Urashimaメモ「なぜ日本はChinaを中国と呼ぶのか?」 富田さんからのお便りです。


  
和田さん&W50年の皆さん、満開になった桜を楽しんでいる今日この頃ですが、皆様はいかがお過ごしですか。今週はUrashimaメモ「なぜ日本はChinaを『中国』とよぶのか?」をお届けします。英語はChina,ドイツ語はChina(ヒーナ),フランス語はChine

(シーヌ)とあの国を呼びます。日本も戦前は「支那、シナ」と呼んでいました。それが戦後、支那は完全に日本から消えました。なぜそうなったのか?皆様はご存じですか。

 今週はUrashimaメモがそんな疑問にお答えするとともに、「中国」という呼称が何を意味するのかもお伝え致します。題して、Urashimaメモ「なぜ日本はChinaを『中国』と呼ぶのか?」。下記のブログをお訪ね頂ければ幸いです。http://iron3919.livedoor.blog/archives/9562732.html

 

富田眞三  Shinzo Tomita

urashimaメモ


なぜ日本はChinaを「中国」と呼ぶのか?
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              写真:REUTERS/Ling Zhang/
 メキシコにいた30年前のことである。当時の日本大使から、「なぜ日本はChinaを中国と呼ぶのか」という外務省の裏話を聞いた。終戦直後、蒋介石の国民政府(中華民国)から、「支那」という呼称は差別語である。今後、我国をシナと呼ぶことを止め、中国と呼ぶように希望する、と強く要請された。その要請を受けた、外務省のチャイナ・スクールの面々は、当時蒋介石の支那は戦勝国でもあったため、唯々諾々として受け入れた、と憤慨していた。

私は大使の憤慨はもっともなことだと思っていたが、今回、30年ぶりにその間の事情を明らかにした記事(論文と言った方が適切だと思う)に出会った。その結果、「支那呼称不使用の件」は大筋で大使の話通りだったことが分かった。
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           中嶋嶺雄元東京外語大学長 写真:(www.gaigokai.or.jp)
 この件の経緯はネットで見つけた、元東京外語大学長の中嶋嶺雄教授(1936~2013)が、2006年に雑誌Will誌に発表した、「Chinaを『中国』と呼ぶ重大な過ち」という論文の中で明らかにされている。
そこで、今回は、中国と中国語が専門の中嶋先生の論文をベースにして、「なぜ日本はChinaを中国と呼ぶようになったのか?」をご紹介したい。実に腹立たしい事実だが、外務官僚がいかにしてこのような「無思慮な過ち」を犯したのか、を中嶋教授の論文のダイジェスト版としてお読み頂きたい。

さて、巻頭の写真は国際会議に出席した、支那の習近平主席である。彼の前に置かれた、国名のプレートにはChinaと書かれている。因みに、英語によるChinaの国号は、
People`s Republic of Chinaであり、この国号をいまや国際共通語と言える英語では、誰もが知っているようにチャイナと発音する。そして、昔Chinaは日本では「支那」、シナとして通用していた。
では下記に各国語のChinaの呼び方を一覧表にしてみたのでご覧いただきたい。
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 図表は中嶋嶺雄「Chinaを中国と呼ぶ重大な過ち」Will2006年9月号をもとに作者が作成した

 一方、スラブ系のロシア語では「中国」のことをKhitay、Kitai(キターイ)と呼んでいて、China(支那)起源とは異なっている。今日ではCathay Pacificと言う香港拠点のCathay(国泰・キャセイ)航空が知られているが、これはChinaとは起源の異なる「中国」の呼称であった。

 こうして見て来ると、「中国」という呼称は東アジアの漢字文化圏のみで用いられており、世界の大部分では「支那」に共通するChinaもしくはCinaが使われていることが分かる。
 中嶋教授は、わが国は韓国・朝鮮やヴェトナムとは違って、Chinese World Orderに組み込まれている「中国」の朝貢国ではなかったのであるから、「中華思想」に基づく「中国」ではなく、世界共通の「支那」にすべきだったのに、その呼称を捨ててしまったのである、と慨嘆している。
 しかも、韓国・朝鮮はハングルの世界となり、ヴィエトナムも漢字を使っていないので、世界では本家の中国を除けば日本だけが、いかに同文同種のよしみとはいえ、「中国」をそのまま漢字で有難く受け入れて用いている唯一の国なのだ。
この記事を書くにあたって、WindowsのWordでシナを入力したところ、「志那」と変換された。従って一語ずつ「支那」と入力し直す必要があった。わが国では「支那」はすでに死語と化しているのだ。

こうした朝貢国的状況下では中国と対等の外交関係を築くことなど不可能であると言える。このような事態に到った最大の原因は、単に支那政府の意向に副おうとしたか、或いは命令された、わが国官僚たちの無思慮にあったのである。
以下、順を追って「支那」の呼称に関する政府の態度を見てみよう。なお、政府の文書は一部現代語風に変えるとともに、句読点を付けて読みやすくしてある。

第一期:大正2年(1913年)6月清朝が倒れ、共和制となった「支那」では、国号を
「清国」から「中華民国」と改称した。同年、在支帝国公使は「中華民国を承認する」と新政府に通告した。
ところが、同じ大正2年6月、日本政府(帝国政府)は次のような閣議決定をあえて行った。
「邦文公文書に用うべき同国国号に関し条約又は国書等将来中華民国の名称を用いることを要するものは別とし、帝国政府部内並びに帝国と第三国との間に於ける通常の文書には今後総て従来の清国に代わるに支那を以ってすることを決定せり」。 こうして、以後わが国では「支那国」「支那共和国」が公式の呼称となり、一般にも「支那」が従来通り使用された。当時の首相は山本権兵衛だったが、今日から見て実に賢明な勇断であったと言えよう。

第二期:ところが、昭和5年(1930年)10月29日、「支那国号の呼称に関する件」として外務大臣、幣原喜重郎浜口雄幸首相に対し、次のように請議した。
「支那なる呼称は当初より同国側の好まざりし所にして、殊に最近同国官民の之に対して不満を表示するもの多きを加えたる観あり。その理由の当否はしばらくおき、我が方として右様支那国感情を無視して従来の用例を墨守するの必要なきのみならず、近来本邦民間の用例を見るも、中華民国の呼称を使用するもの頻に増加しつつある状況なるに顧み目下のところ、支那政府より本件改称方に付き何等申出来れる次第にあらざるも、この際我が方より進んで従来の用例を変更すること時宜に適するものと認めらる」。
(長いので後略)

 要するに、支那側、即ち中華民国政府からの要請があったわけでもないのに、わが外務省はわざわざ第一期の閣議決定を反故にして「中華民国」の呼称に統一しようとしたのだった。その責任者はつねに対中国低姿勢外交を主導してきた、幣原喜重郎外相であった。将に今流行りの忖度だった。
10月31日、立憲民政党の浜口内閣は直ちに閣議決定を行い、「支那国の表示については大正2年の閣議決定の次第も有之候処、今般国内又は第三国との間に用いる邦語公文書に於いては中華民国の呼称を用ふることを常則とすることに閣議決定相成候」。
要するに、支那ではなく「中華民国」と呼べということになった。

 現在の日本の対中国外交に一貫として見られる「贖罪外交」、「謝罪外交」
「位負け外交」のルーツは、すでに1930年代に根を張りつつあったのであり、「チャイナ・ロビー」に誘導されやすい外務省の性癖としての対中国軟弱外交は既にこの時期に始動していたのだった。
 
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                      写真:(www.sotozen.net.or.jp)
 しかし、公文書など以外では、一般には依然として「支那」が用いられていた。
翌年の昭和6年(1931年)9月、満州事変が勃発、わが国は関東軍主導の対満州方策へと動いていったが、いわゆる日中戦争となる「支那事変」が起こったのは、昭和12年(1937年)7月だったが、その後も朝日新聞を初めとするマスコミはもちろん一般国民も第二次大戦に至るまで、依然として「支那」の呼称を使い続けていた。

  第三期:以上のような経緯の後「支那」が日本から完全に消えたのは戦後のことであった。
   終戦の翌年、昭和21年(1946年)6月6日、外務次官は文部次官など各省次官、内閣書記官長、法制局長官や各都道府県にあてて「支那の呼称を避けることに関する件」と題して、次のような文章を送った。

「本件に関し外務省総務局長の都下の主な新聞雑誌社長に申し送った文章の写しを御参考のためにお送りする次第である」。以下がその写しである。
      
「中華民国の国名として支那という文字を使うことは過去に於いては普通行われて居たのであるが、その後これを改められ中国等の語が使われている処支那という文字は中華民国として極度に嫌うものであり、現に終戦後同国代表が公式非公式に此の字の使用をやめて貰いたいとの要求があったので、今後は理屈抜きにして先方の嫌がる文字を使わぬ様にしたいと考え念のため貴意を得る次第です。
      要するに支那の文字を使わなければよいのですから用辞例としては、
     中華民国、中国、民国、中華民国人、中国人、民国人、華人、
     日華、米華、中蘇、英華
などのいずれを用いる差支えなく、唯歴史的地理的又は学術的の叙述などの場必
ずしも上に拠り得ない、例えば東支那海とか日支事変とか言うことは止むを得ぬと
考えます。因みに現在の満州は満州であり、満州国でないことも念のため申し添え
ます。 昭和21年6月7日  岡崎外務省総務局長」

 当時の外務省総務局長は後に外務大臣になった岡崎勝男であったが、一外務官僚
名の公文書としては、きわめて重大な事柄が含まれていた。
特に「今後は理屈を抜きにして先方の嫌がる文字を使わぬ様にしたい」という部分である
が、それは「支那」という呼称の歴史的背景や言語的な意味を一切無視した官僚的規制
であった。
しかもこのような一種の強制を法律や規則ではなく「申送り」として「写し」を添付するかたちで伝達しているところが深謀遠慮であり、姑息だともいえよう。
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               写真:(www.yudanzsports.com)
 当時わが国は占領下にあった敗戦国であり、蒋介石の中華民国は戦勝国の一員であったとはいえ、「支那」という歴史的かつ文化的、また言語学的意味を持つ呼称を一篇の官僚的文書で処置したのだった。
中華民国側は「支那」を用いることを嫌うというが、ではChinaはどうなのか?前述したように世界の多くの国々は今も昔もChinaという国名を使用している。中華民国時代の国号も英語ではRepublic of China ではなかったか。Chinaは良くて「支那」がいけないのは何故か、という設問も試みることなく、対処し了承して仕舞ったところに大きな問題があったのである。

 このような外務省の「申送り」を受けて、文部省は同年7月3日、文部大臣官房文書課長の「『支那』の呼称を避けることについて」と題する「通知」を公立私立大学、高等専門学校校長に宛てに送付した。
こうして、わが国の新聞雑誌などのメディアのみならず、大学、高専などからも一斉に「支那」の呼称が消えて行った。中嶋教授が学長を務めた、東京外語大の「支那科」は「中国科」に変更された。
中嶋教授はこの論文の最後をこう締めくくっている。「以上の検討結果から、中国当局がChinaの呼称を維持している限り、「支那」を用いることになんら異議を差しはさむ余地はないのだと結論してよいものと、私は現在考えている」。

  Chinaの呼称問題は、中嶋嶺雄の主張から15年経った現在では、すでに解決済みの問題であるかのように一般には見なされ、「中国」と呼びならわすことに何の疑いも持たず、「中国」が当然だという神話が一貫して支配的である。私のような“浦島太郎”には理解し難いことである。
 だいたい、「中国」とは中華民国や中華人民共和国の略称としての「中国」ではなく、孟子や史記にも出てくる古い言葉である、と中嶋教授は教えてくれる。
その意味は、「世界の中心の国」「中原の精華の国」さらには「四囲の東夷・西夷・南蛮・北狄といった野蛮人の地とは異なる高みにある国」の意味であり、自らを世界や宇宙の中心に位置づける自民族中心主義(Ethnocentrism)の「中華思想」に他ならない。
だとすれば、わが国が現在Chinaを「中国」と呼ぶのは「中華思想」的な中国的秩序体系の一員に馳せ参ずることを意味する。少なくとも私は真っ平ごめんである。(終わり)