生い立ちから語っていこう。山本は明治29年1896年和歌山県に生まれ、成果は山村にあり小さな百姓と材木商をかねていたと言う。高等小学校二年で一度退学し、村役場に働きに出ている。経済的な苦労があったと思われる。代用教員を経て数えで17歳の時京都に移り、市立京都中学四年生に編入、大正4年3月に優等で卒業している。その後生活の苦労をしながら三高に合格し、京都大学に進んで河上肇に師事した。河上肇は当時の代表的なマルクス主義経済学者である。卒業後は河上肇の推薦によって和歌山高商に就職している。山本は思い出の記ー高商教授の時代で、正直言って私は当時河上先生から信頼されていた、私は先生から文章の書き方まで指導をうけ、講義の調子まで影響を受けた。先生ほど私に大きな影響力を持った学者は他にいない。と記している。山本は当初、河上に深く傾倒した社会学者だった。

 浅海 拝  330頁

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