私たちの50年!!

1962年5月11日サントス着のあるぜんちな丸第12次航で着伯。681名の同船者の移住先国への定着の過程を戦後移住の歴史の一部として残して置く事を目的とした私たちの40年!!と云うホームページを開設してい居りその関連BLOGとして位置付けている。

カテゴリ: 50年!!メーリングリスト関連

≪58年前休学し1年間米国カリフォルニア州での農業実習事業に参加した時の体験記≫ 村松 義夫 

私たちの40年!! あるぜんちな丸同船者寄稿集 (nikkeybrasil.com.br)

村松さんが好評の広橋さんの『50年後の日本でのカルチアショック』を見習って≪58年前に休学し1年間カリフォルニア州での農業実習事業に参加した時の体験記≫を短く分かり易く20章に分けて学生時代の若々しい感覚で当時感じたカルチアショックを纏めておられます。恰好の読み物として40年!!寄稿集に残して置くことにしました。写真も沢山添付して呉れておりどれをお借りしようかと迷ったのですが、矢張りアメリカの大農方式の写真を使わせて貰いました。実習中にフォークリフトの下敷きになり大怪我を経験したことも語られており実り多い?1年間の実習記面白いですよ!


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広橋さん、和田さん、皆さん、
 大変貴重で且つ愉快なお話拝読しています。長期間を海外で過ごした後の帰郷での違いを皆さん同様に感じておられる事思います、50-60年前に日本を離れ現在の日本との違いは想像に絶するはずです。日本の変化は1960年から急速に発展し10年ごと、5年ごとそして現在は毎年変化しています、訪日する毎に新しい変化を発見できる時代となりと海外在住の歳寄り一世にとってはダイナソー・エラ(恐竜時代)と東京の孫達にからかわれます。あしからず長文ですが経験したカルチャーショックを記します。
 私は58年前1963年4月の学生時代休学し1年間米国カリフォルニア州での農業実習事業に参加した、この時の出来事は余りにも刺激があり現在も思い出す事ができる、僅か1年間日本を留守にしただけで、米国での生活経験を経て帰国した者にとって全ての面で大きな違いを発見できた時代でした、その違いを列記してみました。
 1)処女航海の移民船「さくら丸」で14日間乗船し米国へ向かったが1等船室と2等船室の大きな違い(帰国時は豪華客船ワイルソン号)に驚いた、集団で布団での寝室、朝食の米にネズミの糞が混入発見、味噌汁の大半が船の揺れで溢れた、朝食後は大勢が甲板に飛んで行き海に向かって吐き出していた、それくらい船は揺れた。一等船室にはプールもあり娯楽施設も整い寝室も個室で、食事も二等船室とは異なり上等な食事が自由に食べられた様で有る、2等船室にはプールもなく娯楽施設施設もない状況であった。
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 2)8日目にハワイに立ち寄った、これ程美しい景色を見たには初めてであった、沢山の車が走っており道路や家屋を眺め、大型バスでパイナップルのプランテーションや缶詰工場、そしてハワイ大学の農業試験場の施設や研究にただただ驚いた。
 3)ハワイの街の交差点に赤いボタンがあり同期生が不思議に思い2-3度ボタンを押した、暫くして真っ赤な色の消防車がサイレンを鳴らしてやって来た、火事は見えない消防士が赤いボタンを押したのは誰かと聞く、まさか消防呼び出しボタンとは知らなかった、全員平謝りに消防士に頭を何度も下げた。
 4)サンフランシスコ湾に近づく知らせで皆甲板に出た、赤い大きな橋が目の前に現れその下をゆっくりと通過した、こんな大きな橋(ゴールデン・ゲート)を見た事がなくしかも多くの自動車が走っているではないか、驚いたのはその先には更に大きな橋(ベイ・ブリッジ)が見えるではないか、1930年代に作られたと聞いてこんな国と日本は本当に戦ったのかよと皆で話し合った。
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 5)カリフォルニア大学と州農民組合の役員、そして国府田日系米作農場主が出迎えてくれた、お互いに「名(ファースト・ネーム)」で呼び合っていた、大学の先生は「ジョン」、農協組合長は「ジム」、国府田さんは「ケイ(敬三郎)」で呼び合っていた、自己紹介で私は「ヨシ」と呼んでもらった、人間は皆平等だと感じた瞬間であった。
 6)配属農場へは2時間の「グレイ・ハウンド・バス」で一人旅、このバスがニューヨークまで4,800km走るという、そして全米どこにでも行けるシステムかできておいいると言うではないか驚きだ。
 7)配属農場の主人にバスの停留所まで迎えに来てもらうため用意した英語で電話する、何か相手側で言っているが分からずそのまま切る、しばらくしてキャデラックに乗った農場主が迎えに来てくれた、農場主は「アラン」と呼んでくれという、君はなんと言うかねとの事で「ヨシ」と言っておいた、互いに苗字では呼ばないのがこの国だ。
 8)初めて乗車するキャデラックの乗り心地は最高だった、農場に到着して驚いた何と2,800haの面積だという、日本で平均農家は1ha以下で有る、日本の2,800農家の大集団農協組織とこの1農場が同じとは、とまたまた驚き日本が戦争に負けた理由が理解できた。
 9)白人労働者とメキシコ人、黒人労働者の住居は別で食堂も別となっていて、私は白人労働者住居の1室を当てられた、農場主の下に「ホーマン」の「ジム」がいてこ農場主の隣の家に家族で住んでいおり、農場主の支持を受けて労働者に仕事配分する重要な任務にあった、農場者の「アラン」は毎朝6時に私を乗せて農場全域を1時間かけて回る、そして「ジム」に今日1日の指示を電話で出している、朝食を終えて農場の集合場所に8時に全員集合し「ジム」の指示に従い農場内に散っていく、年間常時雇用者は白人10-15名とメキシコ人20-30名で胡桃、アーモンド、牧草、米、砂糖大根、加工トマト、雑豆等を生産し、収穫時は約200名のメキシコ系労働者が毎年やってくる、農家と言うよりも企業農場と言うべきだ。
 10)米の生産は春に水田を大型ブルトーザーで耕起し一定に地ならしした後窒素液肥土中に注入しその後水を入れ水田となる、その後飛行機に種籾を積んで水を張った水田の上を飛んで撒き散らす、私の役目は水田の畦に旗を振ってグラマン飛行機に散布場所を知らせる役目、ヘルメットにゴーグル、首にタオルを巻きつけ15m間隔を歩き旗を振る、そこに向かって飛行機が飛んできて種籾を撒き散らす、頭から体全体に種籾が大粒の雨のように飛んでくる、驚きの作業方法で米作が行われ日本の手作業の稲作生産方式との違いを見せつけられ戦争に負けた事をまたまた理解させられた。
 11)農作業の殆どはトラクターやキャタビラの機械で行われる、その機械の殆どは畑に放置されたままで労働者はそこまで車で行き作業する、秋なると胡桃、アーモンドの収穫はトラクターに鉄の腕をつけ木を揺すって実を機械で整地された地表に落とす、その後拾い上げる機が一列に並べられている実を特殊な機械ですくってコンテナに収納する、全て機械化である、白人労働者の殆どがこ機械を運転しメキシコ人労働者は汗を流す仕事に従事する、また機械に給油や修理には1台の機械修理専門家が特殊トラックを運転して無線で連絡しあっていた。 
 12)加工用トマトの収穫は、メキシコ系労働者を200名が一列に並び収穫箱を抱えて一斉に畑に並び赤いトマトを手作業で収穫し箱箱に入れ、農道迄持参すると監督が箱を検査して収穫確認用紙に穴を開けてもらう事で各自労働者がどれだけ収穫したかで賃金がもらえるようになっている、出来高払い方式(ピースワーク)と言う。
 13)冬の作業は白人労働者による畑の耕起や、胡桃、アーモンドの剪定作業そして胡桃の機械収穫で除外された落ちこぼれを拾う作業が主体で、メキシコ系労働者と一緒になって胡桃拾いに明け暮れた。拾ったクルミをコンテナに集めホークリフトで倉庫に運ぶ、途中でホークリフトと共に畑に墜落し即入院、11月のケネデー大統領の暗殺もこの胡桃園で聞かされた。
 14)ホークリフトの下敷きになり数カ所腸に亀裂、脊椎に傷で入院は約1ヶ月、大型総合病院で患者数・従業員数も多い、腹を縦に30cm切開され手術2週間後はリハビリで車椅子で病院内を散策できた、係付けの美人看護婦さんと親しくなり日本語を教え医療英語を教えてもらった、退院最終日には優しいキスをしてくれた、これが最高のアメリカ滞在時の思い出となった。
 15)日曜日には出来るだけ農場主夫婦と一緒に町のモルモン教会の礼拝に行く事を心がけた、一度は農場主夫婦に連れられてユタ州のソートレーク市のモルモン教会本部まで1,000km連れて行っていただいた、アメリカの西部の開拓に貢献したモルモン教徒の歴史を学ぶ事ができた。東部で「ジョセフ・スミス」がキリストから直接金版に書かれた教書を頂き真のイエス教会を建設せよと言われ発足したモルモン教は他教徒からの迫害を受け、東部ニューヨーク州から中西部のユタ州ソートレーク市にロッキー山脈を超えて落ち着き本部を建設する、その後一派はネバダ州とカリフォルニア州のシエラネバダ山脈内で1948年川底から金を発見し財を成す、1949年大勢の人々が金を求めて東部地方から馬車を連ねて西部に押し寄せ開発される、パイオニア精神とは何で有るかがこの歴史から学ぶ事ができた。
 16)実習生活終了後、サクラメント駅から出発し国道80号線の高速道路を東に向かって旅に出発し、途中ネバダ州、ユタ州、ワイオミング州、ネブラスカ州、アイオワ州をと通ってイリノイ州のシカゴ市まで一人旅をした、グレイハウンド・バスの車中からの景色は肉牛の放牧場や畑作主に玉蜀黍、大豆、砂糖大根、牧草地帯が主体であった、ミシシッピー川、ミズリー川を越えての旅であったが、大きな街では毎回運転手が交代し常に運転手のすぐ後ろに座って、宿泊地の情報や農作物の種類等を教えてもらう事ができ、西部だけでなく中西部の大農業地帯を見学できたことは大きな収穫となった。
 17)旅を終えて配属農場に戻り農場主家族やフォーマン家族に感謝の念を伝えた、「アラン」農場主は1年間よく頑張った何時でもまた来なさいと言ってくれ、1千ドルの小切手をくださり、サンフランシスコ集合時に銀行で現金に変えなさいと言って署名入りの手紙を銀行宛に書いてくれていた。サンフランシスコ港からの帰国はアメリカ・プレジデント社の豪華客船「ウィルソン号」であった、皇太子殿下(現在の上皇)がエリザベス女王の戴冠式に向かう時同じサンフランシスコまで乗船した客船だと聞いた、客室も4名が一室でデッキには娯楽施設やスポーツができ、大きな水泳プールがあり日本への観光客のアメリカ人女性達のビキニ姿に学生達は見とれた、食事は24時間いつでも好な物を自由に食べられ「さくら丸」とは比較にならない豪華船であった、戦争に負けた訳がまた浮かんできた。
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 18)1964年3月横浜港に到着し下船すると周囲の景色が小人の世界のように小さく見える、家々も小型で道路も狭く、歩いている人々の服装も暗く自転車やオートバイが多く乗用車はわずかで有ることに気付いた、まず学生は大学に到着の報告をし休校を解除し4年生に復学手続きをした。東京はオリンピックを控えており町中がごった返していたそれでもアメリカ並みの高速道路がビルとビルの間の空間を走り、地下鉄も完備されホテルのビルも沢山建設されていた、思えば農大に入学して以来アルバイトは土方仕事に明け暮れた、これもオリンピックのためであった、それが現実化していて驚いた。
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 19)静岡の実家へ帰郷するために東京駅から東海道線で向かった、その沿線に沿って新幹線鉄道が最終工事を終えようとしていた、又東名高速道路も完備されており1年間の留守中の日本の変化には驚きであった。然し田舎の駅に到着し久しぶりの我が家までの道は相変わらず凸凹道、田畑の面積も狭くその狭い水田を手押しの耕運機が鍬に代わって機械化されていた、然し2,800haの農場に1年間実習した経験から見ると、日本の農家は農場主の家の庭よりも小さな田畑であり、農村と東京の大都会との格差を痛烈に感じた。
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 20)1965年農大を卒業し日本農業を更に知るために、東京都下の篤農家に実習を希望し1年間を過ごした結果、日本の小農でも質の高い農産物生産と面積当たり多収穫生産ができればアメリカの企業的大農に匹敵する所得を得られることも理解できる様になった。恩師杉野忠夫先生が述べた通り南米の大国へ農業移住を志す学生には日本の質と量で勝る小農技術とアメリカで学んだ規模拡大と企業としての農業技術の両方を取得することで成功すると言う、日本の篤農家での実習経験と米国での農業実習経験を体得し南米への移住を勧めた、また開発途上国への支援活動においてもこの両者の経験を勧めた。
 現在の日本は世界大2位(中国2位は信頼不可)の経済大国に発展している、然しながら食料の自給は3割程度であり海外に依存しなければ日本国民は餓死する、国内の食料自給を100%とすることは不可能だがせめて70%は確保しておかないと危険である。世界は未だ平和とは言えない、人種、宗教、イデオロギー、文化、習慣等の異なる問題が解決できず争いが絶えない、自然現象は年々異なり温暖、寒冷、旱魃、豪雨、鳥獣昆虫害、病害等での凶作が生じる、食料輸出国の凶作、価格高騰による輸出入不可能も生じる、人間は食わなければ生きていけない、如何にして自給を向上させるかは国民がこの事を理解し一体となり政府をあげて取り組まなければ改善されない、食糧危機はいつ起こるかは不明だが遅かれ早かれ危機はやってくる。 村さん-CA

写真:さくら丸(往路)、金門橋(サンフランシスコ)、米国の大型企業農業、ウイルソン号(復路)、日本の小農、1964年東京オリンピック

南米開拓前線を行く。その10 松栄 孝

私たちの40年!! あるぜんちな丸同船者寄稿集 (nikkeybrasil.com.br)

杉野先生の「南米開拓前線を行く」を松栄さんが毎日少しづつ写論されており今回は、もうその10に到達しました。まだ半分程度でしょうか。今回は、66から始まり76迄の11回分を掲載します。最後の76には松栄さんの余談が入っていたのですが、これを含めると1万語遥かにオーバーしてしまうことから約500字を次回の77の冒頭に記載することにしました。松栄さんの大事な余談を次回に回すのは、断腸のおもいですが、字数オーバーで掲載不能ですので了解下さい。写真は、東京農業大学ブラジル校友会「移住百年史」よりお借りした杉野先生の慰霊碑です。

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南米開拓前線を行く 66
杉野博士論文
「農業拓殖学の構造に関する研究」
第二章 農業拓殖学の学論の研究
第四節 原論の当面する理論的課題
第一款 農産物過剰生産論に対する批判
ーー7月4日記入ーー
 これは理論の問題であると共に、教育上の問題としても必要とせまられた。それは以下にのべる所によって明らかになるであろう。私は、農業拓殖学を学問として独立させる事と同様な比重で、農業拓殖活動の現在における必要性を究明せざるを得なかったのである。抽象的に人類は食糧を必要とすると言う大前提から演繹(注・演繹ー演繹(えんえき英: deduction)は、一般的・普遍的な前提から、より個別的・特殊的な結論を得る論理的推論の方法である)して、故に拓地増産は必要なりという演繹的論理から論ずるのでなく、帰納的実証的に現実の実証的研究から帰納する兵法からも論ずる必要があると考えた。実は事程さように、農業拓殖活動の不必要論、更には有害論までが、あらわれて学生の研修意欲を阻害する傾向があるからである。
 それは先ず、現代はもはや食糧不足の時代ではなくて、人類が到達した物質文明は、資本主義と言う経済機構を生み、戦争や恐慌で一時的には食糧不足の時機もあるが、その時機を経過すれば、間もなく恢復して、生産は需要を超えるものであると主張する。そして現在の生産力はたえず発展しつつあるので人類はむしろその生産力をもて余していると主張する。現代にあっての問題は農業恐慌であって、増産ではないと主張する。現在各国が食糧増産に努力しているのは、各国が常に一旦緩急の時の社会不安に対処する為に行うのであって、人類全体、世界経済全体より見れば、問題の根本的解決ではなくて資本主義社会の矛盾を激化するだけではないかというのである。実例をあげると、一体日本で米の増産の為の農業拓殖活動が必要なのかという議論の如きその例である。適地適作。生産費の安い東南アジアで米作をして、それを買えば、東南アジアに日本の商品の市場も拡大し、けっこうではないかと言うのである。農産物貿易も自由化されるに従ってこの議論益々盛んになる。砂糖、果物、畜産物等々競争の結果は益々過剰となるであろうと言う。海外の熱帯未開発地域の開発においも、たとえば、日本人によってブラジルの農業に非常に貢献したアマゾン流域の胡椒の生産の如きも、胡椒が世界市場で不足したじだいの黄金時代がいつまで続くであろうかを心配して迷っている人が沢山いる。アマゾンのゴムの植栽についても同様な消極論が行われている。コーヒーに関しても同様である。最近の問題としてバナナの問題がある。日本でバナナが戦後は非常に高価であり、台湾バナナが大いに輸入された。今日では南米からも東南アジアからも殺到して、時には投げ売りされる場合すらあり、価格は下落しつつある。こうなると、東南アジアでバナナの植栽企業を企てる事に対して、慎重になってくる。そこで、拓地増産よりも滞貨処分や所謂流通機構が問題であるという。(つづく)

南米開拓前線を行く 67
(余談)食糧問題とFAOなど。
杉野先生が当論文の今日の写論の最終部分に述べられている「それにもかかわらず、何故に農業拓殖活動に対して不要論、有害論が流布されるのであるか。これを追求する事は、原論としての当面の理論的課題であると考える」 不要論、有害論の授業を、我々が現役学生時代、杉野先生が亡くなられて5年余りの時期に、ある先生から授業で講義された記憶があり、そういう流れが当時すでに農業拓殖学科にあったわけです。そういう授業があって、この先生いったい何なんだろうかと思った記憶があります。
 私がブラジル実習から帰って復学して5年生の時、農業拓殖学科5期で卒業された杉村先輩に、たった1度ですがお会いしました。杉村先輩は、海外移住連盟の幹部をされた慶大OBの杉村さんのお兄さんで、その当時、杉野先生が以下で述べられている FAO 国際連合食糧農業機関の調査官を務められておられ、イタリアのローマのFAO本部で食糧問題の国際調停をされている、と言うご紹介を拓殖4期の江口先輩からお聞きしていました。
とても優秀な先輩でした。その後、杉村先輩は体調を崩されて、数年後に亡くなられた、とブラジルでお聞きしました。
 当論文を読ませて頂き、杉野先生の考えられていたことが実感としてよく理解できる、と今更ながら、思います。
杉野博士論文
「農業拓殖学の構造に関する研究」
第二章 農業拓殖学の学論の研究
第四節 原論の当面する理論的課題
第一款 農産物過剰生産論に対する批判
ーー7月5日記入ーー
 そして農業拓殖学は、何所で何を、栽培できるとか、その栽培の方法とか如何にしてその栽培費を安くするか、その場所における健康なる生活は如何にするか等と言う、生産技術、生活技術、経営技術の研究と併せて、以上の如き増産に対する種々なる疑惑を解決せねばならぬ。換言すれば、農産物過剰生産論に対して、実証的にこれを打破するに非ざれば、農業拓殖活動はその理論的根拠を失う訳である。吾々は今日、その点においては、国際連合の一専門機関であるF・A・O 即ち、FOOD & Agriculture Organization の活動によって、国際的な調査機関を持ち、これを論破するに充分な材料を持つことが出来るのである。このF・A・O からの資料に基いて研究する事がこの観念的な、そして多分にマルクス経済学的な過剰生産論を充分に批判する事が出来るであろう。ブラジルのカストロ博士の「Geography of Hunger」(¹)(注・飢えの地理学)や、中村浩博士の「飢餓」(²)の如きは、これらの資料に立つ批判論であり、野間海造博士の「人口爆発と低開発地域の開発」の如きも亦国連の資料に立脚した実証的研究である。(₃)これら一連の実証的研究によって、今や農業拓殖活動が如何に国際協力によって強力に展開されなければならない歴史的社会的根拠のある運動であるかは実証されていると思うのであるが、(⁴)それにもかかわらず、何故に農業拓殖活動に対して不要論、有害論が流布されるのであるか。これを追求する事は、原論としての当面の理論的課題であると考える。(つづく)

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杉野博士論文
「農業拓殖学の構造に関する研究」
第二章 農業拓殖学の学論の研究
第四節 原論の当面する理論的課題
第一款 農産物過剰生産論に対する批判
ーー7月6日記入ーー
 私は不要論文及び有害論文を追求して、それが現代を規定して、「依然たる植民地主義」時代としていることを見出すのである。(⁵)即ち論者は植民地の独立を見せかけにすぎず、依然として帝国主義が横行しているとするのであって、かかる時代の拓地増産は帝国主義の植民政策に変わらぬとする。この考え方からして、反帝国主義運動の思想運動として反農業拓殖思想が打ち出されてくるのである。農業拓殖学を学ぼうとして入学してくる学生がかくの如き思想戦にさらされている現状は、思い半ばにすぐるものがあるのである。これに対して批判の武器を与えるものが原論の役目であろうと考える。
そこで第二の課題は次の如くである。(第二章 題四節 第一款 終了)

南米開拓前線を行く 69
杉野博士論文
「農業拓殖学の構造に関する研究」
第二章 農業拓殖学の学論の研究
第四節 原論の当面する理論的課題
第二款 現在における植民地主義の批判
ーー7月7日記入ーー
 私は上来のべ来たった如く、現代を規定して曾つての植民帝国が植民地を失い、旧植民地は続々と独立し、原住民による、原住民の為の、政治を確立しつつあり、世界を通じて人間の幸福を求める自由と自主的活動と、そして平等を求める人種確立の主張が普遍化してきた時代と見、所謂先進国もこの大勢に順応して、その曾つての本国民だけの利益のための植民政策の方向転換の余儀なきに至った時代と規定したのである。然るに戦後あらわれた諸家の労作の中に、殊に所謂進歩的と称される思想家は多く、現代をして依然たる植民地時代とする人が多いのである。戦後にあらわれたこれらの理論は所謂後進国開発に関する理論の中に見出される。よって、これは又、後進国開発の諸理論の(⁶)批判でもある。私は曾つて是等の問題をそれぞれ別項に分かって東京農業大学の農学集報にのせたが(農業拓殖の理論的諸問題第二部)、これは楯の両面とも言うべき問題でもあるので、茲には双方一括して批判の対象とする事にした。

南米開拓前線を行く 70
杉野博士論文
「農業拓殖学の構造に関する研究」
第二章 農業拓殖学の学論の研究
第四節 原論の当面する理論的課題
第二款 現在における植民地主義の批判
ーー7月8日記入ーー
 私も、1944年8月5日、即ち日本が連合軍に対して軍事的敗退を認めた終戦の日をもって一切にの植民地が世界的に消失と言うものではない。
(マツエ注・この部分の記述に疑問があります、日本の終戦は1945年8月15日と言うのが事実と思いますが、杉野先生の誤記なのか、何か別の意味があるのか、それとも原論本文を本遺稿集に書写する時の誤記なのか、よくわかりません。1944年8月5日を歴史的に調べても、【1944・8.5 大本営政府連絡会議,最高戦争指導会議と改称。首相の戦争指導への発言権強化を意図。】という書き込みです。ドイツ軍の終戦は1945年5月9日とされています。この記述に2日ほど考えたのですが答えは不明です。先輩方でご存じの方がおられましたらご連絡お願いします…マツエ)
しかし歴史上の重大事件をもって、殊に人類の文化発展に劃期的(=画期的と同じらしい)な作用を有する事件をもって時代を区分する事は、歴史的研究上常にとられて来た研究方法の一つである。何故に第二次世界大戦の終末と共に植民地主義の時代が去って国際協力による農業拓殖時代来たれりとするか、原論構造の一部として農業拓殖活動を歴史的社会的現象として、その人類史的な統一的な把握を企てる場合、この「何故」と言う問題に答うるべきである。(つづく)

南米開拓前線を行く 71
(余談)しばらく時間が開いてしまいました。気合を入れなおして、写論続行に頑張ります。
杉野博士論文
「農業拓殖学の構造に関する研究」
第二章 農業拓殖学の学論の研究
第四節 原論の当面する理論的課題
第二款 現在における植民地主義の批判
ーー7月13日記入ーー
 若し論者が植民地の独立なるものを、政治的のみならず、経済的にも、文化的にも、独立するのでなければ、独立に非ずとするならば、それこそ狭きNationalismの立場に立つものとせざるを得ない。確かに戦後の独立運動には多分に排外的傾向の強い事は認められるが、この傾向こそ、人類文化の発展に逆行する現象として考えられるべきではないか。(⁷)人類の歴史は、人類が創生時代以来数十万年の間に、地球上に四散し、民族を発生し、国家を形成し、相対立抗争して来たが、次第に全世界を共同の場として、高次の統一へ向かって進みつつあるのではないか。そして有無相通ずる国際的な交換経済が発展し、文化は伝搬され、受容され、変容されつつあるのではないか。
曾つて新渡戸稲造博士は Colonization is the Spread of Civilizatio と言って植民活動の本質は文明の普及にありとされた。(⁸)旧植民学すら植民活動が政策的には本国の利益の為の政治と観ても結果的には文明の普及が、終局的の目標となる性質の根底にあることを自覚されていた。かく考えると、農業拓殖活動時代来たると観る私は、この人類的視野から考えざるを得ぬのである。解放された植民地の独立の意味が、狭き国民主義にとじこもる事であっては自縄自縛である事は、早くも賢明なる政治指導者は自覚しつつあるのある。(⁹) 戦後は反動的に一時追放した旧植民帝国の資本や技術や、指導者を再びむかえつつあるのが、東南アジア諸国に見られる。ネールがインドの独立樹立後もイギリス連邦の一国家としてとどまっている事等は、すこしくインドの実情を知るものにとっては、賢明な政策であった事がわかる。私はかくの如き現象をとらえて、隷属的関係と見るのは、相互依存関係と言う今日の全人類生存の基礎的関係を客観的に見る事のできない為でないかと考える。
お互いがお互いを必要とする平等関係を、支配と服従の関係として観る事は、それこそ旧態依然たるものの見方ではないだろうか。(つづく)

南米開拓前線を行く 72
杉野博士論文
「農業拓殖学の構造に関する研究」
第二章 農業拓殖学の学論の研究
第四節 原論の当面する理論的課題
第二款 現在における植民地主義の批判
ーー7月15日記入ーー
 未開発地帯や低開発地帯の開発に当たって、資本や技術の必要な事、又、場合によっては治安の確保する必要な事がある。その場合、国際協力を実現するためには、その実行者が個人であれ、団体であれ、国家の代行機関であれ、また国際機関であれその事業の継続し得るためには、資本が消耗され、技術者の消耗される事は避けられなければ事は係属されえない。農業拓殖活動は、一時的な慈善事業ではないのである。それは何よりも生産活動なのである。生産活動である以上は、そして、又それが需要の増大に伴って発展するためには、単純なる再生産活動ではなく、常に拡大再生産活動でなくてはならぬ。仮にマルクスの言うが如く、余剰価値が労働の搾取によるとし、搾取なく社会をもって人類の理想とし、或いは労働全収取権思想を主張して、一切の余剰価値が労働にのみ帰属する如き制度が樹立されるとせば、人類の文化はどの様になるであろうか。私は労働が搾取される事よりも、搾取された余剰価値が如何に利用されるかが問題なのではかと思う。資本と技術とに豊かな資本主義国からの開発援助を、植民大衆の搾取であるから不可というならば、それは後進国の開発を延引きさせるだけである。技術援助についても狭き国民主義にとらわれて、国際協力を拒否する事は、結局これ又開発がおくれるだけである。(10)明治のはじめに、我が国の指導者が北海道開発にアメリカの援助を受け、アメリカの農務長官ケプロンが先頭になって多くの技術者を伴い来たった。それは76人の多数にのぼった。今日の北海道大学の前身札幌農学校の創立もその企(劃)(きかく)の一であり、クラーク博士によってその精神的基礎がおかれ、その余沢は今日に及んでいる。(11)我々の先輩は、米国人に搾取されたとは考えない。金銭では評価されつくせぬ精神的財産を得たのである。クラーク博士の全心身のエネルギーを搾取したのは日本人なのであった。(12)(つづく)

所謂南米開拓前線を行く 73
杉野博士論文
「農業拓殖学の構造に関する研究」
第二章 農業拓殖学の学論の研究
第四節 原論の当面する理論的課題
第二款 現在における植民地主義の批判
ーー7月16、17日記入ーー
 戦後におけるアメリカの後進国開発の不手際はもうアメリカ人自身がよく知っている。それの反省が、ケネデイー大統領のアメリカ青年の精神的勤労奉仕の運動としての平和部隊の派遣である。(13)又、戦時中からはじまった国際連盟内部における世界経済再建の構想がプレトン・ウッズ協定となって結実し、今日の国際連合の、後進国開発の各般の協力運動として展開しつつある事実等、我々の現代における国際的開発政策の現実に眼を蓋う事は、事物を客観的に見るべき科学者にとっては許されない所である。後進国開発活動の批判者として有名なステーリーの所論にしても(⒕)所謂後進国に対するアメリカの開発活動の欠点を指摘するにとどまり、共産圏側よりの方策の成功性を論じているが如きはその一例である。
 歴史は日々前進する。是等の批判があり、失敗があってこそアメリカも亦反省しつつ、前進しつつあることを知らねばならぬと思う。(15)後進国開発の諸理論や植民地主義論に対して我々はたえず現実の中から実証的な方法で帰納して批判せねばならないのである。しかし乍ら、どうしてもこの様な現実に目を奪うような議論が相も変わらずくりかえされるのか。それを追求すると、私は研究者、乃至思想家の歴史を見る見方、即ち、歴史観の作用の存在することをを感知せざるを得ないのである。即ち、後進国開発の性格を帝国主義の一作用と考えたり、農業拓殖活動を帝国主義の一翼をになうものとするのは、マルクスの唯物史論観にその理論的基礎をおくに他ならぬ事を知るのである。又、狭き国民主義でなく、自由主義、資本主義の先進国においても、国民主義はもちろんある。それも亦、人類史を民族逃走史として見て、国際協力を夢物語と考える歴史観がある。そこで、国際協力による農業拓殖活動が現代の課題である事の客観的承認を確立するためには、この二つの歴史観を打破せねばならぬ事になる。そして農業活動のよってもって立つ所の歴史観の確立に至らねばならぬ。これも亦原論の課題であると考えたのである。(第二款終了) (つづく)

南米開拓前線を行く 74
杉野博士論文
「農業拓殖学の構造に関する研究」
第二章 農業拓殖学の学論の研究
第四節 原論の当面する理論的課題
第三款 歴史観の批判
ーー7月18日記入ーー
 我々が自分の歴史観の確立の為に必要な手順として、在来の歴史観の批判をしようと言う場合に、実に多くの歴史観が存在した事、及び現存することを知るのである。ベルンハイムの歴史学入門を一冊読んでも如何に多くの歴史家が夫々の歴史観のもとに歴史を書いたかを知るのである。(16)クローチェの歴史学史(17)の如きも結局は歴史観多きが故に書かざるを得なくなったものと見る。その結果は、英国のカー教授(Prof. E. H. Carr)(18)の如く歴史とは歴史家の心を通して再構成された過去の解釈であるとまで明瞭に、史観の主観性を表明する学者も出てくると、史観の客観性は如何にして確立されるかを問題にせざるを得ぬ。私はここに問題とするのは、この様な史観一般に対する批判ではない。農業拓殖活動を阻止する作用を有する二つの史観にだけ焦点をしぼるである。
 唯物史観、特にマルクス唯物史観(19)に対する批判はすでに多くの哲学者、史学者、思想家によって為されてきた。多くの歴史観の中で、これほど多くの批判を呼び起こしたものはないであろう。私はマルクスの唯物史観、その本質的な点の人類の歴史は拓殖の歴史であり、更に詳しくは農業拓殖の歴史なりとする訳である。どちらが正しいのかと言う絶対性をめぐる批判と言うよりも、どちらが現実を、よりよく説明し得るか、即ちより客観性を有するかの相対性を認めつつ批判するのが適当ではないかと考えるのである 。私はここで、哲学的、史学的にマルクスの階級闘争史観を批判する事は、他の多くの人々の過去の業績で沢山だと思うし、それをくりかえしても、マルクス主義者が反省しそうもないのである。しかし彼らにとって痛い点は、マルクス、エンゲルス自身が、彼等の言う歴史とは、人類の全期間の歴史ではなくてーーすくなくとも原始時代はその研究範囲から外してーー人類が或る程度の発展を遂げそして階級が発生した以後の歴史について、それに立脚した歴史観である事を表明している点である。⒇ (つづく)

南米開拓前線を行く 75
杉野博士論文
「農業拓殖学の構造に関する研究」
第二章 農業拓殖学の学論の研究
第四節 原論の当面する理論的課題
第三款 歴史観の批判
ーー7月20.21日記入ーー
「人類の歴史は」と言う様な表現がこの様なことで許され得るのか。たとえば、人類が科学を発達させて、月世界へ探検隊を送るようになった時代が来たとして、人類の歴史は宇宙探検の歴史であると表現する事も出来る事になる。歴史観と言うものが過去の出来事の説明と言うよりも,常に現代の歴史であり、現代から見た過去だと言うのはかくの如き意味に解される。しかし、過去に人類が月世界へ行ったのでない。しかし現代を説明するのに、いやしくも「人類の歴史は」と言う以上は、人類の百万年の歴史を除外するのは困った限定方法だと思う。しかしそれよりもなお痛い点は、マルクスが階級闘争史観を発表した当時と、現代とでは資本主義そのものが体質変化をきたしたと言う事実である。ロシアに於ける共産主義革命が成功か失敗かも問題とするに値する。私はこの現実に立脚した批判が、彼等の階級闘争史観が過去のものであることを自覚せしむるに充分であると思う。エンゲルスの書いた英国労働階級の状態と、(22)現代の英国労働階級の状態とを比較しても判る事である。十九世紀中葉の材料を土台として生まれた歴史観を、激変させるこの一世紀の後にも通用せしめんとする所に無理がある。
 しかるにもかかわらず、何故にこの信奉者が後を絶たないのであろうか。それは、ともかくも、マルクスの理論を思想戦の武器として革命を行い、国家の建設を行ったロシアが、その政治権力を維持する共産党の独裁を維持する為には、マルクス主義の原理程都合よきものはないのである、階級闘争史観が真理であるか否かは、別物であって、又、現実を説明する理論であってもなくとも、現在のロシア共産党がその政権を維持するには、必要なのである。現実を説明すると言うよりも、彼らの現実を肯定する点で、orthodox の理論である事は間違いない。それに加えて、その支持者を国外に作る上からも、必要な理論である。それは非共産主義国内に友党を結成させる事が、ロシアの存立を全くする上に非常に必要であるからである。(つづく)

南米開拓前線を行く 76
杉野博士論文
「農業拓殖学の構造に関する研究」
第二章 農業拓殖学の学論の研究
第四節 原論の当面する理論的課題
第三款 歴史観の批判
ーー7月22、25日記入ーー
この点は、これからの要開発地帯が、旧植民地であり、民族的な対立と階級対立とが重なっていたと言う事は、ロシアにとって非常に有利な社会条件でもある。即ち、ロシア共産党にとっては、勃興せるNationaslism を利用することが出来るのである。レーニン以来の民族主義理論を読み、又、彼らの旧植民に対する政策の現実やら、所謂ソ連同盟内の各民族に対する政策を実証的に研究するならば、階級闘争史観そのものを巧妙に、民族闘争に利用し、植民地支配の先進国に対する植民地民衆の闘争を、階級闘争の一形態として、扇動しているのである。(23)ソ同盟、及びその中心勢力たるロシア共産党の存在する限り、この歴史観は後をたたないであろう。それはその学説が真理であるとか、客観性があるとかでなく、一つの歴史的社会的存在が必要としているということなのである。階級闘争史観の信奉者の跡をたたぬのはその為であると私は見ている。と言う事は我々においては、かくの如き国際的な対立を是なりとする事が、客観的な見方であるか否かである。前述をくりかえす様であるが、人類はかくの如き、国際不和を許しえない程、発展し、自覚して来たと見るべき傾向が日増しに強くなってきて、国境を越え、民族を超えて、協力してこそ、人類の生存そのものが確実にされる事を知って来たのである。換言すればロシア共産党だけに都合の良い立場から一歩も二歩も前進した立場に立ち、国際協力を是とする歴史観を必要としてきた。歴史観の相対性と言う立場に立って、現代の人類の要求し、且つ、現実を説明し得、そして又、かくの如き歴史的現実を生むに至った人類の発展を歴史として把握するには、階級闘争史観でなく、人類生存の根本問題から説明する歴史観が、要求されていると考えるのである。相対的とは言え、それは時代の要求する意味で、妥当性客観性の大なると言うべきである。すくなくとも、これから低開発国へ行って活躍しようとする若い学徒にとっては、各種の歴史観に対して明確なる批判力を与える事が、原論として重要であると考える。(つづく)



南米開拓前線を行く。1 松栄 孝

私たちの40年!! あるぜんちな丸同船者寄稿集 (nikkeybrasil.com.br)

東京農大の拓殖学科を卒業されブラジルに移住して来られた松栄 孝さんは、最近話題なった杉野先生とは4年違いで直接教えを受けることが出来なかったそうですが、先生の死後55年経った今、先生の教えを辿って見たいとの強い想いで手元に在る「南米開拓前線を行く」を紐解き皆さんと一緒に杉野先生の教えを現代の時代に合わせて勉強して見たいとの事で手持ちの本を一字一字叩き直して50年!のメーリングリストに流して呉れています。この貴重な杉野先生の教えを是非このホームページに残して置きたいと思います。是非皆さんと一緒に勉強して見ようではないですか。写真は、松栄さんが送って呉れた在りし日の杉野先生です。

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南米開拓前線を行く
みなさん 2021年になった今、昭和時代に農大生や学移連の皆様を、海外(特にブラジル)に、夢、の実現を目指して、送り出された杉野先生のことを、もう一度見直す良い機会が、今ではないか、と考えました。
私と杉野先生は、4年の差で直接御指導を受けられなかったのですが、ブラジルにおられた多くの夢多き先輩方を魅了してしまった杉野先生、の分析研究、みたいな感じで(叱られそうですが)・・・、先生の残された遺稿集から辿ってみたい、と思います。
昭和40年6月29日に、急性心不全で亡くなられた杉野先生の遺稿集を、再度読むにつれて、杉野先生の感覚が、今我々、普通に生きて、先生の死後55年たった者、から考えても、先生が、どれほど先、を見てられたのか、には驚くばかりです。
昭和40年というと、1965年ですか、今から55年も前、既に現在2020年に起きていることを、確実に予言というか、推測されている、という文章の流れで、全くの驚きに値します。(アマゾンの現代の位置付け)
1966年に出版された、角田房子さんの、アマゾンの歌、では、アマゾンの苦しさ、過酷さの面から・・・大宅壮一さんの、「日本の明治を見たければ、ブラジルに行けばよい」と評された頃で、全く同じ時期に、杉野先生が書かれている内容との比較から見ても、格段の感じがしています。
検証方法としては、もう一昨年になりましたが、亡くなられた農大拓殖2期の麻生さんをアマゾンに送り出されたのが、1961年だったと思います。その段階(1960年代)から順序を追って、整然と読み、説明するのも1つの方法ですが。
今回は、新聞編集的に、超頭でっかち論法=最も述べたいことを最初の頭に持ってくる方法、で読み進むにつれて、そのデカ頭が少しづつ理解でき、内容が分かって行く、ような書き方、で進めてみたいと思います。
まず、杉野先生が初めてアマゾンを見られて、どのように感じられたかが、私の最も注目したいところで、そこを出発点とします。
今回、杉野先生批判が出て、杉野先生の遺稿集を再読してみて、再確認しようとするわけで、( ^ω^)・・・
いったい、この杉野先生の先見性とは何なんだ!と思いました。そんな部分から始めたい、と思います。すべて杉野先生の当時のお考えです。
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まず最初のレポート(小論文)として南米開拓前線を行く。
眠れる宝庫アマゾン アマゾンとは,どんなところかとよく聞かれる。そして緑の地獄だという人もあれば、世界の宝庫という人もありその評価がまったく相反するところに、アマゾンへ移住することを何か非常な冒険事業のように思う人が多いようである。
天国にせよ地獄にせよ、未知の世界に飛び込むことに、勇気が必要なことは言うまでもない。どんな医科学的な調査が行われ手に取るようにアマゾンの事情が明らかになっても、北半球の温帯に何万年という長い間、生活してきた日本人にとって、熱帯のジャングルを克服しようと仕事は、それこそ民族の勇者でなければできない仕事であると言って良かろう。しかし、それにしても研究すれば研究するほど、なぜ、今日までこにょうな宝庫が開発されないで、ほっておかれたのか不思議でならその人類詩的意史的意義のいかんを考えると、これこそが神にガ日本民族のために温存してくださっていた土地ではないかと、と叫びたくなるのである。
 かって、マーシャル元帥が、「アマゾンを支配するものは世界を支配する」と言った言われている。また、人類を養うのは、アマゾンであるとも言われている。それはなぜであろうか。私はまず人類が食物や衣服を植物それを飼料とする動物生産によって得られること、すなわち農業が太陽と水と土壌を欠くことのできない要素として行っている状態が続く限り、不断に増加する人類を養うために、人類は絶えず耕地の拡大をはかり、あるいは技術の向上によって、定面積からの収量の増加を図ってゆかねばならないことは、これまた人類の宿命でもあろう。
 こうした観点に立つとき、植物生産に最も有利な地帯が、熱帯地方であることは誰にでもわかることであろうが、熱帯にもいろいろあって、アフリカの砂漠は水が不十分で、当分問題にはならないし、人口の稠密な東南アジアでは、自分自身を養うことが先決問題の土地であり、結局、その広さににおいて申し分なく、緑の魔境とされている原始林に覆われているアマゾン地帯が、これからの人類の食糧基地となるわけである。それだのに、どうして今まで今まで未開の地として捨て置かれていたのか、という疑問がわいてくる。その答えはすこぶる簡単である。、それは白色人種の手に負えなかったし、原住民や黒色人種には生産力を向上させる知能が乏しかった。そこに日本人が足を踏み入れてから、まだ40年にしかならないからということも言える。しかし、アマゾンにとりついた日本人は、このわずか40年の間に、ふよう不屈、貴い先駆者の屍を乗り越えて、トメヤスにピメンタ王国を、、そして ビラ・アマゾニアにジュート王国を建設して、世にアマゾンの二大産業と言われる新産業を興したのである。
 アメリカのフォードが放棄したポートランジャのゴム園を再興しつつあるのも日本人であれば、熱帯圏下に新鮮な温帯野菜の生産に成功しつつあるのも、また日本人である。広さにおいて日本の一三倍、約500万ヘイホーキロ、ブラジル全土の6割にあたるヨーロッパ全土は、すっぽりと収まる、とてつもない広がりを持ち、植物資源は言うまでもない広さを持ち、植物資源は言うまでもなく、地下資源は何が飛び出すかわからないが、石油も発見され始めたし、アマパにマンガンが発見されて、昭和33年から盛んに採掘されており、アルミ原鉱、鉄鉱石、すず、砂金、ウラニウム、岩塩、石膏などが続々と発見され始めた。
  こうした鉱物資源の他に、本流だけでも5600kmの長さがあり、支流を合わせれば6万kmにも及び、水量の豊富なことは世界第一というアマゾン川が、至る所に水力電源開発に好条件を有するといわれるアマゾン川そのものが、大きな水運交通の大幹線である。 河口から1600km上流のマナウスまでは、8000トンの大洋通いの巨船が通れるので、世界経済に連なる工業地帯としての将来性もますます確実となってきつつある。
 また、アマゾン川の魚族の豊富なことも有名である。
今では、アマゾン開発の癌と言われたマラリアも、第二次世界大戦中、熱帯作戦の為に米国がべレーンを基地としてマラリア予防と治療の研究をした副産物として、カモキンなどの特効薬の発見や、DDT散布や蚊の習性の習性の研究成果が実って、ほとんど絶滅に近くかかっても、風邪を引いた程度の被害で治るようになってきた。
  また赤道直下とか、熱帯という言葉を聞いただけで、さぞかし熱いところだろうと想像していた私は、二月(アマゾンの夏の終わり)と、4月(アマゾンの秋の半ば)の2度の訪問の体験から、その快適さに驚いたものだ。日中は摂氏30度くらいに上がるが、風が吹いていて蒸し暑くなく、夕方からは、グッと気温が下がって朝まで摂氏22-23度くらい、これで快い睡眠がとれるわけである。
 これが年中殆ど変わらないから、驚いてしまう。驚くのは私だけではない。熱帯気候の世界的権威のウイーン大学のハーン教授も、とくにパラ州の気候を、世界で最も良い気候の一つだ、という通説を裏書きして、「パラに戻ってくるたびに、いつも空気が驚くべき新鮮さと清澄さ、さらに私が未だ嘗て、世界中のどこにおいても遭遇したことのない、さわやかな、穏やかな夜に、心をうたれるのである」 と言っている。
こう書いてくると、現代の科学と企業化された技術とが、いつまでもこの世界の宝庫をそのままにしておくはずがないことが良くわかる。現に米国の資本が鉱業開発に投資されつつある。白色人社にはアマゾン開発は、手に負えなかったということが、今日以降もそうであるかは問題である。しかし今や大きく全世界の前にその姿を現し始めたアマゾンの資源が、何人によって開発されようとも、その農業的という点に関しては、恐らく日本民族の独壇場ではなかろうかと思う。それはどうしてであろうか。私がこの確信に至ったのは、ただアマゾンを見ただけではない。それにはブラジルにおける日本人の農業上の輝かしい成功を語らなければならない。
昭和 34年(1959年)11月20日
ーーーーーーーーー
小文ですが、ここまで打ち込むのに苦労しました。どなたか、メールに添付して送れるような本の文章をPCに取り込むソフトをお持ちでしたら、是非お願いします。マツエ

和田:松栄さん 良い企画を思い付きましたね。是非40年!!ホームページにも残して置きたい企画です。南米開拓前線を行く。1をWordで保存しました。
総数3533字ですのでその2が出てから纏めてホームページに残すことにします。付いては、文章を叩くのは、大変だと思いますが宜しく作業下さい。それと杉野先生の遺稿の表紙か文中の適当な写真を選び送っていただけませんか?写真が無ければホームページ、BLOGにも転載不可能になります。
宜しくお願いします。

和田さん  みなさん ご賛同、感謝します。ありがとうございます。
杉野先生から麻生さん、その残された流れ、をどのように繋げてゆくか、あれこれ、いろいろ考えています。
杉野先生が送り出された100人余りの農大開拓青年と、同時に送り出された学生移住連盟(学移連)の皆様方の生き方と精神が、「杉野先生の書かれた論文そのものだ」というご意見をお聞きして 「その通りだなー」 と実感しました。
今、いろいろ考えているのですが、何故かしら杉野先生の理論を知らぬ顔して実践されたのが、母校農大の松田理事長兼学長の生き方、人生だったのかもしれない、と今頃気が付きました。このことは後程、とさせていただき。(いろいろありますので)杉野先生の遺稿集の最後に、遺稿集を編纂された京都大学の
大槻正雄先生が、編集後記の最後に「同君(杉野先生)の拓殖学に対する理論であり、主張であり、且つ抱負でもある学位論文は特別に載せた」という一言があって、杉野先生の集大成(学位論文)「農業拓殖学の構造に関する研究」を、誰でも読める形で残してくれています。
しかし、この遺稿集は非売品で(明記してある)、少数しか発行されていないと思います、また、もう60年以上前の本ですからなかなか読める機会もありません。
論評させて頂きながら、まず博士論文原文をすべてここで書き改めて掲載させていただき、皆様に読んでいただける形にできないか、と考えています。
その後に、いろいろ杉野先生の考え方や生き方、戦後移住者の我々の経験したこと、などに繋げて、展開出来ればと思います。
本を1冊、339ページぎっしり丸書き写す作業はかなりですが。
再確認の意味と、凡そ平成元年(1989年頃)を境に、日本からのブラジル移民が終わって、それから30年、令和に入って、日本から来た我々日本人移民一世が、今、終わろうとする時代、になってきました。
そんな時代の、何かの記念になれば、と考えながら、ゆっくりぶーらぶーら、という感じで気負わない感じで、進めさせていただければ、と考えています。
サンパウロ    マツエ

南米開拓前線を行く 2  論文
みなさん
昭和28年頃から再開されたブラジル移住、ここに焦点を合わせ、終戦後の疲弊した時代に、青年に夢を与え、理論的に学生移住(学移連)の指導、教育、をされ、同時に東京農大学生のブラジル移住の推進役、を務められた杉野先生の、農業拓殖学理論を少しづつ打ち込ませていただきます。
第一章から第三章で、詳しく解説され、結論で締めくくられています。
最初に、目次を入れておきます。第一章から順に進めてゆきます。
時間がかかりそうですが、全文打ち込めた段階で全文をまとめてみたいと思っています。
サンパウロ    マツエ  (2021・4・9日第一回)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
杉野博士論文
「農業拓殖学の構造に関する研究」
緒言
私は農業拓殖学科の教授として、研究者であるとともに、教育者として他日世界の未開発地域の開拓者として、或いはまた要開発地域の異民族の中へ進んで行く青年学徒の養成と言う二重の責任を負っている。東京農業大学の初代学長横井時敬博士は「農学栄えて農業衰う」と言われた。
農業拓殖学を学問として立派に独立させることの大切な事を忘れてはいないが、この学問研究に没頭している間に、学生は優れた学究になったが、誰も海外へ行くものがなくなったというようなことになったならば、建学の意味はなくなる。私はこのことを思ってもっぱら辺境開拓者養成の教育者たるべく努力した。
この論文に先行する二著は学術論文というよりも、教育論的色彩が強かったのも、そうした私の心境を反映したものである。しかし学生は知識人である。彼を行動人として動かすものは理性だけではないが、理性で割り切れるかぎりは科学的合理主義で貫かれた理論を要求する。農業拓殖学の教育上もしっかりした科学的なものの考え方の教育が大切な事は言うまでもない。
理論の確立が教育者の立場からもなされねばならぬのである この論文を書くことはその意味で、教育者としても必要な仕事であると思って書いた。しかし同時に新しい科学の独立宣言の仕事が非常に困難なだけに、一つの先駆的試作品にするに過ぎないことをお断りしておく。これによってさらに一層この学問が前進することを希ってやまないものである。
目次 
第一章  学論研究の序章
 第一節 学論提起の理由
 第二節 用語及び訳語に関して
第二章  農業拓殖学の学論の研究
 第一節 農業拓殖学の定義と研究対象
 第二節 農業拓殖学の性格、所属及び研究範囲
 第三節 農業拓殖学の体系と原論の地位及び構造
 第四節 原論の当面する理論的課題
   第一款 農産物過剰生産論に対する批判
   第二款 現代における植民地主義の批判
   第三款 歴史観の批判
第三章  農業拓殖学ならびに原論の研究方法
 第一節 学論構造上研究方法論の意義
 第二節 歴史的研究方法
 第三節 内省的研究方法
 第四節 統合主義的社会学的研究方法
 第五節 実証的研究方法
結論

和田:松栄さん 作業を始められましたね。急ぐことはありませんので時間を見つけてのんびりと楽しみながら作業を続けて下さい。
写真見つかりましたか?これも宜しくご配慮下さい。現在5767字、もう少し字数があるようです。1万語の達したらHPに掲載します。
今後が楽しみです。浅海さんが本を写し取るのに苦労されましたが、本を写真に撮りWORDに書き換えるソフトをお持ちなのではないかと思いますのでお尋ねされたらどうですか?随分助かると思いますよ。。。

南米開拓前線を行く 3 
みなさん 杉野先生の学位論文にとりかかったのですが、難しいものですね。意味を解してゆかないと、文章の流れが読めない。そんな感じで、混乱してしまいます。慣れれば、もう少し楽になるのでしょうが、簡単に書かれてる? その意味が、むつかしい。
参考文献が、橋本伝左衛門氏、野口弥吉氏、田辺元氏、新渡戸稲造氏、東畑誠一氏、矢内原忠雄氏、各先生方の移民学論や農学原論などなどで、この方たちの論文を普段にこなせる能力がないと、分かり辛いので、困ります。
第一章 学論研究の序説
 第一節 学論提起の理由
  農業拓殖という名の学問は、未だ日本学術会議の各科学部門の中にも見出せぬし、全国600有余の長期、短期の各大学の講義名の中にも未だに見当たらぬ。しかし、それに類する名は若干ある。それは拓殖学という名の講座が1954年に国立宇都宮大学の農学科の中に設けられたのが、国立大学の唯一の例であろう。また、拓殖大学には拓殖学部或いは拓殖学科はなく、短期大学部に農村経済科がある。又、1962年になって日本大学農獣医学部に柘植学科が新設された。それで結局、農業拓殖学科と言う独立の学科を持っているのは、独り東京農業大学あるのみである、というのが現状であり、その学科は昭和31年(1956年)より開設され、既に満8年を経過しているのである。私はその学科開設に当たり専任教授として招かれ、その職を汚して8年の星霜を閲した。当初招かれた時、初めて学会に農業拓殖学の名を冠する学科の専任教授たる以上、農業拓殖とは如何なる学問であるかという質問に答える義務があると考えた。否、すでに存在するものであるなら、「如何なる学問である」と言い得るかも知れぬが、実はこれから生んでゆかねばならぬほど、生々しい場合であるから、「如何なる学問であらねばならぬか」ということを学問的に明らかにする必要がある、と考えた。農業拓殖学の学論的研究とはつまりこのような意味なのである。
  即ち、農業拓殖学は何をどのように研究しようとするのか、その研究対象研究方法、研究目的、そしてその成果をどのように体系つけることによって、科学の名にふさわしい知識体系とするのかという問題に答える一連の研究が学論なのである。学問論と言っても良いのである。換言すればそのような任務を研究するが学問は、しばしば他の学科においては原論の名の下に研究され講述されることから言って、農業拓殖学原論と言って表現もできるので、あろう。何故この論文を農業拓殖原論としなかったかというと、この論文は、私の構想する原論全体の研究発表の一部分に執筆を制約したからである。理由はほかでもない。
次々と研究の進行に伴って内容の充実に欲が出て、完成に至るになお日時を必要とする事と、それにしても、この学問論によって他の多くの人々の研究や批判を得る事によって、農業拓殖学の発達を期することの有意義なるを思い、原論研究をその構造論、即ち、原論は何を研究するべきかという問題、その内容の骨組みを研究した部分の発表に留めたからである。 (つづく)

和田:松栄さん 愈々杉野先生の論文と格闘しながら皆さんへ杉野先生の生の声を伝える貴重な作業を始められましたね。のんびりゆっくり味わいながらFLWして行きますので最後まで頑張って下さい。その3で7246字もう次で40年!!ホームページに第1回を掲載することになります。お願いしている写真みつかりませんか?無いなら無いとご返信下さい。こちらで探して見ます。作業続行だけは続けて下さい。

和田さん  みなさん お世話になります。
先日、この本の表紙と、1枚だけ挿入されている在りし日の杉野先生の教室での写真を撮っています。
次回の投稿に添付させていただきます。ご手数を煩わせまして申し訳ありません。よろしくお願いします。サンパウロ   マツエ
和田さん お世話になり、ご足労おかけします。遺稿集にあった写真の写真です。今後、杉野先生や学科に関係した写真を探してみます。
さしあたって1枚。よろしくお願いします。 マツエ

和田:松栄さん 杉野先生の遺影有難う。どんな形で先生の遺稿集が残っているのかお手持ちの本の表紙にも興味があります。先生の遺稿集は、何回か続くと思いますので関係写真を探して下さるとの事、松栄さんの農大生時代の授業中の写真でも良いですね。宜しくお願いします。今回で9千字弱になりましたので第1回をリリーズすることにします。松栄さんの作業が大変だと思いますが、皆さんのご意見等も記載しながら杉野論文を松栄さんと共に追って行きたいと思いますので宜しくお願いします。今回は、杉野先生の難しい論文だけを追うのでなくこうした会話も入れながら本文が読めるように忠実に追って行きたいと思います。

南米開拓前線を行く 4
みなさん 私が農大の農業拓殖学科に入れて戴いた1969年は、先生が亡くなられて4年が経っていました。
入学当時、かなり年上の先輩から「杉野理論」 という言葉を良く聞いたのですが、それが何なのか分からなかった、という、訳の分からない記憶があります。
多分ですが、その意味は、杉野先生から聞かなければ理解できなかったのかもしれないなー、と思います。
ブラジルに来て、一度読んでみて(流し読みだった)ここでも良く分からなかったですが、今頃・・・杉野先生が如何に日々努力されていたか、が分かってきた感じがしています。 サンパウロ    マツエ
ここから4月12日
私はそのような理由で自ら進んで農業拓殖学原論の科目設置の必要性を主張し、その研究と講義を担当して今日に至ったのである。この論文は、この間における研究成果の一部であるが、農業拓殖学が如何なる意味において科学たり得、如何なる性格を有するか、何に 答えんとするかと言う、その存立の根本問題を中心に論述する事にした。
このような研究を農業の分野で行われている場合、農学原論或は農学概論の名を冠している。たとえばその最近の著作では、京都大学農学部の柏祐賢教授の農学原論がある。教授は、農学原論は農学が如何なる根拠によって、必然的普遍的な客観的認識たり得るかを研究する学問であるとし、批判哲学の意味における農学の哲学とされている。
京都大学において農学原論の講座の開設されたのは1952年であるが、これに先立って農学概論の講義が開設されたのは1944年で橋本伝左衛門博士が担当され、クルチモウスキーのpiphilosophie der landwirtschaftslehre を農学原論と題して、訳出出版されたのは1931年である。野口弥吉博士が農学概論を公にされたのは1948年である。概論と原論との文学的表現の差はあるけれども、田辺元博士の科学概論によれば、科学概論はphilosophy of seience , philosophic der wissensehaft の訳語であるとされている。科学概論を博士は個々の特殊科学に限らず、諸科学一般に共通する心理を研究する学問は、個々の科学ならざる哲学の立場からのみなされているとされされるために、科学の哲学であるとされた訳である。クルチモウスキーが彼の著述に農学の哲学なる名をつけたのは、哲学は die wissenschaft von den prinzipien 即ち原理の科学であり、農学の原理原則(クルチモウスキーはこれを die prinzipiellen grundlagen der landwirtschaftslehre と表現している) をのべる研究を農学の哲学とするのであるとその書の緒論に述べている。 (つづく) (2021・4月12日

≪新山口駅、東萩駅界隈の観光について≫ はなさんからのお便りです。

和田さん
        はなです
 
杉井さんからも観光場所の説明があっていましたが広島を何時に発たれるのか分かりませんが、時間が許すなら広島からは新山口(旧小郡)で降りて山口市内へ。市内観光後萩に入られるのが良いかと思います。
山口ではザビエル聖堂とありましたが火事で昔の聖堂は焼失し、今のものは現代的な建物になっています。
個人的には私は昔の聖堂のほうが好きでした。叔母から神父様にお願いして中に入らせていただいたものでした。
荘厳な建物にステンドグラスが印象的でした。
 
同じく市内を回られるなら瑠璃光寺の五重塔をお勧めします。
国宝の五重塔は大内文化の最高傑作といわれ、室町時代の建立。京都の醍醐寺、奈良の法隆寺のものと並び日本三大名塔の一つともいわれます。
瑠璃光寺から下ると赤い鳥居の八坂神社、近くに野田神社等があります。
市内ではほかに雪舟の庭園がある常栄寺があります。瑠璃光寺からタクシーで行かれるといいかと思います。
湯田温泉の街中では足湯の出来るとこがあります。
 
時間の余裕がどうか分かりませんのでなんともいえませんが、山口市内では瑠璃光寺は是非にといいたいです。
 
秋吉台(鍾乳洞)行きは一日がかりになるかと思います。
昔行ってから随分たちますが、車があってならまだしもバスを使うなら少し不便だと思います。
秋吉台から萩に入るにしてもでバスの便も少なく不便だと思います。
 
新山口から萩へは高速バスが走っています。
山口生まれの私からの提案でした。
 
萩にお泊りの宿は堀内地区のようで、ここには色々古い武家屋敷、塀などが続くところだったと思います。
高杉晋作旧家、桂小五郎旧家とか色々あったと思います。
東萩駅近く、徒歩20分くらいで松下村塾のある松蔭神社(世界遺産)。東光寺等色々見るところはあると思います。萩焼の窯元もありますし、維新を感じてください!
名所を回る無料バスもあるようですよ。
宿泊されるホテルに色々お尋ねになるといいかと思います。
 
萩から山陰道へは出雲大社、(松江市)、足立美術館がお勧めですが、
そこから松江に戻って,広島、岡山、大阪行きの高速バスはありますが・・
列車の便の関係でどうでしょうか?日程的に無理かな?とも思います。
 
それならそのまま山口県の山陰線沿いの長門、仙崎はどうでしょうか
若くして亡くなった詩人金子みすずの記念館等があります。
山陰の美しい海が見れますよ。
 
そこから新下関まででて新幹線で神戸まで。
しかし緻密に時刻を調べないと大変かな~

はなさん 元住んで居られた山口県に付いては詳しいですね。大変参考になりました。旅の楽しさは、行く前と帰って来てからが楽しいですね。旅行している間は、なんだとか疲れたなとか不満がでます。はなさんのサゼスチオンにより調べて見ましたが是非訪問したい所ばかりです。新山口駅から秋芳洞経由東萩迄走っている東萩駅行『スーパーはぎ号』は、中国JRバスでレイルパスが使える事がわかりました。翌日東萩からバスで丸一日秋吉台、秋芳洞を散策する事にしました。
帰りは、丸1日か掛けて出雲大社、松江城でも見てJRの田舎線で岡山まで出て神戸に夕刻着くようにしたいと思います。最後のyahoo blogにはなさんの旅行案内に写真を付けて残して置きます。有難う。


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中高年の「元気が出るページ」終戦記念日特集                    <地獄からの生還>第31回

<地獄からの生還>第31回(最終回)


俺だよ

 池袋界隈も見渡す限り焼野原だった。ここでも空襲で死んだ人たちが沢山いたはずだ。これから電車に乗って15分ほどで着くはずの実家も焼けてなくなっているか、家族の誰かが死んでいるかもしれないと、不安な気持ちになった。
 電車は所々入り口にドアのない車輌があり、幅の広い板が立つ人の胸のあたりと足元に打ち付けてあって、乗り降りはこの板を潜ってしていた。
 江古田駅を出て次が私の降りる桜台駅だと入口で立っていると、停車しないでそのまま通過してしまった。駅に近い実家は通過する電車の中から、まだ残っているのが見えた。その頃桜台駅は一時休止状態にしてあったようだ。慌てて次の練馬駅で降りた。
 練馬駅近くには長姉がいて、養鶏の飼料を売る店をやっていた。そこへ寄れば実家の様子もわかるだろうと、先に立ち寄って行くことにした。
 声をかけると姉が出て来て、夏服に地下足袋、大きなずた袋を背負った私の顔をじっと見ながら、
「どちらさんですか?」
 といぶかし気にたずねた。
「俺だよ」
 というと
「えっ?」
 といったきりじっとこちらを見つめたままでいる。
姉の長女が出て来て
「じんちゃんだ!」
 と叫んだ。
 姉は
「じんちゃんは戦死して、葬式を出したじゃないか」
と言った。
 長女は自転車で実家へ知らせに走った。
家中大騒ぎになった。
 帰った家では母が元気でいて、私の異様な姿を上から下までジロジロ見ながら
「お前は死んだことになっているのに、一体どこにいたんだい?」
とびっくり声で言った。
 母はまだ半信半疑の様子で、ただボーと私に顔を向けて立ち尽くしているだけだった。
 父は田柄町の上野さんへ木を切りに行っていた。長女がまた走って知らせに行くと、父は上野さんに、慌てて帰って怪我をしないようにと言われ、仕事をほったらかして帰って来た。私の顔をじーっと見ていた父は
「これでいいや・・・・」
と一言いったきりで、目をパチパチやっていた。
 父は区役所から遺族への扶助料が届けられると
「金は働けばできるが、息子は帰らねぇ。そんなものもらっても仕方ねぇ」
としきりに言っていたそうだ。
「これでいいや」
は、金ではなく息子本人が帰って来たのだから、俺は大満足、
「これでいい」
と喜んで呟いたのではないかと思う。

易 者

 父は自宅へ私の戦死の公報が届いた時、信じたくない一心から、あちらこちらの易者に私が生きていないか見てもらいに歩いたり、私が酉歳生れで、守り本尊が不動明王ということから、成田のお不動さんへお参りに行ったりしたそうだ。
 ただ、豊島園の裏にいた占い師だけが
「まだ生きている」
といい、袋蜘蛛(土蜘蛛)のような密閉された状態の穴か何かの中で、多少腹は減らしているが生きていると、はっきり予言したそうである。
 母は母で、毎日陰膳を欠かさずしてくれていたという。こうすることで、私が腹をすかさずにすむと言う訳だ。
 この話を聞かされた時、占い師が私の置かれていた状態をよく当てていたのに驚かされた。私は神通力とか超能力とかは信じない方だが、私が助かったのは、もしかすると、親の『大きな愛の力』だったのではないかと思うようになった。
 親に連れられこの占い師へお礼に伺った。その後、よく当たる占い師と評判になって、特に戦死者の遺族が押しかけるようになったということだ。
 死んだはずの私が帰還した噂を聞いて、地方からも戦死公報を受けている父や、夫や息子のことを、もしやと尋ねてくる人が多くなった。
 父は、こう言う客の対応に忙しかったせいもあるが、私が帰ったショックと喜びで、1ヶ月半ほどは仕事が手につかなかった。
 親戚が入れ替わり立ち替わり来ては、座っている私に、足があるかどうか、立って見せろとよく言って苦笑いさせた。人が信じられないのも道理で、本人の私でさえ信じられないでいるのだから。
 家に残していた衣服や自転車まで、私のもの一切が弟のものになっていた。物不足のこの頃、弟に返せとも言えず困りはしたが、そんなことは大したことではなかった。
 私は畳の上で大の字に寝そべって目をつぶっている時、ふと何者かに揺り起こされ飛び起きることがあった。そんな時、本当に我が家にいるのだろうかと不思議に思ったり、しばらくの間、私の体が宙に浮いているような錯覚を何度も起こすことがあった。

                                 


 1ヶ月に渡りお読みいただきありがとうございました。
 櫻井甚作氏は平成26年7月3日94歳で逝去されました。ここに謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

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