私たちの50年!!

1962年5月11日サントス着のあるぜんちな丸第12次航で着伯。681名の同船者の移住先国への定着の過程を戦後移住の歴史の一部として残して置く事を目的とした私たちの40年!!と云うホームページを開設してい居りその関連BLOGとして位置付けている。

カテゴリ: 修好通商航海条約120周年

日ブラジル外交関係樹立120周年記念出版 サンパウロ新聞WEB版より


サンパウロ新聞社はこのほど、カンノエージェンシーと共同で日ブラジル外交関係樹立120周年記念出版として「ブラジル日系人経営者50人の素顔」上巻(日ポ両語版)と題した書籍を出版し、販売を開始しました。
同書は、2014年から15年3月まで本紙連載した「ブラジルの未来を切り開く日系人経営者」の50人(ブラジル側40人、在日日系人10人)をまとめたもので、ブラジルの日系人企業家を取り上げた書籍は初めてのものとなります。連載では日本語だけでしたが、同書はポルトガル語に翻訳し、両国語版となっています。
同書で取り上げているのは、両親や祖父母から受け継いだ日本の伝統的な精神文化を基盤に「日本のマニュアルはブラジルでは通用しない」ことを知り、個性を重視し独自性を発揮した創造開拓型の経営者たちです。また、『失われた80年代』を勝ち残こり、先見性と決断力、不動心と情熱、変化対応力などを兼ね備えた逞しい姿が活写されています。
販売はブラジル、日本両国で行っています。
【ブラジル】
価格は1冊100レアル(郵送料は別途)
販売は、サンパウロ新聞社、ブラジル日本商工会議所、文協事務局で取り扱っています。
問い合わせ、地方発送の注文については、本紙の古城またはユミまで(電話11-3347-2000)もしくはEメールで(nobuko@saopauloshimbun.com)。
【日本】
価格は1冊5,000円(郵送料は別途)
販売は、サンパウロ新聞東京支社で取り扱っています。
問い合わせ、地方発送の注文については東京支社まで(電話03-5633-7596)もしくはEメールで(spshimbun@tokyo.email.ne.jp)。

「日伯友好深化を確信」=外交120周年委員会が解散ニッケイ新聞WEB版より


 外交120周年記念事業実行委員会(梅田邦夫委員長=駐伯大使)は先月10日午後、最後となる第9回会合を在聖総領事館で行なった。3つの記念事業やジウマ大統領の訪日中止に関する報告がなされ、会議後に梅田大使らが取材に応じた。
 花火祭り、日伯共同事業展示会、日本館修繕が無事終了したことに加え、秋篠宮ご夫妻の来伯が周年事業の締めくくりとなった。民間でも全伯で年間およそ450もの認定行事が行なわれたという。
 梅田大使は6月の移民の日、11月には外交120周年記念の公聴会がブラジリアで行なわれたことを引き合いに、「交流年だからといって、議会で2度も公聴会を開く国はブラジルの他にない」と強調し、両国の友好深化を確信した。
 
ジウマ大統領の訪日キャンセルに関しては「想定外」とし、伯産加工牛の日本向け輸出解禁(12月10日付け既報)や、官民ファンドJOINらによる鉄道建設(同12日付け既報)など訪日に備え準備されていた案件を伝えた。2回目となる中止に対して日本側でのイメージ悪化が懸念されるが、「しこりの残らぬよう努めることが必要」と語った。
 特別事業費にはルアネー法や一般寄付により約200万レアルが集められた。ヤクルト、三井物産、ブラデスコ、トヨタ、ホンダから大口の協賛があり、3月までに出版される記念冊子にて最終的な収支報告が掲載される。詳細は現在も調整中。

 なお2014年8月に立ち上げた同委員会は、この会合をもって解散となった。

聖市議会で120周年式典=移民史再考セミナーも=新しい視点から見直す=人種偏見と勝ち負け抗争 ニッケイ新聞WEB版より

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聖市議会での120周年式典(10日)

聖市議会で120周年式典=移民史再考セミナーも=新しい視点から見直す=人種偏見と勝ち負け抗争

 聖市日伯外交樹立120周年記念委員会(野村アウレリオ委員長)は10日、記念式典を市議会貴賓室で行い、画家の若林和男さん、在聖総領事館、市議会自ら等を顕彰した。翌日から2日間に渡って同議会内で日伯関係や日本移民史をテーマにした記念セミナー(平野セイジ元USP副学長企画)が開催された。11日午後6時、最初のセミナー「日本移民」の冒頭で平野氏は「これは120周年の成果を考える一連のセミナーであり、多角的に分析したい」と意図を説明し、勝ち負け抗争の背景を報道と学術の視点から3人が興味深い討論を展開した。

 
 日本移民史研究者の桜井セリアさんは「移民史の輝かしい部分は移民百周年の時に充分脚光を浴びた。今回はそのB面にも光を当てたい」とし、笠戸丸前後の国家形成期の伯国エリートは、国民をブランキアメント(白人化)する方針からイタリア移民など欧州移民を中心にいれ、黄色人種の移住を禁止していた歴史を概説した。
 「日本人は同化不能とされ、二世が生まれても、連邦議会では『日本が侵略する可能性がある』との危機感を訴える演説がされ続けていた」との差別的時代背景の実態を明らかにした。
 大戦前後の日本移民史を調査・執筆しているエスタード紙の保久原ジョルジ論説委員は、「バルガス独裁による1937年の新国家体制以来、移民への抑圧は厳しいものになった。イタリア移民などに比べ、日本移民は独特過ぎた。この時代の伯字紙をひもとくと、日本移民に関して驚くべき表現が目立つ。報道の役割を考える時、扇動的であったと言わざるを得ない」と報道的観点から分析した。
 「特に臣道聯盟に関する記事は偏りが激しい。当時、日ポ両語に堪能で官憲に情報提供ができる人物は2、3人しかいなかった。そこからの情報が警察から発表され、情報源を持たない新聞はうのみにした記事を大量に流布した」と当時を分析し、代表的な見出しを羅列した。
 フォーリャ・ダ・ノイチなどで「日本のゲシュタポが聖市で組織された」「日本人狂信集団がテロを聖市に拡散させる」「自爆部隊が日本人暗殺目的で聖市に侵入」などの見出しが躍り、ある記事中には「この秘密結社は有名なKKKに匹敵する」との記述まであったと報告すると会場には苦笑が広がった。
 「日系の社会統合が進んだ現在の視点からすれば、当時の認識はまったくひどいものだった」「大量の訊問、調書の結果、臣道聯盟が直接これらの暗殺事件を指示したという証拠は結局出てこなかった」と結んだ。
 平野氏は「かつて黄色の肌は病的と一般的に見られていた。高名な学者フロレスタン・フェルナンデスの著書『白人社会に入った黒人』の有名な『ブラジル人には〃ブラジルには(人種)偏見がない〃という偏見がある』という言葉は、黄色人種にも当てはまる」とのべた。
 さらに平野氏は、遠隔地ナショナリズムを研究した米国人人類学者ベネディクト・アンダーソンの著書から「たくさんの国民は戦争で国歌を歌いながら死んでいった」との言葉を引用し、勝ち負け抗争は恥ずべき特異な出来事ではなく、グローバリゼーションという世界的な文脈から解き明かされる価値がある事例だと示唆した。
 
□関連コラム□大耳小耳
 USPの平野セイジ元副学長は、伯人が持つ日系人への先入観の一例として、「私自身もUSPの中で似た経験がある。私の専攻は社会学だが、教授になった最初の頃、なぜ日系人が社会科学学部にいるんだと言われた。医学部や工学部じゃないんだ、と。それが当時の一般的な反応だった」と振り返る。日系人といえば法学や理系、職業でいえば弁護士、医師、技師という時代が長かった。音楽家、文化人、俳優、学問でいえば社会学や歴史、文化人類学では今も多くない。社会学を通じて学内の地位を固め、USP副学長にまでなった平野氏の存在はブラジル人にとっても異色だったようだ。

最終訪問地リオをご堪能=皇室〃ゆかり〃の植物園=日系人らと親しくご歓談 サンパウロ新聞WEB版より

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日本庭園内を歩まれるご夫妻

最終訪問地リオをご堪能=皇室〃ゆかり〃の植物園=日系人らと親しくご歓談

 秋篠宮同妃両殿下は最終地リオに6日夜、到着された。翌日から植物園、フェルナンド・ペザン州知事官邸、リオ日系協会での歓迎会などに出席された。ブラジル国内10都市の最後にふさわしいブラジル文化を体験される一幕もあった。各地日系社会に感動の余韻を残しつつ、8日夜の便で帰国の途についた。
 両殿下は7日、リオ植物園を訪問された。同園内にある日本庭園は、日伯修好100周年の1995年に建設され、紀宮さま(黒田清子さん)が訪れたことから「清苑」と名付けられている。
 97年には天皇皇后両陛下、08年には皇太子殿下もご訪問された皇室ゆかりの場所。今年の外交樹立120周年記念事業として改修工事が進められていた。
 秋篠宮殿下は、公園内の博物館であった記念式典で「両国の友好関係の象徴ともいえる日本庭園がこの機会に美しく整備されたことは感慨深い」とスピーチされた。
 記念プレートの除幕後、鹿田明義・リオ州日伯文化体育連盟理事長の案内で、小雨の降るなか、園内を散策された。塗装された太鼓橋や東屋にも足を止められた。
 午後には、ペザン州知事主催で官邸であった昼食会にご出席。来年のリオ五輪に「多くの人々が集い、印象深い大会になることを心よりお祈りしています」と話された。
 リオ日系協会であった歓迎会にもご出席、日の丸を振る生徒たちの出迎えを受けた。鹿田理事長のリオや協会についての説明、日本人学校の児童らの合唱にもしっかり耳を傾けられ、約140人の日系人らと懇談した。
 最後に用意されたサンバショーで、カイピリーニャを口にされサンバのステップを笑顔で踏まれる場面もあり、最後の訪問地リオをご堪能された様子だった。
 88年の前回ご訪問時にリオ日系協会の会長を務めていた牧田弘行さん(81、東京)は「その節はありがとう、とのお言葉を頂いた。お話しぶりもご立派になられた。紀子妃殿下もお美しかった」と感想を話した。
 ご夫妻は8日、リオの博物館などを視察した後、帰国の途に就いた。

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リオ日系協会での歓迎会ではサンバもご堪能

□関連コラム「大耳小耳」□
 1967年に当時皇太子さまだった天皇陛下が同移住地を電撃訪問されたフンシャル移住地から訪れた津守真さん(80、山口)は、「殿下にコブラしたいことがある」とご歓談の時間を楽しみにしている様子。88年ご訪問のさいの「次回ぜひ訪問したい」との約束を果たして頂きたいというわけだ。「しかし殿下は『あ、そうでしたか。どこで話しましたか』とすっかりお忘れになっていた」。それはそれで嬉しそうな津守さん。
     ◎
 今回の秋篠宮ご夫妻のリオ訪問は、リオ州日伯文化体育連盟、リオ日系協会、リオ日伯文化協会、リオ日本商工会議所の共催だった。実はこの4団体が88年の礼宮殿下(当時)の歓迎会を機会に初めて力を合わせた。
当時の塚田千裕総領事から「今後も協力して活動をしてはどうか」と提案されて以来、大きなイベントは共に行っているという。鹿田理事長は「27年の時を経て殿下をまたお迎えし、この4団体で協力できたことは感慨深い」と話していた。

秋篠宮ご夫妻、熱帯のベレンご訪問 アマゾン移民の歴史に思い馳せられ  サンパウロ新聞WEB版より

2015年11月6日

http://saopauloshimbun.com/wp-content/uploads/2015/11/151106-Akishinonomiya-Belem-01.jpg   歓迎会でご夫妻に歓迎の言葉を述べる生田会長(左端)(堤剛太ベレン支局長撮影)

にこやかに児童らへのごあいさつも

 【ベレン支局・堤剛太支局長】3日午後、アマゾン河々口の街パラー州ベレン市を訪れた秋篠宮ご夫妻は、歓迎会式典会場である汎アマゾニア日伯協会を訪れ、会場に集まった邦人・日系人等から熱い歓迎を受けていた。午後3時半、会場を訪れた秋篠宮ご夫妻は正面入り口で日系学校の児童らが打ち振る日伯両国旗の小旗で出迎えを受けられ、にこやかに児童らとあいさつを交わされていた。
 日系代表者らとのご懇談後、小サロンで地元日系団体代表者など25人と約1時間ご懇談。今回、ご訪問が叶わなかったトメアスーからも乙幡敬一文協会長や叙勲者の沢田哲氏、新井範明氏らがご懇談の場へ招待されていた。乙幡会長は「トメアスーの日系人一同が、殿下のご健康をお祈りしています」と、同地からのメッセージをお伝えできたと喜びを語っていた。
 礼宮さま時代の1988年、初めてベレンを訪問された折り、ベレン市内の日系人土産物店で紀子さまへの買い物をされたことがあるが、この店の経営者だった山本陽三氏は「殿下が、『バッファローの皮で作られたバッグでしたね』と、ちゃんと覚えておられたのには感動しました」と満面の笑みで殿下とのご懇談の感想を語ってくれた。
◆ミニ物産展
 ご懇談後秋篠宮ご夫妻は、1階神内講堂での歓迎式典会場へ向かわれたが、会場入り口の脇に設けられていたミニ物産展のスタンドで足を止められ、熱心に展示品に見入っておられた。このスタンドは、トメアスー総合農業協同組合(小長野道則理事長)が同地の生産物であるピメンタ(胡椒)、カカオ、アサイー、クプアスー、マラクジャー等の作物を展示しているもので、組合の菅谷理事等がご説明を行っていた。当初、トメアスーへのご訪問も計画されていたが、時間の制約上からか実現成らなかっただけに、殿下はこのミニ物産展に強い関心を示され、SAFTA(トメアスー方式森林農法)の意味を尋ねられたり、カカオ、アサイーなどの製品の日本への輸出などに興味を示されていた。
◆歓迎式典
 午後4時半から開始された式典会場には300人を超す邦人・日系人が駆けつけ、ご入場される秋篠宮殿下ご夫妻に対し、一斉に椅子から立ち上がり熱い拍手で歓迎の気持ちを伝えていた。長島ジュリア、成田アメリア両氏の司会でプログラムが進められ、北伯県人会協会の山本陽三会長の開会の辞で式典が開始された。
 まず、ブラジル空軍音楽隊による日伯両国歌の演奏、次いで開拓先亡者への黙とう後、汎アマゾニア日伯協会の生田勇治会長より両殿下歓迎の言葉が述べられた。
 生田会長は、皇室のベレンご訪問が今回で4回にも及んだことへの喜びと感謝を伝え、1929年に始まるアマゾン地方での日本人移民の功績や、日本文化普及事業への思いを語った。次いで、歓迎の花束贈呈が本年・前年度のミスニッケイである戸田さゆりさんと岩坂ジャデーさんより秋篠宮ご夫妻に行われ、ご夫妻はにこやかな表情で花束をお受け取りになられていた。
 この後、秋篠宮殿下より「困難を克服し安定を築き上げてきた86年のアマゾン移民の歴史に思いを馳せる」旨のお言葉が述べられ、集まった邦人・日系人等の中には、感動で涙をぬぐう人も多数見られた。
 佐藤平治元日伯協会会長の万歳三唱、山本陽三北伯県人会協会会長の閉会の辞で式典は滞りなく終了された。この後引き続き、ベレン琴の会、和太鼓「鼓どん」グループの演奏で歓迎会は締めくくられた。
 秋篠宮ご夫妻が退場される際には、感動した入場者らがご夫妻を取り囲み、お付きの人や警備担当者が慌てる一幕も見られた。
 この日の夜は、パラー州シモン・ジャッテーネ州知事による晩餐会が催され、この席上秋篠宮殿下は「88年にベレンを訪問した際、エミリオ・ゲルジ博物館でペイシ・ボーイを初めて見たことが一生の思い出となった」と、27年前の楽しい思い出を語っておられた。
2015年11月6日付

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