私たちの50年!!

1962年5月11日サントス着のあるぜんちな丸第12次航で着伯。681名の同船者の移住先国への定着の過程を戦後移住の歴史の一部として残して置く事を目的とした私たちの40年!!と云うホームページを開設してい居りその関連BLOGとして位置付けている。

カテゴリ: ブラジル日系社会

ブタ腎臓移植手術はブラジル人医師主導=臓器不足解消に世界的朗報 ブラジル日報WEB版より

レオナルド・リエラ医師(22日付G1サイトの記事一部)

 米国マサチューセッツ総合病院(MGH)で遺伝子組み換えブタの腎臓移植が人間に成功して話題になっているが、その手術を主導したのがブラジル人医師であると22日付G1サイト(1)が報じた。初の異種移植(ブタから人への臓器や組織の移植)の成功は、世界的な臓器不足の解決策に一歩近づけるものと期待が広がっている。
 16日に行われた手術は、ハーバード大学医学部の医学・外科学准教授のブラジル人医師、レオナルド・リエラ氏が指揮を執った。「臓器提供を待つ患者に対してより迅速に臓器を提供するための重要な進展を示す」と病院側は声明で述べた。

マクロン仏大統領26日来伯=環境やFTA協定も議題に ブラジル日報WEB版より

2023年12月にドバイで開催されたCOP28でのルーラ大統領(左)とマクロン大統領(右)(Foto: Ricardo Stuckert/PR)

 23日付フォーリャ紙(1)が、フランスのエマニュエル・マクロン大統領が、26日から3日間の日程でブラジルを訪問し、G7とグローバル・サウスの架け橋としての同盟関係を示す予定だと報じた。
 マクロン大統領はルーラ大統領(PT・労働者党)を戦略的同盟者とみなしているが、その背景には、ボルソナロ前政権(自由党・PL)への対抗や、フランスの独立した外交政策に対する期待などがある。訪問では、環境、防衛、経済、政治などのテーマに焦点が当てられ、両国間の協力が強化される予定だ。
 一方、ウクライナやパレスチナなどの政治的な問題では意見の相違があり、商業や環境問題においても両国の立場の違いが浮き彫りになる可能性がある。

小説=流氓=薄倖移民の痛恨歌=矢嶋健介 著=113 ブラジル日報WEB版より

 その後、訪日の機会が二度あり、田島家にも寄ったが、双方から千江子の話はでなかった。その頃、田島はかなり憔悴して、絵の具が身体に悪いんだが絵は止められない、と自嘲まがいに話していた。そして、別れた翌年に逝った。それ以来、矢野の故郷訪問の楽しみは半減したが、田島を悼むとき、つい千江子に思いを馳せて、電話を入れたのである。

 電車は、広島駅に着いた。プラットホームに、千江子と瓜二つの八重子が立っていた。最後に逢った頃の千江子の年齢に見える。
 矢野が初対面の挨拶をすると、
「あら、田島さんも一緒じゃなかったのですか」
 と八重子は怪訝な顔をした。
「電話で話せばよかったのですが、期待を裏切るようで、言いそびれました。田島も四年前に亡くなりました。彼と千江子さんを弔う意味でやっきました」
「まあ、そうでしたの」
 八重子は、失望の色を見せた。が、それ以上、何も言わず駅を出ると、近くに駐車して置いた自家用車に矢野を招じ入れた。
「母の墓は家の裏山の中にあるんです。草に覆われているので、夫に会社を休んでもらい、今日は草刈りです。もう終わった頃だと思いますので家を廻ってそれから墓に行って頂きます」
 八重子は気さくに話しながら、慣れた手つきでハンドルをさばいていく。
「あそこが私の村です。というよりおじいちゃんの代々の土地で、おじいちゃんは、俺の死に場所だと言って動かないから、そのお守りで、私たちこんなところに住んでいるんです」
 指された所は村はずれの、分厚い茅葺きの大きな家で、柱や障子はすすけている。明治時代を象徴しているような、しかも大変落ち着きを感ずる場所だった。家の横に柿の大木があって、広い緑葉が今を盛りと萌えあがって家の片隅を覆っていた。そのせいか庭土がじめじめとして、いかにも田舎然とした風景だった。
「お母さんはここに住んでいたんですか」
「そうなんです。姑が亡くなり、義兄夫婦が海外旅行で事故死してから、舅が許してくれて、私と一緒に住めるようになったの。母は大変喜んで、これでもう思い残すことはないと言い、死んだらお父ちゃんの所へ行ける、などと、まるでそれを楽しみにしているような日々でしたわ。この古風な家がとても気に入ってました」
「落着ける村なんですよね。僕なんかもこういうところで住めたらな、と今考えたところです」

《記者コラム》「正義はどこに」の声高まる=流れ弾で死亡した女性の裁判後 ブラジル日報WEB版より

 2014年にリオ市北部で起きた、流れ弾を受けた黒人女性の体を警官がパトカーで約300メートル引きずった後、病院に運ぶと言って現場を離れたが、その途上で遺体を放棄したという事件から、16日で丸10年が過ぎた。
 遺族や身近だった人達にとり、故人の記憶や亡くなった時の衝撃、過ぎ去った日々は風化することがない。特に、被害女性クラウジア・シルヴァ・フェレイラ氏のように、不遇の死を遂げた場合、遺族の胸中には故人への思いや正義を求める思いが強く残る。
 この事件は、警官がクラウジア氏の体をパトカーで引きずる様子が録画、拡散されたことで、広く知られるところとなり、彼女を撃った可能性のある警官2人も一時逮捕された。
 だが、裁判では、彼女を死に至らしめたのが犯罪者達と銃撃戦となった警官達の弾だったのか、アスファルト上を引きずられたケガ故なのかも含め、警官の仕業だとする証拠が不十分だとして、免罪となった。銃撃戦を展開した犯罪者達は陪審裁判にかけられたのにだ。
 また、被弾して倒れた彼女の体をパトカーで引きずって移動させた上、病院にも運ばず、放棄した警官4人も、不適切な扱いをしたとされただけで、証拠隠滅を図った可能性や遺体遺棄の責任は問われなかった。
 この裁判は遺族も含めた多くの人達にとって驚きであり、衝撃だった。そのことは、判決内容を不満とする人達が、人種差別への抗議も込めたデモを起こしたことなどからもうかがえる。
 だが、一方では、警官達が正当防衛であり、市民を巻き込むつもりはなかったなどの釈明を行っていたことや事件から10年も経ってからの裁判だったことなどから、この結果になると予想していた人達もいた。
 パンを買いに出たら銃撃戦に巻き込まれたというのは犯罪多発地域ならいつでも起こり得るし、亡くなったのが貧しい家庭の主婦であったことも珍しいことではない。だが、罪もない黒人女性が非人道的な扱いを受けたことや、誰も責任を問われなかったことは市民の憤りをいや増した。3月は国際女性月間だが、もし、裕福な白人男性が同様の扱いを受けていたら同じ判決が出ていたかと思った人も多いはずだ。

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判決後に行われた抗議デモ(©Midia NINJA)

 新型コロナのパンデミック時、都市周辺部の貧しい地域では感染者や死者が多かったし、デング熱の感染者多発地区も周辺部が多い。肌の色や性差、貧富の差などが職種や労働環境、給与などに大きな差を生じさせているのは周知の事実だが、人の命や尊厳に関わることでも肌の色や性差などの影響を感じるのは悲しく、遺族達の心中を思うと胸が痛む。
 愛する人や自分を愛してくれた人が虫けらかのように扱われたという事実が遺族や知人達に残した心の傷は有罪判決でも消えない。告訴しても判決が覆る可能性はあまりないが、正義が行使されることを願い、抗議の声を上げる人達がいたことは、人としての心を失わず、他者の痛みを自分の痛みとできる人達がまだいることの証だと思いたい。(み)

《特別寄稿》映画『オキナワ サントス』を鑑賞して=アチバイア市 中沢宏一 ブラジル日報WEB版より

 友人の歴史研究家、宮村秀光さんから「サントスの海岸地方に住んでいた日本人が1943年7月7日に強制退去命令によって24時間以内に立ち退きさせられた時、自分は母のお腹の中で3カ月だった」とのことは聞いておりました。
 宮村さんは1月1日生まれで、私は1月10日ですから自分のことのように聞き入り思っておりました。この度、文協でサントス強制立ち退きをテーマにしたドキュメンタリー映画『オキナワ サントス』(松林要樹監督、2021年)が上映されると言うことで、宮村さんと一緒に観ることとなりました。
 1984年、私が39歳で宮城県人会会長に就任して、次の年か、宮村さんのお父さんの宮村季光氏が熊本県人会会長に就任されました。当時、高野県連会長は「県連センター」構想を発表されていました。私はそれに同調して高野会長のカバン持ちをしている時、季光氏も賛同された同志としての関係で自宅に招待され、奥様ともお会いしました。
 季光氏は「明治の男」の雰囲気を持っていて、小柄だが背筋をピーンと立て、威厳に満ちておられた姿に憧れていました。奥様は上品で優しいご婦人でした。その時は秀光さんとはお会いしてなく、20年も経て知合いになりました。
 季光氏は膨大な手記を遺されました。「将来のために書き残す」と表紙に書かれております。当時の雰囲気を感じさせる手記の一部分を、ここに書き出してみます。
    ◎

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終戦直後の宮村家の家族写真(中沢さん提供)

■「戦局」1943年7月2日5日前の手記
 世界大東亜戦争の波は荒れに荒れて、世界中の大戦争となった。
 当伯国(ブラジル)に於いても、独伊に向かって宣戦布告をして、我が帝国とも国交を断絶して排日運動に拍車をかけつつある。そのために、我々在留邦人はあらゆる方面から脅迫を受けつつある。何故ならば当伯国は独立国としては名ばかりの国で、事実は米国の支配下にあるような国故に、米国が我帝国の為に敗戦すれば敗戦するほど我々を脅迫する。
 我皇軍の活躍は全世界に轟かせて、我々海外在留同胞を如何程に勇気付けることか。あ々、日本なればこそ、如何に脅迫され苦しめられても、皇国の連戦連勝があればこそ、我々は強い強い生き甲斐を感ずることか。
 今に見よ、我が帝国が大東亜の盟主として世界に君臨する日を、その時こそ天皇万歳、大日本万歳だ。現在の当伯国は厳重なる取り締まりの下にラジオニュース取り締まり法にて取り締まっているが、我々同胞は当国のデマ宣伝にダマサレずに真相を覚知すべく東京放送の時間にはラジオにかぶりついて聞いている。
 我が帝国は大東亜建設に一路整然と邁進しつつある。山本聯合艦隊司令長官の壮烈な戦死は世界にゼネラル山本の名を轟かせて、、、、、、

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サントス強制退去をさせられた頃の宮村季光夫妻(中沢さん提供)

■「退去命(サントス退去)」

 7月7日の日、突然、日独人のサントス退去命がオールデン・ポリチカより出る。即時退去命に 一時は皆困った。
 自分には午後3時頃来る。その日は領事(スペイン)の所にて打ち合わせやら友人と会うなど一日が過ぎ、夜、歯科道具の小さい器具だけパラグアスーに発送する。スペインの金と取り替える際に刑事に捕まって困った。
 8日午前10時に一行700名聖市(サンパウロ市)に向かって発、午後3時着、先着の者と会っていろいろ語る。厳重なる警護下にいろいろの手続きを済ませて、その夜は収容所にて一泊、夜は友達と戦局の動き、今後の身の処置について一晩語った。
 この退去命の根本原因はサントスの沖合いにて米伯両国の船がドイツの潜水艦がによって7隻沈められた為による故に、サントスが戦争区域になったためであった。
 7月9日の朝は早くから忙しかった。まるで捕虜取り扱い同様なのに一同憤っていた。自分も2、3回フィスカールと口論する。結局損だ。仕方がない。戦後にこの埋め合せをしてもらうより外にない。
 刑事付きでカミニョンにて送られるので聖市の市民が皆見ていた。今に見ておれと義憤の火が胸を熱くするのをどうすることも出来なかった。
 雪子生後8カ月の可愛い我が最愛の天使は何も知らずに妻の胸に抱かれてニコニコしている。午後6時頃特別車にてソロカーバ駅を発つ。各自希望の地に向かって行くので、皆思い思いの所にて下車する。手荷物一つでサントスの家をそのままにて来ているので皆心配していた。

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宮村秀光さんの手記の一部(中沢さん提供)

 夜は寒かった。雪子のお守で妻も疲れていた。10日の午前10時にパラグアスー駅に着き、丸林旅館に行く。皆さんサントスの状況を聞きに来るので疲れているが語る。夕方市長が来たので語る。
 収容所では寒かったので風邪を引いて困った。11日やっと我が身の自由を感じられ すっきりした。、、、、、、
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 宮村秀光さんと知り合ったのは2010年頃、戦後移住60周年記念の話が出始めた頃で、「熊本県人会会長の宮村季光さんがお父さんですか、、、、お母さん敏子さんのお腹に居ってサントスから、、、」というところから親しみを感じました。さらに同じ年でもあり、何かにつけてお付き合いさせて頂いておりますが、この『オキナワ サントス』で共有することが増えたように感じます。
 40年前の高野会長、宮本副会長、浜田理事、宮村熊本県人会会長さんらと県連センターで同志となり語り合った頃が懐かしく甦りました。

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