私たちの50年!!

1962年5月11日サントス着のあるぜんちな丸第12次航で着伯。681名の同船者の移住先国への定着の過程を戦後移住の歴史の一部として残して置く事を目的とした私たちの40年!!と云うホームページを開設してい居りその関連BLOGとして位置付けている。

カテゴリ: ブラジルの各地

《ブラジル》観光名所ピッパ海岸で崖崩れ=親子3人が巻き込まれて即死 ニッケイ新聞WEB版より

亡くなったペレイラ氏一家と上空から見た事故現場(17日付G1サイトの記事の一部)

 ブラジル北東部リオ・グランデ・ド・ノルテ州の有名景勝地「ピッパ海岸」で、崖の一部が崩壊する事故が起き、親子3人が巻き込まれて死亡した。
 ピッパ海岸はリオ・グランデ・ド・ノルテ州が誇る観光名所の一つで、「天然の水族館」と言われるほど浅瀬の水がキレイで、州内外の人が訪れる。
 崖崩壊が起きたのは17日の昼前で、休日を家族で過ごしていたホテルマンの男性らが即死した。
 死亡したのは、サンバイ・ホテルの受付主任のウーゴ・ペレイラ氏(32)と妻のエステラ・ソウザ氏、生後9カ月の息子だ。ペレイラ氏はサンパウロ州ジュンジアイ市出身で、数年前から同州に住んでいたという。
 事故の瞬間を目撃したイーゴル・カエタノ氏は、ペレイラ氏の一家が崖の傍に座っていたのに気づき、消防に通報すると同時に、犠牲者の救助を試みた。

 最初に見つかったのはペレイラ氏の遺体で、エステラ氏の遺体がそれに続いた。エステラ氏は事故の瞬間に息子を胸に抱え込んでおり、救出時、男児はまだ息が残っていたという。

 カエタノ氏らは折よく通りかかった医師に蘇生術を施すよう求めたが、男児も間もなく、息を引き取った。
 この海岸の崖は海の波が寄せては返すため、波打ち際がえぐられ、崖の上部が崩れやすくなっている。現場では16日の昼過ぎもかなりの大きさの砂岩が崩れ落ちたといい、地元の人達は常に、気を付けるよう呼びかけていた。
 エステラ氏のいとこのジョアン・マリーニョ氏によると、ペレイラ氏夫妻は飼い犬共々、事故に巻き込まれ、救急隊が駆けつけた時はもう、なす術がなかったという。
 マリーニョ氏によると、崖の崩壊は昔から起きているが、近年は波が高く、崖の崩壊がより頻繁に起きるようになっているという。旅行客はよく、日陰を求めて崖の傍で休みたがるため、気が付いたら「危ないから崖から遠ざかるように」と忠告していたという。
 チバウ・ド・スル市市役所も危険を知らせる看板を立てているが、満潮になると看板が流されてしまうという。同市通信局のファビオ・ピニェイロ局長によると、死亡した夫妻は、事故の直前に市の監視員から忠告を受けたが、その直後に事故が起き巻き込まれたという。
 チバウ・ド・スル市は、海岸や郷土食、文化イベントなどで知られており、観光シーズンのピッパ海岸は1日に7千人が訪れていた。同海岸はパンデミック後も訪問禁止措置がとられていないが、現在は観光客数を集計していないという。(17日付G1サイト、同エスタード紙電子版などより)

名言・名句から学ぶ=病人の見舞い方=病との闘い方 聖市ヴィラ・カロン在住 毛利律子 ニッケイ新聞WEB版より

孔子・危篤の弟子を見舞って詠う【斯(こ)の人にして斯の疾(やまい)有り】

(お前ほどの優れた者が、どうしてこんな病気に罹るのだろうか)

湯島聖堂にある孔子像(あばさー [Public domain])

 この言葉は、孔子が、 孔門十哲の一人、冉 伯牛を見舞った時に詠んだという。伯牛は傑出して人品優れていたが、身体が弱く、もっとも忌み嫌われていたライ病に罹っていた。
 病床に臥す伯牛の危篤の報せを受けて見舞った孔子の様子を見た他の弟子が次のように認めた。「伯牛、疾有り。子、これを問う。扁よりその手を執りて曰く、これを亡ぼせり、命なるかな。斯の人にして斯の疾あるや」と。
(現代語ー「伯牛がとんでもない病に罹ってしまった。先生は彼を見舞い、窓からその手を取って仰った。ああおしまいだ。なんという運命なのか。こんなに人品優れ徳の高い人が、こんな病に罹ってしまうとは…)」
 この情景描写が非常に印象深いのは、孔子が窓越しに死の床に臥す弟子の手を握り、その無念さを共感しつつ、共に病苦を嘆き悲しんでいることである。
 想像するに孔子は、ライ病で崩れた愛弟子の顔を見るのは耐えがたかったのではないか。また伯牛も師匠にこのような自分の姿を見られたくないと思っていたに違いない。孔子はきっと弟子のその思いを察して、気遣って、窓から手を差し伸べたのであろう。
 「品行方正で卓越した才能に恵まれていたお前が、なぜよりによってこのような病に罹って死に絶えようとしているのであろうか。運命はこれほどまでに過酷なものか」と、当時は治療の手段もなく病苦にあがきながら死にゆく弟子の手を握ることしかできなかった、孔子の悲嘆、口惜しさ、深い憐れみの想いが伝わってくる言葉である。
 孔子はさらに、「乗り越えられない試練を天は与えるはずがない」と呼びかけたとも伝えられている。
 誰しも単純に、「天は徳を積むものには福を、悪行を重ねるものにはその報いを与える」と考える。それゆえに、自分自身が思いもかけない不治の病に罹ったときには、「なんで私が…。何も悪いことをしていないのに」と必ず思い嘆くに違いない。
 家族、友人、知人が悲運に見舞われたときに、痛感するのはまさにこの言葉であろう。
 孔子の膨大な章句のなかでも特にこの見舞いの言葉、その振る舞いは、何時の時代にも古びない最高の慰みとして心に響くが、それは、実に孔子の70余年の苦難と葛藤の人生から生まれたものであったという。

苦難の連続だった孔子の生涯

 日本人の思想に大きな影響を与えた孔子の『論語』は、「子曰く…」と始まる孔子と弟子の問答集である。その中でも特に有名な章句は、「孔子のたまわく、私は十五歳のとき聖人を習得する学を志した。三十歳になったとき、精神的にも経済的にも独立することができた。四十歳で自分の人生に惑いがなくなった。五十歳で天命を与えられたことを自覚した。六十歳となり何を聞いても抵抗感も驚きもなくなった。七十歳となってからは、心のままに言動しても、決して道徳的規範を外れることはなくなった」。
 なんと見事に、模範的な人生の軌跡の全体を記述している言葉であろうか。
 孔子は戦争や疫病にも遭遇せず、ストレスなども少なかったがゆえに、このように健康で満足した人生を生きられたのであろうかと想うと、ところがその人生たるや、波乱万丈の長い苦難の一生であった。
 孔子は、今からおよそ2500年以上も前の時代、紀元前551年に生まれ、74歳で亡くなったと記録されている。父69歳の貧しい農民。母15歳の巫女。父には先妻との間に一男九女がいた。身長は2メートルほどの長身で、高い理性とカリスマ性を備え、3千人の弟子を育成した。
 貧しさから抜け出すために勉学に励み、一介の下級役人から徐々に出世して政界入りする。そのころからすでに弟子がいて、優秀な弟子によって暮らしが支えられた。50代は絶頂期であったが、政治で失脚し、56歳で13年にも及ぶ放浪の旅が始まる。
 放浪中に立ち寄った諸国で、弟子たちが官僚として登用されるなか、69歳で祖国に戻ったものの政界に取り入れられなかった。弟子たちが孔子学校を各地に広げたことで、その数3千人に及んだ。70歳の時に、50歳の一人息子が亡くなり、続いて有望な弟子が次々と亡くなっていく。充実し穏やかであったのは死ぬ前のわずか一年だけだったという。
 このように、50歳代から晩年までの苦難の連続が、人生の本質を語る言行録『論語』を生んだ所以と伝えられている。

ジャーナリスト魂・自分の癌を取材する

 現在、超高齢化社会の日本では、「2人に1人が癌になり、3人に1人が癌で死亡する」といわれている。「癌」とは、正常な細胞の遺伝子が傷つくなどして発生した異常な細胞で、こうした細胞の変異は、誰の体内でも、毎日何千という単位で起きていると考えられている。
 通常は、免疫細胞が、常に異常細胞を排除しているので、大事に至ることはない。だが、癌細胞のなかには、免疫細胞の攻撃をすり抜けて生き残ってしまうものがいる。現在、画像検査などで発見できる癌の最少サイズは約1センチ。そこまでに成長するには少なくとも十年以上もの歳月をかけて、目に見える大きさになったものが癌である。
 それでは、もし自分が癌に罹ったとき、どの様に癌に向き合い、闘病の日々を過ごしたらよいのであろうか。
 「自分は只の癌患者にはならない」と病と正面から立ち向かい、癌闘病処世術を教えてくれた人物二人を紹介しよう。

鳥越俊太郎。2006年2月2日に東京の早稲田大学にて撮影(Shacho0822)

 ジャーナリストの鳥越俊太郎氏は2005年に大腸癌の手術を受けた。その後、肺に転移して再手術し、最終的に2009年に肝臓に転移した癌を切る手術をした。次々と続く手術と闘いながら想ったことは、自分がジャーナリストであったことが一番良かったということだった。癌になって初めて知ったこと、理解したこと、次に何が起きるかも全部分かる。癌になるとどんな心理状態になり、家族は何を想い、友人や知人はどう見舞ってくれるか。そういうことを全て体験できる。
 新聞記者時代に、何度も戦地に取材に言ったが、弾に当たらず、地雷も踏むことはなかった。2004年にイラクから無事帰ってきたが、その時に大腸癌が見つかり手術をすることになった。そこで、鳥越氏は検査時から自分の癌を目撃して、つぶさに記録した。手術中はテレビ番組のディレクターに撮影してもらい、自分でも映像記録とメモ記録を作成した。
 つまり、癌になり、手術を受け、治療を続けていくという辛いプロセスを生きている患者の自分と、自分を観察し、取材する二人の鳥越氏がいて、常に取材者の目線でみるので、面白くワクワク、ドキドキしながら、辛い治療を続けることが出来たと述べている。


壮絶な癌闘病を作句して過ごす

江國滋『おい癌め酌みかはさうぜ秋の酒―江國滋闘病日記』(角川文庫、1999年)

 もう一人。癌との闘いには敗れたものの、その間の心の動きを俳句にして遺したのは、随筆家で俳人の江國滋であった。
 闘病記は一般に、病後に本人が、あるいは家族によって書かれたり、回想することから多少の見当違いや、周囲との関係による配慮、美談などが綴られることがある。
 一方、この闘病日記は日付が記され、患者本人が状況を綴る。そこには患者と医師の生々しいやり取りが綴られるので、何気なく発する医師の一言が、患者にどのような衝撃となって伝わるかを、医療者が学ぶことができる「患者心理学」の要素を含むと言われる。
 さて、江國の癌闘病のはじまりは、内視鏡検査で発覚した食道癌の告知を受けるところからであった。担当の医師は「高見順です(同じ食道癌で亡くなった作家)」と宣告する。「は?」と反射的に聴き返すと、再度、「高見順です。食道癌です」とあっさり告知するのであった。江國はあっという間に癌患者となった。ショックというより、茫然自失する。
 その患者に対して、「こんなときで何ですが…」と言いながら、江國の初版本にサインを依頼するこの担当医師。「サインペンと筆ペンどっちがいいですか」とまで言う。江國の頭の中はまっしろ状態。それでもあたらしい句は思い浮かばず、昔の「ものの芽やひとにやさしくしたくなり」と認める。
 癌を告知されて放心状態の江國に、担当医師本人がサインを求めるというのは、どういう神経の持ち主なのだろうか。日頃から多くの癌患者に接していて、慣れっこになっちゃったということか。江國も、長年の習慣から、頼まれると即興の句を詠じようとするのか。
 ともかくも、江國の闘病が始まった。そして、途方に暮れながらも、「このままで死ねるものか」と、結核に斃れた正岡子規、石田波郷といった「療養俳句」の先達を目指すことで、なんとか気持ちを支えるのである。

残寒やこの俺がこの俺が癌

 10時間に及ぶ大手術のあと、術後肺炎を併発し、一時は危険な状態となる。―手術終了後、麻酔から覚めしときの痛苦を歌った―

春の闇 阿鼻叫喚の記憶あり

 一カ月後の再手術。食道結腸再縫合手術のあと、彼の枕元に病院会計から請求書が届く。一カ月の医療費175万円の請求書を受け取って詠んだ句。

余寒の夜考えてゐる銭のこと

 術後50日で水を飲めるようになる。流動食も始まる。しかし再縫合が必要と言われ落胆。

春の闇どう考えても苦あれば苦

 傷口の回復の見通しが立たない中、癌は右肩腕、首のリンパ節に転移していた。その患部に対する放射線治療が始まると宣告される中で句を詠む。

六月や生よりも死が近くなり

 4度目の手術の後、入院5カ月目にして外泊の許可が下りた。

四万五千日いのちかみしめ外泊す

 7月17日、江國は日本橋で行われた「東京やなぎ句会」で、痛みと声のかすれに苦しみながら、聴衆に闘病生活を語り、作句を披露したという。
 8月8日、いよいよ最後が近づいていると感じて、辞世の句を詠む。

敗北宣言「おい癌め酌みかはさうぜ秋の酒」

 そして、1997年8月10日、5カ月の激烈な闘病生活の後に、62歳の人生を閉じた。 
 家族、愉快な友人に恵まれ、何といっても俳句という文学に支えられた江國の闘病生活。彼の闘病の日々は、その時の状況をつぶさに日記に書き残し、作句し続けた。遺された印象的ないずれの句にも、「歌って苦しみ飛ばそうじゃないか」と読者を誘うような、江國の励ましにも似た慰みが感じられる。
 病は「生」の一つの形態である。生きているからこそ病気になり、その病と直面し、闘って生きなければならない。病はいつも人間に「生き方」を問う。
 病苦から生まれた数多くの名作・名言・名句は、見舞う者、病人が闘病から見つけた尊い生き方を教えてくれている。
【参考文献】
★『孔子の一生と論語』2007年・緑川佑介、明治書院
★日本医学ジャーナリスト協会、合本6
★『おい癌め酌みかはさうぜ秋の酒―江國滋闘病日記』2000年


毎日大雨でAv.Niemeyerまたも一時通行止めに≫ リオの山下さんからのお便りです。

山下@リオです
リオは今週は、毎日大雨でAv.Niemeyerまたも一時通行止めに。
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サンパウロ大都市圏=各地で豪雨の被害相次ぐ=少なくとも11人が死亡 ニッケイ新聞WEB版より

死者が11人に達したと報ずる11日付アジェンシア・ブラジルの記事の一部
死者が11人に達したと報ずる11日付アジェンシア・ブラジルの記事の一部
 サンパウロ大都市圏は10日夜から11日未明にかけて激しい雨に見舞われ、11日昼過ぎまでの死者の数は11人となった。
 11日現地紙サイトなどによると、雨の影響が特にひどかったのは、イピランガやヴィラ・プルデンテ、ABC地区などで、洪水や倒木、家屋倒壊などによる消防への通報は、10日夜だけで約300件、11日も朝6時までに約600件の出動要請を受けた。
 死者が出たのもABC地区が中心で、リベイロン・ピレス市では10日午後11時40分頃に起きた民家倒壊で一家6人が巻き込まれた。消防車5台が救出作業を行った結果、52歳の女性と9歳の子供は助かったが、36歳の女性、21歳と33歳、35歳の男性が亡くなった。
 近隣の住宅6軒は、土砂崩れや倒壊の恐れがあり、立ち入り禁止となった。これらの家屋を含む近隣住民10世帯には、11日午前1時頃、退避命令が出た。
 また、サントアンドレ市ではアンシエッタ道で濁流に襲われたバイクの運転手が水死。サンカエタノ・ド・スル市ではエスタード大通りで2人、タボアン区で1人の計3人、サンベルナルド・ド・カンポ市でも1人が溺死した。2月に子供4人が死亡したマウア市ジャルジン・ザイーラ区では、土砂崩れで民家3軒が倒壊したが、死傷者は出ていない。
 また、サンパウロ市のイピランガ区でも1人が溺死。サンパウロ市東部サンラファエル区では、土砂崩れで家が押し潰されて、母親と子供2人が下敷きになった。3人共救出されたが、9歳の男児は重傷を負っている。
 サンパウロ大都市圏西部のエンブ・ダス・アルテス市では、土砂崩れで家族3人が生き埋めになり、両親は助かったが、1歳2カ月の男児が死亡した。
 この豪雨のため、サンパウロ市では、タマンドゥアテイやモオッカといった川や水路が氾濫し、マルジナル・チエテも冠水。各地で洪水や倒木も起き、通行不能となった地区や道路が多数見られた。ABC地区とサンパウロ市を繋ぐ道路やタモイオス道も各地で通行止めとなった。
 また、サンパウロ市ブラス区とABC地区を繋ぐ都電(CPTM)10号線が、11日朝になっても運行再開不能など、公共交通機関にも影響が出たため、サンパウロ市交通工学公社は11日朝、ナンバープレートによる乗り入れ規制や市中央部のトラックや貸切バスの乗り入れ規制を停止した。ゾナ・アズルへの駐車も自由化された。
 同日の雨は、同州北西部のビリグイ市やイセン市、海岸部のカラグアタツーバ、中央部のサンカルロスやアララスなどにも倒木、その他の被害を及ぼした。サンパウロ州では11日以降も、夕立や強風といった不安定な天候が続く見込みだ。

第8回ミナス日本祭り=ベロオリゾンテで22日から ニッケイ新聞WEB版より

過去のミナス日本祭りの様子(写真撮影=Alessandro Carvalho)
過去のミナス日本祭りの様子(写真撮影=Alessandro Carvalho)

 ミナス・ジェライス州で恒例となった「第8回ミナス日本祭り」が22日から24日までの三日間、ミナス・ジェライス州都ベロオリゾンテ市のエキスポ・ミナス(Av. Amazonas, 6200)で開催される。入場料は18レアル。
 今年は2020年に控えた東京オリンピック・パラリンピックの情報発信等を、在リオ・デ・ジャネイロ日本国総領事館が行う。

 また、毎年恒例の日本料理が楽しめる他、茶道や生け花等の日本伝統文化、原宿ファッションコンクール、コスプレ大会、ミナス州ミスニッケイ代表、日本行きエミレーツ航空券の抽選会など様々な企画が目白押し。

 22日は午後2時から午後10時、23日は午前10時から午後10時、24日は午前10時から午後7時まで。

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